言葉は泣く

矢向 亜紀

言葉は泣く

 見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。よくあることだ。もう少し丁寧に言うと、翻訳脳が一般に普及してからはよくあること。日記とはそういうものだし、だから彼のような職人が居る。


 あの日。天に届きかけた塔が崩壊したあの日から現代までに生まれた言語の数は、七千前後と言われている。長年、母国語以外の言語の習得は多くの人類にとっての悩みの種であり飯の種でもあった。それを解決したのが翻訳脳で、今ではほぼ全ての人類の脳みその中に、言語を自動翻訳してくれるもう一つの脳として組み込まれている。

 翻訳脳の普及によって全ての言語を無理なく読み聞けるようになった人類には、こんな欲求が湧いた。

「自分以外の誰かの日記を盗み見たい」

「書き手は有名な偉人であればあるほどいい」

「手書きならなおさらいい」

 こうした欲求が世界中を満たして、今やあらゆる過去の偉人たちの日記が自由に読めるようになっている。データを頭にダウンロードすれば、いつだって翻訳脳が偉人の日常を翻訳してくれる。

 偉人の日記が概ね晒された後は、『どこか遠くの名もなき誰かの日記』が読み物として流行した。そのおかげで、今ではどの街へ行っても手書きの古い日記を売るアンティークショップを見つけられる。英語圏の国では漢字だらけの日記が人気だ。一方、日本語話者である彼――日記修繕の職人――は、美しい筆記体や模様のように見える文字に魅了されることが多かった。今回の依頼主も同様に。

「私、蚤の市を一日中歩き回って、やっと好みの日記を見つけたんです。実はその時からこの日記はこんな状態で……。でもやっぱり、人が手で文字を書いていた時代の日記は美しいです。それに、翻訳脳がない人の言葉って無邪気ですよね。翻訳されることを考えていないので、読むは少し骨が折れますけれど」

 人々が古い日記にこだわる理由はここにある。頭の中に翻訳脳を入れた人間なら誰だって、いつか誰かに読まれるかもしれないと思いながら文章を綴る。学校でも習うものだ。

「翻訳しやすい文章を書きましょう(日本語の場合は、特に主語の欠落に注意)」

「翻訳脳で読み取りにくいので、手書きは避けましょう」

「翻訳されても意味がわかりやすいように心がけましょう(わかりやすいとは、誤解なく正しく内容を読み手が理解出来るという意味)」

 こんな調子で。


 昨晩彼が依頼主から受け取った日記は、ありふれた数々の日記と同じく泣いていた。その一ページだけがずっしりと重く、開かずとも横から眺めるだけでページにこびりついた透明な結晶が見て取れる。

 彼のような日記修繕の職人は、仕事の際に泣いているページ以外を読んではならない決まりだ。これは資格取得試験で必ず出題されるから、職人であれば誰もが知るところだ。本当に全ての職人が従っているかはわからないが、少なくとも彼は馬鹿正直に教科書通りの仕事をしている。だから彼には、手元にある日記がどこの誰のものなのか、これまでにどんな日々を綴って来たのかがわからない。だからこそ、涙に暮れる日記なんかに躊躇いもなく手を出せる。

「どうして日記は泣いてしまうんでしょう?」

 依頼主にそう聞かれた時、彼はゆっくり首を横に振った。どれだけ世界から言語の壁が消え去っても、日記が泣く理由を解明出来た者は居ない。全ての日記を誰もが読めるようになったけれど、どの日記にも涙のわけは書かれていない。



 彼はまず、白んだページをじっくりと観察し始めた。『白んだ』では少々曖昧な表現だ。もう少し細かく見てみよう。

 日記の涙は内から湧いて出る。どこからともなく溢れる涙は、やがて日記の一ページを覆い尽くす。誰かが書き綴った文字のインクを溶かす。インクは隣の文字と混ざり合い、涙に滲み、ページの端へ端へと追いやられる。やがて、涙で溢れ返った一ページは結晶を纏う。日記の涙の結晶だ。頑なな輝きは、まるで砂糖でもまぶしたかのように強張り固まる。ただ、実際のところ結晶は塩化ナトリウムを含んでいるから、舐めると見た目の割に塩辛い。

「修繕の後、結晶はお引き取りになさいますか? 綺麗に汚れを落とせば、お料理にもお使いいただけますよ」

「いえ、結構です。涙のことはお任せしますね」

 依頼人はそう言っていた。店内の飾り棚に並ぶ古い日記の背表紙に、ちらと視線を送りながら。

 手始めに職人は、ページからインクを取り出す作業に取り掛かる。インクたちは居心地悪そうに、ページの輪郭に沿って大きな円を描いていた。こういう時は、インクを怖がらせないよう注意が必要だ。彼がまだ修業の身だった頃は、焦ってガラスペンをページに突き刺してインクたちに逃げられてしまうのが常だった。

 今ではもう、そんな下手は打たない。職人は子守唄を口ずさみ始める。決して上手い歌ではないが、インクを落ち着かせるには十分だ。何度か歌を歌ったら、空っぽのガラスペンを手元に引き寄せる。何の変哲もないペンに見えるが、これは職人用に誂えられた特殊な道具。ページの片隅に逃げ出してしまったインクを、紙の繊維から丁寧に引き出してくれる。

 職人は散歩でもするかのような手つきで、紙肌が表出したページの端にそっとペン先を置く。すると、居場所を見つけたインクたちが次第にガラスペンに集まって来る。この作業がどれくらいの時間かかるかは誰にもわからない。今回のように十五分程度で終わることもあれば、三日三晩ペン先を立てておかなければインクが集まり切らないこともある。

「ああ、よかった」

 インクで満ちたガラスペンを眺めて彼はつぶやく。ガラスペンの中で輝く真っ黒なインクは、夜空の暗闇に似た光沢を放っている。インクの状態が良好で彼はほっとした。もしインクが色を失くしていたら、他のページを読まないように薄っすら覗き、経年劣化に合わせてそっくりな色のインクを作らなければならない。これはなかなか骨が折れる作業だ。もちろん、彼はそれも嫌いではないけれど。

 その後の工程は、今までとは違う気遣いが求められる。日記の状態を見ながら薬剤を調合し、それを使って涙の結晶をページから剥がす。ゆっくり、ゆっくり。日記を傷めないように、結晶も出来るだけ壊さないように。なぜなら、結晶は文字を復元するのに必要だから。取り外された板状の結晶は、紙面に接していた部分に特殊なシリコンを塗られる。そうすると、日記に書かれていた文字のわずかな凹凸の型が取れる。ガラスペンを使って凹凸にインクを乗せ、版画やハンコの要領で真っ白なページに文字を移す。インクが乾けば彼の仕事は終了だ。

 インクが乾く前、てらてらと輝く文字を眺めるのが彼は好きだった。インクは元の場所にぴたりと染み込んで、意味のわからなかった日記が読めるようになる。それを最初に目にするのが自分だというのが、彼にとっては誇らしい。知らない言語を目にした翻訳脳が、風になびく草原のように美しい筆記体の上に日本語を表示する。

『今日はセバスティアンからもらったストールを交換しにブティックへ行った。彼が選んだのは真っ青だったけれど、私は燃えるような赤にした。彼に見せたら、きっと褒めてくれたに違いない。彼の反応を確かめられたらよかったのに』

 職人は首を傾げた。もらったストールを交換? 確かめられたらよかったのに?

 翻訳脳を一度シャットダウンして、再起動させる。やっぱり翻訳結果は同じだ。翻訳脳の最新バージョンはダウンロード済み。翻訳内容は間違っていないらしい。



 幾分納得が行かないまま、職人は約束の日に店を訪れた依頼主に日記を手渡した。依頼主は日記を開き、他のページと変わらぬ様子を取り戻したページに視線を落とす。

 その時、乾いたページに涙が落ちた。日記が泣く瞬間を見たのは初めてだ、咄嗟に職人はカウンター越しに前のめりになった。しかし泣いたのは日記ではなく、依頼主である彼女の方だった。職人は慌てた。

「何か修繕に問題がありましたか?」

「いえ、違います。ごめんなさい、みっともないところをお見せして……」

 依頼主はハンドバッグからハンカチを取り出すと、目元を拭いながらとある国の名前を口にした。日記に使われている言語を母国語とする国だ。

「その国では、贈り物をする時にレシートを添えるんです。そうすれば、受け取った人が後で返品したり、色やサイズを好みのものに交換出来るので」

「へえ……。そんな習慣があるんですか」

「ここには書いてありませんから、何のことかわかりませんよね」

 それでも、依頼主が泣いている理由にはならないだろう。職人が黙っていると、彼女は更に付け加えた。

「この日記は、エステル……日記の書き手がセバスティアンに恋をした日から始まるんです。彼女は、必ず日記のどこかに『セバスティアンを愛している』と毎日綴っていました。でも、彼からストールを贈られた数日後、セバスティアンは交通事故で亡くなったんです。彼女、それから何日も日記が書けなくて、書いても部屋に籠ってばかりで、だから……」

「ああ、なるほど。ストールを交換出来たということは、ようやく部屋から出られたと」

「ええ。だから、嬉しくなってしまって。いきなり泣いてごめんなさい。……これから続きを読みます。彼女が立ち直れたのか見届けないと」

 代金を置いて駆け足で店を出て行く依頼主の後ろ姿を、彼は黙って見送った。随分と日記に入れ込んでいたな、珍しいお客だなと思いながら。



 こんな仕事をしている職人もまた、古い日記の愛好家だった。収集癖はだいぶ落ち着いたけれど、昔は日記を修繕して得た収入の多くをアンティークショップや蚤の市に落としていた。

 かつての人間は、些細なことをなんでも書いた。タロットカードの裏に晩御飯の献立を。紙幣の端に待ち合わせ場所を。役所の書類に恨み節を。いつかそんな文字が高値で売り買いされるとは露知らず、彼らは無邪気に書き綴った。職人はその無防備な手書きの文字に焦がれている。日記の修繕なんて地味な仕事を生業にするなら、彼くらいの愛好家でなければならない。翻訳脳を持たない人間たちの素朴で純粋な文字が詰まった日記は、職人にとって宝の山だ。

 彼は気に入りの日記を持って街へ出た。普段からそれほど外出をする趣味はなかったけれど、今日は馴染みの店へ行く用事がある。その前に腹ごしらえだと、職人は目に付いたカレー屋に足を踏み入れた。彼が読んでいる誰かの日記に、カレーのことが書いてあったからだ。

 昼の賑やかな時間を過ぎた店内はがらんとしていた。ちょうど職人と入れ違いになった客がレジで会計を済ませ、店内の客は職人だけになる。メニューを持って来た店員は、店名通りの国の出身者のようだ。彼が母国語で話す少し後に、翻訳脳を通じた日本語が職人の頭の中で鳴る。異国の料理をその国の人が振る舞ってくれる店を職人は好んだ。メニューに書かれた文字、聞き取れない言語、自分では作れない味。カレーを注文し、気に入りの古い日記を眺めながら食事する。日記を書いた誰かが知る味と、この味が同じであればいい。自分がどこに居るのかわからない浮遊感は、職人の単調な生活の中における密やかな楽しみだ。

 食事前よりも幾分膨らんだ腹をつついてから、彼は立ち上がる。結局、職人の後に客は誰一人として店にやって来なかった。店員たちは店の奥で歓談中らしく、かすかに話し声がするものの翻訳脳が使えるほど言葉は聞き取れない。声はただの音として聞こえるだけだ。

 職人はレジの前に立ち、店員たちが居るであろう方向に向かって声を上げた。

「ごちそうさまでした!」

「はーい、どうもー」

 店員たちの明るい声が返って来る。でもそれだけ。どうやら母国語の動画を見ているらしく、職人の方へやって来る気配は微塵もない。もう一度職人は叫ぶ。

「ご、ごちそうさまでしたー!」

「はーい、どうもー!」

 ははは、と奥で笑い声が上がる。職人を笑っているのか、動画を笑っているのかはわからない。そこで、はたと職人は思い改めた。

「お会計お願いしまーす!」

「少々お待ちくださーい」

 ようやく店員の一人がやって来て、職人の会計を済ませてくれた。職人は礼を言って店を出る。まだカレーのヒリヒリした刺激が残る口の奥で、「今のは僕が悪かったな」なんて思いながら。


 次に職人が足を運んだのは、彼が職人になってからずっと馴染みがあるアンティークショップだった。この店は地球上のあらゆる場所からアンティークの小物や家具、もちろん日記や本を仕入れている。だから店の中は雑然としていて、何かの儀式で使うような動物の置物にどこかの国の皇帝の肖像画が立てかけてあったり、肉食獣の剥製の隣に金継ぎが施された茶碗が置いてあったりする。職人はここに客として足を運ぶこともあれば、物を売りに来ることもある。今日の用事はこちらだ。

「すみませーん! 結晶を売りに来ましたー!」

 老齢の店主は、カウンターの奥で休憩しているのだろう。カレー屋での出来事を踏まえ大声を上げれば、奥から「はいはい、居ます居ますよ」と聞き慣れた声がした。こちらの声は翻訳脳がなくても意味がわかる。馴染みの店主は職人と性別も世代も違うが日本語を話している。彼女はしわしわの顔で苦笑いを浮かべた。

「んなこたぁいちいち言わなくても、アンタの声聞きゃあわかりますよ」

「でもさっき、カレー屋でいつまで経っても誰もレジに来てくれなかったので」

「アタシをその辺の若造と一緒にするんじゃないよ。わざわざ大声出したんだから、さぞいい結晶なんだろうね?」

 職人は店主の言葉を聞いて、ちらと彼女の後ろの棚に並ぶ日記の涙の結晶たちを見た。あの棚に並ぶのは、店主のお眼鏡にかなう美しさを誇る結晶ばかり。普通の塩化ナトリウムと違って、日記の涙の結晶の形はそれぞれ異なる。どうやって日記に挟まっていたのかと思うほどの分厚さ、繊細さ、輝き、色を誇るものだけが、店主の後ろの棚に並ぶ。それ以外のものは、ほとんどが砕かれて塩として売られてしまう。カウンターに並ぶ小瓶に入っている白い砂状のものは、日記から採られた涙の結晶を加工した塩だ。

「幾つか持って来ました。ぜひお手に取ってご覧ください」

 そう言って店主はカウンターに赤いビロードの布を引き、日記の涙を並べ始める。幾つもの柱が束になった涙、小さなサイコロが群れになった涙、延々と続く四角形を描く涙、それから。

「これが一番新しい涙です。雪がたくさん降る国の日記から採れました」

 エステルの日記の一ページを覆っていた結晶は、白みがかった半透明の薄い板状だ。もちろん、ここへ持ってくる前に職人はこの結晶からインクを綺麗に取り除いている。手袋をした店主がカウンター越しにそれを摘まみ上げても、塵の一つも落ちて来ない仕上がりだ。彼女は結晶を店内の照明に透かして眺めた。天井からぶら下がっている、色とりどりのガラスのモザイクで作ったどこかの国の照明だった。見ようによっては玉ねぎみたいな、涙みたいな形の照明。そこから零れる光が、日記の涙の結晶でぼんやりと白んで見えた。

「日記にはなんて書いてあったんだい」

 店主に問われた職人は、翻訳脳のデータベースからエステルの日記の文章を引っ張り出して諳んじた。もし翻訳脳がなければ、こんな時必死に自分の記憶を辿らなければならない。そんなのは背筋がぞっとするほど億劫だ。

 店主は「ふうん」と口ずさんでから続ける。

「そこに書いてある意味はわかったのかい」

「はい。依頼主の方が日記をかなり読み込んでいたので教えてもらいました。贈り物にレシートを添えるのはその国の文化で、ストールを贈ってくれた恋人は亡くなっていて、日記を書いた女性は久々に外に出られたと」

 すると店主は眉をひそめた。

「持ち主はちゃんとわかってるのに、日記が泣いたのかい?」

「蚤の市で買った時にはもう泣いていたそうです」

「なるほどねえ……。その前の持ち主のせいってことか」

 職人は、一つでも多く店主が結晶を買い取ってくれることを願っていた。だけどまだ店主は決めかねているのか、何かぶつぶつ言いながらカウンターを出ると、店内をうろうろし始める。どうやら彼女は日記を探していたらしく、古ぼけた一冊を手に職人の隣に戻って来た。随分と慣れ親しんだ様子でページをめくる。きっとこの日記は、だいぶ前から店に置かれているか店主の愛蔵品なのだろう。

「アンタ、ここに書いてあることの意味がわかるかい」

 そう言って店主はページを開いた。書かれているのは、どことなくカレー屋のメニューに似たような曲線が多い文字だった。少しして、文字の上に日本語が表示される。

『彼女の名前だけが、名簿の中で浮き上がって見える。空を見上げれば、流れる雲に彼女の横顔を重ねてしまう。こうして日記を書く今でさえ、僕の耳は彼女の声を思い出す』

 職人は顔を上げ、隣に立つ店主に首を傾げた。背の低い店主がこちらを見上げている。その顔のしわ一つ一つを確かめながら彼は答えた。

「彼女のことをよく思い出す一日だったんだと思います」

 だって、それしか日記には書いていなかったから。職人は自信満々だったが、店主は目を丸くしてしばらく黙っていた。重たく下がっていた瞼が持ち上がるほど、彼女は目を見開いているようだった。それが、急に悪態をつきながら萎れる。

「……全く。そんなだから日記が泣くんだよ。アンタに売った日記も、家へ帰ったらちゃんと見てみるといい。ぼろぼろ泣いてるに違いないさ」

 職人は、使っていないはずの翻訳脳をシャットダウンしてもう一度起動させる。翻訳していないからデータベースには残っていない。だから自分の頭で思い出す。

「あの、どうして日記が泣くんですか? 日記が泣く理由をご存じなんですか?」

「ご存じ? まあ、そんなことちょっと考えりゃ誰にだってわかるよ」

「でも、どの論文でも『理由は不明』って言われているし、理由がはっきり書かれた日記なんてないじゃありませんか」

 すると店主は埃っぽいため息をついて、のろのろとカウンターの後ろへ戻って行った。その時の店主の横顔で、職人は、今日の彼女は自分の結晶を一つも買い取らないだろうと悟った。しょんぼりした気持ちで職人は結晶を一つ一つ布に包み始める。この店で買い取られなかったなら、よそへ売りに出すか塩にしてもう一度売りに来るか自分で食べるしか道はない。

 全部の結晶を職人が仕舞い終えた頃、ようやく店主は口を開いた。老婆の声は遠くを眺めるようでいて、うなだれたような響きだった。

「書いてないことがあるからだよ。書いてなくても、そこに“ある”からだよ。それに誰も気付かなくなったから。日記だけではそれを抱え切れなくなったから。だから日記は泣くんだよ」

 彼女が言っていることは、職人にとってまるで意味がわからなかった。




 店主の言葉通り、彼が愛読する誰かの日記の幾つかに涙の結晶がついていた。職人は丁寧に結晶を取り除き、インクを集めて文字を復元する。翻訳脳のおかげで何が書いてあるのかはすぐにわかった。だけど、店主が言ったようなものが“ある”のかは、今の今までわからない。

 最近彼は、涙の結晶が出来る瞬間に立ち会った。きっかけはエステルの日記の依頼主。日記の涙の結晶で作った塩を、彼女に贈ったのがことの始まりだ。

『エステルの日記から大変美味しい塩が出来ました。僕だけで使うのは勿体無いので、ぜひご賞味ください。代金はもちろん不要です』

 職人が手書きで手紙を綴るのは生まれて初めてのこと。店主の影響かも知れないが、エステルの日記は忘れがたい仕事として彼の生まれつきの脳に刻まれた。

 いつしか彼女と職人は、時々二人で食事をする間柄になっていた。元々古い日記の愛読者だった依頼主は、同じ趣味を持つ職人と大層気が合った。同じアンティークショップを贔屓にしていると知った時は、二人で顔を見合わせて笑ったものだ。レストランで食事をする時も、「日記に書いてあったものが食べたいから」とどちらかが言い出して店を決める。

「こんなに日記に思い入れのあるお客さんは滅多に居ませんよ。普通は、流行に乗って日記を少し読んだら満足するものです」

「でも私、顔も知らない誰かの生活を読むのが好きなんです。文が下手でもいい、何か特別な日でなくてもいい。日記の向こう側にあるものを想像して読むと、秘密の友達が出来たような気持ちになれるから」

 やっぱり彼女は変わっていると職人は思う。今まで彼は、そんな風に日記を愛でたことがない。職人は、美しい文字が何を綴っているのかに興味があった。だから、例えそれが待ち合わせ場所でも恨み節でも、彼にとっては大した違いではない。


 ある晩、依頼主はエステルの日記の涙を使った手料理を職人に振る舞ってくれた。職人が贈った塩だ。彼女の家の本棚には、古い日記が所狭しと並んでいる。埃を払って丁寧に並べられた日記の背表紙に囲まれて、職人は彼女の手料理に舌鼓を打つ。こんなに居心地のいい場所がこの世にあったのかと、彼は心底驚いていた。

「今度は僕が料理をします。塩はいくらでも家にあるので」

「ありがとうございます。お誘いを楽しみにお待ちしていますね」

「すぐにご招待の手紙を書きます」

「あら、嬉しい」

 彼女におやすみの挨拶をして夜道を歩き、彼は何度も後ろを振り返った。彼女の家の明かりが遠のくほど、職人の胸は張り裂けそうになる。曲がり角を曲がるまでの間、依頼主は玄関に立ったまま職人を見送ってくれた。

 彼は家へ着くなり、大急ぎで便箋を引っ張り出す。泣いた日記ではなく自分のインク壺からペンにインクを吸わせるなんて、彼女に手紙を書く以外では滅多にない。この現代にあって、わざわざ手紙を書くなんて普通はしない。だからこれは普通ではない。だけど、どうして彼女にだけこんなことをするんだろう? そう思いながら職人は手紙を書いた。出だしは好調だ。

『今日はお招きありがとうございました。この手紙を書いているのは……』

 頭の中で時計を確認する。日時を書き足してから彼は続けた。

『あなたの家に一歩足を踏み入れた時、僕は、ここが僕とあなたの家であったならと想像して胸を高鳴らせました』

 自分が何を書いているのか、職人は段々わからなくなってきた。これは翻訳脳で上手く翻訳出来るだろうか? きっと彼女は、この手紙を翻訳脳なしで読めるだろうけれど。だけどあまりに下手くそだ。だって、何を言いたいのかわからない。

『あなたと向かい合って食事をし、あなたの気に入りの日記の話をし、二人でアンティークショップや蚤の市へ赴く約束をする。あなたにとってはありふれた時間だったかもしれません。ですが僕にとってあの時間は、とてもまぶしく暖かい時間でした。何物にも代えがたく美しい……』

 ペン先が便箋に触れた時、じわりと何かが滲んだ。最初はそれに気付かなかった。彼はただ思うがままに言葉を綴っていただけだ。まるで古い日記を書く遥か昔の人間のように。それがいつの間にか、ペン先が紙の上で転んで動きを止めてしまう。

「……あれ?」

 インクが滲んでぼやけて行く。彼が書いた言葉が追いやられて、ページの端へ端へと逃げて行く。作業机にシミが広がって、そこら中から生えて来る。白く透明な結晶が。涙の結晶が。

「なんで、なんで、こんな……」

 職人は慌てて立ち上がる。椅子が床に引っかかって彼ごとひっくり返ってしまう。尻もちをついたまま、彼は呆然と机を見上げた。溢れ出した涙が机から滴り落ち、やがてそれはつららに変わる。

「僕が……。僕が、何をしたって言うんだ……」

 よろよろと立ち上がって、職人は便箋に視線を落とした。今ではもう、何が書いてあったのかさっぱりわからない。翻訳脳をシャットダウンする。再起動させる。もう一度、もう一度、もう一度。それでも景色は変わらない。生え続ける無数の氷楼、紙を蝕む粉状の結晶、果てのない五角形を繰り返す涙。職人は、手紙だったものの表面を撫でる。白んだ自分の指先をそっと舐めると、見た目通りの塩辛い味で舌が痺れた。どこにも書いた覚えのないものの味で。

 その時、職人は理解した。ああ、だから日記は泣くんだ。言葉は、泣くんだ。

 だけど彼には最後まで、自分が書いた言葉の意味はわからなかった。

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