化生(ひとでなし)の恋

六散人

 

何か物足りない。

いつもそんな心持ちで生きていた。

僕の中のうろを満たしてくれるものは、果たして何なのだろうか。


それは恋なのだろうか。

僕は人に恋したことがない。


それは僕の中に、そのような他者への思いが欠けているということなのだろうか。

あるいは、僕に恋心を抱かせるような、愛おしい他者と未だ巡り会えていないということなのだろうか。

そんな思いを抱きながら、淡々と過ぎゆく日々を僕は生きていた。


そんなある日、僕は小さな神社の前を通りかかった。

そして何故だか急に、そこに入ってみたいと思ったのだ。


そう思った理由わけは、はっきりと覚えていない。

何かにき寄せられるように、いつの間にかふらりと鳥居を潜っていたのだった。


社の境内には人気がなく、とても静かだった。

そしてそこに、一人の和装の女性が佇んでいたのだ。


そのひとを見た瞬間。

僕の中にあった古い記憶の断片が、忽然と蘇った。

琴音ことね?」


***

わたくしの名は琴音。

この社に縛られ、長き時を生きる琴の精。


その日わたくしは、武比古様と出会ったのです。

武比古様は宮仕えの衛士を務めておられました。

その日は主に替わって、この宮に供物の奉納に参られたのでございます。


人には見えぬ筈のわたくしの姿が、何故か武比古様の眼に停まったのです。

こちらに近寄られた武比古様は、わたくしに申されました。

「拙者は武比古。

主の代理として、供物の奉納に参った。

この社の巫女殿とお見受けしたが、宮司の元まで案内あないを請いたいのだが」


そのお言葉にわたくしは戸惑いました。

しかし武比古様の眼に魅せられたかのように、彼のお方を宮司の元へと誘っていたのでございます。


短い参道を歩む間に、武比古様は問われました。

「巫女殿の名は何と申される」


「わたくしの名はコトネ、琴の音と書きます」

化生にとって、人に名を告げることは忌みごと。

なのにわたくしは、問われるままに名を告げておりました。


武比古様のお近くいると、彼のお方の陽の気が、ゆっくりと我が身を蝕んでゆきました。

しかしそのことすらも心地よく感じていたわたくしは、すでに武比古様を受け入れていたのでございましょう。


化生の身にあるまじきことと知りつつも、人に魅かれるこの思いを『恋』と呼ぶのでしょうか。

されどそれはやはり、禁忌でございました。

社のあるじは、わたくしの化生にあるまじき行いを責め、厳しく罰したのでございます。


あるじは申しました。

「あのものが三度この社の鳥居を潜れば、その時汝の姿は、汝の名と共にあの男の前より消え去るのだ。

それだけでは済まさぬ。


やがてあの男がこの世を去り、その御魂が宿りし別の男も、汝に引き寄せられ、三度社の鳥居を潜るであろう。

その度に汝は、御魂宿りしものの前から消え去るのだ。

そして汝が消える度に、男の御魂も依り代を離れて別の男に宿り、また社の鳥居を潜るのだ。


幾度も恋しい男の前から消え去る痛みを味わうがよい。

あのものの御魂が、再び汝の名を思い出すその時まで」


それから千載の時が流れ、わたくしは幾千度も、武比古様の御魂との邂逅を繰り返してまいりました。

されど武比古様がわたくしの名を思い出すことはなく、身を裂かれるような思いを、繰り返し繰り返し心に刻んだのでございます。


いっそ依り代たるあの琴を、誰かが焼いてくれぬかと思うことも、度々でございました。

しかしそれも敵わぬまま、長い時がただ過ぎていったのでございます。


今は令和の世と呼ぶのだそうでございます。

人々の暮らしや装いも随分と移り変わり、わたくしの心も、もはや罅割れ涸れ果てようとしておりました。


そんな時、また武比古様の御魂を宿した殿方が、社の鳥居を潜られました。

そしてその方も、わたくしの姿を認め、近づいてこられたのです。


ああ、またしても、身を切られるような思いを味わうのでしょうか。

わたくしがそう思った刹那、その方の口から「琴音ことね?」という言葉がこぼれ出たのでございます。


武比古様は申されました。

「僕はといいます。

不思議なことに、あなたの名と、あなたをずっと探していたことを、今思い出したのです」

そして武比古様は、我が身をそっと抱きしめたのでございます。


「人とは温かいものですねえ。

貴方様と触れ合って、わたくしは初めてそのことを知りました」

武比古様の陽の気に身を焼かれながら、わたくしは思わず呟いておりました。

その時わたくしは、千載の至福を感じていたのでございます。


「琴音さん、初めてお会いしたのに、何故こんな気持ちになるのか分からない。

でも僕はずっとあなたと一緒にいたい。

これから僕と一緒に、生きてくれませんか?」


「わたくしは、この社に縛られしもの。

社の域外では、長く在ることができないのです」

わたくしは武比古様に抱きしめられながら、そっと耳元で囁きました。


そしてわたくしは悟ったのでございます。

我が身を苛んできた宿業から、今漸く解き放たれるのだということを。

その見返りとして、このままわたくしは、永遠に武比古様の前から消え去るのだということを。


武比古様の腕の中で、徐々にこの身が薄らいでいくのを感じながら、わたくしは千載の思いを言の葉に乗せてお伝えしました。

「このままいつ果てるとも知れぬ永劫の時を生きるより、刹那の時のはざまを、共に生きましょう。

貴方様の記憶の中で」


***

「刹那の時のはざまを、共に生きましょう。

貴方様の記憶の中で」


その言葉を残して、琴音は静かに消えていった。

僕の腕の中で、穏やかな笑みを浮かべながら。


そして琴音が残したその言葉と共に、たった数分間の彼女の記憶が、僕の中のうつろを満たしていることを、僕は感じていた。


彼女は恐らく人外だったのだろう。

しかしそんなことは、最早どうでも良いことだった。


僕の魂が探し求めていたひとに、こうして巡り会い、その鮮烈な記憶が魂に刻まれたのだから。

これから僕はその満ち足りた思いを胸に抱きながら、琴音の記憶と共に生きていくのだろう。

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