心に舞うホタル

野田ユキオ

心に舞うホタル

毎年6月になると胸を躍らせるイベントが僕にはある。

新宿駅から中央線に乗って、1時間と少しのところにある武蔵五日市駅で下車する。古びた感じはないが、小さな駅だった。駅前のロータリーの近くに赤いのれんが掛かった焼鳥屋「玄さん」がある。僕はここで外が暗くなるのを待つ。毎年一人のカウンター席だったが、今日は違った。悦子と一緒だった。

店主の玄さんは、いつも通りに僕を迎えた。玄さんは、国分寺にある客の絶えない名店の焼鳥屋の息子で、父が作った秘伝のタレを引き継いで、この場所で開業した。

秘伝のタレがたっぷりかかったカシラを悦子が頬張った。

「うーん、おいしい!」満足な笑顔を見せた。

2杯目のビールを飲み干してジョッキをカウンターに置いたとき、玄さんが、換気口の下にある窓を横に少し開けて空を見上げた。

「そろそろだな。」

壁に貼ってあるくすんだバスの時刻表をゴツゴツした指でたどりながら、

「次は18時47分発!」と告げた。


バスは大きく左右に揺れながら、山道を上っていく。その度に、悦子の体と接触する。僕は触れてはいけないもののように感じた。

大きな上り坂のカーブの先に目的の停留所はあった。すぐそばに下りの石階段があって、30段ぐらい降りた平らな場所に鳥居が立っていた。小さくお辞儀して神社の裏手に出ると、足元も見えないぐらいの暗闇が広がっていて、せせらぎが聞こえた。目が慣れると、うっすら小川が見えた。5メートルほどの川幅の対岸は急斜面で、大きな岩がゴロゴロとむき出していた。風もなく、蒸し暑さで額から汗が滴り落ちた。ハンカチで目に掛かる汗を拭うと、岩陰から小さなほのかな光の粒がゆらゆらとこちらに向かって舞ってきた。

「わー。」

息をするのを忘れたかのように悦子の声がしばらく響く。

小さな光は、暗い場所を探すかのように弧を描きながら闇を渡り飛んでいく。

2週間足らずの期間に、命を削って光を放ちながら恋人を探す。

「ホタルはね。暗くて、暑くて、風がなくて、ジメジメした場所が好きなんだって。」

悦子は一際強く光るホタルを見つけ、夢中に目で追っていた。

「実はね、わたし、あんまり期待してなかったの。」

そう呟くと、そのホタルを手の平にのせようと、舞うように足を躍らせた。

そんな姿を見て、僕は胸を躍らせた。

バスは大きく左右に揺れながら、山道を下っていく。その度に悦子の体と接触する。僕は触れてもいいのではないかと感じた。

武蔵五日市駅のホームのベンチに並んで座り電車を待った。だれかの咳払いがホームに響く。スタート直前の選手のような緊張が僕に走っていた。この瞬間のスタートはみんな何を合図に発進するのだろう。3、2、1、何度も心でつぶやいた。電車が入線するアナウンスが聞こえた。今だ!

「悦子ちゃん、僕と付き合って欲しいです。」

悦子は、その言葉を待っていたかのように冷静だった。少し背筋を伸ばして、こちらに体を向けて、視線を僕に合わせて言った。電車がホームに入ってくる。僕は悦子の声を捉えることに集中した。

「ごめんなさい。」

僕は反射的に笑顔を作ったが、足は震えていた。

「乗ろうか」

声を出せたが、喉はカラカラだった。

電車が夜の多摩地区を走る。しばらく沈黙の中で、呟くように悦子が言った。

「努力してみたけど、好きだった人が忘れられないの。」

悦子は車窓から風景を見ているのだろう。僕も風景を見ようとしたが、視点が悦子の姿を越すことができなかった。諦めの悪い男と言われるだろうが、本気で好きだった。

悦子が降りる駅に電車が停車した。

「でもね、この素敵な思い出は一生、忘れない。本当にありがとう。」

ホームに降りた悦子を見返す余裕は僕にはなかった。

だから、悦子がホームで僕を見送ってくれたかはわからない。

ただ、毎年6月になると僕の心にホタルが舞うようになった。

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