エピローグ
カイ・ウェルザリーの安眠
オリバーは、春特有の爽やかな香りを含んだ風を受けながら、サンクの街の中央に位置する広場を歩いた。今日は髪の毛を固めていない。前髪が、さらさらと風に流れて、気持ちがいい。
その広場を抜けたところにある、三階建ての集合住宅に足を踏み入れ、オリバーは階段を登った。
二階の階段のすぐ隣の角部屋。扉をノックするが、返事はない。小さくため息をつきながら、ドアノブを捻ると開いてしまった。
「鍵閉めろって何回も言ってんのに……、カイ、入るぞ」
小言を漏らしながら、部屋の中に入った。鍵をかける。
家具が少ない部屋の中、隅っこに置かれたベッドの上で、カイ・ウェルザリーが体を起きあげたところだった。
オリバーの愛しの彼は、息子の受験が終わってから、はや二ヶ月、今までの人生の睡眠不足全てを解消するかのように、春眠を貪っていた。
無職である。けれど、貯めていたから金には困っていないし、苦労ばかりの人生の中、ようやく得た休暇なのだから、心ゆくまで楽しめばいいとオリバーは思う。
マキシアンは働きたくなったら言ってくれ、と笑ってくれた。
この集合住宅に彼が住めるように、手配したのはオリバーだった。
恋人になってようやく知ったのだけれど、カイは自分のためには全くがんばれない人だった。息子のためには、労を惜しまず睡眠不足でも動き続けるが、自分のことになると何もかも面倒くさいらしい。
サンクに戻ってきた彼が、あのボロ小屋(しかも話を聞く限り、正規の手続きを踏まずに勝手に住んでいる。つまり不法占拠)に住み続けようとしていたので、見かねて、オリバーがこの集合住宅を見つけて、手続きまでした。
カイは、短い丈のズボンに、肩にかかる紐が華奢なキャミソールを着ていた。いつもの格好、と言える。
古傷のある体を晒して、眠たそうにこちらを見た。刺された肩の傷もありありと残っていて、見る度に少し申し訳なくなる。
下ろした髪型を見て、今日は特別眠たい日なのだとオリバーは判断する。
「鍵閉めろって」
「うん」
寝ぼけ眼で頷き、オリバーに向けて手招きする。誘われるがままにベッドの端に掛けると、カイは後ろからオリバーの胸に手を伸ばして、上着のボタンを丁寧に外す。猫がすり寄るように、頰を肩にくっつけながら。
「オリバーも、一緒に寝てよ」
「……いいよ」
これもいつものお約束。
白い腕がオリバーの上着を丁寧に脱がせる。それを受け取って、椅子にかけてから、オリバーはベッドに戻った。
彼は細い肢体を投げ出すようにしてベッドに身を沈める。その横に座り、体を眺める。
「……前から思ってたけど、その下着、女物だろ」
腹のあたりがゆったりとして、触り心地がさらさらした、薄い生地のそれを指しながら聞く。
カイは腹ばいになって、こちらを見上げた。
「ごみから拾ったから……知らない。オリバーは女の人の下着見たことあるの?」
からかうように笑ってみせる。
そんなことをからかってくる、彼の幼さが可愛い。
「……そりゃあな」
「俺には似合わない?」
「いや、似合ってるよ。妖精みたいだ」
カイの顔から余裕が消えて、ぷいと腕に顔を沈めた。照れている。
頭を撫でて髪の毛をかき混ぜる。オリバーは、彼の横に、肘をついて寝転んだ。
「ごみ引きの仕事って結構掘り出し物あったんだよなあ」
気を取り直したカイが、足をパタパタさせながら言った。
「ふーん? 確かに、その下着とか捨てられてたのが信じられないくらいだな」
「そう。ギルバードの教科書とかも拾ってた」
「へえ。他には?」
カイは考え込んだのち、不意に綻ぶように笑った。
「オリバー先生の受験体験記とかね」
唐突に自身の名前が出て、眉を顰めると同時に、思い出した。そうだ、最初に見かけた時、カイは麻袋の中を覗いていた。当時、たしかに捨てたような……。
「俺にとっては、それが一番の掘り出し物」
「まさか、とってあるのか?」
「うん、ギルに預けてる」
「まじか……、明後日来たときに問い詰めよう」
「どうするの?」
「取り返す」
「なんで。いらないんだからちょうだいよ。俺とギルの宝物なの。あれは」
微笑みながら言われて、言葉に詰まった。宝物とまで言われたら仕方がない。
「明後日、楽しみだあ……」
ギルバードが、サンクの街にくる日だった。ナントとナタリーとの約束の日。
同意しながら、カイの髪の毛をさらさら撫でる。
「今日はちゃんと飯食ったのか」
「んー」
「笑って誤魔化すな」
カイは食事すら、面倒くさがる。衝撃を受けたのは、蒸してすらいない芋を皮ごと齧って一食としていたことである。りんごじゃないんだから、と思わず突っ込んだ。
ギルバードが、父は一人で生きていけるのか、と心配していたのも頷ける杜撰さだった。
「でも、一日中動いてないのに、栄養取るのもなんか違くない」
「いや、ちゃんと食べてほしい。俺はカイの肌と髪の艶を維持したい」
真剣に言って、頬を指で掬うように撫でる。
「はーい……じゃあ、一眠りしてから。一緒にご飯買いに行こう」
「ああ」
腕を枕に眠ろうとする、カイの背中をあやすように叩く。
「髪の毛、本当にきれいだな」
寝かしつけるために、小さく囁く。子どもがいたらこんな感じだろうか、とこの儀式の時間にはいつも考える。
「オリバーの髪も。きれいな銀色」
「そうかね、子どもの頃は確かに銀だったんだが、もう今はくすんで灰を被ったみたいだろ」
「ううん、俺にはきれいな銀髪に見える」
カイが腕に頬を預けてこちらを見上げる。その優しげな瞳に、オリバーは頬を赤らめた。
「あ、照れてる」
やたらに恥ずかしくて返事を返さず、ただ頭を撫でた。
にこにこ、こちらを見ていたカイが、不意に人差し指を立てて、オリバーの頭に向けた。
少しの時間があってから、室内に風が起きた。オリバーの髪の毛をそよそよと揺らす。
「えへ、綿毛みたいでかわい……」
風を吹かせる魔法を、彼は習得していた。
カイがねだってきた時には、魔法を教えた。ギルバードのように、飲み込みがいいとは言えないけれど、とても楽しそうで、魔法を使っているカイは、そっちこそかわいい、という感じだった。
しばらく、同じことをして遊んでいたが、次第にカイの瞼が重たくなっていく。
「おやすみ、カイ」
意識を手放す直前、微笑んで、そのまま眠りについた。
寝顔を見ながら、思わず頬が緩んだ。
ふと闇夜に声をかけられたあの晩を思い出す。この子があの時、オリバーの説得を諦めていたら今日という日は迎えられなかった。
きっと治癒魔法も使えないままで、心底愛しいという気持ちも知らないまま、大切な人を手ずから寝かしつける、なんて幸せも得られずに。
「幸せってこんなに美しい顔をしているんだな」
穏やかな寝息に寄り添うように囁く。オリバーも午下りの安眠を享受することにして、静かに目を瞑った。
ギルバード・アスターの王立魔法学校受験 安座ぺん @menimega
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