無料の理由

丁山 因

無料の理由

 体験したのが2009年だから、まあまあ昔の話。

 出張で名古屋のビジネスホテルに泊まったときのこと。

 当時は30代前半で、今では信じられないくらいの仕事量をこなしていた。

 出張の日も大忙し。夕方まで通常業務をこなしたあと商材を積んだバンを運転して、高速を3時間飛ばして名古屋へ行くタイトなスケジュールだった。


 予約していたホテルに到着したのは夜10時を少し回ったくらい。全国にチェーン展開しているまあまあ名の通ったグループのホテルだけど、長年リニューアルをしていないせいかかなり経年劣化が目立つ。それでも寝るだけだからと割り切って自分の部屋へ。


「うわぁ……」

 ドアを開けるなりため息が出た。

 薬品と香料が混ざった独特な匂いが充満し、申し訳程度のデスクとベットでほとんど埋まった部屋。テレビなんか壁から生えたアームにくっついている。しかも薄型じゃ無くてブラウン管。窓からは隣接ビルの無機質な壁しか見えない。

「独房かよ……」

 思わずつぶやいたけど独房の方がまだマシかもしれない。入ったことは無いけど、多分ここまで狭くは無いだろう。例えて言うならユニットバスの付いたカプセルホテルって感じだ。

 それでもまあ寝るだけだからと踏ん切り付けてベッドへ荷物を置く。部屋は最悪だけど、ホテルの場所は栄(名古屋市の繁華街)の一角で立地は抜群にいい。本当なら飲みにでも行きたいところだが、さすがに3時間の運転で身体はヘトヘトだった。軽くシャワーを浴びて早々にベッドへ潜り込み、テレビを眺めながら眠気の到来を待つ。


「えっ、マジか!?」

 リモコン片手にザッピングして、ふとした発見にちょっと驚いた。ブラウン管に全裸の男女が絡み合うシーンが映る。明らかにアダルト向けの放送だ。ビジネスホテルではお馴染みのサービスだが、普通は有料で専用のカードを買わないと視聴できない。たしかエレベーター前に自販機もあった。それが無料で映っている。

「部屋が酷いからサービスのつもりなのかな?」

 なんてバカなことを考えながらしばらく画面を眺める。どうせ機械的な不具合でもあって、ホテル側が気付いていないだけなんだろう。この部屋に泊まった客もわざわざ教える義理はないしな。

「まぁどうでもいいか……」

 画面を消して目を閉じる。本来ならラッキーとばかりにひと仕事するところだが、さすがにそんな元気はない。俺は薄暗い部屋のベッドで眠りの世界へ旅立とうとした。


 …………が、寝落ちる直前、ボンッ!っと軽い音が腰辺りから聞こえた。一拍おいてまた音がしたとき、今度は腹になにかが乗った。

「ええっ!?」

 さすがに目を開けて腹の辺りを見ると、そこに黒いモヤのようなモノがいる。

「なんだよもぉー」

 俺は霊感なんて無いし今まで心霊体験なんてしたことも無い。だけど今起こっている現象が尋常で無いことはすぐにわかった。

「フザケんなよもぉー!」

 今思い返しても不思議だけど、この時の俺は恐怖より眠りを邪魔された怒りの方がはるかに強かった。だから身を起こして拳を振り上げ、モヤを思いっきり殴りつけた。もちろん手応えなんて無い。けど、モヤは一瞬で消えた。

「なめんじゃねー!」

 そう悪態を吐いて再び布団を引っ被る。と…………数秒も経たぬうちにボンッ!っと音がした。

「ってらんねー!」

 布団を跳ね上げた俺はモヤを手で払いつつ、電話の受話器を取った。


『はい、フロントです』

 受話器の向こうから若い男性の落ち着いた声が聞こえる。

「あのー、さっきからなんか出てきて眠れないんだけどー、部屋変えてもらえます?」

 怒りはあるが、さすがにそれをフロントの彼にぶつけるほど大人げないマネはしない。こっちは快適な安眠さえ出来れば満足なのだ。

『えっ!はい、少々お待ちください』

 彼は少し焦った口調になったあと、保留ボタンを押して受話器から音楽を流した。今ごろ端末で部屋を探しているのだろう。俺は部屋を移るために、デスクに広げた荷物をバッグにしまい始める。もうすぐこの独房から脱出できるぞ。しかし、音楽が途切れると、受話器の向こうから悲鳴のように恐縮した声が聞こえてきた。

『お待たせしましたお客様。大変申し訳ありませんが……今ご案内できるお部屋がございませんでして……』


 はぁ!?


 どこのホテルだって、いくら満室でもこの手のトラブルに対処するための部屋は用意しているもんだ。なのにこの仕打ちは酷すぎる。絹糸1本程度で括られていた俺の堪忍袋はブチッと切れ、気付くと怒鳴り声を上げていた。

「ふざけんなよ!?どうしてくれんだ!こんなんじゃ眠れねーよ!!なんとかしろ!!」

『ももも申し訳ありません!もう少々お待ちください!』

 再び保留音が鳴り、今度は責任者風の男性が電話に出た。

『大変申し訳ありませんお客様。それではですね、いまお近くにテレビのリモコンはございますでしょうか?』

 ダンディな口調で意外なことを聞かれ多少面食らったが、俺は枕元に置いてあったリモコンを手にした。

「あるけど、どうすんだよ?」

『最初に電源を入れていただきまして──』

 ダンディの指示通りリモコンを操作する──と、画面に映ったのは汗をほとばしらせながら激しく動く男女の姿。スピーカーからは喘ぎ声が思いっきり聞こえている。例のアダルトチャンネルだ。

「言う通りしましたけど、この後どうするんですか?」

 AVにすっかり毒気を抜かれた俺は、ダンディに指示を仰いだ。が、必要な操作はこれで終わったようだ。

『それではですね、音声の方は消していただいても結構ですので、そのままお休みください。これでも何かございましたら、もう一度ご連絡ください』

 俺が「はぁ……」と力なく返事をすると『それでは失礼いたします』と電話は切れた。


 暗い部屋の中で煌々と映る無音のAV。画面には当時大ファンだった麻美ゆまチャン。なかなかシュールな光景だが、そんな状況を楽しむ余裕はない。明日も朝から仕事なのだ。俺はテレビのアームを曲げて画面を壁に向け、再び布団へ潜り込んだ。一抹の不安はあったけど、もう睡魔には抗えない。


 それからは何もなく、爽やかな朝を迎えることが出来た。当然AVは流しっぱなしだ。


 朝食を摂るため食堂へ。そこで女子大生らしきグループが、昨日幽霊が出たから部屋を変えてもらったなんて話題で盛り上がっていた。どうやらこのホテルはあちこちの部屋で出るらしい。俺が部屋を変えてもらえなかったのは、きっと彼女たちの割を食ったからだろう。まあ、今となってはそんなことどうでもいい。


 チェックアウトの時、領収書はくれたけど「お代は結構です」と言われた。それどころか別途2万円もくれた。俺みたいな目に遭った客への詫びなんだろう。まあでもこのホテルには2度と泊まらないと決意している。


 それにしても、AVで幽霊を抑えるなんて初めて知った。この体験以来、出張でホテルに泊まるときは、無料でアダルトチャンネルが流れないかチェックするようになった。もちろんそんなことはあれ以来一度もない。

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