第十一話

第11話

(キス、初めてだな)

 そう思っていたら、ふわりと侑斗を魅了するように笑いかけられた。

 さっきまであんなにうるさく笑っていた陽気な熊は、一瞬黙ると額をくっつけてきた。急に近くなった距離に、かすかに頬を掠めた熊沢の呼吸に唇が震えた。

 確かめるように、一度だけ侑斗の唇に熊沢の唇が軽く触れる。

 その軽い触れ合いで身体にポツリと火が灯った。唇と唇がくっついて、ただそれだけのことが、なんでこんなにドキドキするんだろうかと不思議でならない。

 熊沢は侑斗の手を引いてベッドの上に隣に横になると、細められた目でまっすぐに侑斗を見つめた。

「ぁ」

 声が、震える。何を言えばいいのか分からない。ただ、もっとキスがしたいと思った。

「ん?」

 熊沢の骨張った大きな手は侑斗の腰に伸び体を自身へ引き寄せた。

「ッ……くまさわ、さ……」

「目、開けたまま?」

 熊沢はふわりと笑って、笑った後、食べるように大きな口で侑斗の唇を塞いだ。

 侑斗が、ぎゅっと慌てて目を閉じたら、それを同意と取ってくれたのか深く口付けてくれる。ぴったりと体をくっつけて抱き合ってキスしていると熊沢の体からキッチンの台所洗剤の匂いがした。侑斗の家の匂いが熊沢の黒のスウェットシャツからする。

 慣れた安っぽいレモンの匂いなのに、その熊沢の匂いに頭がくらくらした。

「んんっ」

「ね、せんせ、お口、あーけて」

 唇を厚い舌でペロリと誘うように舐められる。その後、熊沢の舌は侑斗の唇を割った。我が物顔で口内に侵入してきた舌を、侑斗がどうにも出来ずに固まっていたら、じゅっと唾液を絡めて吸われてしまった。

 身体が過剰に反応して、びくびくと勝手に震える。どうすればいいのか分からなくて泣きそうだった。

 目を閉じているから、熊沢が意地悪く笑っている気がして疑心暗鬼になる。

 経験値の差で翻弄されているのが悔しくて、一体どんな顔で熊沢がキスをしているのか見たくなった。

 侑斗は、こっそりと薄目を開いた。

「……お、見たな」

「ッ、ぁ……」

 人に目を閉じるように言ったくせに、熊沢はずっと侑斗のことを見ていた。目を閉じる前と同じように、熊沢の目は真剣なままだった。バカにするみたいに笑ってると思ったのに、ただ真摯に侑斗の舌を味わっている様子に、体が一気に粟立つような感覚を覚えた。

 熊沢の顔を見たかったのに、目を開けた瞬間に後悔した。見たこともない熊沢の顔を見て、顔が一気に朱に染まる。風邪が治って下がっていたはずの体温が昨晩と同じに逆戻り。

 けど昨日みたいに頭は痛まない。頭のなかは、ずっとふわふわして心地よかった。

 侑斗の頭の後ろにあった熊沢の手がすべり、侑斗の首に触れた。

 触れられていないのに、その指先の感触が、背に伝播して鳥肌がたつ。

 寒くないのに、暑いのにふるりと体が震えた。

 熊沢の唇が、唾液の糸を引いて離れていく。

「ぁ、く、熊沢、さ」

 熊沢は目元を少し赤らめながら、侑斗の唾液で濡れた唇を親指で拭ってくれた。

「もう、昔みたいに呼んでくれないの? 秋生って」

「い、いま?」

 ぎゅっと抱きしめられて耳元で囁かれた。今更、そんなふうに呼べるはずもなく、かといって、親しさをこめて秋生さんとも呼べない。熊沢さんは熊沢さんだから。昔は気まぐれに遊んでくれた、お兄ちゃんのあきおくんでも、今は二個上の職場の同僚。

「ねー、一回だけ、言ってよ」

 ちゅ、と耳元にリップ音をたてて、耳朶を食まれた。その柔らかな唇の感覚に、今度は耳が真っ赤になった気がした。見なくてもわかる。絶対真っ赤だ。

 それを隠すことなく熊沢には見られているわけで、自分ばっかり体中を赤くされて、恥ずかしくされてたまらなかった。だから、熊沢ももっと恥ずかしがって、赤くなればいいのにと思った。

 だから、思い切って、言ってみる。

「あ、あきお……くん」

 口にしてみて、熊沢が赤くなればいいと思ったのに、自分の方がはずかしくなった。もう、これ以上熱が上がったら再起不能になる。

「あー、自分で言っといてなんだけど、なんか、こう、イケナイ気分になるな。侑斗くんの小学生のころ思い出すみたいな……こう、クるものが」

「もう! こ、これ以上、僕の綺麗な思い出を汚さないでください!」

 作家の名前の件だってそうだ。侑斗のなかでは、子供のときの綺麗な思い出だった。それがただの面白ネームだったなんて。

「ごめんって、お詫びに、いっぱいきもちいいことするから許してよー」

 侑斗はベッドから降りて逃げようとしたが、熊沢に手を引いて戻され、すっぽりと胸の中に収まってしまう。

 背に感じる熊沢の胸の広さに、自分が小さいせいもあるが、本当に無駄にデカいなと思った。いつも一人しか寝ていないベッド。古い家だし、畳の上だから動くたびミシミシ床が抜けそうな音が鳴る。

「いいです。もう、これ以上は、いっぱいいっぱいだし」

「これ以上って、まだベロチューしただけだろ? ちゃんと、最後までフルコースで味わってよ。俺、頑張るから、ね?」

 そう言って、デニムパンツの後ろポケットに入れていたらしい避妊具を侑斗の顔の前に出して見せられる。

 なんで、そんなもの入れているんだよって思った。

「いい! です!」

 いつもと同じように、嫌いなものまで食べさせられて、ほらぁ美味しかっただろと言われる未来が、いまから易々と想像できた。

「あ、食わず嫌いはよくないぞ、いつも言うけど、食べてから文句言ってよ、まぁ文句は言わせないけど」

 この場合どう考えても、食べるのは熊沢で自分は食べるんじゃなくて、食べられる側だ。

「も、もう……お腹いっぱいだし、デザート食べたから、プリン」

「あ、それ冗談? じゃあ食後の運動が残ってるよ」

「病み上がりの人間に、何させる気なんですか、無理! 無理ですからね」

「それが、こっちも無理なんだよなぁ、あんな可愛く名前呼ばれて、やめられない」

 熊沢は後ろから手を回し、侑斗の体のラインを確かめるように胸元から脇腹の方へと手を動かしていく。

「ひっ、ん」

 その艶かしい動きに驚いて、声を引きつらせた。

「ほら、ニンジンだって、食べてみたら、美味しかっただろ?」

「このシチュエーションで言われると、下ネタにしか聞こえないんですけど」

「お、ちゃんと分かってるな。安心した。あんまり子供、子供言ってたから心配だったけど、ちゃんと、俺のしたいこと、分かってるじゃん」

「それ……は」

 わからないと空とぼければ、フルコースじゃなくて、お子様ランチくらいで終わらせてくれるかもしれないと、おそるおそる問いかける。

「ちなみに、僕が分かんないって言ったら」

 すでに熊沢の手がスウェットの裾へ潜りこんで、侑斗の生肌の上で妖しく動き始めていた。

「え? そうだなぁ、とりあえず、そこにパソコンがあるだろ、ブラウザ開いて、検索エリアに、男同士、セックス、方法って入れてクリックして勉強してから、ベッドに戻ってきてくれる? ベッドで準備運動して待ってるから」

「余計、逃げます!」

 今からする恥ずかしいことを事前学習する方が余計に怖い。

 それに好きでもない男同士のセックスをみて喜ぶ趣味はなかった。

「だろ? だったら、きもちいいことだけして、初めては、俺たちだけで良い思い出にした方がよくないか?」

「い、いい思い出って、自信あるんですね。ゴム、持ってる。や、ヤリチン男で……たくさん経験あるんですね」

「あ、妬いてる? ないない。侑斗くんのために準備したに決まってるだろ? とにかく、やることなんて男も女も変わらないって、大丈夫大丈夫、怖くない怖くない、ほら気持ちいいことして、汗かいて、しっかり風邪治そうな」

「軽いですね! 普通に考えて風邪悪化するでしょう」

「どう言ったところで、変わらないと思うけど。じゃあ、真剣に、はっきり言うよ。セックスしたいんだけど、今からどうですか」

「み、みなまで言わないでくださいよ、必死で考えないようにしてるんですから」

「ノリいいね。ところで大丈夫? さっきから大声であれやこれや言ってるけど、ここ壁薄いんでしょ、ボロアパートだし」

「……ボロは余計。いま上も隣も、誰も住んでないです」

「おぉ、いいこと聞いたね。じゃあ、遠慮なく、えっちな声出せるな」

「ッ、い、言わなければよかった」

「残念でした。ほら、続き。最後まで、するかしないかは、あとで決めていいから」

 熊沢に意地悪な目で見下ろされた。――もう、それ以上は、言葉を続けられなかった。


 * * *


 体が重くて、少しだって動きたくない。

「っ……く、熊沢、さん」

「なぁに」


 名前を呼ぶと幸せそうに笑った熊沢は、侑斗の寝癖だらけの頭をくしゃりとかき混ぜる。いつだって隣に立たれるとその大きな体に落ち着かない気分になる。でも今は、その胸に抱き寄せられると、安心して体をゆだねてしまう。

 あったかいなとか、気持ちいいなとか。もっと一緒にいたいな、とか。

 そう思って、ぎゅっと抱きしめ返した。


「え、もう一回おかわりする? いいよ」


 調子に乗るなって思った。


「む、無理に、決まってるじゃないですか」

「えー、無理に決まってるの? 体力ないなぁ」


 こっちは病み上がりなんだと言い返したくなるけど、溶けそうな顔をして浮かれてるから、侑斗の反論は不服そうな顔だけになった。


「元気になったら、またしような」


 その誘いには、ふわふわした今にも消え入りそうな声で返事する。熊沢からは、お返しとばかりに、ぎゅうぎゅうと抱きしめられた。

 お腹いっぱい。多分、これ以上食べたら胸焼けする。

 美味しいご飯は、絶対適量がいい。腹八分目!


「あの、熊沢さん……手紙の返事、今でも欲しいですか?」

「ん、ファンレターの?」

「もう、今更だし、いらないかもしれないけど」

「もちろん、欲しいよ?」


 長い間、編集部に置かれたままだった、熊沢からの心のこもった手紙。

 正体がバレた今となっては、熊沢は手紙を書く必要もなくなった。

 もう新しい手紙がもらえないのだと思うと、一度くらいちゃんと返事を書いておけばよかったと思った。熊沢ただ一人にだけ向けた手紙を。こんなに近くにいるのに、手紙の返事が書きたいなんて変な話だ。


「なに、残念そうな顔してるの? ちゃーんと、読んでくれるなら、また送るよ? そんなに欲しい? 俺からの手紙」

「え……まだ、くれるんですか? 欲しいです」


 侑斗は驚いて目を瞬かせる。


「でもなぁ。きっと、先生怒るよ?」

「なんでも嬉しいです」


 この言葉を以前の見栄っ張りな自分が聞いたら、びっくりするだろう。


「えー、ほんと、なんでも? じゃ、先生、大好きだけど、ニンジンは残さずちゃんと食えって書くけど」

「どんな手紙でも、今度はちゃんと読んで返事書く」

「そ? じゃ、期待して待ってるね」

「はい」


 この先、一通、一通に、返事を書く。

 けど熊沢にだけ特別に、下手くそだけど筆を使って墨で書くつもりだ。

 この先、もっと天龍寺豪鬼のことを知って、熊沢は呆れて、がっかりすればいいと思う。返事は決まっていた。


 ――お手紙ありがとうございます。僕も熊沢さんのことが大好きです。でも、ニンジンはやっぱり嫌いです。天龍寺豪鬼より。


                 おわり

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見栄っ張りと秘め恋パズル 七都あきら @akirannt06

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