黄金林檎の落つる頃

森陰五十鈴

爛熟

 暑さの中にも、涼風が感じられるようになった。

 雲浮かぶ青空の下、馬車の轍の刻まれた道を行く。ろくに荷も持たぬ軽い身。だが、南中を越えた日差しは体力を削る。額に浮かぶ汗を白い神官服の袖で拭って、ディミトリスは、道端に呆然と佇む男を見留めた。

 鍔の広い藁の帽子を被り、土に汚れた服を纏い。道に背を向けて、整列した木々を眺めている。棒立ちのままぴくりとも動かぬので、ディミトリスは彼に声を掛けた。

「どうかなさいましたか?」

 男はゆっくりと振り返った。日焼けした丸い顔に、剃り残した髭が目立つ。中年の農夫だった。

 農夫はディミトリスに気が付くと、軽く頭を垂れた。

「これは神官様。このようなところに」

 このあたり一体は、都を囲む城壁の外。寄り添うように作られた農業地帯である。ディミトリスをはじめとした神官は、城壁の中に居るのが常なのだが。

「向こうの家で赤児が生まれました故、祝福を。それより、どうされたのですか?」

 農夫は顔をくしゃくしゃに歪めた。身の内の嘆きを顕在化させ、力なく木々のほうを指す。木々は、よく手入れされた果樹だ。林檎の木。枝にまだ青い実をぶら下げている。

 そして、その足下にも、多くの実が転がっている。

「落ちてしまったのでさぁ」

 嘆く声は虚ろだった。ディミトリスも、何も言葉を紡げずにいた。林檎が熟すには、あと一月ほどあったはず。しかし実は、人の手にもがれるのを厭うように地面の上に落ちている。

 あちこちに。いくつもいくつもごろごろと。

「今年の夏は暑かったし、雨も少なかった。心配しとったんですよ。そしたら案の定、この有り様で」

 農夫の溜め息は石のように重い。落ちた実は食すに能わず、売ることができない。彼の生活には大きな打撃。来たる秋冬を思えば、憂いも深いことだろう。

 しかし、ディミトリスは気休めの言葉は吐けなかった。いくら慰めようと、農夫の憂いを断つことはできない。神官らしく祈るにしても、神の加護だけでは糊口は凌げぬ。

「……都に伝えておきましょう」

 何か支援してくれるやも。虚しい言葉を残し、ディミトリスは再び帰途についた。農夫が頭を下げている。しかし期待に沿えぬことを、ディミトリスはすでに悟っていた。

 林檎の落果は、その因の一つに、実の内ばかりが熟れることにあるという。

 まさにこの国を見ているようだ、とディミトリスは思った。


 ヘスペルは神国である。すなわち、現人神によって治められている。皇帝は言うに及ばず、治世を補佐する臣たちも神に連なる者たちである。

 神官は、天神を奉り、神託を受け、儀式を執り行うのを要とするが、神が治る国の体制が故にまつりごとにも携わる。天を読み、暮らしを占った結果が、政に反映される。

 今年の気候の変調は、あらかじめ宮に伝えてあった。果たして官吏たちは、先んじて策を講じたか。

 灰色に積み上げられた石壁の内。白亜の神殿に帰還したディミトリスは、早速上位の神官に農地の被害を伝えた。老いた神官は嘆息し、具申する、とだけ残して踵を返した。背には諦念があった。具申が無駄に終わることを、ディミトリス同様に悟っている。

 倦んだ自身の胸中が煩わしくなったディミトリスは、なにとなしに祭殿へと向かった。柱に囲われた神殿の祭殿。最奥には、左右より聖火に照らされた祭壇がある。一見して石の箱のそれには、側面に彫り物がされていた。かたどるのは、これまた林檎の木。

 天におわす神々は、黄金の林檎を食すという。不老不死の源とされるそれは、神々の治世が永遠とわのものであることを寓意する。故に林檎は、ヘスペルでは好んで用いられる表象モチーフだ。皇帝の冠にも、林檎の花がある。

 祭壇の上には、数本の花が捧げられていた。暑さの所為か、萎びている。捧げ物の少なさ、そして朽ちかけの花が、民の信仰心を示しているように思われた。

 ――そしてそれは、国への期待にも結びつく。

 色褪せた花から目を逸らすと、向こうから一人娘が現れた。艷やかな黒髪を金で簡素にまとめ、滑らかな白の長衣を纏う。楚々とした振る舞いは、神話の妖精のようだった。

 後ろに侍女を控えさせた彼女は、自ら花束を手にしていた。涼やかな眼がこちらを認める。

「ごきげんよう。神官様」

 娘は優雅に腰を折る。ディミトリスも礼に応じた。

「ごきげん麗しゅう、ルリ様。今日も祈りに来られたのですか?」

 花綻ぶように、ルリは笑んだ。

 ディミトリスが道を開けると、ルリは祭壇の前に進み出た。抱えた花を供えようとして、萎びた花に気がついた。ディミトリスは花を片付けようと動くが、先にルリが祭壇の花を除けてしまった。役目を終えた花を労るようにそっと端に寄せ、瑞々しい花で祭壇を飾り立てる。打ち捨てられた祭壇が、蘇ったかのようだった。

 ルリは祭壇前に膝をつき、祈りを捧げはじめた。彼女の背後で侍女もまた祈りはじめる。ディミトリスは棒立ちで彼女を見下ろす。彼女は敬虔な信徒だった。高貴な身なりからも分かるように、貴族――神々の末裔であるのにも関わらず。驕ることなく慈愛に満ち、ひたむきに神への感謝を捧げ、日々の安寧を願う。今の世では信じ難いほどの、純真さ。

 懶惰らんだな貴族たちとは大違いだ。

 ヘスペルが現在の統治体制となってから、ずいぶんと時が流れている。節目節目に騒動はあったが、長い目で見れば太平の世が続いていた。戦はなく、飢饉もなく、大きな犯罪も少ない。民の多くが安穏として、豊かな国。

 だが、それ故に、皆ぬるま湯に浸かることに慣れてしまった。治安が悪くなることのない代わりに、世の中を良くしようという動きもない。ただ目の前の施しを享受するばかり。

 著しいのが、皇帝一族や家臣の貴族たちだ。贅沢に溺れることに夢中で、肝心要の政はおろそかになっている。自らが神の末裔であることを振りかざす一方で、天神への感謝を忘れている。長き世で仕組まれた制度のお陰で、これまでなんとか体裁は保ってきたが――如何に強靭な柱も、手入れを怠れば腐りゆくもの。ゆっくりと、しかし確実に国が傾いてきているのを、ずいぶんと前からディミトリスは感じ取っていた。

 絶望したのも、もう昔のこと。今は諦念だけがある。

 だから、その爛熟した貴族たちの中に、ルリのような人物がいることに愕然としてしまう。ぐずぐずと溶けて崩れてしまいそうな生活の中で、彼女は瑞々しさを保っていた。信仰心など――ひょっとすると、神官の自分よりもあるくらいだ。神国ヘスペルの民のあるべき姿を体現していると言っても過言ではない。

 祈りを終えたルリは、すくりと立ち上がり、身体をこちらに向けた。ディミトリスを見上げると、穏やかな微笑を湛えた美貌が、目を瞬かせる。

「神官様は、今日はお疲れですか?」

 ディミトリスは、顔を覆いたくなる衝動を堪えた。神官は民の相談役。常に余裕を保つべしと教えられてきたというのに、気取られてしまうとは。

 ディミトリスは無表情を努めて口を開いた。

「ええ、そうですね。少し遠くに出たので」

「お勤めですか?」

「新たな命の祝福に」

 ルリは、我がことのように嬉しそうに破顔した。胸の前で両手を組み、天を仰ぐ。

「それは喜ばしいことです。子は国の希望ですもの。どうか健やかに育ちますように」

 それから祈る手を崩し、ふとその顔に陰を落とした。

「これから来る嵐を、無事に乗り越えられれば良いのですけれど……」

「……嵐?」

 ディミトリスは眉を顰めた。贅沢に耽る皇帝や貴族たちに対する民たちの不満の声は、無論ある。しかしそれは、国を覆すほどのものではなかったはずだ。

 ルリは目を伏せた。

「南のクレスト国が、我が国に関心があるようで」

 クレスト国は、ここ十数年で急速に国力を付けてきた国だった。特に武力の面でその成長は著しく、脅威を感じるほどだった。また、ディミトリスたち神官にとっては、〝神を信じない国〟として警戒の対象ともなっている。

「彼の国には、神の威光は効きません。今はまだ好意的に接してくださっていますが、いつ我々に呆れて武力を持ち出してくるか」

 彼の国の使節に対して、この国は尊大に振る舞っているという。クレストは国として年若く、反面ヘスペルは老成している。今はまだ相手が堪えてくれているようだが、いつ掌を返されることやら。

 そして、そのときが来れば、神を恐れぬクレスト国はヘスペルを攻撃することを躊躇わない。

 二人の間に重たい沈黙が落ちた。ひとたび戦となればこの国はどうなるか。それは火を見ずとも明らかだ。

「私に何か、できることがあれば――」

 ルリは嘆息し、口を噤む。貴族として政治に関心を寄せる彼女だが、その意見は自分の父にさえも戯言として一蹴されてしまうとのことだった。

 この国は、自分たちの贅沢を後押しするものしか受け入れない。民の嘆きも、彼女の聡明さにも、一切の関心がない。

 ディミトリスの目に、祭壇に刻まれた林檎の木が映る。

 神の園の黄金の林檎も、実の中心がれれば落ちるのだろうか。

 それとも――嵐のほうが先だろうか。

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黄金林檎の落つる頃 森陰五十鈴 @morisuzu

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