蛍雪のひと

赤羽千秋

第1話

 あなたは、あなたが還暦を迎える日に、今まで治療不可能とされていた難病の治療法の論文を世界的に発表するそうですね。

 テレビで見ました。最近は家に帰ってきませんから、あなたからの報告が途絶えていて寂しいものです。研究に励むのもよろしいですが、体は大事にしてくださいね。

 ところで、その発表会までは私はとても退屈なので、あなたが生まれてからの六十年を、あなたと、あなたの家族の物語を記してみようと思います。

 まずは生まれた日から。


 生まれて直ぐに大泣きしてから、一生分を泣きつくしたかのように、泣かなくなりましたね。お父さんも私もそれが心配で溜まりませんでした。

 執筆作業は二年間完全におやすみして、あなたの育児に力を注ぎました。大変だった日々が懐かしいものです。私たちはリビングよりか書斎で過ごしましたね。

 本を読んで、昼寝しての繰り返しでした。お父さんは仕事が忙しくて帰ってこない日がよく続きました。知らぬ間にあなたはいわゆる「お母さんっ子」になってしまいました。

  幼稚園に入ってからは、あなたは絵本よりも小説を好むようになりました。出版社で働くお父さんの影響でしょうか、それとも、作家の私かしらん。私が新人賞を獲ったころに書いた児童文学を、よく読んでくれました。


 小学校に入学してからは、テストでは満点ばかりをとっていました。どちらも文学に関係するお仕事をしていますから、国語は絶対に満点じゃないといけない、と気負っていないか心配でした。漢字の練習を忘れてテストが八十点だったとき、笑って見せてくれましたね。要らぬ杞憂というやつでした。

 中学校に入学してからは、あなたはより勉強に熱心になりましたね。定期テスト前はよくストレスで頭痛と胃痛に悩まされて大変でしたね。私たちは一度もあなたに勉強しなさい、なんて言ったことありません。出来すぎて少し困っていたくらいですから。高校受験は、よく頑張りました。第一志望校の倍率が三倍で、変えようか、と零したこともありました。あなたの努力の成果が、よく表れました。

 高校に入学してからは、より勉強に真剣に取り組みだしました。一緒に勉強できる友人ができた、と喜んで報告してくれましたね。それからは頭痛も胃痛も無くなって、勉強した気がしない、と呟くこともありました。


 高校一年生の秋、あなたから笑顔が消えました。表情は曇り切ったまま、日々を過ごしていましたね。お父さんは家に帰る日が増えました。けれどあなたは気にしないでいい、と強がりましたね。その心の痛みを、誰も癒すことができませんでした。

 高校二年の学科選択の際、ずっと希望していた文系を辞め、理系に進みました。

 私は、あなたの選択に口は出しませんでした。

 大学受験は高校受験よりも何倍も厳しいものでしたね。あなたは医療の勉強をするために難易度の高い大学を選びました。受験が終わった後、お父さんが亡くなりましたね。過労でした。あなたが大学院まで卒業できるほどのお金は貯めてありました。けれど、バイトを始めてさらに忙しい日々を過ごしていたように見えます。



「何書いてるんだい?」

 旦那は私の手元のノート帳を覗き込みました。

和眞かずまと私たちの六十年ですよ」

「頑張っているようだね」

 今もテレビで紹介されています。大活躍ですね。

「そうですね。でも、ちゃんと休んでほしいものですよ」

「……ところで、君のことが書かれていないじゃないか」


「次のページにでも書いておきますよ」

 完全に忘れてしまっていました。



 あなたが高校一年生の、夏。私は原因不明の難病と診断されました。余命は、数か月。病院でできるだけの治療を受けることになり、家にはいられなくなりました。あなたは、毎日お見舞いに来てくれましたね。満点のテスト、花、果物、いろいろな手土産よりも、あなたが来てくれることが一番の楽しみでした。

 秋。私は、あなたが家に帰ってから、そっと、息を、吸うのを止めました。

 それからは、ずっと、ここであなたを見続けているのです。


 大学生になってからは、毎日私にいろいろなことを話してくれましたね。友人のこと、授業のこと、少し、気になっている子のこと、好きな本のこと……。私が頷いても、あなたには見えないのが残念で溜まりませんでした。



「そろそろ寝よう。夜も遅いし」

 私はノートをそっと机の上に置き、眠りにつきました。


 起きれば、私はあなたが論文を発表する会場に居たのでした。

 取材はもう始まっており、真剣に話す姿が印象的でした。

「この一つの病に、三十年以上かけました」

 ふとあなたと、視線が交わります。気のせいでしょう。

「…………私は母を治したかった。母の本が、好きだったから」

 目が合います。あなたは、微笑んで、私を見つめました。少しの、涙が、零れているのが見えました。



 いまは、こんなにも遠くて、愛おしい。

 わたしの、たいせつな蛍雪の人。

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蛍雪のひと 赤羽千秋 @yu396

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