008

思いなき、おもいを思うわが胸は

閉ざされて、醺生ゆる手匣にこそはさも似たれ

しらけたる脣、乾きし頬

酷薄(の、これな寂莫にほとぶなり……


これやこの、慣れしばかりに耐えもする

さびしさこそはせつなけれ、みずからは

それともしらず、ことように、たまさかに

ながる涙は、人恋(うる涙のそれにもはやあらず……


――中原中也「羊の歌」


   ***


人一人を担ぐことくらい、彼には他愛のないことである。ましてや、自分よりもはるかに小柄で病弱な兄の体ならば。兄を担いで向かう先は、『売地』である。しかしそこは、本来『売地』ではなかったはずだ。おそらくは、陸久にとってはそう見えていただけの。

 勢いよく、『売地』の看板を蹴り飛ばせば、暗雲立ち込めるその場から、あばら家が出てくる。あるいは、ぼろい倉庫と形容したいような……。他人の土地であろうと、そうでなかろうと気にしない。陸久はそのまま、建付けの悪い戸を殴りつけた。ばりばりと、風化した木材が崩れていき、やがて、その奥からは、黒い影が鋭い黄色の眼をこちらに向ける。

 構いやしない。遠慮もなく、むき出しの土を蹴れば、わずかに砂埃が舞い上がった。

「望みのモンだろ、やるよ」

 そういうと、片手で肉と骨と血液が凝縮された塊を床に投げつけた。それはさながら、儀式への生贄をささげるようなものである。雑に描かれた魔法陣にはわずかに届かない。

「どういうつもりかな」

「取引しに来た」

 黄色い衣をまとった男は、いまだに目の前にいる少年が何を目的として自分の兄を生贄に捧げたのだろうと、意図が読めないままにじっと動向を観察している。彼の周りには、うっすらとした旋風が出来上がっていた。

「元々の目的は、俺なんだろ」

「そうだね」

「なら、お前の望み通りにすればいい」

 そう陸久が吐き捨てると、ずかずかと敵の領域に侵入していく。何者かの血で書かれた法陣を、一般人である陸久が解読できるはずもなく、その法陣がいかに危険であるかを一番この場で理解しているのは、その場にいる王だけだ。

「君、言っている意味がわかってるの?」

「灰谷真洋の体じゃ、お前の本来の力を得るには不十分なんだろ。だから、契約者である御園翔真を使って、俺に近づこうとした。……あくまで、偶然にも、俺に適性を見つけてしまったからだ」

 一歩一歩とにじり寄る。そのたびに、人の顔を模した王は、わずかに焦燥を露わにしている。

「どこで俺を見つけた。どこで、俺たちを標的にした。そんなことは今となってはどうでもいいが」

 それは、陸久が明らかに悪意をその懐に忍ばせていることを認知していたからだ。そして、王は気づいてしまうのである。

「君はどうやって、辻村海衣との縁を断ち切った⁉」

 視線を、転がる肉塊に向ける。そこで初めてその肉塊への違和感を覚えた。左手……薬指……が、ない……。王がその事実に気付いたときには、すでに、脳髄に染み渡る激痛を覚えていた。

 この目の前の少年に、ためらいが存在しないことも、一切の善意が存在しないことも明らかであった。そして、王は、慌てて一歩下がる――少年が、短剣を振るってきたからだ。

「きみ、わかってるの? それで、僕を殺せば君は死ぬ! でも僕は死なない! そもそも君らと同じ次元にはいないんだよ!」

「ああ、ああ! わかってるさ!」

 闇をも切り裂く白金のそれは、王の肌をわずかにかすめる。一条司の言う通り、この短剣は悪意を持たねば、ただの鈍らである。では悪意をもったならば? 其の悪意の大きさに応じて、ナイフの切れ味は向上する。悪意をもてば持つほど……。憐れだった子羊は、もはやその影を残さないほどに、成羊となり、もはや救済など必要ないと言わんばかりだ。むしろその鋭い角を、主神に向けるなどと言う真似をするほどに。

「だから殺せる」

 そして、次の瞬間には、王に向けてその短剣を振りかざした。

「やめたほうがいい……これは、僕のためじゃなくって、君のために言っているんだ。そもそもなんで辻村海衣と僕の間に縁が結ばれたと思ってる? 君を助けるためじゃないか。健気で、かわいらしくて、それでいて無力で、素敵なお兄さんだろう。なぜ、そんなお兄さんの意志を、どぶに捨てようとする?」

 王は、そういいながら、慌てて宙に手のひらをかざす。

「やめろよ、あんたにはそんな力残ってないんだろ。知ってるぜ?」

 陸久は、至極淡々と不良少年を諭すような口ぶりで言う。

「だからお前は、兄を殺したいんだろ」

 彼らは、良くも悪くも似た者同士であった。兄弟がいることも、兄弟に愛憎一体の感情を抱いていることも。だから、縁が正しく結ばれてしまった今となっては、陸久の思考は王に理解でき、王の思考は陸久に理解ができる。

「一緒に死のうぜ? 存在すんなら地獄でも、ボイドでも、どこまででも一緒にいってやるよ」

 そこらじゅうに、二人の足跡だけが描かれる。いや、正しくは足跡で書き換えられている。法陣はもはや王の意図したものではなく、陸久の意図したものへと変貌し、その影を残していない。

 陸久がわずかに口を開けば、法陣が極彩色に輝き始め、月光にも負けないほどの眩さを持っていた。舞い上がる風に互いの髪が吹き荒れていく。しかし、あの時とは違って、陸久の体は自由だった。

 風を切り裂くように、確実に、王を追い詰めている。

 王は、とうとうその場で、尻餅をつき、法陣の中で座り込んでしまった!

 決してその隙を逃さず、陸久は、左手で王の首元を絞めるように掴んだ。

「君、そのまんまじゃあ、一人になるよ」

「関係ねえよ」

 ああ、よく言ったものだ。

 と、王はある話を思い出した。

 この世で最も恐ろしいのは、人間である、と。

 どんなテクノロジーでも化け物でもなく、人間が、恐ろしいのだ。人間のように美醜を兼ね備え、その変貌が全く読み取れない生物はどこを探してもいないのだろう。いつ頭のねじが外れるかなんてわからない。そして、一度外れてしまえばすべてのねじが綻んでいく。行く先は、発狂。そして、敵と味方の分別がつかなくなってしまう。だから、本来は王の下僕であるというのに、何のためらいもなく刃を向けられてしまうのだ!

「どうせ、お前も同類だろ?」

 そこに、慈悲は、ない。

「なら、同じじゃねえか」

「僕を殺して、その後どうするの」

「どうせ俺は、お前にとって所詮羊の群れの一匹なんだろ」

 そういうと、陸久は左手に力を込める。もはや鬱血してしまいそうな力加減である。殺せないとわかっていたとしても、意識を落とすことくらい、軽々と出来てしまいそうなほどだ。


「だったらせいぜい呪われてやるよ、あんたに一生――」


 そうして陸久は、目を見開く。ある一点、王の急所に狙いを定めて。

 白金の短剣は、一直線に、ギロチンのごとく、振り下ろされている。


***


 ふと、陸久は考えていた。

 あの『売地』は結局どうなってしまったのだろう。そもそもなかったことになったのか。または、今まで通り普通の人には見えない場所として封印されたのか。黄衣の王は、忽然と姿を消してしまった。本当に死んでしまったのかもしれない。しかし、縁が繋がったままのはずの陸久はなぜ生きているのか。

「……陸久? 元気ないね。また、体調くずした?」

 心配そうに顔を覗き込んでくるのは、海衣しかいない。五体満足な姿で、彼はそこにいる。先ほどまではキッチンカウンターの向かい側にいたはずだが、なぜだろう。それほどまでに考え事に没頭してしまっていたのか、と陸久は我に返った。

「別に」

 目を逸らしたかと思えば、すっとその場から立ち上がってある場所へ行き、部屋の片隅にひっそりと置かれた仏壇へと目を向ける。自分はずっと向き合ってこようとしていなかったが、兄はそうではないらしく、その証拠に埃一つかぶってないL版の写真立てが二つきれいに並べられていた。

「あれから、もうずっとだね」

 海衣が、しんみりと言う。陸久は、それに答えず、静かに自身の額の左へ手を当てた。


「何をしてるの」

 王はあの時、自分の首の真横で……地面に突き刺さった白金の短剣を一瞥して、そう問いかけた。


 鼻腔をくすぐるような、トマトベースのデミグラス、いい香りがしてくる。野菜の旨味がにじみ出ているのだろう。今日はたしか、マトンのシチューであったか。

 中指、人差し指と薬指、親指と小指。そっと合わせてから、手のひらをくっつける。残念ながら俺はあなた方の望むようないい子ちゃんにはなれなかったよ、残念ながら、な。そんなことを両親につぶやくよう、目をそっと閉じて、陸久は祈る。いつの間にか、額を押さえていた手はなくなっていた。

「陸久、ご飯食べよう」

 優しい兄の声が、心地よく、そのまま眠ってしまいたくもなっていた。心が凪いでいる。今なら、たとえ隕石が落ちてきたとしても、一切の動揺なく、逃げも隠れもせず、ただ世界の終わる……世界の行く末をじっと見守ることが出来るだろう。

 憐れな二匹の子羊はカルコサの民としてその魂を星にくくられたまま、二度と水の台地へ踏み入ることはないのだろう。誰か、自分の知らぬ者の手によって、ひっそりと荼毘に付すに違いない。ただし、そのうちの片方には、体の無いままで。

 陸久は、じっと兄の目を見つめる。

 この世の何よりも美しい、善良な人類の目。自分は、その目がたまらなく好きで、いとおしくて、あたたかくて、何よりも守りたいものだと実感する。

「どうしたの?」

「別に」

 この光景もすっかり慣れたものだ。あれからもう、三年近くたつのだから。ずっと二人で生きてきた。これから先、どうなるとしても、自分たちの縁は、決して断ち切れるものではない。それが、血縁、なのだ。

 食卓を、二人で囲む。おいしそうなマトンのシチューが、二つ、ほんのりと湯気を立てて、食べられるのを待っていた。

「いただきます!」

「……いただきます」

 命に、感謝をして。

 スプーンを手に取り、そして一つ肉の塊をすくう。


「何をしてると思う?」

 信じられないものを見るような、王の瞳は、夜の海に浮かぶ、満月のように完璧な形をしていた。

「僕には、君がわからない」

「わからなくていい。アンタに理解されたいとも思っていない」

 ミシミシと骨が折れるほどの力が掛っていた首元から、緩やかにその手が離されていくのを王は、黙って見ていることしかできなかった。


 羊の肉は、噛み応えがある。

 オオカミがその肉を喰むように歯を立てて食いちぎり、臼歯ですりつぶす。その原型がなくなるまで。そうして、食物連鎖の頂点が、人間様であることを知らしめるのだ。とはいえ、それを羊が認識するわけでもない。なぜならば、これはもう死んでいるのだから。生きながらに味わわれるより、死んでから味わわれた方が、きっと羊は幸せだ。


「何がしたいの」

「さあ」

 陸久は、その場から立ち上がり、月明りを背景にして、王を見下した。謀反の象徴、幸福への反故、白金の短剣は、今もなお、彼の手元で輝いている。しかし、そこにはもう、悪意は存在していなかった。


 じっくりと味わっている陸久を見た海衣は、満足そうに柔らかく微笑んだ。

「おいしい?」

「まあ」

「えへへ、良かった!」

 羊は眠り、やがて鍋の中に入れられる。そして、地獄の釜のように、じっくりと茹でられ、煮込まれていく。それは、罪を食べるという行為に近いのかもしれない。そうして羊は、生まれてしまった罪から解放されるのだ。


 そこに、理由なんてなかった。

 陸久は、一切の慈悲だけをもって、王を見下ろす。

「俺は」


 眠る羊は鍋の中、今か今かと解放を待っている。だから食べるのだ、命を。そして、人間は己が罪を蓄積し、贖罪の為に生き、贖罪の為に死ぬ。きっと神々の玩具なのだろう。


「アンタを許す、アンタが俺に与えた慈悲を以て、な」

 その瞬間だけ、陸久に王の目の色が映った。どちらが支配者でどちらが被支配者であるかは、定かではない。もとより、そこに立つ陸久が、本当に辻村陸久である保証は、兄の海衣と神の縁が切れた瞬間から曖昧なのである。

 王は、辻村陸久に許されたのか、それとも辻村陸久を模した自分に許されたのか、判別するすべがなかった。王が理解した事実は、自分は許され、安息を得たという事だけだったのだ。


 おもむろに陸久は手を止め、スプーンを置いた。

 海衣は、自身が食べていた手を止め、心配そうに自らの弟の顔を覗き込む。いつも通りの顔だ。でも、何かが違う気がする。

「変なもの、入ってたりした? ごめんね、気を付けてたつもりなんだけど……。それとも、嫌いなものでも入ってた?」

「別に、何も」

 きっぱりと、何かを断絶するようにして陸久は言う。陸久は静かに面をあげて、目の前で心配そうに、瞳を揺らす兄の姿をとらえた。

「いたって、いつも通りだろ」

 陸久は目を細めて、口元では緩い弧を描いている。海衣は、目を見開き、何かを言いたそうに口をパクパクと動かしたが、出入りする空気に音は乗らず、唇を噛みしめる。

 海衣は、眼鏡の奥にある美しい目を静かに伏せて、一筋の涙を流した。

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眠る羊は鍋の中。 夜明朝子 @yoake-1201

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