007

さるにても、もろに佗しいわが心

夜な夜なは、下宿の室に独りいて

思いなき、思いを思う 単調の

つまし心の連弾よ……


汽車の笛聞こえもくれば

旅おもい、幼き日をばおもうなり

いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず

旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……


――中原中也「羊の歌」


   ***


 思えば、両親は普通の子どもが欲しかっただけなのだろう。よく、母親からは「陸久はずっと元気でいるのよ」と言われ、父親からは「陸久は、頼もしいな。今から大人になるのが楽しみだよ」と言われていた。一度や二度のことではない。幼いころは、両親からの期待がうれしかったものだ。子どもというものは単純である。運動も、勉強も、生活も、誰かの手本になるように、両親の望む子どもでいられるようにと必死にふるまい続けた。

しかし、今となってみれば、生まれつき体が弱く、すぐに喘息を起こしてしまったり、しょっちゅう発熱するような手のかかる兄を持ったことによって、彼らは兄の世話もできる普通の兄弟が欲しいと願ったに違いない。そう思えば、兄と自分の四歳差という年齢は妥当なものだ。

 実際に自分は、わずかに子どもらしい悪さをする程度の男児として育ち、事件が起こるまでは無遅刻無欠席で学生時代を過ごしている。たしかに少しは迷惑をかけたかもしれないが、両親の望んだ〝普通〟であったことに間違いはないだろう。

「俺はもともと一人っ子だからわかんないんだけどさ」

「んだよ」

「どうやったら兄弟をそこまで憎めるの」

 わずかにカーオーディオの音量を下げながら、問いかける。

「海衣くんなんて世間から見たら最高のお兄さんじゃん。いいなあって思うけど?」

「……自分の生まれた理由が、ただ両親から求められたから、だったらそうはならなかったのかもな」

 右手でウィンカーを下におろす。信号は黄色から赤色に代わってしまった。少し待たなくてはならない。

「どういう意味?」

「もともとアイツが、健康に生まれてきていたら、俺は存在しなかったさ」

 そうだ。海衣が普通の男の子として生まれていれば、両親に〝辻村陸久〟は必要ない。

「ようは、仕方なく作った子どもが俺なんだろ」

 一条はそれに対して肯定も否定もしなかった。これは陸久自身の問題であって、同情のような他者の何かが入る必要などない。

「もう、どうでもいい」

 いっそ、死んでしまいたい。

 陸久もわかっている。自分は兄無しじゃ生きられない。まだ成人もしていないし、保護者でもあるからだ。しかし、海衣はそうじゃない。昔こそ自分の助けを必要としていたのかもしれない。いや、海衣ならば自分がいなくとも生きるすべを見つけていたかもしれない。どちらにせよ、もう海衣に杖はいらない。どこへだって歩いて行けてしまう。自分は、兄の生死にこだわっているが、兄はどうだろう? 自分が死んだところで、兄は、一時くらいは悲しむかもしれないが、すぐにでも立ち直って生きていけるはずだ。……実の親が死んだときだってそうだったのだから。

 静かに行われた通夜で、車いすに乗りながら、か弱い手で、しかしながら強い力で、自分の手を握ってきたのを思い出す。ずき、と額の左が痛むような感じがして、手で押さえる。

「……俺も、いろんな人を見てきたけどさ」

 少し長い信号のような気がする。一条はようやく青になった信号を確かに確認して、対向車がきていないことと、歩行者がいないことを確認しながら慣れた手つきで右折する。

「ここまで拗らせてんのは初めて見たよ」

 陸久は、体中の力が抜けて、車窓に体を倒した。疲労の波がやってくる。指一本すら動かせそうになく、微細な車の揺れになされるがままである。

「俺の弟は、本当の弟じゃないんだよね」

 一条は、しんみりと何かを懐かしむかのようにつぶやく。

「彼の本当の兄弟を俺は殺しちゃったんだ。今、その子と兄弟の真似事をしてるのも単なる贖罪にすぎない」

 一時停止の標識に向かって緩やかにスピードを落とし、フットブレーキを踏む。

「だから、ちょっとどころじゃなく君に無礼な態度をとると思うけど我慢してね」

 大きな通りに車は出ていって、間もなくすれば、市街地にある一際大きな公園の駐車場を案内する看板が見えてくる。左ウィンカーを出したのを見るに、目的地はここなのだろう。陸久は、徐々にスローモーションになっていく風景をぼんやりと眺めているだけだった。

 

 すっかり日が落ち始めている公園内。ましてや平日である。わずかに親子ずれや、ウォーキングだのジョギングだの、犬の散歩だのをする高齢者がちらほら見えるぐらいだ。しかし、その中に一際目立つ、黒々とした衣服に全身を包んだ少年が、道端に置かれていたベンチに腰を掛けて、ぷらぷらと足を揺らしていた。

「おい、遅かったな要」

「ごめんて。仕事をしてただけだよ」

「探偵の真似事がおまえの仕事なのか?」

 白く細い骨のような手を滑らかに動かして、黒いフードを脱げばそこには、絹糸のように輝く白銀の髪が風になびかれていた。銀色のまつ毛は、夕日の光を反射させて、ちらちらとしている。その間に覗く金色の月のような眼は、見る者を捉えて離さない。じっくりと品定めするように陸久の姿を見まわして、少年は血の色がほんのりと滲む頬に、冷や汗を一筋流す。

「呪われてる……いや、祝福されてる?」

 ベンチから、飛び立つように立ち上がって、ゆっくりとレンガタイル状の歩道をたどり、陸久の真ん前に立った。すると、彼の目は新月のように黒く変化する。先ほどの満月のような目とは打って変わってしまう。

「……いや、やめよう。君にとってはその悪意だって善意なんだろ」

「は?」

「さくせんかいぎ、しよう。要も、陸久も、あっちの東屋の方に行こう。静かな場所でおはなししたい」

 次の瞬間には元の金色の目に代わる。一条要と同じ色だ。

 少し歩いたところに行けば、L字型に座る場所が用意された東屋が存在している。早く座れよ、と言わんばかりの少年に促されるがまま陸久は、その日陰の中へと入って、腰かけた。一条は、その九十度回転したような場所に座り込む。

「よし。ここなら場所を悟られる隙もない」

 慣れた様子で、一条の右隣に座る少年は、この場にいる誰よりも幼い姿でありながら、この場にいる誰よりも年長者であるようにも感じていた。

「まずは、ちゃんと紹介しないとね。このくそ生意気で落ち着きのないコイツは、一応俺の弟ってことになってる一条司。まあ、細かい経緯は離すと長くなるけど、端的に言うなら普通じゃない男の子ってことになる」

「なんだよ、その紹介。てきとうじゃん。いいけど」

 司と呼ばれた少年は、頬を膨らませている。陸久は、じっと少年を観察しながら、礼は尽くさなければならないと、毅然とした態度で言った。

「辻村陸久。わけあって、こいつと行動をしている協力者だ」

「おー、よろしく」

 要は、勢いよく司の頭をたたき、礼がなっていないとたしなめた。

「なにすんだよ! 実際問題おれのほうが年上だろ!」

「過ごしてきた年齢は、な。知能も精神年齢もその姿相応で、大人になんか一歩も届いていないんだから、つつましくしなよ」

 司は、大人のくせに〝こども〟のおれの力を頼りやがって! と声を上げたが、その行為自体が大人とかけ離れた行為であることを自覚して、静かに引き下がった。

「んで、今やらなきゃいけないことをせいりしなきゃだよな。大まかには二つか。灰谷真洋を見つけることと、〈××××〉を見つけること」

 小さな掌で、指を折りたたんだ。

「いや、さらにいうなら、辻村陸久とその兄貴にかかってしまった祝福を解呪することか」

「大まかに言えば、そうかもね。なんとなかりそう?」

「うーん。ちょっとしんどいかも」

 じっくりと考え込む司は、その目を淡い藤色に染めて、瞬きをする。陸久も、要も、司の発言を待つことしかできないでいた。

「……一つ気になることがある。御園さんって人の話。御園さんには弟がいたはずだろ。結婚して苗字が変わって御園になったけど、その前の名前は、灰谷翔真って名前だ。要、今回の出来事の引き金になってしまったのは、御園翔真って名前じゃないか?」

 一条は、はっとした表情をする。ついていくのが精いっぱいの陸久は、傍観者にでもなった気分で二人の会話を聞くことしかできなかった。

「そうだね、そう、そうだったよ。……御園翔真。辻村海衣くんの担当編集者。弟が自殺未遂をして……? でも、待って。御園翔真の遺書には、弟の元に行くって書いていたんだよ。これじゃ矛盾が起きる」

 司は静かに首を振る。

「それが、勘違い。たぶん、おれの予想がただしいなら、灰谷真洋の中身が違う。御園翔真は、〈××××〉を使って、アルデバランのハリ湖から人ならざる者の人格……いや、神格かな。それを引っ張り出してしまったんだ。思うに、御園翔真が〈××××〉を閲覧したのは、一回どころの話ではないはず」

オレンジと藍色の境目を象徴するような藤色の鮮やかな眼がじっくりと陸久を見つめる。陸久は、すっと目を細めて、司を見つめ返した。

「なんだよ」

「……灰谷真洋の中にいるのは、羊と羊飼いの王、黄色い衣を纏いし王、風を象徴せし王。ハイタの望んだ幸福への導き手。あるいは……名状しがたきもの」

 名状しがたき……。その言葉を耳にした瞬間に、頭蓋骨の周りを這う痛みが陸久を襲う。締め付けられるような痛みは、それ以上を知りたくないと拒んでいるかのようにも思えた。

「〈××××〉は、存在してはいけなかった。数多の芸術家をその狂気へと陥れる〈黄衣の王〉という戯曲が描かれている本を、日本語に翻訳した、いうなれば災害級の特級呪物だよ」

 頭が割れそうなほどの苦痛にさいなまれながらも、唇を噛みしめて、じっとりとした汗をだらだらと流しながら、意識を保とうと必死である。瞬間、弓矢で貫かれたような電流が脳内に程走り、陸久はそうしてようやっと、聞き取ることのできなかったその名前を思い出した。

「ああ、〈慈悲の書〉」

「そう。それは、読んだものを安息の地へいざなう……あるいは黄衣の王の安息地を選別するためのもの。決して、第二部を読んではいけないんだ。読んだら、瞬く間に狂気に魅入られてしまうから。安息地たるものは、読んでも狂気に侵されない。運が悪いことにね」

 司は、深呼吸をする。そして意を決し、陸久に伝える。

「君らは、あまりにも適性がありすぎた。安息地としての適性が」

 安息地になるということは、ひとばしらになることと同義なんだよ。多くの人が黄衣の王の慈悲にすがれるようになる代わりに、一人の人間が犠牲になる。

「正直、おれでも灰谷真洋にはかなわないと思う。次元が全く別物だもん。同じように人ならざる神格としての立場をもっていても、おれじゃあ、黄衣の王には勝てない」

 陸久は、目を伏せる。

 自分は、どうしたいのだろう。どうするべきなのだろう。

 死なばもろともという言葉をもってして、自分は兄の後追いをするのだろうか。

「俺は」

 司も、要も、神妙な顔つきで陸久の言葉を待っている。

 陸久はそこまで言いかけて、ふと口を噤んだ。それは、違うような気がしたからだ。俺はどうなってもいいから、なんて中途半端な自己犠牲精神を貫けば、抜くらしい兄の行動を肯定してしまう。なんとなく、それだけは嫌だった。

 陸久は静かに目を見開き、決意に満ちた眼差しを二人に向ける。

「俺は、どうすればいい」

 目を見開いて、ぽかんと口を開けた要と、逆に満足そうににったりとした笑みを浮かべた要は、待っていたと言わんばかりだった。

「方法がないことも、ない」

 司は、懐から白金の刀身を取り出した。


***


「酒なんて飲むんだな、お前も」

「……だって、飲まなきゃやってられなくなっちゃったんだもん」

 もうすっかり夜が更けたというのに、一切の光も宿らない我が家に戻れば、そこには、ダイニングテーブルに突っ伏しながら、ワイングラスを傾ける兄の姿があった。

「薬は」

「んん……のんだ」

 それを聞くなり、陸久は眉をぴくりとさせて、兄の手からワインボトルを奪い取る。

「えぇ……陸久……かえしてぇ……」

「薬に酒は駄目だろうが」

 全く意識のはっきりする様子の無い兄にできるだけ触れることの内容に、静かに後片付けをする。電気をつけては、起こしてしまうかもしれないと気を使って、窓から差し込む灯りを頼りにする。

「俺ね、ずっとずっと謝りたかったんだ、陸久に」

 朦朧とする意識のまま、海衣は独り言をつぶやいていた。

「お兄ちゃんらしいこと、全然できなくってさぁ……」

 空のワイングラスを手でもて遊びながら、呂律の回っていない状態で、ぽつぽつと言葉遊びをしている。

「あのとき、陸久からお父さんとお母さんを取っちゃった原因が……俺のせいだってわかてても、信じたくなくて……せめてお兄ちゃんとして代わりになれたらって思っててね……」

 ぽたっと、ダイニングテーブルに雫が落ちる。

「ずうっと、ずうっとおれがさぁ、りくのねぇ、じんせぇをめちゃめちゃにしたの、ごめんねって、言いたかったんだぁ……」

 陸久は、一瞬手を止めた。しかしすぐに聞かなかったことにした。

 謝る行為は、そちらのエゴじゃないか、自分はそんなものを一度だって求めたことはない。持っていたゴミ箱に力を込めてしまう。プラスチック製のそれは、いともたやすくヒビが入った。

 ふと、司に言われた言葉を思い出す。


 ――このナイフは、おれが特別に加護を施した、王の心臓を貫くためのものだ。


「これを君に貸してあげるけど。使い方には注意してほしい」

「は? 意味わかんね」

「おれは元々〝悪意〟を集めるたいしつだ。それにおうじてこれを使う時にも、悪意が必要になる。この場合、いいかえるなら〈殺意〉かな」

 司は、人間離れした黒々とした目をこちらに向け、さながら神格のような様で、陸久を見上げていた。年からすれば十代前半といったところだが、そのふるまいは裕に陸久の年齢を超えている。

「そのナイフで、王の安息地たる辻村海衣を殺せ。灰谷真洋が見つからなければ、そうするしかない。ねえ、君はお兄さんと世界とをてんびんにかけられるほど強い心を持ってるの?」

 司は、言う。

 王の心臓と海衣の心臓が今は接続されている状態なのだと。逆に言えば王を殺せば……。それ以上は言わなかった。

「おれは、いろんなことを知ってる。いや、わかってしまう。だからこそ心配になる。君みたいな人間には、殺しはできないだろうって」

「じゃあ、なんで渡した」

 要は、呆れかえった表情で司をたしなめようとしたが、それでも引かず、司は、穏やかな夕日と重なる桃色の眼をもって陸久を見た。

「君なら、もしかしたらそれ以外の方法を思いつくかもしれないと思ったから」


 ――そんなものを、俺が、思いつくはずがない。


 壊れかけのゴミ箱を投げ出し、陸久は、上着の内ポケットから白金の短剣を取り出す。何か、複雑な術のかかっていそうな、数多の装飾の施された鞘を抜けば、そこには、月明りを反射する輝かしい刀身が出てきた。

 今日は良い夜だ。

 人を一人殺すには、十分に劇場的であろう。頭のよい学者たちなら、トロッコ問題をどうやってクリアするんだろう。いや、そこに頭を使うくらいなら、こんな一般人にレバーを持たせないように考えてくれたってよかったじゃないか。政治家にでも握らせていればいいのに。

「この世界は、どこまでいっても理不尽だ。なあ、そう思うだろ、兄貴」

 謝る行為は、こちらのエゴだ。

「……ごめん。俺が生まれたこと自体が、すべての間違いだった」

 彼は今までにないくらい穏やかな笑みを浮かべた。月上りが逆光となっていて、その面構えを海衣は見れていないとしても。ただ、それでも影の喉元を刺そうとする白い刀身が、海衣の目に入る。

「りく?」

 一……二……三……。

 静かに心の中で唱えると、それがどうにも眠りを導く羊を数えているみたいで心地よかった。命の価値は決して平等ではない。親に愛されて育った人もいれば、親に必要とされなかった子だっている。親は子を選べず、子は親を選べない。なら、兄は、弟を選べる。

「どうせ、俺はお前を殺せねえし、かといってお前は俺を殺せねえだろ」

 ぽつりとつぶやいた独り言は、海衣の酔いを醒ますには十分だった。

 心臓が、とくとく……と鳴いている。これは、未練なのだと陸久は理解した。こうしてでもなお、死ぬのが怖いと思ってしまう自分が嫌いだ。

 どちらだっていい、どうでもいい。

 陸久は、そうして悪意を持って自分に刃を向ける。命を断とうと願う殺意には自他は関係がない。

「まっ……」

 海衣は、落ちるようにして椅子から立ちあがり、床を這いつくばり、ようやく体勢というものを取り戻してそして陸久に手を伸ばした。陸久はともかく、海衣は一度たりとも弟に死んでほしいと願ったことはない。自分が死ねば、と思いこそすれ、弟が死ねばといったことは間違ってでも思い浮かばなかった。

 決して器用ではない海衣が咄嗟に取った行動としては正解だった。勢いよく、凪がれるがままに、陸久を押し倒した。それで、海衣は刀身をはじいたはずだったが。たしかに、刀身は、陸久の喉元からは外れた。しかし、陸久は、兄を憐みながら見下して、力なく口角を上げ、鼻で笑った。

「はは……だよなア……あんたならそうすると信じてたさ」

 そして、それでもなお手放せなかった短剣を兄に向けていた。

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