006

私を信頼しきって、安心しきって

かの女の心は密柑の色に

そのやさしさは氾濫するなく、かといって

鹿のように縮かむこともありませんでした

私はすべての用件を忘れ

この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味しました。


――中原中也「羊の歌」


   ***


「灰谷くん? さあ、今日はお休みね。」

 ふと手を止めて、こちらを見上げる、いかにもベテランそうな女性看護師は、不思議そうな表情をする。

「あら、あなた一昨日救急で来た……」

「……どうも」

「こちら、辻村陸久くん。俺は付き添いの一条要っす」

 看護師は、カタカタと忙しそうにナースステーション内で仕事をしていた。いそがしいとはいえ、さすがの対応力で適当ながらも、こちらには応じてくれるようである。

「ああ、そうそう、辻村さんちの弟くん。噂に聞くから知ってるわ。お兄さんは元気かしら」

「今はなんとか」「そう、それはなによりね。彼、昔からよね。知ってるわ。私がこの病院に来た頃には、すでに何回も入退院を繰り返している子だったから」

 そんな子がもう成人してると思うと感慨深いわね、と看護師は楽しそうに微笑む。ということは、自分ともすれ違っているはずなのか、と陸久は考えるが全く記憶にない。

「ご両親のことも聞いていたから心配していたけれど、まあ、こうやって立派な姿を見せてくれるだけでも十分だわね」

 ずき、と痛んだ額の左をとっさに抑える。忘れたいと願い続けていても、傷はなくなってくれない。未だに、陸久に痛みを与え続けている。不幸な事故だった。でも、あれだって、兄さえいなければ……そう浮かびかけて、首を振った。

「灰谷くんとは年頃も似ているから、よくお話していたわ。辻村海衣くん、だったかしら。灰谷くんがすごく明るい子だから。彼ね、昔はもっと鬱々としていたけれど、最近ははつらつに仕事をしてくれているわ」

 憎らしいほどきらきらと輝いた金縁の眼鏡の奥の眼を思い出す。どう考えても、灰谷真洋のあの姿は鬱々とはかけ離れたものだ。

「あの人が…すか」

 たどたどしく陸久がつぶやくと、看護師はそうよ、といって微笑んだ。

「今もそうだけれど、看護師って人手不足なところが多いから。特にこういう大きい病院だと。彼、若いし独り身だったから、あやうく過労死しかけてね」

「過労死?」

「本人も、あの頃はバカでしたよ、なんて言っているくらいだから今度話を聞いてみたらいいんじゃないの? 一度死にかけたのもあってか、そこからは適度に息抜きをしつつも、テキパキ明るく働いている印象ね。たまーに患者さんにだるがらみっていうのかしら。話しかけに言ったりもしているけれど、基本は真面目な好青年よ。ナイチンゲールが現代にいたら、あんな感じなのかしら。彼を求める患者さんも多いの」

 陸久は、あの人が? と疑念を浮かべながら眉間にしわを寄せる。いかにも胡散臭そうで、信じるに値しない。いや、そういう問題ではないのか。看護師というのは、患者にとって医師よりも身近にいるいわば、最後の砦のような存在であるともいえるのだろう。実際に、看護師なしではまともな生活を送れない人もいるわけだ。そんな中で、彼のように明朗で……親身になってくれる慈悲深い看護師は、あがめられるのだろう。

「……そういえば、お兄さんがいたわね、灰谷くん」

「え? そうなんですか?」

「それこそ、あの子が死にかけて病院にやってきたときだからよく覚えているわ。婿入り婚をしたから苗字が違うと言っていたけれど」

 なんか、そういう結婚の話を聞くと、時代だなと思ってしまうわよね。と、はにかみながら看護師は言った。

「そのお兄さんって?」

 積極的に会話を取り持ってくれる一条の言葉に耳を傾けながら、陸久は、呆然と別のことを考えていた。

 ……兄を殺すため、か。

「あら、ごめんなさい! てっきり知っているものだと思って話しちゃったわ。あまり人の個人情報を話すのも良くないわよね。親しい患者さんだと思ってつい……。ごめんなさいね、これはここだけの話で」

 さっきの様子とは打って変わって、焦るあまり、額に冷や汗をにじませた看護師は、もういいだろうと言うようにして、仕事があるからとナースセンターから去ってしまった。

「さて、灰谷真洋にお兄さんがいたのは初耳なんだけど」

 一条は腕を組みながら、じっくりと考え込むように目を伏せる。

「どうすんだよ、これから」

「本当は、お兄さんを探して聞き出してもらうのがいいのかもしれないけど」

「遠回りだな。探してアイツの兄貴が見つかったところで、アイツが見つかったことにはならない」

「そう……なんだよね。どうしたものかな」

 誰が言うのでもなく静かにナースステーションから離れながら、最も大きい受付前に広がる一面の椅子世界のその端に、二人で腰を掛けた。

「そもそも、俺たちに灰谷真洋の兄を知る機会なんてあったのかな」

「ないんじゃねえの」

「そうだよね」

「しかも結婚して苗字が変わってるんじゃ探しようがないだろ。誰なんだよ、そいつ」

 陸久は至極冷静に、丁寧に、何かを一個ずつたどりながら、一条にそう投げかける。一条は、一際大きなため息をついて、だだっ広い病院の天井を仰いだ。

「わっかんないよ、そんなの。本人に聞くぐらいしか」

「だから!」

「それじゃあ本末転倒、でしょ」

 それぐらいわかっている、とうんざりしながら言う一条に、陸久は静かに舌打ちをする。たとえ彼が本当に人ならざるような異形の存在であっても、それが人の姿形を保って、日本という国で生活している以上、簡単に住所は教えてもらえないであろう。むしろ、あそこまで喋ったあの看護師が異常ともいえる。

 ここは、この街一、大きな病院だ。

 日が傾き始めてもうすぐに外来は終了するというのにも関わらず人の往来は絶えず、せわしない。だんだんと目がバグるような感覚がして、陸久は目頭をぎゅっと抑えた。じんわりと潤いが戻るような心地がして、少し心の揺れが収まる。

 結局、自分は何がしたいのだろう。

 兄に死んでほしい、兄に生きていてほしい。

 兄を殺したい、兄を生かしたい。

 兄のために死にたい、兄のために生きたい。

「もう、どうでもいい」

「え?」

「だから、もうどうだっていい。めんどくせえ。ごちゃごちゃ考えんのもだるくなってきた。探偵の真似事はもう」

 そう言いかけて、ふと横の一条に目をやれば、視線の行き先は全く違う所だった。いったい何をみているのかと、その視線の通った道をたどる。

 目を見開く。

 そっと立ち上がる。

 呼吸が止まる。

 そこには、辻村海衣がいる。

 しかしそれは辻村海衣ではない。

 咄嗟に繰り広げられる脳内のやり取りは、さながら濁流の如く彼の頭蓋骨の隅々までに乱れながら行き渡っていく。何か言葉を発せねばならない、しかし、何を発するべきか。兄のものではない眼がふっと陸久を凝視する。そんなふうにこちらを一瞥した海衣を呆然と見ることしかできず、次の瞬間には彼の姿を見失ってしまう。

「まっ……!」

 手を伸ばした。誰に?

 息が詰まって、引き寄せられるようにして椅子に呼び戻される。

 ずき、と古傷が痛むのは、なぜだろう。

「えっ、えっ? 陸久くん?」

 さも大丈夫だと伝えるよう、伸ばしたままに行き先不明となっていた手の、その掌を一条の前に出した。何が起きたのか。それがわかっていないのは、陸久だけではなかった。

「待ってってば!」

 一条の動きは、一歩遅かった。

 気が付いた時には、陸久はその椅子の静止を振り払って海衣の影を追うために走り去ってしまったのである。

 ゆっくりと開くエントランスドアにすらじれったい。陸久は、じっとりとした脂汗をにじませ、勢いよくコンクリートを蹴った。病院を出た先の道路は、左右の道しかない。右に行くか。右を見る。左に行くか。左を見る。

 ぐらぐらと揺れる視界を真下に向けてみれば、そこには見覚えのある杖が置いてある。しかし、杖は右も左を示していなかった。屈んで拾い上げる。存在しない道を指し示すかのように真正面の何もない空き地を指していた。無情な『売地』の文字だけがそこにはあった。

「ちょっと、なにも言わずにいなくなんないでよ。聞いてる?」

「……帰る」

「なにその急展開。どういう経緯でそうなったの?」

 まるで亡霊のよう。一条はそう思った。

 何のための、誰のものかもわからない杖を手に携えて立ちつくしている。もう、頭が爆発してしまいそうでもあるが、それを振り払うようにしてその場から走り出す。周囲の景色がモーションブラーをかけたみたいになる。人が人の形を保てず溶けていく、自宅に向かって一目散だ。

 取り残された一条は、大きなため息を吐いた。

「まじで?」

 とはいえ、行き先は重々承知しているので、なんら問題はない。


***


緩やかなスロープを重たいスニーカーで踏み締めるダン、という強い音が響いく。一歩一歩と向かい、扉の前に立つ。パンツのポケットからシンプルなキーホルダーのみがついている鍵束を取り出して、上下にひとつずつ存在している複雑怪奇な穴に違う形の二本の鍵を差し込んだ。カチッ、カチャッ、という心地の良い音が響いてそして扉は開かれる。くうっ、という少し苦しそうな音がつなぎ目から鳴る。そんなことを気にすることもせずに自身の体を内へと運んでそして、扉を閉じた。

「ただいま」

 返ってこないでほしい。その方が、幾分かマシだ。そう思いながらも兄の声を求めてしまう自分が嫌いだった。くつくつと、何かを煮る音がする。持っていた杖を、傘立ての側において、恐る恐る靴に手を掛ける。するりと抜けた右足に合わせて、左足も脱いで上がる。

「おかえり、陸久」

 ……いつも通りの、優しい優しい兄の声が聞こえてきた。扉で遮られて、少しくぐもってはいるが、そこに確かに存在している。リビングに通じる戸の取っ手を、ゆっくりと降ろし、それをぐっと勢いよく手前に引く。

「お帰り! そろそろ来る頃だろうなって思って、昨日の残りを温めなおしてたんだよ」

 陸久は、キッチンに立つ兄に一瞥して、真っすぐに兄の仕事道具で散らかっているダイニングテ―ブルへと歩む。あの本は、ない。

「どうしたの?」

 この兄は、おそらく、絶対、兄じゃない。それでもこの幻影に縋りたくなってしまう。殺してしまいたい。そのか弱い首を片手て掴んでしまいたい。苦痛に歪んで助けを求めてくるのを見たい。その死にざまを自分だけが間近で見ていたい。幻影ならば、それを許してもらえるのではないかと、よこしまな気持ちが現れた。

お前がいなかったら、俺は幸せだったよ。

「……親が死んだあの日だって、お前さえ死んでくれていたらって思ったさ」

「なんか、変だよ? どうしたの」

「だってそうだよなァ、お前がいなければあの日、外出する必要もなかった。家にさえいれば事故にあうことだってなかっただから」

 海衣は、鳩が豆鉄砲を食ったように、目を見開いた。

「それは、そう、かも、だけど」

 すっと目を細める陸久は、自分よりもはるかに弱く小さい兄を見下した。

「取るに足らない独り言だ。気にすんな」

 海衣は、目に涙を浮かべる。唇は震えて、顔色は悪い。縋りつくように、陸久に近づき、胸元に顔をうずめる。皺が付くほど強く、陸久の服を握りながら、声も上げずに静かに泣いていた。

「それでも、俺は。陸久の、たった一人の家族で、お兄ちゃんなんだよ?」

 せめて、陸久が成人して一人になるまでは守らせて。海衣の、ひねり出したような必死の声でさえ、陸久は鼻で笑って返してしまう。

「どうでもいい。どうせ、俺がいなきゃ生きてさえいられないくせに」

 バシン。

「そうならないために、俺だって頑張ってるんだよ! 俺のことなんかわかってないくせに、勝手なこと言わないでよ!」

 海衣は、自身の弟に初めて手を上げる。開け放たれた窓からは勢いよく風があふれ出し、あたかも水のようにして二人を優しく包み込んだ。一触即発だったその空気を緩和するように。

「陸久はいつもそう。勝手に一人で考えて、勝手に一人で解決しようとする。俺の事はいっつも邪魔者扱い。……わかってるよ、俺が陸久にとって邪魔者なことくらい」

 刺すような視線が海衣に注がれる。頬に広がる紅葉を手で押さえ、陸久は心底兄を軽蔑した。普段はこんなことするような人ではない。喜怒哀楽の怒だけが欠落したような優しすぎる人のはずだ。しかし、それがめずらしいことにここまで感情を爆発させている。

「でもさぁ、でもね、でも……俺は、俺だって、人間だよ。人形じゃないよ。やめてよ、そんな目で見るの」

 レースカーテンが、踊るように舞う。カーテンレールがカチャカチャと音を立てていた。そんな二人だけのダンスホールは、悲哀で満ちてしまっている。

「今は、ただの人形だろ。そこにお前の意志は介在してねぇんだよ」

 すると、陸久は勢いよく海衣の首を掴み、その手に力を込めた。生かさず、殺さず、そのいい塩梅を見極めている。

「言えよ。灰谷真洋に何された」

「はなっ……してぇっ……」

 顔がありとあらゆる汁でいっぱいの海衣を、容赦なく片手で持ち上げる陸久は、半分正気ではない。自我をコントロールできず、人の生死を握っている悦楽を覚えている。

「なあ、このまま殺しちまうまえに言えよ!」

「しら……ないっ……からぁっ……!」

 すると、陸久は舌打ちをした。これ以上、彼を絞めたところで何も情報は得られないのだろうころは自明である。そのまま右手から無情にも力を抜けば、重力に従うがまま海衣は床に落ちた。そして、そんな情けない姿の彼を数秒間だけじっくりと観察し、わずかに口角を上げて、そして下げて、そのままリビングを出ようとした。

「陸久、そのまんまじゃきっと、一人になっちゃうよ」

「どうせ元から一人だろ。なら変わらねぇな」

 陸久が静かに後ろを振り返れは、もう弟の姿すら見れずにうつむき、床にへたり込んでいる海衣の姿がそこにある。

「それとも、お前は一緒に地獄にでも行くつもりか?」

 その返事を待たずして――いや、待っても返事はなかったかもしれないが――重さを携えた足取りで、玄関に向かう。乱雑に靴を履いて飛び出し、家の鍵をかけた。

「そんなにお兄さんが嫌い?」

 玄関を出れば、そこには同情するようにはにかむ一条が立っている。

「お目当てのモンはここにはねぇよ」

「知ってる」

 短いため息を一つ添え、陸久は彼の横を通り過ぎようとした。しかし、そんな彼の服の袖を引っ張り、一条は言う。

「俺の弟なら、きっとなんとかしてくれると思う」

 そうやって視線を一条に移せば、一条は浮かない表情をしていた。

「会ってみない?」

「……勝手にしろ」

「じゃあ、決まり」

 一条はそういうと、乗ってきた車に陸久を誘導する。陸久は、一度だけ、玄関を振り返ったが、その後乱雑ながらもすぐに助手席へと乗り込んだ。一条は、慣れた様子で運転席に座り、そしてエンジンスタートキーを押す。

 震えた体が、車に依るものなのか自分の心臓によるものなのか。陸久は、静かに目を伏せた。

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