005
私は炬燵にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶陽に透きました。
――中原中也「羊の歌」
***
平日午前のファストフード店では、閑古鳥が鳴いている。
ただ一人、窓際の席には陸久が座っている。かといって彼は何を食べるでもなく、一番安いアイスコーヒーのSサイズを置いたまま、考え事をしていた。
陸久は、あの本について知らなければならない。そして、灰谷真洋についても。
あの内臓を引きずり出されるような苦痛と、脳みそをえぐられるような激情を思い出して、つう、と冷や汗が落ちる。自分は確実に灰谷真洋に何かをされた。あれはきっと夢なんかじゃない。夢なわけがない。
「まさか」
思わず言葉が漏れて、陸久は最悪を想像した。
「そのまさか、かもね」
ゆっくりと視線を声が聞こえた方へと移せば、そこには、男が座っていた。平日の午前中。全くもって混んでいないファストフードの一席に、自分の知らない男が座っている。しかも、何かしらの意図をもって、話しかけてきた。
「何か?」
陸久は、男をにらみつけた。しかし、男はやれやれと手をひらりとさせ、口を開いた。
「君、祝福されてしまったね。それも、強大な存在に」
黒い癖っ毛、それから黒い七分丈のカジュアルシャツ、それらを夜空と見立てれば、まるで満月の夜のようにきれいな黄色のループタイをした青年は、にっこりと笑っていた。
「自分勝手な妄想なら、他所でやれよ」
「そうもいかない」
そういうと、男は懐から一枚の、それも小さいカードほどのサイズ、そんな紙切れを取り出して、陸久の目の前に置いた。
「……一条、要」
そこには、桐風社という社名と、ライターという役職名、そして連絡先等々が一通り書かれている。その紙切れに刻まれた文字を、陸久は口に出したのだ。
「始めまして。俺は、一条要。しがない雑誌記者をやっている。表向きはね」
「……表向き?」
存在が怪しいこの者を信用してはならないと、陸久は直観的に思い、きつく睨みつけた。勝手に相席をしては、意味の分からないことを堂々とのたまうこの者をどうやって信用しろというのか。当然の反応である。
「まあ、話くらいは聞いてよ。君のお兄さんとはこれでも顔見知りなんだ」
言われてみれば、兄の描いた絵本を出版しているのは、そのような名前の会社だったか……? しかし、向こうの様子を探るに、ほぼ辻村陸久という辻村海衣の弟だと確信して話しかけている。
「無言は肯定でいいかな。じゃあ、ちょっとだけ俺の話を聞いてもらうよ」
一条要だと思われる男は、そうして、陸久に微笑みかけた。
「実はこの前、俺の所属している会社で、ある物の紛失騒動が起こったんです。ああ、だからなんだって顔をしないで。まだ聞いててよ。その本っていうのが、いわゆる曰く付きの激ヤバな代物だった。だから、でもその本が激ヤバなことを知っているのは、会社でも一部の人間だけ」
陸久は、心底不服そうな顔をしながらも、聞かないわけにもいかないと、無理やりに納得して一条の話を聞く。
「それで」
「本来ならば、俺みたいな一介の社員が触れることのできない代物なわけだけど。上の人間が金庫に何重ものロックを掛けて大切に保管していた本だからさ。」
いやまてよ、本? それも曰く付きの?
この時点で、陸久は頭の中に〈××××〉の名前が浮かぼうとして、消え去ってしまう。
「でも、それがあるとき、一人の編集者の手によって持ち出された」
その本は〈××××〉か? 陸久がそう聞こうとしても、うまく発音が出来ず、魚が餌を求めるように、口をパクパクとさせるだけである。
「どうしたの」
「いや、別に。続けろ」
「ふうん、まあいいか。……続けるよ」
一条は、陸久のわずかに揺れ動く何かを捉えようともせずに、話をつづけた。
「最終的に、その本は行方不明になってしまった。その本を持ち出したのが、ごく普通の、何の能力もない一人の編集者だってことは、監視カメラを見たことによってわかったことなんだけど、桐風社のエンジニアの誇る最強のセキュリティを突破できるとも思えないし、本人も、そんな記憶は一切ないって言う。カウンセラーに見てもらっても、どうにも嘘をついている様子はない。ならば原因は何だと思う、辻村くん」
相変わらず、思ったように動かない口を、どうにか動かしながら、陸久はただ一言、「曰く付き」と答えた。
「そう、やっぱりあれは曰く付きの本だったんだ」
からん、とひしめき合った氷のうち、負けて収縮してしまったものが落ちる音が響く。そして、陸久の首筋には汗がにじみ出でて、すう、と胸元まで垂れていく。心底不快で、ぐっと胸元を抑えつけた。
「単刀直入に言おう。君たちは、あの本に認められ、祝福されてしまったんだ」
「その祝福って、なんだよ」
「〝安息地〟になる資格を得たってことっすね。この安息地というのは、強大なものにとっての魂の拠り所。つまり、君ら兄弟のうち、どちらか一人は、いつか魂ごと乗っ取られて、この星を守るための人柱になる」
陸久は、思う。それは、許されないことだ、と。
あの内臓を食べられるような感覚は、彼によって魂を食べられるような感覚だったのかもしれない。しかし、それにしては、自分は何の異変も感じない。不快感こそあれど、あの時のような苦痛や、魂が啄まれるような違和はないのだ。
「……でも、君じゃないんすね。どうやら」
陸久は立ち上がって、一条の胸倉を勢いよく掴む。
「何が言いたい」
しかし、一条は表情一つ変えずに言う。
「辻村海衣くん」
どくん、と心臓が跳ねる。
「彼はもう、人間じゃない」
聞きたくもない真実……いや……陸久はわかっていた……あの声の正体が、自分を守ろうと、か弱い身体をもってして取引をして……そんな健気な、大切な……まぎれもなく、自分の兄……。
本来、安息地となるべきは自分だった。だが、兄が、身代わりになったのだ。
あの時、彼に送り出された時。彼の目は、注意を引き付けるような黄色に変化していた。いつもと違う、奇妙な色だった。そんな色で、兄のふりをして(いや、あのころはまだ、辻村海衣だったのかもしれない)、あんな声を掛けられては、確信を得るほかない。
そして、ふと考える。
ならばこの怒りは誰にぶつければいい?
「聞いていれば、好き勝手なことをいいやがって……!」
一条を掴む手が、一層強くなって、それにはさすがに苦渋の顔になる。
「待っ、て」
「ああ、ああ、わかってたさ! あいつがもう、普通じゃないってことくらいなあ! わからないわけがないだろ? いつもうざったいぐらい一緒にいるんだからな!」
店のスタッフ、その視線がスポットライトのように二人に注がれる。一条は、額に脂汗を浮かべながら、いかにして陸久に殺されないようにするか、考えを巡らせる。
「陸久く、ん。お願い、だからっ!」
途端、陸久の目には彼のループタイが収まった。
すると、突然、稲妻のごとき電流が陸久の体を駆け巡りバチン、と大きな音を立てたのちに本人も意図も意図しないところで、強引に一条から手を引かなければならなくなって、ふらふらと、椅子に戻った。
「……っはあ。ねえ、まだ話は、終わってないから……。聞いて……」
何が起きたのか。
それは、おそらく当の本人たちでもわかっていない。ただ、一条は、周囲に目をくれ、ニコっと笑って何事もないことを伝えるようなそぶりを見せたのちに、生き場をなくして、テーブルの上に投げ出された陸久の手を掴んだ。
「辻村海衣くんは、まだ助かる。だから、俺に協力して」
そこで初めて、陸久は彼の目を見た。
怪しくも輝く黄金の目は、さながら彼のループタイのようだ。それは注意を促す黄色であり、しかし旅人の行く先を示す月明りのような金の輝きもある。もはや彼の手を逃してしまえば、陸久に成す術はない。
「それは、取引、か?」
「そう、利害の一致からのね……」
苦しみと企みを兼ね備えた歪な笑みを浮かべる一条を、陸久はただじっと品定めした。そして、ようやく決心した。
「俺は」
そうして、一条と目を合わせた。
真っすぐな、そして純粋な目だった。
「灰谷真洋を探したい」
一条は、口角を上げ、楽しそうにその返事をする。
「奇遇っすね。俺もだよ」
***
青白い男が、それ以上縮こまれないだろと言いたくなるほど、きゅっと肩を狭めて、革製の高そうなソファに座っている。目の焦点はあっておらず、対面する二人を一向に見ようとしなかった。
「そ、そそれで、ぼくにどんなご用件で?」
男の頬には、だらだらと汗が垂れている。見るからにもう普通の状態でないことはわかった。ここに、陸久や一条がくる前から彼の上司に当たる者から厳しい叱咤を受けていることは予想に難くない。これ以上、何をむさぼられよう物かと、絶えずその身を震わせているのである。
「いろいろ、聞かせてください。あんたの対応次第で、俺も味方になってあげましょう」
「は、はあ……でも! ぼくは悪くありません!」
瞬間的に目が見開かれ、先ほどまでの怯えた表情とは打って変わって怒りがあらわになる。一刻も早く、彼の脳みそが完全にイカれてしまう前になんとかしなければならないことは、意志疎通しなくとも、二人が瞬時に理解している。
「……なるべくはやく精神科を受診することを勧めるよ」
「おかしいのはあんた達だろう!」
「わかった、わかった。だったら、君は正しいし、、君だけが正しい。おかしい俺たちに正しいことを教えてほしいんだ」
一条もなかなか苦戦しながらではあったが、息も絶え絶え、ようやっとのことで男は平常を取り戻したようにぽつぽつと話し始めた。
「もともとは、ええと、辻村海衣さんはご存じですよね。あの、絵本作家の方です。穏やかでやさしい人だったと記憶しています」
ぴく、と陸久の眉が動く。しかし、彼は、唇を噛みながら何かを言い出してしまいそうなのを抑え込んで、耳を傾けた。
「その方の担当の……御園さんという人から、僕に探してほしい本があるとお願いされたんです。僕は、漫画の方の担当なので、あんまり接点はないのですが、御園さんも元は漫画の方なので……先輩にあたります」
「その、御園さんは、アンタになんて?」
「アンブローズ・ビアスの『羊飼いハイタ』という話が収められた書物があったはずだから探してほしい、と頼まれました」
普段全く読書などしない陸久はもちろんのこと、本にゆかりのある一条でさえその名前を聞いて思いつく本は無かった。しかし、なぜそもそも御園という担当編集者がその本を探していたのか。一番知りたいのはそこである。
「わかりません。ですがおそらくは辻村さんに、資料として提供したかったのでは?」
「まあ、編集者が作家に本を勧める理由なんてそんなもんっすよね」
男は、つう……と冷や汗を流し、それをハンドタオルでぬぐい取る。
「そこから僕は、社内保管資料のデータベースからその本を探したのですが、どうやっても見つからなくって。諦めて、御園さんに言ったんです。そんな本は存在しませんよって」
「でも、御園さんは諦めなかった」
男は、ゆっくりと、しかし力強く頷く。
「通常のデータベースではなく、裏のデータベースにしかない。僕のIDでは入れないから、権限を最高まで上げておくって。そのころから御園さんの様子が変で、僕は怖かったのですが、恩人でもありますし、断れなかったんです」
なんとなくしかわからないが、なんとなくわかる。どうやら、御園という人物はおおよそハッキングのようなことをして男のIDの権限を社長クラスのものに変更し、裏のデータベースにアクセスできるようにした。その上で検索すると、例の書物の在り処が分かったというわけだろう。
「その後の事は……一条さんも知っている通りです。どうやら僕は無事、〈××××〉を持ち出して、御園さんに渡してしまいました」
「実際にはその本は『羊飼いハイタ』でもなかったってわけか」
「……はい」
辻村は、ぼんやりと記憶の中から本の記憶をたどる。ここまでの流れからして、海衣の見せてきたあの本が例の本であることは間違いない。あれは、やはりあの場にあってはいけないものだったのだ。本来、人の目に触れることなく、存在すら忘れられて、やがて風化していかなければならない。そんなもののはず。しかし、それが一人の男の手によってくるってしまったのだ。
「困ったな」
「は? 何が」
「そうですよね、困りますよね」
一条と男は、共に深刻な面持ちでぐっと黙り込む。
「だから、何が困ったんだよ」
じっと陸久の深い心を狙い撃ちするような鋭い眼光、一条は向ける。
「御園という男は、存在しない」
「正しくは、もう存在しない、です」
二人が何を言っているのか、いまいち理解できない陸久は、眉間にしわを寄せた。
「死んでるってことをいいたいのか」
「そう。残念ながらね」
「つい昨日」
男は、ぶるぶると小刻みに体を震わせ、寒さを抑え込むように体を抱き込みながら、おそるおそる口に出した。
「御園さんは、自殺しました」
「会社の屋上から飛び降りて。遺書にはただ、〝安息の地に向かいます。弟に会いたい。父へ、母へ、先立つ不孝をお許しください。必ず、弟にあいにゆきます〟って書いてあったらしい」
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