004
我が生は恐ろしい嵐のようであった、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
ボードレール
九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭っかかられるもののように
彼女は頸をかしげるのでした
私と話している時に。
――中原中也「羊の歌」
***
遠くで、何かが聞こえる。
多くは騒音でかき消されて、聞き取ることができない。
この感覚、あの時も感じた。泥沼にはまり、もがき苦しむことしかできない。手を伸ばしても、音から段々と遠ざかっていく。いきが、できない。
はやく、はやくはやく、はやく。
早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く。
早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く。
はやく目覚めさせてくれ!
……。
…………。
………………。
規則正しいくけたたましいアラームの音で、はっと目が覚める。勢いよく上体を起こした。その身体中が汗でびっしょりと濡れ、その息は荒い。寝ている最中に息でも止めていたのかと疑ってしまうほどのものだ。いつもの使い慣れた枕と布団を目に止めて、陸久はここが自分の家の、自分の部屋であるということを認識する。
あれは夢であったというのか? 陸久は、漠然と灰谷のことを考える。夢とするにはあまりにも現実的すぎた。彼の声も、彼の容姿も、彼に触れられた感覚も全てを鮮明に覚えている。頭でではない。体がそう覚えているのだ。しかし、であれば自分が家にいることの説明がつかない。まさか海衣が……いや、よっぽど酷いことを言ってしまったのだ。迎えに来ているのには違和感がある。では灰谷が? それもおかしい。彼は確かに「陸久の体を奪おう」としたのだ。であれば、彼の元になくてはならない。
とりあえずは全てを整理する時間が欲しい、陸久はそう思った。雑に布団を跳ね除けて、陸久は自室を出、風呂場の方へと向かうことにした。歩き慣れたフローリングの廊下を、なかなかに足音を立てながら進んでいくと、リビングの方からそれよりも騒々しい足音が聞こえてきた。
ドアが開かれる。陸久は、不意の出来事に驚き、少しばかり後退した。
「陸久! 陸久だよね!? あぁ、よかった……体は? 大丈夫?」
「は……?」
今にも感動で泣き出してしまいそうな海衣は、その手にお玉を握りしめたまま、足音を聞いてやってきたようだった。しかし、陸久はその海衣の態度に違和感しかない。
「お前、昨日の今日でよくそんなふうでいられんな」
「そんなふうって……俺がどれだけ心配したと思ってるの! 急に倒れたかと思えば、すっかり寝落ちしてるし、そんなになるまで疲れてたなんて知らなかったよ……。丸一日は寝込んでたんだからね!」
「なんだよ……意味わかんね」
どこか話が噛み合っていない。そう思わざるを得ない状況だった。陸久は、ますます状況がわからなくなっている。丸一日寝込んだ? いや、昨日は病院にいたはずだ。そしてその後に灰谷と会って……。あれが全て夢だとでもいうのか? そんなはずは……。陸久は、頭を抱える。
「どっか不調なとこはない?」
「ない。心配してくんな」
「うん、いつもの陸久だ。ご飯作って待ってるから、シャワー浴びておいで」
言われなくとも、と言いかけてやめた。陸久はそのまま海衣の前を通り越していき、風呂場へと向かう。
手早く服を脱ぎ散らし、乱雑に洗濯かごへと放り込んだ。……昨日の分はないということは、昨日は海衣が回してくれたということだろう。家のことはやらなくてもいいって言ってるのに何も聞きやしねぇ、陸久はそう心で怒鳴った。大きなため息を一つ添えて、陸久は風呂場へと足を踏み入れる。
レバーハンドルを回せば、シャワーヘッドから大雨が降り注いだ。頭からそれを被る。毛先からも水が滴り落ちる。額や頬、首、胸と下に向かって筋が伸びていく。身体中にまとわりつく汚れが流れていくような感覚に心地よさを覚えた。両手のひらで湯をすくう。そして、顔に当てた。
だんだんと目が冴えてくる。
あまりにも普通すぎる海衣の様子は、どうにもおかしい。昨日……いや、昨日だと思っている出来事が仮に現実なのであれば、海衣があんなにもけろっとしているわけがない。海衣は、ああいう時、何事もなかったように振る舞うのが得意ではないことを陸久は知っている。どこか申し訳なさそうにするか、吃ってしまうか、違和感だらけの笑みをするかしか考えられない。
だとすれば、夢であると片付けた方が、都合がよいような気がした。それは、陸久にとってである。陸久は、もう二度と自分が倒れることはないようにしようと決意し、掛け持ちしているアルバイトについても考え直さなければならないと思った。
「……死んでほしい、か」
レバーハンドルを戻し、陸久は湯を止めた。
そうして夢の中の灰谷の言葉を思い出す。いなくなってほしいと思ったことはあるかもしれないが、死んで欲しいなんて思ったことはないだろう、ないに違いない。ここまで自分を不幸にしてくれたんなら、その責任をとってもらわなくては。勝手に死ぬなんて、そんなの許せるわけがない。額の左を、強く手で押さえつけた。そして陸久は考える。
兄を、兄に当たってしまうのは、そうしなければ俺が生きていけなかったから? 確かに彼はそう言っていた。
「ならどうしろってんだっ……」
勢いよく、風呂場の壁を叩く。激しい音が浴槽内で、飛んではねて。そしてじんわり消えていった。
死んで欲しい、なんて思うはずがない。自分にとって海衣はたった一人の家族で兄だ。両親を失い、海衣まで失ってしまったら自分はどうすればいい? どうしていつも自分は奪われる側なんだ。生まれながらに持った罪? 悪運の溜まり場? 世の中の人間は皆不幸を抱えている? ならそこで幸せそうに笑っている奴らの笑顔を奪ってやりたい。同じ立場になって同じことが言えるのか? どうして自分は奪われる側で、遺される側なんだ……。いっそあの時、自分ではなく、両親が生き残ってくれていたならこんなに苦しまずに済んだだろうに!
誰にも伝えることのない、十五の少年の叫びは今もなお、陸久の中で封じられている。
髪も乾かさないままで、元気のないやつれた表情の陸久がリビングに入ると、海衣は笑顔で出迎えた。
「お、戻ってきた。ご飯もうできてるよ。って、髪! また乾かしてない!」
「いいだろ別に」
「よくありません! 風邪ひいたらどうすんの!」
そういうと、海衣は陸久の横をすり抜けて、ぱたぱたと小走りでリビングから出ていく。
かと思えば、両手に何かを持ったままで厳しい顔つきをしながら戻ってきた。
「はい、そこ座る」
「は?」
「いいから」
こうなってしまった海衣は、もう満足するまで動くことはない。陸久は、眉間にしわを寄せたが、しばらく思案した後に大きくため息を吐き、大人しく座った。すると、軽快なスイッチの音が聞こえ、ともすればまたたくうちにブオーッっという暴風が、彼の頭に降りかかる。優しくか細い手のひらが陸久の頭にかざされて、あたたかい風とかき混ぜるように、さわさわと髪の毛を揺らした。
「成長したんだね、陸久」
「不服か?」
「そんなことないよ。素直にうれしいんだ」
陸久は、すべてを兄にゆだね、ゆっくりと目を閉じた。以前までの心の荒ぶる様をわすれてしまいそうなほど、穏やかなここちになり、陸久は思わず笑みをこぼす。
「だって、俺は陸久がちゃんと大人になってくれれば、それで十分だもん」
「相変わらずのお人よしだな」
海衣は、かちりと持っていたドライヤーのスイッチを切る。そして、ふふ、と優しく笑った。一度離れたはずの、手は、またも優しく陸久の頭に載せられて、今度は雲に触れるように撫でた。いくら大きくなったとはいえ、自分よりもはるかに大きくなったとはいえ、海衣にとって陸久は弟なのだ。
「それで、陸久と一緒にいられるのならそれでもいいよ」
くせのある陸久の髪の毛を、傷めないようにコームで解きほぐしていく。
「……悪かった。迷惑かけただろ」
徐にそうつぶやいたのは。陸久の心が、そちらへ傾いていたからだ。兄を憎みたい、恨みたい。そんな自分を押し殺せるかもしれないと思ったのだ。
「そんなのいいよ、僕は陸久のお兄ちゃんだからね」
少しばかり湿気の残る髪を手癖で均し終えると、海衣は、ずっとだからね、とだけつぶやいてその場から離れる。どうやら、髪を乾かすのに使った道具を片しに言ったようだった。
「勝手に言ってろ」
姿の見えなくなった兄の背中に向けて、一人そうつぶやくと、陸久は、リビングに持ってきたフィーチャーフォンを開き、仕事の連絡を確認する。昨日は、無断で休んでしまった。その謝罪と今日の仕事について相談しなければ、と陸久はメールを打ち込んだ。やっと戻ってきた海衣は、陸久のその姿を見て顔を曇らせる。
「ねぇ、陸久」
「なんだよ」
「やっぱり仕事大変でしょ? 父さん母さんが残してくれた遺産もあるし、俺も最近それなりに稼げるようになったし、陸久を学校に行かせるくらい、できるから……その」
陸久はため息をつきながら視線をあげ、顔を顰めて、海衣の方を見やる。
「言いたいことあるならはっきり言えよ」
海衣は、それでも数秒本当にいうべきかを考えていた。しかし、意を決したように口を開いた。
「……その仕事、やめない?」
その後しばらくの間を無言が襲う。
静かに呼吸する音だけがほんのりと耳に入ってくるばかりだ。陸久は、さてどうしたものかなと目を落とし、返答を考えた。
本当なら、もうこんなことをする必要はないのだろう。兄の言うとおり、これまでと比べて格段に生活の余裕というものが出ている。海衣の陸久を学校に行かせることくらいは決して嘘ではないに違いない。それなのに素直に頷けないのには、陸久にとっての根源的な不安によるものだった。
今の立場が逆転してしまえば。兄は、自分を切り捨てることができるようになる。兄に限ってそんなことはないとは思うがそれでも不安なのだ。自分が生きていることすら許されなくなることが。
自分でも馬鹿なことを言っているとつくづく思う。支配者の立場は許されて、被支配者の立場は許さないなんで虫のいい話があってたまるものか。支配するものは、そういう覚悟を持つべきだ。なのに自分は…………。
「やめて、どうしろっていうつもりだ」
「陸久のやりたいことに真正面から向かってほしい」
やっとこのことで出した陸久のか細いその声をすっぽりと覆ってしまいそうなほどはっきりと海衣はそう言い切った。
「学校行きたくないってんなら行かなくてもいいし、勉強したいってんなら勉強してほしい。まぁ、働きたいっていうならそれも止めないけど……もっとちゃんとしたところで働いて欲しいかな。ともかく、陸久が、俺のためとか抜きに本当にやりたいことを、やってほしいんだよ」
いつも、優しく……悪く言えばおどおどして意気地のない海衣の声と打って変わって、芯のある堂々とした声だった。それに陸久は動揺し、少し鼻で笑った。その瞬間に、海衣の目が潤んだ。勇気を出して言った言葉だったが、陸久にとっては迷惑な話で、聞く価値もない兄の戯言としか思っていないのだと。しかし、そんな海衣の心中に反して、陸久は至極冷静に、淡々とした声で一言。
「わかった」
と、言った。
それを聞いた海衣はすっかり安心しきったようで、すとんの肩の力を抜いた。
「よかった……。えへへ、勇気出して聞いてよかった」
「勇気ってなんだよ」
「だって、また陸久に『関係ない!』って一蹴されたらって思うとちょっと不安だったから」
陸久は、口を開き、そして閉じた。不用意な謝罪は、不毛な罪悪感の押し売りに繋がりかねないものだ。きっと自分が謝れば、海衣はそれに対して謝ってくる。永遠に終わらないループが始まるだろう。
……色々と、整理をしたい。すっかりいつも通りの兄に会ってどうも拍子抜けしてしまったが、確かめなければならないことがある。陸久はそう思った。
「今日は? 何かあるの?」
海衣はもし空いているなら……と、話を続けようとしたが、そうするよりも前に、陸久は毅然として答える。
「今日は、少し出かけてくる」
「用事?」
「まあ」
「そっか」
海衣は、憑き物が落ちたようにすっきりとした顔で、満面の笑みを浮かべる。
「ご飯冷めちゃうね。さあ、食べよっか。……いただきます」
両手を胸の前で合わせて機嫌のいい声でそう言った海衣に対して、陸久は聞こえるか聞こえないかの瀬戸際であろう小さな声で「いただきます」と言った。
兄には、これ以上迷惑を掛けられないし、掛けたくもない。それが、今の陸久の選択だった。だから、陸久はそのまま、つつがなく食事を終えて、家を出る準備を終えるとすぐに玄関へと向かう。
この扉と向き合うのは実に二日ぶりだろうか。彼の体格に見合う大きな靴を履いて、上下の鍵をかちり、かちり、と回す。
「陸久!」
反応する。そして振り返る。
そこには、心配そうな目で、しかしちゃんと送り出してあげたいという慈愛の目で、陸久を一直線に見つめる海衣が立っていた。
「気を付けてね」
陸久は、何も言わずに目を細めた。
「いってらっしゃい」
答えるように、片手をひらりと上げて、そうして太陽の元に一歩踏み出したのである。
そうやって飛び出した玄関の前で、陸久は額の左を手で押さえた。
〝あれは、いつもの兄貴ではない〟。
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