003

われはや孤寂に耐えんとす、

わが腕は既に無用の有に似たり。


汝、疑いとともに見開く眼よ

見開きたるままに暫しは動かぬ眼よ、

ああ、己の外をあまりに信ずる心よ、


それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、

わが裡より去れよかし去れよかし!

われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず


――中原中也「羊の歌」


   ***


「診察の時間です。行きましょうか」

 返事はない。ただ、力なく死人の群れのように、二人は灰谷について行った。

 陸久はそれからのことをあまり覚えていない。形式的で簡単な診察を受けたが、特に問題になる部分はなく、陸久自身に異変がないならば大丈夫だろうという診断が下され、帰宅しても良いことになったことは覚えている。その間、二人は一切の会話をしなかった。まるでプログラミングされたロボットのように形式的で抑揚のない言葉を発するだけ。

 荷物を片し、いざ帰るころには日が落ちかけていた。しかし、時間がたってもなお二人は視線すら交わらない。

 陸久は、気持ち悪い感情を、壺の中に無理やり押し込んで蓋をした。見ないふりをしたのだ。一緒に家に帰る気にもなれない。陸久は、兄が帰る道に足を踏み入れたのを確認してから、その反対の道へと歩いて行く。

 大きなため息をついた。

「めんどくせ……」

 自分でも、自分が何をしたのかわからなかった。いや、わかりたくなかった。

「俺なんか……ほっときゃ……ああ、クソッ!」

 頭痛がする。今はもう何も考えたくなくなって、道端に転がっていたボトルを力任せに足で踏み潰した。炭酸飲料が入っているような少し硬いボトルは、その原型を全くと言ってもいいほどとどめず、歪な凹みが出来上がる。気にすることもなく通り過ぎた陸久の後ろで、誰かがそれを拾った。

「本当に素直じゃなくて可愛い子だねぇ。そこまで拗らせてると感心してしまうよ」

 その人はやれやれと困ったように笑いながら、そのペットボトルを手で弄び始める。

 陸久が後ろを振り返れば、そこにいたのはあの腹立たしい看護師、灰谷だった。先程までは束ねていた髪は下ろされており、左右に一束ずつある黄色いメッシュは、静かに肩に乗せられて、胸の辺りへ向かって伸びていた。黒いタートルネックに黄土色のカーディガンを羽織り、大きなトートバッグを肩から下げている。仕事を終え、帰ろうとしているのだろうことは想像にたやすい。

「んだよ、お前」

「いや? 案の定、君はやらかしたなーって思って。ケンコウテキなセイショウネンのケアに来たんだ」

「要らねえよ」

「とか言って……君の顔、すごいことになってるよ?」

 灰谷は、陸久の眉間を指差した。本人に全く自覚はなかったが、彼の顔は今にも人一人を殺めてしまいそうなほど鋭い眼光を持っている。灰谷は、そんな陸久に漬け込むように、聖母のごとき笑みで語りかけている。

「君のせいでこうなったのに、きっと君は何もしないと思ったから優しいお兄さんが助けに来てあげたんだよ? 感謝してもよくないかなぁ」

「誰が助けられるって? 求めた覚えはねぇよ」

「そういらいらせずに、落ち着きなよ。さて、僕は君が僕のいうことを聞くようになる魔法の言葉を知ってるんだから……ね?」

 灰谷は、目尻を下げ、口角を上に上げながら、静かに陸久の側により、彼の肩に手を置いた。少し背の高い陸久の肩を力に任せてグッと落とさせ、健康的で血色の良い薄い唇を彼の耳へと寄せる。そして呪文のように何かをパクパクと呟いた。かと思えば、何事もなかったかのように離れる。そして、真っ直ぐに優しい目で陸久を見つめてそして口を弓形にしたままで小首を傾げた。

「近くの公園にいこうよ。ジュースくらいは奢ったげる」

 灰谷に対して何か反抗してやろうという気が不思議と起こらない。陸久は、首に手を当てながらまた、大きなため息をついた。

「来ないわけがないよね?」

「……わかった」

「いいこだね、褒めてあげる!」

「いらねぇよ」

「素直じゃないなぁ。でもそこが可愛い」

 灰谷は、そう高らかに声に出しながら陸久を追い越していく。まるで、陸久を導くために、その先頭に立ったのだ。先頭に立ってしまえば、陸久には彼の顔は見えない。

 たとえそこで、普段の穏やかなお兄さんの顔から想像もできないような悪魔のような顔立ちをしていたとしても!

 陸久は、じっと考え事をしながら、灰谷の後ろについていった。

 この人と海衣には、少しばかり似た雰囲気を感じる。言葉を選ばずに表現すれば、彼らは〝おせっかい〟だ。自分だって、自分が嫌いだから十分に理解している。本来、こんなにも人に囲まれていい人生は、送っていないことを。陸久はわかっていた。

 だからこそ、不思議だった。なぜ、兄も、灰谷もそんなに他人に優しくあろうとするのか。一縷の望みがあるのなら、それに縋ってしまっても仕方がないだろう。陸久は、そう思い、灰谷についていくことに決めたのである。

「僕にも兄がいるんだけど」

 ようやくたどりついた公園の片隅、誘われるがままに座ったベンチで、缶コーヒーのプルタブを押し上げると、爽快感のある音が溢れ出した。

「とにかく仲が悪いんだ。喧嘩とかそういうレベルじゃないくらいにね」

 ひんやりとした缶の触感が手のひらに広がっていく。陸久は、この温度が心地よくて、自分の激情しているような感情が抑えられるような気がしている。

「兄と会おうものなら、もはや戦争が起こってしまうよ。……冗談に聞こえる?」

 しかしながら飲もう、という気はあまり起きず、陸久はそのまま注ぎ口の穴……暗闇を見つめている。

「人間関係の不和には、二種類あると僕は思っていてね。一つは、根本的で揺るがせない信念の齟齬。もう一つは、言葉足らず。違いがわかる?」

「……さぁな」

「わかっているくせに。前者は一生経っても、いや生まれ変わっても仲良くなれない。でも後者は違う。もちろんその後に前者へ転ずることもあるかもしれないけど、まだ歩み寄る余地があるんだ」

 そういうと灰谷は、はちみつレモンティーが入ったペットボトルの蓋を回す。緩やかに口元へと持っていき、そして、こっくりと一口飲んだ。

「兄さんと僕は前者だった。自分の信念の柱が決して揺るがないところだけは兄弟らしかったのかもしれないね。どう思う?」

「お前の家庭事情になんか興味ねぇな」

「そう……?」

「他所は他所だろ」

 灰谷は、陸久の言葉にくすりと笑い、優しく、そうだねと呟いた。陸久は、彼が何を言わんとするかもわからないまま、彼が何を言い出すのかと心穏やかではないまま、聞き流している。

「本当は、僕だって家族みんなで仲良く過ごしていたいって思ってるのに……」

 そういうと、灰谷はそこで俯いた。あまりにも切実なその声に、陸久はわずかながらの感情の揺れを感じている。

「でも、僕はいつか彼を止めなくてはならない。戦争になっても」

 それは、熱のこもった力強い声。

「兄弟喧嘩は喧嘩であるうちに何とかしたほうがいいと思うよ、僕はね」

 転じてふんわりとまろやかに陸久へ呼びかける。灰谷は、本当に心配しているように見える。自分が兄弟と決別してしまったから。せめて辻村兄弟には、と。しかし、陸久は、それでも終始腑に落ちない様子でいた。

「少し気になったんだけど、何が君とお兄さんをあんなふうにしてしまったの?」

 陸久は、口を固く結んだ。

 話したくないというのもあったが、それよりはむしろ自分でもよくわからなくなっていたからだろう。できてしまった玉結びを解くまでは、的確に答えられるような気がしなかった。

「……君のお兄さんとは、入院していた時に何度か話したことがある。そのたびにお兄さん、涙を流しながら話していたよ。——自分がいなくなれたら、きっと陸久を幸せにできるのにってさ」

 陸久は、すっと目を見開いた。しかし、それは灰谷に見られることはない。

「こっちがどんな気持ちで……あぁ、クソ……」

 わかっていない。陸久も、海衣も。自分がどんな気持ちでいるのか、相手がどんな気持ちでいるのか。

「兄らしいこと、何もしてあげられないのが情けない。挙句、君の自由を奪ってしまったって、ずっと、ずーっというんだ。だからきっと自分にできることはやりたいって思って、君の助けになりたいと願ってるのにね。……肝心の弟はこんなんだし。お兄さん、本当にかわいそう!」

 灰谷は、あえて声高に〝かわいそう〟と言った。陸久は、その言葉に反応して怒りが湧き上がってくるのを感じていた。

「かわいそう? そんな安っぽい言葉で他人を語ってくんなよ!z」

「へぇ、じゃあさ。あえて言ってあげようか? お兄さんもかわいそうだけど……」

 ——君も、十分かわいそうだね?

 灰谷は、海衣から聞いていた話と、それからわずかながらに交わした陸久の言葉から彼の心理を的確に捉えていた。陸久が彼の手の内から外れるまでは、灰谷はこれでもかというほどに陸久を追い詰める手段を持っているのだ。

「君は、本来なら年相応に青春を謳歌できるはずだったのに。でも、両親を失って、一人じゃとても生きていけないようなか弱い兄だけが残って、自分の欲望を押し殺して、兄に尽くしている。学校も満足に選べなかったんだろ。ああ、本当に健気で、不幸で……かわいそうだ!」

 すると、陸久は灰谷の胸ぐらを掴んだ。持っていた缶は虚しくも土の上へと落ちていき、そのから泥水を流している。陸久は殺気に満ち満ちた目をしたままに、右手に力を込める。

「暴力じゃ何も解決しないよ?」

「勝手に、憐んでくんな。どうせ他人事としか思ってないくせに、安易に踏み込んでくんなよ!」

「よく言うね。他人に踏み込まれるのは、君が踏み込む余地を作ってるからだろ」

 心臓が激しく脈を打つ。頭に血がのぼる。今この状態で何かを考えたとしてそれは冷静なものでは決してないのだ! 灰谷は、そんな陸久の動揺を楽しんでいた。

 なんて不器用でかわいそうな兄弟。他人ではなく当事者たちが足を踏み込めば、もう少し寄り添うことができたら! 君らがすれ違っていくことなんてなかったはずなのにね? 

 そう歌うように声を出しながら、灰谷は目尻を下げる。

「どうして、素直に、『お兄ちゃんには生きててほしいんだ、幸せになってほしいんだ』って言えないのかな? 君は、この世にある不条理に呑み込まれて君のことを支配する憎しみ、悲しみ、怒り……それら負の感情をどこかに発散することができず、『これもそれもお兄ちゃんがいたせい!』って八つ当たりしている。そのくせに、君は兄を生きる意味に据えている。おかしな話しだよねぇ? でも、理解できないこともないよ? 君はその負の感情を兄に向けて発散しなければきっと耐えられていなかっただろう! 今にでも死んでいたに違いない!」

 灰谷の言葉は止まることを知らない。休む間もなくまくしたて、陸久の深淵に触れようとする。

「なんてかわいそうな子なのだろうねぇ、陸久? 僕は、そんな君を文字通り〝解放〟してあげたいよ!」

 頭が、痛い。

 吐き気がする。

 まただ、またあの気持ち悪さだ。

 何かが這い出ようとする。吐き出したくてならない。怖い。

 陸久はこれを恐れている。

「今は……どんな気分? あんなに冷たく突き放して突き放されて、また突き放したお兄さんのことをまだ考えてるの? でも残念。もう手遅れじゃない? 君はもう孤独だよ。群れから逸れて迷子になった子羊だ! あとは、殺されて、解体されて、売られて、買われて、煮込んで……食べられるだけ。どうしようもないねぇ? これが、覆水盆に返らず、だよ? あはははっ!」

 陸久は、そこで初めて気づく。

 はなからこの人は、どんな手を使ってでも自分を堕とすのが目的だったと言うことを! 相談、教育、恐喝は手段でしかない。しかし、腑に落ちない。なぜ彼は、自分を選んだというのか! これまで幾度となく兄の付き添いに来ても、彼を見たことなど一度もない。今日が初対面だった。兄の話だけで自分を見たとでも言うのだろうか?

 陸久は自分の抱えている複雑怪奇な心が具体化され、理解できると同時に、多くの恐怖をその胸の内に抱え込む。

「僕の兄はね、二度と取り返しのつかないことをした罪を償わせるために酷く冷たい環境で昏睡させられている。でも、それは懸命な判断だと思わない? あいつなんか、一生眠って……いや、いっそ死んでくれたらいいのに!」

 灰谷から滲み出るのは、狂気と形容するほかない。息が苦しい。酸素が肺で困っている。意識が朦朧とする。怖い、怖い怖い、怖い怖い怖い怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い! 陸久は、ずるりと足を引きずりながら後ろに下がろうとする。しかし動けない? なぜだ!

 陸久が正常な思考ができなくなるほど、灰谷の饒舌は加速していく。

「兄は、非常に厳格で自分が正しいと信じたらそれはこの世の真理であるかのように扱ってしまう愚か者なんだ。つまり対話の余地もない。自分中心に世界が回ってるって思っている。でも、それは違うだろう? 信じて、信じられて、言葉を交わして、止揚し、さらなる高みを目指す。これが世界のあるべき姿じゃない?」

「ご大層な、空想論的思考を聞かされて、なんて、答えて欲しいんだよっ……! ふざけてんのかっ……!」

「なわけないでしょ」

 突如として二人の周囲を風が取り囲む。灰谷の顔は光が明るければ明るいほどに

 さながら竜巻のよう。その内側に二人は囚われた。陸久の前髪が風に吹かれ、その下からは昔の古傷が除く。寒さが傷に染みているようだった。黒髪と黄色いアッシュがあたかもクラゲであるかのように揺れている灰谷は、堂々たる威厳を持ってそう言い放った。

「いいかい、陸久? 僕はね」

 これは、諭しているのではない。そんな生やさしい程度ではないのだ。

「兄を殺すための、この地球上における安息の地を求めている! 兄が眠りから覚めたその時に、この美しい星を守るために、この地球から兄のかけらも残さないほどに、兄を信仰している全てのものを、全て全て全て全て全て消し去ってやる! そのために……僕は人々に〈慈悲の書〉を書かせた。僕の安息の地の選別のためだ……。わかる? わからないよねぇ! だから……答えを教えてあげよう!」

 陸久は、動けない、と思った。体の自由が効かない。全身を何かで縛られてしまっているような心地がする。頭では逃げなくてはならないとわかっていても、体がそれに反応してくれない。

「君は、君たち兄弟は〈慈悲の書〉に出会ってしまった! 触れてしまった! 可哀想な子羊たちよ! 〈慈悲の書〉に気に入られ、そして魅入られている君たちならばきっと良い安息の地となってくれるであろう!」

 高らかに声をあげながら、灰谷は陸久の左手をとり、その甲に静かなる口付けをする。そして血管をなぞるようにして腕に指を這わせ、喉を、刺した。

「だから……君の体をもらうね? 陸久」

 瞬間の出来事だった。風をきる轟音が耳を支配し、それ以上の情報を得ることは許されない。 

 左の二の腕を思い切り強く握られ、灰谷は白い歯と薄い桃色の唇を持つその口で噛みつくように口づけをした。なにか、内臓を喰まれた。いや、なにかを吹き込まれた。陸久は、そう感じた。頭に血がのぼらなくなってゆく。先ほどまでの頭痛すら感じさせてくれない。身体中の力という力が失われていくのを感じた。生命が吸い取られる感覚というのは、こういうものなのか! もはや痛みや苦しみを感じることもなくなって、宙をたゆたう感覚ばかりがする。

「君もおいで、羊の群れに! ……だからおやすみ」

 張り詰めたピアノ線が、弾けて切れた。

「……陸久」

 陸久は、意識を失いそして……その場に倒れ伏してしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る