002

思惑よ、汝古く暗き気体よ、

わが裡より去れよかし!

われはや単純と静けき呟きと、

とまれ、清楚のほかを希わず。


交際よ、汝陰鬱なる汚濁の許容よ、

更めてわれを目覚ますことなかれ!


――中原中也「羊の歌」


   ***


泥に足を取られる。そして足を掬われる。もがけばもがくほど深淵へと進むまでの時間が早くなる。だから身を任せてみた。体の力が抜けていく。いや、身体中の水分が消えていく。口の端を伝って流れてくる、泥水だ。口が潤いながら乾いてゆき、ごほっ、と咳き込んだ。しかし、戻すことは許されない。だから、絶えず入り込んでいる。血管の中を、臓器の内部を、灰色で染めていく。息ができない! 力を振り絞って手を伸ばそうとする。のしかかるは泥の重さ。水を吸っている。なにも見えなくなる。真っ暗闇だ。助けも呼べない。腕がもう全て埋まってしまいそうなくらいの時だ。ぽた、ぽた、と規則正しくなにかしらの水分が滴る感覚がある。もう残り一ミリ程度も残っていないエネルギーを消費して、最後にその水を固く握りしめた。


 なにも考えられなかった脳が、徐々に黒から白へと変化していく。先ほどまでは全く動かなかった瞼が、ゆっくりだが開けるようになっていた。目を開ける。

 眩しい陽の光が窓から差し込み、思わず目を細めた。

 光に慣れてきた頃、目を開く。そこには、白い天井が一面に広がっていた。ふと右上の方を見やれば、点滴がぽた、ぽた、と規則正しく落ちている。チューブを目で辿れば、そこには自分の腕があった。どうやらあれは自分に繋がれているようだ、と陸久は思った。

 まだ完全に意識が目覚めているわけでもないのに、陸久は起き上がる。そして、自分の家のものではないベッドを降りようとした。家に帰らなければ、ならない。兄を一人にするわけにはいけない。今は調子が良いと言っていても、いつ彼の喘息が悪化するかもわからないのだ。兄は、自分が守らなくてはならない。

 様々なことを考えながら立ちあがろうとした時、突如として大きな声が聞こえた。

「ああっ! 陸久くん、なにをしてるんだい!」

 声に反応して顔を上げた先にいたのは、ちょうどよくこの部屋に入ってきたらしい、黒髪の中にある耳元から見える二束ほど黄色のメッシュの入った長い髪を後ろでまとめあげた薄水色の服をまとった男性——おそらくは看護師だ。彼の大きな金縁の丸眼鏡の中には優しそうで大きな目が見えるが、その顔には焦燥の二文字が浮かんでいる。

「誰だよ、お前」

「ここの病院に勤めている看護師。ついでに君を担当することになった。君のお兄さんに君が脱走しないように見張っていてくれと頼まれたんでね」

「……俺をなんだと思ってんだあのクソ兄貴」

「こら、お兄さんのことをそんなふうに言わない」

 もともと身長も百八十センチ以上あって、ガタイのよい陸久に比べれば、この看護師ははるかにか弱い。陸久が座っていたとしてもその差がわかってしまうほどであった。弱々しいくせに口だけはうるさい看護師を見ていると、そこには海衣の姿が映り込んでくる。陸久は面倒臭さを感じて大きくため息をついた。

「なんだい、その顔は」

「なんでもねぇよ」

「あっそう。なら、患者は患者らしくしてなさい。余計なことを考えず自分の体を治すことが最優先だからね」

「別に俺の体に問題なんかねぇよ。さっさと帰してくれ」

「言うと思った! 君みたいな子は絶対そう言うんだよ。困ったものだな、本当に」

 そういうと、その看護師は勢い任せに陸久をベッドの上へと寝そべらせた。陸久はそれに抵抗しようとしたものの、まだ完全に体力が回復したわけではないようだ。なす術もなくそのままベッドへと戻される。

「離せよ!」

「いやだね。大人しく寝てなさい」

 看護師は、そう言って勢いよく布団を被せた。陸久は予想外の看護師の行動に動揺し、対応することもできないままに眼前を灰色に染めたのである。

「君がちゃんと寝るまで僕は監視しているからね」

「職務怠慢だろ」

「そんな難しい言葉知ってるなんて優秀でちゅね」

「うざ、お前帰れよ」

「お口が悪い子だな。お兄さんの苦労がよくわかる」

 陸久は、布団を顔から避けて、その看護師を強く睨みつける。しかし、看護師にとっては赤子の駄々のようにしか見えないらしい。堂々とベッド脇の丸いすに座ると、足を組んでわざとらしい満面の笑顔を浮かべた。

「お兄さん、朝になるまではずっといたんだけどね。急いで家を出てしまったから、一度家に帰って昼頃にまた来るって言っていたよ。そしたら先生がもう一度君の体を診てくれるから」

「そもそも、なんで俺が病院なんかに」

「覚えてないの? まあ、それもそうか」

「なんだよ、言いたいことあんなら言えよ」

「倒れたんだよ、君。夕ご飯食べている時にね。それで救急車で運ばれてきたってわけ」

「倒れた……?」

 そこで陸久は自分が意識を失う前のことをわずかながらに思い出す。そうだ、食事中にあの名状し難き何物かの話をしていたら急に気分が悪くなったのだ。なぜ? わからない。

 陸久のいぶかしげな顔に、看護師は「呆れたものだね」と冷たく言い放つ。

「どうでもいいけど、せめて検査するまでは大人しくしていること。いいね?」

 陸久が小さく舌打ちをする。

 看護師は、それを見て立ち上がったかと思えば、ぽん、と陸久の頭に手を乗せた。

「こら。大人相手に舌打ちをしない。ましてや君は患者なんだよ」

 陸久は、その手を勢いよく払いのける。

「黙れよ」

 しかし、看護師は全く引く様子もなく、相変わらずの赤子扱いであった。

「僕は天邪鬼だから、そんなこと言われると余計お喋りしたくなっちゃうなぁ」

 陸久は眉間の溝を一層深くする。あまりにも看護師らしくなく、自分に情を送り込んでくるこの人に限りなく不快感を抱かせるこの人が不思議でならない。

「給料泥棒。さっさと失せろよ」

「はいはい。寝ましょうね、坊ちゃん」

「離せよっ! おい!」

 そうしてまたもや陸久はその看護師に無理やりベッドへと押し込められて、布団を被せられる。

「あ、そうそう。僕は灰谷真洋。君の担当の看護師だ。だから、何かあったら呼んでね。すぐ来るから」

「呼ばねえな」

 陸久のそんな発言に、これまで一切の動揺をしないままに変わらず笑顔で看護師――灰谷真洋は陸久のベッドから、そして病室から離れていってしまった。

 陸久は大きくため息をついて、左手で額に手を当てる。心も体も落ち着いてきて、改めて陸久は、兄を案じた。

 陸久と海衣は、三年前の夏に両親を事故で亡くしている。

 細い山道での対向乗用車との衝突事故であったが、車に乗っていた陸久たち四人と、向こうの車の一人、計五人のうち、陸久と海衣の二人以外はその事故で亡くなってしまったのだった。凄惨な事故であった。

 元から体の弱い兄の療養のため、その年は空気のいい場所で過ごそうと、山奥にある祖父母の残した家に向かっている途中のことだった。家主であった祖父母はすでに亡くなっていたが、父や母はいつでも使えるようにと定期的に訪れて手入れしていたようである。そこで、せっかくだから久しぶりにそこで過ごすのも悪くはないだろう、という話が出たのだ。当時中学三年生であった陸久も、落ち着いたところで受験勉強をすることができるし、何より自分よりも頭の良い兄の側にずっといられるのは助かると思っていた。この頃の陸久は、誰よりも兄のことが好きでたまらなかった。一日の大半を兄のそばで過ごすことは、陸久にとって何にも変え難い大切な時間だった。

 その日も、その事故が起こるまでは、家族で楽しく談笑していたのだ。兄は、一日中家か病院で過ごさない身だ。だからこそ、陸久には自由に生きてほしい、そのための勉強ならば頑張ってほしい、と。そして、どこの高校に行こうか、と。

 ある時、向かいから大きな車がやってきた。しかしながら、様子がおかしい。細い山道だ。オレンジ色のセンターラインがそこにはある。しかし、そんなことを気にもせずその車は線を超えてこちらへと向かってきていた。向こうは下り坂だ。勢いも増し、運転をしていた父はできるだけ山側へと進み、ハンドルを切ろうとする。しかし、その努力虚しくも車は運転席へ向かって真っ直ぐに向かってきた。

 けたたましいクラクションの音が聞こえて、何かが握りつぶされたような衝撃の音、ガラスの割れる音、隣に座っていた兄の呻き声が聞こえた。父と、助手席に座る母の声は、聞こえない。エアバックですら受け止めきれないほどの衝撃だったのだろうか。陸久は、飛んできたガラスの破片を額の左上で受けとめてしまう。そして、そこからは何かが滴るのを感じた。これは、血だ。なにが起きたのかわからなかった。陸久は、どくどくどくと流れる血を左手で抑える。息が出来ない。

「とう、さん、かあ、さん……?」

 返事は、ない。

「陸久……陸久……?」

 海衣は、陸久の発した声に反応してか細く、しかし確かな声で呼ぶ。だが陸久は、そこで初めて理解してしまったのだ。

 ああ、あの向かいの車が衝突してきたのだ。自分たちは事故に遭ったのだ。

 自分たちを可愛がり愛して育ててくれた両親はおそらく二度とこの世に戻らない。隣にいる兄は病弱で、そして自分もまだ中学生だ。もう二度と幸せな日々というものには巡り会えない。じゃあこれからどう生きていけばいいのだ。兄は、兄は、自分一人じゃなにも出来ないほどに弱い人間だ。ならば自分しかいないじゃないか。

 陸久は、理解してしまったが故に、混乱する。大きくなってしまったものほど、失った時の代償が大きいのだ。

「なあ、なあ! これ、これどうすんだよ! なあ! なあ!」

 たった二人だけが取り残された車内で、陸久の叫び声が木霊し続ける。

「陸久……落ち着いて……とりあえず……救急車……呼んで……」

 必死の声が、隣から聞こえる。できるだけに平静を保とうとしているのがわかるほどだ。しかし、願い虚しくも陸久の心には響かない。

「あ……うぅ……」

 様々な思考が一気に身体中を駆け巡って警報を鳴らす。陸久は、その体のシグナルに対応できるほど器用でない。

 海衣は、陸久のことをよく知っていた。しかしながら、自分は陸久とは違って動ける状態ではない。海衣は今動かすことのできる左手で、目の先にあった陸の右手首を勢いよく掴んだ。そして、強く、握る。

「陸、久! 携帯、電話、出して!」

「あ……」

 かろうじて話すことができるほどの平常を取り戻した陸久は、自分の右ポケットから携帯を取り出した。震える指で「1」「1」「9」の記号を押す。しばらくのコールののちに、繋がる。陸久の目の焦点は定まらない。どこを見ていても何もわからなくなる。

「……あ、救急? です……。車の事故で……。たぶん、——県の境の山道です……。父と、母と、向かいの運転手さんと兄が…………」

 太鼓を叩く音のように心臓が押されて、そして跳ね戻る。携帯電話を持っている手が震えているのがわかっていた。そんな陸久を守るように海衣はただただ陸久の手を握り続けるばかりだった。

 こうして一日にして全てが崩壊してしまった彼らは、その後の人生をも真っ暗に染めてしまったのである。

 陸久は額の左を押さえながら、大きくため息をついた。あまり上手に回せない頭を回転させながら、今後のことについて漠然と考え始める。おそらく午後になれば兄が迎えに来てくれるのだろう。しかし、此度彼に迷惑かけたことをどのようにして補っていいのかわからない。まずは、あの本について聞かなければならない。自分がなぜあれを見て突然倒れてしまったのだろうか、と考えてみるが一向に答えは出そうになかった。

 陸久は自分を殺してしまいたいような、耐え難い屈辱を感じた。俺が、兄の生殺与奪の権を握っているはずなのに……? 静かにシーツを握りしめる。

 今でこそ調子が良くなった海衣であるが、当時は時折発作を起こしてしまうほどの容体で、かつ事故で片足を負傷してからは歩くことにも不自由するようになってしまった。不幸にも取り残された二人は、その距離をも元に戻すことができないままにすれ違いを繰り返す。

 陸久は、それまで思っていた志望校を変えて通信制の高校に進学し、以降は兄の介護とアルバイトに励んだ。行き場のない恨みはどこにしまえばいい? どこにぶつければいい? 陸久には、それができる相手は兄しかいない。

 依存的で暴力的で、歪な形のその情は、彼らの間にさまざまな障壁を生み出していた。

「ふうん、大人しくできるんじゃん。えらいね」

 午後になり検査の時間が近づくと、先ほどの看護師——灰谷が病室にやってきた。灰谷は、少し寝癖の付いている陸久の頭を梳かすように撫でる。陸久は、舌打ちをして瞬時にその手を振り払った。

「ガキ扱いすんな」

「何言ってんだか。餓鬼でしょう、お前は。少なくとも僕よりね」

 腕に刺さっている点滴にも慣れ始めた頃であったが、灰谷はそれを丁寧に外し始める。色白く細い指が腕を滑る感覚と、針の抜かれる感覚が少し気持ち悪くも感じ、陸久は眉を顰めた。

「まあ、なんか元気になったみたいだし。お兄さんも安心するんじゃない?」

「別に、兄貴は、関係ねーだろ」

「関係ないわけなくない? 家族なんでしょ?」

「家族だからって」

 そこまで言いかけて、陸久は黙った。家族だからって、無条件に情がもらえるなんてそんなことがあるはずがない。ならばなぜ自分は兄を守りたいと思い、なぜ兄が心配してくれると思えるのだろうか。自分の答えに自信がもてない。

「家族だからって……なに?」

「なんでもねぇ。つか、本当にうざいななお前……。話しかけんじゃねえ」

「ま、このくらいクソ生意気な方がしつけ甲斐があるものだよねぇ」

 灰谷は、やれやれといいたげに微笑すると、くるりとベッドを回って先程までしまっていたカーテンを開けた。陽光が差し込み、照らされたシーツからの反射光が目にダイビングしてきた。反射的に目を閉じる。

「ねえ、これはさ。看護師としてではなく、一個人の好奇心として聞いてみるんだけど」

「んだよ」

「君、見るからに頑丈な体質だよね。ちょっとやそっとのことで倒れるとは思えないし、栄養不足だとしてもなんか釈然としないんだ」

 陸久は、逆光で曇る彼の顔を、目を細めながらのぞく。これまでの飄々とした感じとは異なる。威圧感のような何かを感じた。それは、この問いが真剣な問いであることを証明しているのかも、しれない。

 灰谷は、淡々と続ける。

「実は、本当の原因ってのはそれら普通に考えつくこととは違うんじゃないの」

 一本に束ねられている髪から漏れた、それらより少し長い黄色のメッシュが肩から掛けられている。開いていた窓から穏やかな風が差し込んでふんわりと柔らかくその束を揺らす。

「そしてお前は、その原因ってやつに心当たりがあるんじゃないの」

 強く拳を握った。そして陸久は咄嗟に聞き返す。

「お前こそ、心当たりがあって俺にそれを聞いてんじゃねえのか」

 灰谷は満足げににったりと笑みを浮かべて、言うねえ、と呟く。くらげのようなしなやかで腕を組み、威風堂々としたふるまいだった。白い病棟に漂う夜の空気が、清涼とした外見を覆い隠すように漂い始めているのかもしれない。

 そんな病室に、ずずず……と何かを引きずるような音が乱入する。

 病室の戸が開く音だった。少し乱れた髪を手櫛で整えながら、大きなトートバッグを抱えているのは、陸久の兄である海衣だった。

「ごめん! ごめん陸久! 待ったよね……って、ど、どうしたの……?」

 入って早々の重たい空気を察知したのか、入ってきた時の勢いの良い声とは正反対の重苦しい声を喉から捻り出していた。そう問いかけられた二人は、うんともすんとも言わず、戸の方へと視線をやる。

「なんでもないよ? 陸久くんが逃げ出さないようにちゃんと見張ってただけだから」

「仕事サボって茶々入れに来ていただけだろクズ看護師」

「こら陸久! そういう言葉遣いはしない!」

 怒っても全くといっていいほど威圧を感じない海衣の幼児を宥める声が、静かな病室で反響する。

「いいんですよ。元気があるみたいで何よりです」

「本当にすみません、灰谷さん」

 海衣は、勢いよく腰を九十度に曲げ、頭を深々と下げる。この様子では、弟がこの人に対しこの短時間であっても迷惑をかけたに違いない、とそう思ったからだった。しかしながら、そんな兄の誠意に反するように、陸久は無視をして窓の方へと目を向けた。

 羊が空で群れをなしている。その側には追いついていくのに精一杯の小さな雲だ。さながら子羊のよう。群れに置いてかれまいと共に風に身をまかせているが、それも時間の問題だ。きっといつかは群れと逸れて、空に滲み、消え失せる運命なのだろう。

「準備ができましたら診察を行いますが、この様子であればすぐに帰れるかと思いますので」

「そうですか! はぁ……よかった」

 雲散霧消。もしかすると、家族のつながりとは案外そういうものなのかもしれない。ふと陸久はそう考える。眉をさらに顰めた。

 飽き飽きするほど光り続ける太陽にいささかの怒りを感じながらその二人の会話を聞き流していると、灰谷は、またも陸久の頭に手をぽんぽんと二回優しく叩いた。

「じゃあ、もう少しだけ我慢するんだよ」

「離せ……よっ……!」

「じゃじゃ馬。まあ、可愛げがあるからいいと思うけど」

「陸久……!」

 海衣のそんな声すら全く聞いていない様子の陸久は、誰にも触れられたくはないのだという強い意志を持って灰谷の手を振り払う。しかし、灰谷はその程度で折れるほどの軟弱な精神はしていなかったのだろう。相変わらずの子ども扱いをし、その様子をのほほんとした様子で見ているだけだった。

 灰谷が、それでは後ほど、と海衣に告げると、白い床を白い靴で踏み締めて足早に病室を出て行った。

 病室に取り残されているのは、陸久と海衣だけだった。四人部屋の小さな空間だったが、そこには運よく二人のほかいないようだ。海衣は、涙が目に滲みそうな顔をして、点滴を外されたばかりの腕に触れた。しかし、陸久はそんな兄の手すら触れることを恐れて、振り払ってしまう。

「陸久っ……!」

「お前は、俺を叱りにでも来たのか? それとも嘲笑いにでも来たのか?」

「なんで、そんなこというんだよ! 俺はっ、ただ陸久が心配で……それにこんなんでも俺、陸久の保護者なんだよ……? いつもは、陸久に迷惑をかけてばっかかもしれないけどさ、でも、でも……」

 俯く海衣に向けられたのは、ひどく冷たい視線だった。

 光一つゆるさないブラックホールのような瞳は、そこに軽蔑や侮辱、諦念などあらゆる負の情をそこに蓄えたままだ。

「お前は自分がどう生きるかだけを考えてりゃいい話だろ。何でそこで俺が出てくんだよ。今更保護者面されたところで、こっちとりゃありがた迷惑だ。あぁ、違ったなぁ……? 俺にいなくなられると困るんだよなぁ……? お前は一人じゃ生きてけないもんなぁ!?」

 海衣の目が、かっ、と見開かれた。何らかのストッパーを失ってしまった陸久は、ニヒルな笑みを浮かべながら、そこに畳み掛けてしまう。

「俺が心配? 自分が心配の間違いだろ、素直になれよ。……この、偽善しっ!」

 言葉が、遮られた。

 どさり、と荷物が落ちる音と共に、陸久は自分が何者かに引っ張られた感触がした。間もなく、陸久は、自分の胸ぐらが海衣に掴まれていることを自覚する。海衣は、俯き、唇を噛み締めてわなわなと震えながら両の手で陸久の胸ぐらを掴んでいたのだ。

「もう、いい……もう、いい!!! ……ねぇ、陸久? そんなに俺のことが嫌いならさぁ……俺のことなんか、見殺しにして自由に生きればいいと思うよ……? 俺とは違って、陸久は昔からずっと自由なんだからさぁ……無理して、嫌な思いしてまで、俺なんかと家族でいる必要、ないんじゃない……?」

 涙ぐんだ震える声だった。

 誰が聞いたところで、これが本心からの言葉ではないことくらい、わかってしまう。しかし、陸久だけは海衣の言葉に対しての動揺を隠せなかった。そんなつもりはなかった、なんて安っぽい言葉を陸久は言えるはずもなく、陸久は、海衣の手を引き剥がして力なく答えた。

「あぁ、あぁ、そうかよ! なら、勝手にさせてもらう! 二度と干渉してくんな!」

 そうして海衣は、完全に口を噤み、剥がされた手は力なく宙を漂う。俯いたままでその場に立ち尽くし、彼はもう、陸久のことを見ようとはしなかった。

 ほどなくして、灰谷がまた病室にやってくる。一言、「なに? お通夜ってやつ?」とだけ呟いたが、全く反応しない二人を理解すると、それ以上は口出ししなかった。

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