眠る羊は鍋の中。

夜明朝子

〈慈悲の書〉の行方

001

死の時には私が仰向かんことを!

この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!

それよ、私は私が感じ得なかったことのために、

罰されて、死は来たるものと思うゆえ。


ああ、その時私の仰向かんことを!

せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!


――中原中也「羊の歌」


   ***


緩やかなスロープを重たいスニーカーで踏み締めるダン、という強い音が響いた。一歩一歩と向かい扉の前に立つ。パンツのポケットからシンプルなキーホルダーのみがついている鍵束を取り出して、上下にひとつずつ存在している複雑怪奇な穴に違う形の二本の鍵を差し込んだ。カチッ、カチャッ、という心地の良い音が響いてそして扉は開かれる。くうっ、という少し苦しそうな音がつなぎ目から鳴る。そんなことを気にすることもせずに自身の体を内へと運んでそして、扉を閉じた。

「ただいま」

 器用なことに、手を使わずして右足で左足の踵を踏みながら足を抜き取った。もう片方は少し乱暴に足を振って、振って、落とす。面倒くさそうに小さくため息をついてそれらを拾い整えて下駄箱へと仕舞い込む。玄関で立ち尽くしている。車椅子さえ余裕で置くことのできる広い玄関に、背が高く筋骨隆々な男はオーバーサイズのパーカーのフードに手をかけて強くにぎる。普段から鋭いその目をさらに細めて、そして辻村陸久は、わずかに違和感を覚えた。

 おかしい、何かがおかしい。

「……ただいま」

 いつもより、少し大きな声でもう一度言った。しかし、返事は帰ってこない。家がしん、と静まり返ってそして誰もいないみたいだ。いや、わずかにリビングの方からは音がする。水の流れる音がする。気がついていないだけかもしれない、陸久はそう思った。

 いつもならどんなことをしていても、いくらしなくていいと言っても、仕事中でも「おかえり」と声をかけてくる同居人の返事がない。が、しかしそういう日もあるのかもしれない。

 廊下の道を辿ってリビングの戸を開ける。途端、ふんわりと優しいベシャメルソースの良い匂いと、クツクツ……それが煮立つ音がする。キッチンへと視線を向ける。そこには、心地良さそうに少し音に違和感のある鼻歌を歌いながら少し大きい鍋を混ぜている同居人がいる。

「おい、兄貴」

「えっ、あっ、お、おかえり! 陸久!」

 陸久が低い声でそう声をかけると、同居人つまり陸久の兄に当たる者──辻村海衣は、頬を真っ赤に染めて吃った声を出した。

「どうした」

「どうしたって……なにが?」

「体調わるいのかよ」

「ん? 今日は元気、元気だよ! ほら、調子もいいんだ。息苦しくもないしね」

 言葉は普段通りだが。陸久は、彼を案じる。

「薬」

「ちゃんと飲んでるよ。ほら、今日の分。そこにあるでしょ?」

 陸久は、海衣に促されるままにダイニングテーブルへと近づき、そのテーブルの上を見た。確かにそこには昼に飲んだことと、これから夕飯を食べたのちに飲もうとしていることが示されている。しかし、陸久は次の瞬間に少し気持ち悪さを覚えた。胸の辺りに何か植物の蔦のようなものが這う感覚……脳波を均一にしてしまいそうなほどにひどいきいんという耳鳴り……視界が黄色に支配されていく。そして渦巻いていき……爆ぜた。

 陸久はその場でむせて、そしてうずくまった。

「陸久!?」

「来なくていい!」

「でも……!」

「いいっつってんだろ!!」

 陸久は眩む視界でぼんやりと海衣を見る。後悔した。ひどく驚いて、今にも泣きそうな悲しい表情をする。そして困ったように無理矢理に笑った。

「ごめん」

 海衣は、そうして陸久から目を逸らす。陸久は、ぼんやりとしたままに自分がやったことの重大さに気づく。

「……悪い。傷つけるつもりはなかった」

 捻り出すように陸久がそういうと、海衣は、彼を包むように優しく言葉を発した。

「いいよ、大丈夫。 気にしてないから、ね」

 海衣は、カチッとコンロの火を止めて戸棚からスープ皿を取り出す。陸久はしゃがみ込んだまま、そちらをふらふらと揺れる視界の中で海衣を見ていた。

 可愛らしい絵だった。絵柄は、間違いなく海衣のものであるように思う。しかし、悪くいうならば海衣らしくないデザインだ。陸久は、吐きそうになりながらもう一度その姿を思い出そうとする。

 紙の上にいる……ふんわりと風の中を漂っている……黄色い布を纏い……顔は……覆うフードで隠されている……見えなかった……伸びている……丸みを帯びた……足……いや……複数ある……あれは……触手だ……タコのように……自由な……今にもつかんで……締めようとする……? どうして、海衣は何も感じていないんだ……?

 陸久はその上を見ないようにダイニングテーブルを手探り、水彩の滲みある紙を裏返して何かの下へと仕舞い込んだ。

「お腹すいたよね、今日はラム肉のシチューを作ったんだ。食べよう、陸久」

「……ああ」

 テーブルの上に広げられていた仕事道具をひとまとめにして脇に置き、代わりにそこにはラムのシチューとバターロール、色彩豊かなサラダが二人分並べられた。少し気まずくあるのを解きほぐすように海衣は優しい声でいただきます、と言った。陸久は、少し思案する。しかしながら、その後に諦めたように小さな声でいただきます、と呟いた。

「今日は登校日だったんでしょ、陸久。どうだった?」

「どうっていわれても、いつも通りだとしか」

「とかいって実はこれまでより勉強頑張ってるでしょ? お兄ちゃんはしってるんだよ」

「うっせ」

 陸久は、眉間に皺を寄せた。この程度で頑張っていると言われることに対して納得できない。今よりも一層……いや、二倍も三倍も十倍もやらなくてはこれまでの遅れを取り返すことはできないことを自覚している。兄の甘さはたまに傷だ。しかし、そんな陸久の様子を見て海衣は愛おしそうに微笑んだ。陸久はそれを見ないふりする。

「……お前はどうなんだよ。楽しそうだったじゃねえの。鼻歌まで歌って」

「えっ」

 意表を突かれて、はっとする海衣は、持っていたカトラリーを落とす。手の力が抜けて、彼の青白い顔が、真っ赤な花を咲かせたみたいになる。

「それは! 忘れてよ陸久!」

「はっ、動画にでもとっておけばよかったか?」

「恥ずかしいなあ……」

 シャク、とレタスを喰む。青臭い味が胡麻のドレッシングで覆われてマイルドになる。陸久は、ニヒルな笑みを浮かべながら、しかし、いつもより柔らかく声をかける。

「で、なんかあったのか」

 陸久は、少し兄をからかったつもりだった。しかし、そんな彼の皮肉は通じることなく、残念ながら素直にとらえられてしまった。

「あのね、あのね。お兄ちゃんね、出版社さんの方から新作書かないかって言われたんだ。前に出したのがこれまで以上に好評だったみたいで」

 陸久は、もう何回目かもわからない海衣の話に寄り添う。昔から、絵を描くのも、話をするのも好きなやつだった。陸久にとって椅子は退屈な場所であったが、それが病院のベッドのそばにある椅子ならば喜んで座ったものだ。それは彼の才能であり努力であったのだろう。海衣は、職業として絵本作家という名を得ることになる。この前は『おれんじいろのまぬるネコ』という題の絵本を書いていたはずだ。おそらくはそれのことを言っていたのだろう。

「へぇ、よかったんじゃねえの」

 スプーンでラム肉をすくう。口に運んで右の奥歯に挟み、そして噛み潰すのだ。

「うん! それでね、どんな話にしようかなーって思って、担当さんと相談してたんだけど、あんまりいいの思い浮かばなくてさ」

 そこで、陸久は自分の右腕……いや、全身の力が抜けるのを感じた。持っていたスプーンを卓上に落とす。皿の淵にぶつかってガチャン、と鳴った。まさか、と陸久は考えた。

「陸久……?」

「いや、大丈夫だ」

 先ほどの悪夢がよみがえってくるような心地がする。飲み込んだラム肉がそのままの形を成して……いやそれは子羊に戻りながら口から這い出るのかもしれない。ツノのような引っ掛かりを感じる。頭を抱えた。

「陸久、体調悪い?」

「知らん」

「どうして?」

「普段通りに過ごしてたはずだ。けど、帰ってから……調子が……」

 そこで初めて陸久は自分の内部で起こっていることにラベルを貼り付ける。これは、恐怖だ。自分は、なぜかあれを恐れている。本能的な恐怖。深層心理が訴えかけている恐怖。その原因が、海衣の描いた絵であることは言わなかった。言えないのも無理はない。言わないほうが正しいのかもしれない。

「無理してるでしょ。ちゃんと休まなきゃだめだよ」

「お前にだけはいわれたかねーよ、兄貴」

「えー。俺と違って陸久は普通の顔で無理するからなー。信用できないんだよなー」

「……んなことねーわ」

「あるんだよなー! なー!」

「うるせぇ」

 これは、おそらく照れであるが、しかし、海衣はそれをあえて言及はしない。彼は兄だから、陸久のことをよく知っている。海衣は、弟を愛おしく見つめ、そして人参をひとかけらすくって口にはこんだ。

 しばらくの間、換気扇の回る音と、シンクに水滴が落ちる音、そして食器がぶつかる音が聞こえるほど静かになる。日常の一コマ、とりとめのない静寂の時間。それを破ったのは、陸久だった。

「結局、次のはどうなりそうなんだ?」

「次の……? ああ次の!」

 陸久は、慎重に尋ねた。しかし、そんな陸久と相対するように海衣は嬉々として話し始める。

「担当さんからね、面白そうな本を貸してもらったんだ」

「本?」

「そう、ある海外の本の翻訳本らしいんだけど」

 海衣はそういうと、傍に置いた本の山から一冊の本を取り出す。なかなかの厚さである。どうやら一般に売られているような代物ではなく、見た目だけで言えばアンティークだ。

「まだそんなにちゃんと読んでいるわけではないんだけど、これがとても面白くって」

 陸久の頬には静かに冷や汗が流れる。

 この本を読んではいけないような気がしてならなかった。第一に。その本の表紙の模様に吐き気がする。気持ち悪い。第二に。どうして陸久と海衣とでこんなにも反応の差があるのか。気持ち悪い。第三に。担当と呼ばれるその人が海衣にこの本を渡した理由。見当もつかない。気持ち悪い。

「……お前、正気か? それとも俺がおかしいのか?」

「陸久、やっぱり変だよ。もう今日は休もうよ」

 心配そうな表情をし、そして立ち上がった海衣は陸久の元へ行き、額に手を当たる。少し体温が下がっているのかもしれないことが、海衣にはわかった。しかし、陸久はそれを認めようともしない。

「黙れよ! 大丈夫だってんだろ!」

「ねぇ、どうしたの。陸久、陸久……?」

 徐に陸久はその場から立ち上がった。

 いや、立ちあがろうとした。

 しかし、そうやって椅子から体を浮かした時、つま先からふくらはぎをつたい、膝へ、そして腿から上り、腰が砕け、腕は振り下ろされ、肩は落ち、そして頭が崩れる──陸久は食べ残された皿の中身を眺めながら眼前が暗くなっていくのを受け入れ、そしてその場で倒れてしまった! 

 兄が自分を呼んでいる気がする。起きなければならない。兄は守られる存在であって守る存在ではない。自分は、そうして、強くなければならないのだ。しかし、どうしてか体が動いてくれない。ただ、名状し難き何ものかが体の中を侵食して蠢いているような吐き気を感じながら陸久は意識を失った。

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