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市場からの帰り道は、酷く疲れて寒く感じた。店主との会話で出た言葉が案外自分を傷つけているのか、疲労はなかなか抜けてくれない。
覚悟なんか、あるわけが無い。今俺をここに繋ぎ止めている感情の名前は俺自身でも分からないが、覚悟とか使命感とか、そういう綺麗なものではない気がした。
灯台に帰ってから日が沈むにつれて、徐々に頭が締め付けられるような感覚がやってきた。時間が経つと少し動くごとに吐き気も襲ってくるようになる。額に手を当ててみるが、あまり熱のある感じはしない。恐らく、風邪の類いじゃなくて疲労からくる頭痛だろう。先生が灯台から戻ってきた頃、声を掛けた。
「下倉さん、すみません、少し早めに休みます」
「珍しいな、どうかしたのか」
「いえ、特にどうってことは無いのですが、ただ、なんとなく」
「そうか、ゆっくり休め」
脈打つ度に血管がズキズキ痛んで歯切れ悪く答えたが、先生の答えは案外あっさりしていた。
リビングの端の方に布団を敷き横になる。頭痛で眠りにつけるか不安だったが、何も考えず深い呼吸をしていると、意識が段々とぼやけてくる。眠りにつく刹那、煙草の匂いがした気がした。
++
目が開いたとき、部屋の壁の方を向いていた。かなり深い眠りに落ちていたのか時間の感覚がほとんど無く、今が何時なのか分からない。部屋が湿気を帯びたような空気感で暗く沈んでいるから、徐々にまだ夜中であると認識できた。
部屋の壁に微かな光が反射して揺れている。反対側を向いてみると、先生が机の上に蝋燭を灯し本を読んでいた。
「先生……?な、なにしてるんですか」
「もう、起きて大丈夫なのか」
「え?」
「体調が悪そうだったから」
蝋燭の顔が反射する先生の顔は多分俺よりもよっぽど顔色が悪い。それでもこの人は俺のことを心配して、この部屋に居続けたんだろう。
「……もう、大丈夫です。おかげさまで良くなりました」
「俺は何もしていない。……水をここに置いてたから、飲んでからまた休むといい。俺も、もう休む」
先生はそう言うと、少し疲れたような顔をしながら寝室に向かった。
「……イチル、明日体調が戻ってたらでいいから頼みがある。砂浜を見てきてくれないか」
「ええ、いいですよ」
先生が寝室に戻ると、また眠気が戻ってきた。疲れが完全に取れたわけでも無いらしい。俺はもう一度横になると、泥のような深い眠りに落ちていった。
++
ウミネコの鳴き声と、窓から差し込む朝日が顔に当たって目が覚める。昨夜の頭痛はすっかり消え去り、疲れも取れているのか頭がすっきりする。
玄関に向かうと先生の靴はまだそこにあった。まだ寝室にいるんだろう。外に出ると、海からの風が容赦なく体に吹きつけてくる。肌をさすってから砂浜に向かった。灯台の白い外壁はいつものごとく朝日を受けていて、眩しく見えた。
先生がこの砂浜で毎朝骨を探していると知ったときから、俺も時々砂浜を歩いていた。見つかるのは大抵瓶だのロープだのの人工的な漂着物か、流木か貝殻かだった。
いつか骨が見つかれば、先生の顔色も少しは良くなるんじゃ無いかと思いながら砂浜を歩いていた。灯台の逸話を知ってからは、見つけてしまうことを怯えながら歩いていた。散々歩き回って特になにも見つからなかった時、俺は内心ほっとしていた。いずれその時が来てしまうことは分かってはいたが、できるだけ考えないようにしていた。
砂を踏む感触を靴底から感じながら、砂浜をゆっくりと進んでいく。流木と鋭く欠けた貝殻を流し見していき、白っぽいものが見えたら少し時間を掛けて見る。
なにも考えずに10分程砂浜を歩いて、それは突然つま先にコツッと当たった。しゃがみ込み拾い上げてから俺は、一目散に走り出した。
息が乱れ冷たい空気が喉を刺す。冷や汗をかきながら走る俺の手の中に収まっているのは、角が取れて少し滑らかになった、真っ白な喉仏だった。
++
建物の中は静かだった。先生の靴が玄関にあったから、灯台にはいないと思う。玄関を開けてすぐに煙草の匂いがして、俺は先生が煙草を吹かしているところを頭に思い浮かべた。リビングに入って、その想像は俺の願望だったんだと思い知らされた。
先生は椅子に座った状態でそこにいて、左腕が力を失ってだらりと垂れていた。リビングに入り呆然と立ち尽くした数秒の間先生の胸と肩は少しも動かず、事切れているんだと頭が少しずつ理解していってしまう。
「先生……」
返事は無かった。テーブルには灰皿と、その上には火が付けられた煙草が消されずに残っていて、一筋の煙が先生の顔の周りを線香の煙のように漂っている。
右腕はテーブルに乗っていた。その手の中には、オイルライターがあった。俺はしばらく考えた末に先生の手からオイルライターを抜き取って、変わりに喉仏を先生の掌の上に乗せた。一瞬、ほんの一瞬だけ掌が僅かに動いた気がしたが、それきり、もう少しも先生は動かなくなった。
オイルライターにはまだ僅かに先生の体温が残っていて、俺はそれを握りしめて、建物から出て行った。
++
灯台を入ってすぐにある螺旋状の階段をしばらく昇っていく。やがてはしごが現れ、そこを更に昇ると灯室に出た。俺はそのまま床にしゃがみ込む。俺はこれから後始末をしなきゃいけない。先生と奥さんの骨は、かつていた漢方薬局があった町の墓に入れたい。本人達がそう望むかは分からないが、なんとなくその方がいい気がした。それから、あの寝泊まりしていた建物の中にある物も片付けなければならない。先生がいなくなった今、俺があそこに居座り続ける理由はなかった。自分の物を片付けるのは簡単だろうが、はたして先生の生活の跡を俺は無くすことができるだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながらも、今だけはなにもしたくなかった。目の前に広がる海は、今日は凪いでいるように見える。
俯いて視線を下げて、俺はガラス窓のすぐ側に封筒が置かれていることに気付いた。近寄ってみると、封筒の上には重しにするように先生が吸っていた煙草の箱があって、封筒の宛名には俺の名前が書かれている。筆跡は確かに先生のもので、すぐに封筒を開けた。手は震えていた。書かれている文字ははっきりとしていて、これがまだ先生に余力があった頃に書かれた物なんだと分かった。
『イチルへ。
色々世話になった。最期の後始末まで君に任せることになって、それなのに大した礼も出来なくて申し訳ないと思っている。俺が死んだ後、片しやすいよにと物をほとんど持たないようにしていたから、君に渡せる物がないんだ。でも、俺の寝室になけなし程度の金がある。それで、ひとつあることを頼まれてくれないか。
最近、俺には妻以外にも、親しい間柄の人間がいたことを思い出した。その子との関係性はなんというか、弟子というべきか子供というべきか、それとも親友と呼ぶべきか。なんと言えばいいのかは分からないが、とにかく、健やかであって欲しいと思うような子がいたんだ。情けないことに、顔も名前も思い出せない。ずっと前に離れてしまって、今どこにいるのかも分からない。が、俺はあの子がかつて一緒に過ごしたあの漢方薬局にやってくるんじゃないかと思っている。あの子は、今年で20歳になるんだ。それだけは思い出せた。
20歳になったその節目に俺に顔を見せくると、そうであって欲しいと思っている。
イチル、あの子に俺の煙草を渡して欲しい。成人おめでとうと、ただそれだけを伝えて欲しかった。世話になりっぱなしだったのに申し訳ないが、これだけはどうしてもお願いしたい。
それじゃあ、短い間だが、君との生活は悪くなかった。ありがとう』
手紙を読み終わってから、俺はいつの間にか止まっていた呼吸を再開させるまでしばらく時間がかかった。動き出すのにはもっと時間がかかった。
懐からオイルライターを取り出して、煙草の箱から1本取り出す。咥えて火を付けるまでの仕草を、先生がしていたのを思い出しながら、真似るようにやった。煙を吸い込んで、喉を慣れない煙が刺激して、盛大に噎せた。
噎せて涙が出てきて、しばらくの間俺は目を擦り続けた。先生はいつもこんなのを吸っていたのかとぼんやりと考えながら、また煙を吸って噎せて、出てきた涙を拭うために目を擦り続けた。
海は、相変わらず凪いでいた。
祈埼灯台 がらなが @garanaga56
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