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窓から差す朝日が顔面に当たり、眩しくて布団から起き上がった。家の中に俺以外の人の気配があまり感じられない。玄関を見に行ってみると、そこに先生の靴は無く俺の靴だけがポツンとあった。俺が寝ている間に、いつの間にか先生は出掛けていたんだろう。
この灯台に来てから5日になる。灯台のすぐそばに建つこの建物はこじんまりとしていて、とても広々しているとは言えないような大きさだった。リビング、キッチン、寝室がそれぞれかろうじてあるが、どの部屋も余分なスペースは無かった。
広さの面と、あとは先生からしたら知り合って間もない赤の他人と同じ部屋で寝るのはキツいだろうという点から、俺は寝室ではなくリビングで寝泊まりをしている。あまり物を増やさないようにと先生からは言われていたので、俺がここに住むようになってからもほとんど建物の内装は変わらなかった。椅子と布団、あとは少しの調理器具だけがこの建物に増えたぐらいだ。
かつて先生と過ごした漢方薬局は生薬の混ざり合った匂いがしたが、ここは潮の匂いと、先生の吸う煙草の匂いしかしなかった
俺は相変わらず自分の本当の正体を明かさず、買い出しや食事の用意などの先生の身の回りの世話をしていた。身元を明かさないのは、先生の中で俺に関する記憶が無くなっていることが大きかった。例えば今更本当のことを言ったとして、万が一先生に「その8年本当なのか」と疑われでもしたら、いたたまれなくなる。それに、一緒に過ごしているうちに俺のことを思い出してくれるんじゃないかという僅かな望みもあった。
数日ここにいて分かったことなのだが、先生の毎日はほぼルーティン化されている。朝は俺よりも早く起きて、それからどこかに出掛けている。俺が朝食を作り終える頃には戻ってきて、一緒に食べる。それが終わると一旦部屋に戻り、お昼頃にほんの少しだけ食事を摂った後は文庫本と煙草、後はマグカップにお茶らしき物を入れて隣の灯台に行く。この、灯台で過ごす時間が、1日の中で1番長かった。すっかり日が沈んでから帰ってくるのだが、その時の顔色は毎回、あまり良くないように見えた。夕食を食べ終えた後また灯台に行き、程なくして戻ってくると眠りにつく。それが先生の1日だ。
目玉焼きを焼き終え、パンの上に乗せる。太陽が昇り始めて間もないこの時間帯は少し肌寒くて、堪らず湯気が昇るコーヒーに口を付けた。コーヒー冷めても良くないだろうから先生の分はまだ入れてないがマグカップだけはテーブルに用意している。先生のそのマグカップには、底の方に赤茶色のシミがあった。最初それを見たときはまさか水垢じゃないかと思ったが擦っても取れなく、どうやら着色汚れらしかった。このマグカップは毎回、先生が灯台に行くときに持ってく物だからその時に飲んでいるものがこうして汚れで残ってしまったんだろう。毎回同じ物を繰り返し飲んでいるからなのか、底の方のシミは繰り返し洗っても取れなかった。
いつもなら先生が戻ってくるという時間帯なのだが、未だに戻ってきていない。出会ってからの先生の様子というのはどうもぼやっとしたものだからどうも心配だ。どこにいるのかは分からないが、適当に探し回っても見つけられる場所にいるだろうと予測をつけ、靴を履いて玄関を出た。
まずは灯台に足を運ぶ。扉を開けると、そこには上へと昇るのための螺旋状の階段のある空間が広がっていた。先生は灯台で過ごしている時大抵ここにいるらしい。灰皿がポツンと置かれているからそう分かった。
階段を昇っていき、ある程度昇るとはしごが現われる。そこを更に昇ると、ガラス窓に覆われた光源が置かれている部屋に出た。この部屋の名前を『灯室』というのだと先生は言っていた。部屋の中央には海に光を届けるためのレンズが置かれている。
この部屋にも先生はいなかった。そもそもこの部屋にもし先生がいたら、ガラス窓なのだから
外から見てすぐ分かる。それでもここまで昇ってきたのは、ここからなら周囲を見渡せるからだ。
ガラス窓の周りをゆっくり歩いていく。ここに来て5日は経ったが、俺達以外の人を見掛けたことが無い。それほど辺鄙なところにあるからだろう。高い所から見下げてもそれは同じで、この灯台の他に目に付く建物は無くほとんどの景色が海の色だった。注意深く辺りを見回してようやく、灯台から少し離れた場所にある砂浜に、黒い上着を着た成人男性ほどのシルエットが見えた。先生だ。
「……下倉さん、毎朝ここに来ていたんですか」
先生は砂浜に座り込み海を眺めていた。虚ろな目はある一点を見つめているわけでは無く、海全体をただただぼうっと眺めているようだった。
1人の世界に浸かっている先生に遠慮がちに声を掛けると、先生は僅かに目を見開いた。
「行き先を伝えた覚えは無いのだが」
「あそこから見つけました」
「ああ……」
灯台を指さすと、先生が納得したように頷く。少し離れた砂浜から灯台を見ると、辺りの褪せた緑色の木々の中に浮かび上がるように白い外壁があって、余計目立って見える。
「あそこに昇ったのは初めてだったか」
「まあ、はい」
「どうだった。なにか見えたか」
「いえ、特には……、海と、後はここにいる下倉さんしか」
「まあ、そうだよな」
先生は声を低くしそう呟くと、その場から立ち上がりズボンに付いた砂をほろった。
「少しぼーっとしすぎた。戻ろう」
「……下倉さんは毎朝何をしにここに来てるんですか?」
先生はおもむろに、足元に落ちていた流木を拾い上げた。そのまま灯台に向かって歩いて行きながら、砂浜に落ちている漂着物を拾い上げては投げたり、白い貝殻が落ちているといちいちしゃがんで手に取って、少しだけ眺めてからまた砂浜に貝殻を戻す。
「漂流物を見に来ていた。持って帰ったりはしてないが、なかなか沢山流れ着いて来てるぞ」
「沢山、というと」
「最近だと胸に釘を打たれた人形が流れてきた」
先生は表情を変えずにそう言った。勘弁して欲しい。足元にあった海藻がなんだか人の髪の毛のように見えて、思わず避けるようにして歩く。
「その、なんで漂着物を?」
「打ち上げられていないか、見に来ていた」
なにが、と聞こうとしたが聞かない方が良いことに気付いた。だが、先生は水平線を眺めながら言葉を続ける。
「骨だよ」
先生がまたしゃがみ込み、砂浜をかき分ける。白くなった流木が砂から出てきて、先生はそれを少しだけ撫でてから立ち上がった。少し、寂しそうにも見えた。
++
この灯台に来てから3週間と少しが経った。先生は砂浜と灯台に行くことを相変わらず繰り返していて、朝市で会ったあの日よりもクマが濃くなっている。
俺は元々日雇いの仕事をしていて生活していたから、ここでの生活が長引こうと何も懸念していなかった。もし金に困ることがあったら、町の方まで行って肉体労働でもすればいいかぐらいの考えだった。頭の中で引っかかっているのは、金のことよりも先生の方だ。日に日に体調が悪化していて、食べ物を受け付けなくなっている。朝と晩の食事はどうにか食べているが、それも本当に少しで、生きるために無理矢理口に詰めているという様子だった。
1日の中で、一番顔色が悪いのは灯台に昇ってしばらくしてからだ。そのことに気付いたのは数日前、いつものごとく灯台に行った先生は、煙草を持って行ったくせに俺が贈ったオイルライターを机の上に置き忘れていった。
オイルライターをポケットにしまい灯台に行くと、先生は定位置にはいなかった。螺旋状の階段を昇ってはしごを登った先の灯室にその時はいて、眼鏡の向こう側の目は海を見つめているが酷く虚ろだった。僅かに空いた口は浅く早い呼吸を繰り返していて、辺りからはあのマグカップから立ち上るお茶の匂いがする。お茶にしては変わった匂いに違和感を感じながら、俺は遠慮がちに先生の傍に駆け寄った。
「あの、大丈夫ですか」
「……ああ、君か」
俺の方を振り返った先生の声は疲れ切ったように掠れていた。先生は懐に手を入れて、本来はあるはずの物が無いことにようやく気付いたようだった。ポケットからオイルライターを取り出す。
「忘れ物があったんで届けにきたんですけど、煙草どころじゃ無いですよね」
「いや、それをくれ。どうせ、吸って余計に悪くなることなんて無いんだ」
「駄目ですよ……、せめて少しでも顔色が良くなってから吸って下さい」
先生は手を差し出してきたが、明らかに体調不良だと見て分かる状態で煙草を吸わせるのは流石に憚られた。語気を少し強めると先生は少し顔顰めたが、ため息を吐いてからそれを了承してくれた。
だからといって、オイルライターをずっと持っておくのも没収をしているようで落ち着かない。そんな強気なことがしたいわけでも無く、吸わないで下さいねと言い加えて先生に渡した。先生はオイルライターを手の平の上で何回か転がした後、懐にしまい、また海を眺め始めた。
妙なお茶の匂いと、それと潮の匂いが漂う中、俺は重たい口を開いた。
「せんせ、……下倉さんは、その、病気か何かなんですか」
先生にとって俺は他人でしか無い。そんな俺が体のことを聞いていいのかは分からなかったが、先生が日に日に痩せていくのを見過ごすことも出来なくなってきていた。
先生は、意外だ、とでも言うような感じで目を見開いた。
「短かったとはいえ、君は俺の所に習いに来ていたんだろう?」
「……物覚えが悪かったもんで」
先生が何を追求したいのかは分からないが、なんとなく居心地が悪くて歯切れ悪く返事をする。漢方薬局にいた頃先生は時々生薬のことを教えてくれたが、あまり多くを覚えることは出来なかった。覚えるのが嫌だったんじゃない。むしろ、先生が生薬だとか漢方の効能だとかを気まぐれに教えてくれる時間は好きだった。ただ本当に、俺の物覚えが悪かったのだ。
先生の方も俺に店を継いで欲しいとかそんな考えは無かったようで、本気で知識を俺に教え込むようなことも無かった。結局、俺の生薬に対する知識はかじった程度のまま、あの店を出ることになってしまった。
「君にはバレていると思ったが、そうか」
「あの、そう言うってことは、病気では無いんですか」
俺の心の中には今確かに僅かな希望があった。先生は何か直せないような病気にかかっていて、だから日に日に弱って死に向かっているんじゃないかと、元々はそう思っていたからだ。もしそうで無いとするの
なら、時間が経てば先生にも穏やかで幸福を感じられるような瞬間がまた訪れるんじゃないかと、そういう希望があった
しかし、先生から告げられたのは希望なんて抱けるわけも無い、酷い真実だった。
「俺が毎日飲んでいるものがあるだろう。あれは、有毒な朝顔を含んだ茶葉だ」
俺の頭の中は、真っ白になった。先生が言った意味が分からなかったわけじゃない。むしろ、分かっているからこそ信じたくなくて、耳を疑った。
朝顔類には毒を持つ物が多い。それをお茶にして毎日飲むなど自殺行為に等しい。続く先生の言葉を、俺は死刑宣告を受ける被告人のような気持ちで聞いていた。
「茶葉は調整しているし、薄めて飲んでいるから一度の飲用だけでは死なない。流石に、最初に作ったときは具合が分からなくて倒れてしまったがな」
「どうしてそんなことを……」
「イチル、この灯台の名前を知っているか」
「え……?い、いえ、知らないですけど」
「
「それが、どうしたって言うんですか」
俺の声は僅かに震えていた。ここに来た当初、俺はできるだけ先生の行なうことを追求するようなことはしないでおこうと思っていた。先生がしようとしていることを優先して、横槍は入れずに見守ろうとそう思っていたのだ。
しかし、先生が俺の目の前で毒を飲み続けていたことを知った今、その行動の意味を問わずにはいられなかった。
「この灯台には逸話がある」
そこから始まった話は、先生の行動の理由付けとしては最もらしい話だった。
何でも昔、この町である一隻の漁船が海に出たっきり帰らなくなった時があったらしい。心配した船員の娘は病にかかろうが構わずこの灯台に昇り海を眺め続けていたが、娘は病をこじらせ死んでしまった。しかしその直後、漁船は港に戻ってこれたのだ。船員は生きてはおらず遺体となっていたが、そもそも潮の流れを考えれば船が戻ってこれたこと自体が奇跡だった。娘と船員は、同じ墓に入れたのだ。
そのうち、この灯台に昇り続ける者がちらほら現われる。灯台に用がある者たちは性別も年齢もバラバラだったが、ある共通点があった。その共通点とは、海で親しい者を亡くし、その遺体さえ墓に納めることが出来ていないということ。
この灯台に来た者達は皆、海を漂う親しい者が陸に戻ってこれるように祈るような気持ちで灯台に昇り続ける。そうすると、昇った者が死を迎える直前に、海で死んだ者が陸に戻ってこれるらしかった。
「この灯台で命を削りさえすれば、海で死んで陸に戻ってこれなくなった者も戻ってこれる。それがこの灯台に関する逸話だ」
先生の話を、俺は絶望的な気持ちで聞いていた。
俺は、先生やこの灯台の昇り続けた人間のように、自分の命を削ってまでまた会いたいと思うような間柄の人間を亡くしたことが無い。でも今、そうなりかけている。
けれど、俺には先生を止めることは出来なかった。もしも先生が海で死んで遺体さえ戻ってこなくて、そんな時にこの灯台の逸話を知ったら、きっと俺だってここに昇り続ける。その気持ちが理解出来てしまうからこそ、俺にはどうすることも出来なかった。
「先生は、死にたいというわけでは、無いんですよね」
やっとの思いで口から出たのは、そんな言葉だった。
それを聞いたところでどうにかなるというわけでもなかったが、そうであって欲しいと思わずにはいられなかった。これは祈りなんて綺麗なものじゃない。ただの自分本位の、願望でしか無い。
「……俺はただ、また妻に会いたいだけなんだ」
水平線を見つめる先生の目には寂しさが見え隠れしていて、もう、先生を最期まで見守るしかないんだと、そう思った。
++
日が昇りきっても、あまり気温が上がらなくなってきた。俺が灯台に来た当初と比べて確実に季節は移り変わっていて、時間の流れを感じずにはいられない。灯台に来てから、1ヶ月が経とうとしていた。
最近、先生は体力もめっきり落ちてしまっていてここから離れたあの市場に行くこともキツいようで、買い出しに行くときは俺1人で行っている。
市場までは歩くとかなり距離がある。灯台に来たばかりの頃は先生と一緒に買い出しに行っていた。道中は賑やかというわけではなく、ポツポツと会話が起こるぐらいだったが、今となってはそれさえも無い。いつも以上に長く感じる道を、数少ない先生との会話の記憶を反芻しながら歩いた。
「らっしゃい」
古くてこじんまりとした店に入ると、言葉短く店主があいさつを飛ばしてくる。店先には魚の干物と、店内には日用品。ここは、俺が先生と再会した店だ。
メモにまとめておいた食料品を棚から取っていく。何度かここで買い物をしているが、今日の買い物は今までで一番少なかった。先生がほとんど食事を取らず、今買っているのはほとんど俺が食べる分だけだからだ。
しかし先生はそんな状態になっても毎日律儀に食卓顔を出し、俺が作った料理を少しでも食べていくようにしていた。そんな先生の姿を思い出して歩が止まってしまう。
「買い物はそれだけか」
「え……?あ、ああ、そうですけど……」
店主は俺が持っていたカゴをひったくると、そのまま持ってレジに向かう。今までこんなことされたことが無かっただけにしばらく呆気に取られ、数秒してから慌てて後を追いかける。
「いつも来るあの旦那は?」
「……少し体調が悪いみたいで、俺だけで来ました」
レジに缶詰やらペットボトルの水やらを通していきながら、初老の店主は短く、そうか、と答える。この店主とこうやって会話するのは、先生を探していた時に聞き込みをした以来だった。
「すると、まだ生きてるんだな」
店主の予想もしていなかった言葉に息が詰まった。ただの買い物先の店の店主がなんで先生の状態を知っているんだろうか。
「なんだ、聞いてなかったのか。あそこの灯台の鍵を渡したのは俺だよ。あの男に頭を下げられてな。理由も全部話された」
俺が言葉を詰まらせている間に、購入品の袋詰めも終わらせてしまった店主はレジ横に置いていた簡素な椅子に座る。くぼんだ瞼の中にある眼球は、まっすぐこちらを見据えていた。
「お前は、あの旦那のなんだ?」
店主の
「……なんだと聞かれて、はっきり言える関係性じゃないんです。昔、先生に拾われて、8年一緒に過ごしました。師弟関係に近かったものかも知れないですけど、それほどかしこまったものでも無かったんです」
店主の質問に答えると言うよりも、抑えていたものを吐き出すように口を動かしていた。もうこの店に先生が来ることは無いだろうから、ここで本当のことを言ったところであの人に正体がバレるということも無い。
「じゃあ親子か?」
俺は躊躇いながら、それでも首を横に振った。確かに先生は血の繋がっている実の親よりもよっぽど親らしかったが、先生の背中に父親を当てはめていたかというとそれも違う。俺にとって先生は先生で、そこには親愛も憧れも郷愁も、健やかであって欲しいという想いも含まれていた。
「……あの旦那には言ってないだろ」
「もう、言えませんよ」
今更真実を先生に明かしてしまえば、先生は覚えてないとしても俺のことを気に掛けながら逝ってしまう。そういう人なことを、俺は知っていた。
店主は何かを察したように俺を一瞥する。
「酷な話だろうが、あの旦那がどうにかなっちまった時お前が対処することになる。それでも、もう覚悟は決まってんのか」
「……多分、どれだけ時間があっても覚悟を決められることなんか無いです」
返事をする俺の声は、自分でも分かるほど小さくて情けなかった。
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