祈埼灯台

がらなが

1

 潮風の匂いと人々が作り出す喧騒がこの場を満たしている。肌を擦りたくなるような冷たい風が吹いているというのに、漁港の朝市は今日もこれでもかと言わんばかりの活気に満ち溢れていた。

 この町に来て数日経ったからこの賑わいにも少しは慣れたが、やはり人混みは得意じゃ無い。出来るだけ人が少ない道を選んで歩き、魚を売りつける店員の声を相手にすることなく市場の通りを進んでいく。市場のほとんどの店は鮮魚を取り扱っているが、歩いていると日用品や青果の類を売っている店も見えた。そのためだろう、市場にいる人間の見た目や性別には偏りがない。店員と手帳片手に話し込む業者と思わしき中年の男や、大きな荷物を抱えた見るからに観光客と思わしき年配の女数名のグループ、地元の人間と思わしき袋を抱えた主婦も数多く往来していた。

 俺はここに鮮魚を買いに来たわけでも、自分探しの放浪の旅に来たわけでもない。ここにいるという、ある男を探しに来ていた。


『真っ黒のうねった髪に黒縁のボストン型の眼鏡を掛け、髭を生やした中年の男』

 特別珍しいというわけでも無いこの特徴の男の手がかりを探すのは、大分骨が折れた。この街に来た時から市場にいる店員に話を聞いて回っていたが、なんせ市場を往来する人間は地元の人間だけでなく、日によって変わる観光客も混ざっている。常連客以外の市場を行き来する人の顔をいちいち覚えてる店員などいないだろう。探し人の聞き込みをするたびに首を横に振られるか、もしくはどうして人探しなんかと冷たい目線を浴びることがほとんどだった。前者には軽く礼を言い、後者には「失踪した親類を探しているんです」と適当を言って誤魔化すということを繰り返すしかなかった。


 ふいに、すれ違った男から煙草の匂いがしてきた。咄嗟に振り返るがそこにいたのは腰が曲がりかけた老人で、探し人ではなく全くの別人だ。気を取り直すように息を吐き、市場の通りをまた進んでいく。しばらく歩いてから横道にずれた所に入ると、こじんまりとして古びた店が佇んでいた。店先には魚の干物が並んでいて、中を覗くと日用品やら魚以外の食料品やらも軽く揃っている。

 聞き込みを続けること2週間、ようやく掴めた手がかりが、この店の近くでそんな男を見たという話だった。

 店と外を仕切る扉は無く、いかにも市場の中の店という感じだ。柱の傷や日焼けした壁などからあまり真新しい店で無いことが見て取れる。あまり賑わってはいないようだった。


 店内に足を踏み入れると、初老ぐらいの男がレジカウンターの傍に椅子を置いて座っていた。男は俺を一瞥すると「らっしゃい」とだけ言って、広げていた新聞に視線を戻す。ここの店主だろう。あまり積極的に客に関わるタイプでは無いようで、正直言って接客態度はあまり褒められたものじゃない。が、市場の活気のあるあの通りよりもこの店の空気感の方が俺にはよっぽど合っていた。

 探し人である『先生』がそんな人だったからだろう。先生は漢方薬局を営んでいたが、客が来ても笑顔の一つも浮かべやしなかった。俺だって愛想があるとは言えない性格だが、あの人よりかはマシだった。先生があんまりにも表情を動かさずに客と接するもんだから、俺が代わりに作り笑いを浮かべて店の中を動き回っていたぐらいだ。


「すいません、探している人がいるんですけど、眼鏡を掛けた40くらいの男がここに来てませんか」

「……兄ちゃんこの辺の人間じゃねえな?そんな客わんさかいるよ」

 店主に声を掛けると、店主は首を傾けた。初老ぐらいと思わしき店主はそのまま視線を外に投げる。中年ぐらいの眼鏡を掛けた男が丁度通りかかるが、先生ではなかった。こういうやり取りをこの町に来てから何度もしてきたから今更落胆するなんてことは無いが、若干疲れてはきていた。

「……そうですよね。すいません」

「……栄養ドリンクは右奥の棚にあるよ」

 店主はそう言って店の奥を顎で指すと、また新聞に目を落とす。苦笑を返してから、一通り店内を回ってみることにした。店先には袋詰めされたアジやらサンマやらの干物が並べられている。店内には調味料や缶詰といった食料品が軽く並んでおり、奥の方には店主の言った通り栄養ドリンクも並べてあった。棚を見てるうちに、店主の方から「らっしゃい」とまた聞こえてきた。誰か客でも来たんだろう。その客が俺の後ろ通りがかった時に煙草の匂いがして、思わず振り返って、目を見開いた。

 黒くうねった髪に、ボストン型の眼鏡。記憶にある頃よりも痩せていて肌は僅かに血色の悪い色をしているが、間違いなく、先生だ。

 「先生」

 あまりにもあっけなく、感動的でもなんでも無い再会。先生は、3年ぶりに会ったというのに俺を一瞥だけすると、どういうわけかそのまま立ち去ろうとした。

 「ま、待って下さい」

 思わず袖を掴んでしまい、先生が振り返る。ただ、俺はなんと声を掛けていいのか分からなかった。お久しぶりです笑えばいいのか、それとも、同情的な言葉を投げかければいいのか。口の中で何か言葉を作ろうとして、迷って結局なにも出来ず言葉を飲み込んでいると、先生は怪訝そうな表情を浮かべた。

「誰だ、君は」


 ++


 先生と住んでいたあの店の光景と匂いは、今でも俺の胸の柔いとこに深く刻まれてしまっている。壁際にはずらりと木製の引き出しが揃っていて、深く息を吸えば生薬の匂いと、僅かに先生から漂ってくる煙草の匂いが鼻腔を満たす。そんな空間で俺は8年くらい先生の手伝いをして店の中を動き回っていた。


 先生は俺の父親でも親戚でもない。そもそも俺の親は刑務所の向こう側にいて、もう会うことも無いような人間だった。俺の親はロクでも無い人間だったが、俺もロクでも無い人間だった。親も居なければ何か好きなことがあるわけでも無い。何も持ち得てない自分が酷く惨めだった。そんな自分から目を背けようとして通行人の財布を拝借したり、小さな店に忍び込んでは商品を盗んだりしていた。

 先生に出会ったのも、漢方薬局に忍び込んだのが原因だった。あの時店内には誰も居なくて、やさぐれてるとはいえ好奇心旺盛な10歳手前のガキにとって、よく分からない生薬が並ぶ店内というのは未知の空間だった。興味の赴くままにすり鉢に入っていた粉に顔を近づけて、鼻につく刺激臭に思わずくしゃみをした。顔の周りを細かい粉が舞い、それを思いっきり吸ってしまったのは覚えている。が、そこからの記憶はない。ぶっ倒れたのだ。


 目を覚ました時、俺の傍に警察も少年院の職員もいなかった。俺はベットに横たわっていて、眼鏡を掛け髭を生やした男がこっちを覗き込んでいた。男は俺が目を覚ましたのに気づくと、片方の眉を上げて、おもむろに口を開いた。

「最近、この辺で万引きやら盗みが増えている。お前か」

 唐突に問われたその言葉は恫喝とは程遠い平坦な声だったが、俺を脅かすのには十分な文言だった。

「……だったら、なんだよ」

 虚勢を張った俺を男はしばらく見つめてくる。真っ黒な目には感情が宿ってないように見えて、何を考えてるのかまるで分からなかった。

「うちに来い」

「……は?」

「衣住食はあるし、手伝いをしてくれれば小遣いもやる。わざわざ法を犯さなくても得られるものがあるんだ。悪い話じゃないだろう」

「ちょ、ちょと待てよ、なんで急にそうなるんだよ……!」

「別に断ってもいいが、その時はお前を警察に突き出す」

「話聞けよ……」

 ほぼ脅しのような言葉を吐いた後、男は勝手に俺の額に手を当てたり目を覗いてきたりして、それから水の入ったコップを渡してきた。薬を扱う仕事をしているから体を大事に扱いそうなもんなのに、男の衣服からは煙草の匂いが染みついている。

「俺は下倉もとくら。君、名前は」

「……イチル」

   

 先生はまだガキの俺を、甘やかしたりはしなかった。怒鳴りつけたり殴るようなことをしてきた訳じゃない。無理矢理にでも学校に通わせられ、学校が終わると必ず店の手伝いをさせられた。学校はともかく、なんで店の手伝いなんてと思ったが、やった分だけ小遣いが出てくるし、先生は3食温かい飯も出してくるから不満に思うこともなくなっていった。

 店の2階が俺達の家だった。学校に行って、店の手伝いをして、それが終わったら2階に行って飯を一緒に食べて寝る。ロクでも無かった俺の生活は、そんな風に変わっていった。


「なあ下倉、もし俺が、なにか悪さ……例えば、この店のもの何か盗んだりしたらしたらどうするんだよ」

 先生と暮らし初めて間もない頃、ふと疑問に思ってそう聞いたことがある。先生は生薬の在庫整理をしながら、表情を変えずにこう言った。

「その時はお前が吸って気絶したあの粉をまた吸わせる」

 ガキに言う脅しじゃないだろと思った。笑みを浮かべながらそう言われればまだ冗談だとも思えたのに、真顔で言ってくるもんだから本当な気がしてならない。どうやって吸わせてくるのか皆目見当も付かないが、この人には逆らわない方がいい気がした。


「それから、俺のことは先生と呼べ」

「先生?まるで医者みたいだな」

「敬えと言っているわけじゃない。ただ、そう呼べる存在がいると、楽な時もあるだろ」

 丁度客が来て、先生は仏頂面を浮かべながらそっちの方に行ってしまった。

 言葉の意味は良く分からなかったが、確かに先生と繰り返し呼んでいるうちに、自分が惨めに感じるような夜は数を減らしていった。

 俺に親はいないが、あの店に帰れば先生がいてくれた。


 自分の中にある厄介なしこりみたいなのが、ゆっくりと無くなっていくような日々。劇的何かは起こらなかったが、先生と過ごす時間は穏やかでゆっくり流れていく。居心地が良いとはこういうことを言うのだと知った。

 それが変わってしまったのは、先生と会ってから8年後のことだ。

 先生は、店に1人の女を連れてきた。先生の横に立って朗らかに笑い俺に自己紹介するその人と、相変わらず表情を変えず、いや、微かに笑ってそこに立つ先生。2人の間には幸せを絵に描いたかのような空気が流れている。先生と俺の関係にあるものに上手く言葉を当てはめることはできないが、先生とその女の間には多分、愛というやつがあった。それから1年後ぐらいに2人は籍を入れた。

 今まで先生と2人で生きてきて、そこに違う人間が現われて戸惑いが無かったかと言われれば嘘になる。でも、先生が幸せそうにしているなら、自分の戸惑いの感情なんてどうでも良かった。ただ、これから新しい生活を送る2人の傍に、俺はいてはいけない気がした。


 先生から結婚の報告があった次の日の明朝、俺は結婚祝いの言葉と、先生への世話になったことへの感謝に言葉を書いた手紙、それと贈答用の箱に入れたオイルライターを餞別に残して、あの家から出て行った。


 ++


 目の前の男は、確かに先生だった。3年前と比べれば顔色が悪く、目の下のクマに不健康さを感じるが、顔のパーツが大きく変わったわけでも無い。先生で間違いないはずなんだ。

「先生……、下倉さん、ですよね」

「どうして俺の名前を知っている」

 念のため名前で呼んでみたが、合ってはいた。この人は8年一緒に過ごした、記憶の中のあの人で間違いない。それなのに。

「イチルです……まさか、覚えてないんですか」

 先生は顔を顰めた。嘘が得意な人ではない。喉奥が詰まるような、胃が縮むような感覚がする。どういうわけか先生は、8年も過ごした俺のことを忘れてしまっている。

「すまない、昔のことはあまり覚えていないんだ。それじゃあ」

 そのままその場から立ち去ろうとする先生を唖然としながら見送りかけて、ハッと我に変える。なんとなく、今この場で先生と別れたらもう2度と会えない気がした。それくらい、先生の雰囲気というか存在感というか、先生そのものを形作る縁みたいなものが、以前と比べるとどうも希薄に感じられたのだ。

「覚えてないって、そしたら亡くなった奥さんのことは覚えてないのかよ」

 先生の足が止まる。振り返った先生の表情に戸惑いは無く、忘れていなんだと察しがついた。少し、複雑な気分だった。


 ++


「ここだ」

 先生がそう言って立ち止まる。「込み入った話ならうちで話そう」と言われ散々歩かされたうえで辿り着いたのは、海沿いにある1つの建物だった。真っ白な外壁で、周囲にはその建物以外に原っぱと海ぐらいしか見えるものが無い。そのせいでやけに目立っている。目立っているのは白い外壁だけが理由じゃない。その横にあるものが、なにより目を引いた。

「これ……、灯台、ですよね」

 円筒状の形でそびえ立つそれは、海上に光を届けるためにあるもので、どう見たって灯台に違いない。

「そうだ、今は使われていないらしい。……先に言っておくが、不法占拠ではないからな」

 先生は懐から鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んで回す。ガチャリと鍵が開く音がして、にわかには信じ難かったが、先生は確かにここに住んでいるらしかった。

「灯台って住めるのか……」

「本来なら駄目だ。現にこの灯台の所有者も私では無くてここの自治体だからな」

「じゃあどうやって……」

「鍵の所有者と懇意になって、それでこっそり住むことを許されてる」

 ほぼ違法じゃないですか、と言葉が出かけたが飲み込む。余計なことを言って今の先生から不信を買うわけにはいかなかった。


 建物の中に入ると先生は窓辺の壁に背を預け、俺は部屋に1つしか置かれていない椅子に座らされる。先生が住んでいるこの場所には人1人が住むのに必要最低限な物しか置かれていなくて、俺だけが座る羽目になった。

「それで、君は妻の親類か」

「……そんなところです。奥さんの遠い親戚で、先生の店にも1週間ほど世話になりました。薬のことを少し教わって……」

「それで俺のことを先生と呼んだのか」

 嘘をついたのはそうした方が話がスムーズに進むだろうと思ったからが3割。残りの7割は、忘れてしまった相手に自分の境遇を話すのは、少し虚しい気がしたからだ。

 先生は壁際にもたれ掛かったまま、懐から煙草を取り出し火をつけた。その手には確かに俺が贈ったオイルライターが握られている。


「……この間俺は、以前先生が暮らしていた場所に行きました。あの漢方薬局です。店のことは覚えてますか」

 先生は頷きながら煙を吐き出す。煙草から昇る白煙の筋が先生の周りを漂っていた。

「人も物も空になった店を見てたら、近所の人が色々と教えてくれました」

「どこまで聞いた」

「奥さんが少し前に亡くなったことと、それから先生がこの町に行ったことまでは聞きました」

「随分おしゃべりな人がいたもんだ……」

 先生は何かを思い出すかのように空を眺めたが、眉を寄せ目頭を摘まむと、やがて諦めたようにため息を吐いた。

「先生はその、なんで昔のこと覚えてないんですか」

 ずっと胸につっかえていたことを言葉に吐き出す。どんな言葉が返ってくるか緊張しながら待ち構える俺を、先生はしばらくみつめてくる。それから、部屋の窓から見える灯台の方に視線を向けた。


「毒を飲んだ。それで記憶障害が出たんだ」

 一瞬、目眩がした。毒を口にするほど、奥さんが亡くなったことは先生にとって耐え難いことだったんだろうか。最愛の人を亡くし1人で毒を飲む先生の孤独を、完全に理解出来ないものだとしても頭が勝手に想像してしまう。

「……何か勘違いしているようだが、俺はその場で命を絶とうとして毒を飲んだわけじゃないからな」

「はい……?」

 俺がよっぽど酷い顔をしていたのか、先生はそう訂正した。

「でも、毒を飲んだんですよね」

「ああ。死に向かうような行動をしたのには違いないが、その場で死のうとしたわけじゃない」

「……どういうことですか」

「君に教えることでもない」


 部外者にはこれ以上話したくないのだろうか。先生の表情は出会ったころと同じくほぼ無表情で、何を考えているのか推し量ることができない。

「じゃあ質問を変えます、……答えたくないなら答えなくてもいいですが、奥さんはどうして亡くなったんですか」

「知らないのか……?君は親類なんだろう」

「……色々あって家を出たんです。奥さんが亡くなったことも近所の人から初めて聞いて、それで知りました」

「そういうことか……。妻は、この町の海で死んだ。死んだというよりはいなくなったという方が正しいのか……。片方の靴だけが岩礁の近くで見つかって、死体は見つかってない」

 先生が黙り辺りが静かになると、外から波の音と間延びしたウミネコの鳴き声が聞こえてくる。その一瞬、先生の手元から昇る煙草の煙が、まるで線香の煙のようにも見えた。

「……先生は、ここで奥さんを探してるんですか」

「散々探し回ったさ。……それでも駄目だったから、今は方法を変えたんだ」

 どういうことですか、と再度聞こうとしたが、聞いたところで無駄だろう。またはぐらかされる気がしてならない。今の自分の現状にあまり他人を巻き込みたく無いのか、あるいは首を突っ込んで欲しく無いのか。そんな雰囲気が感じられる。

 部屋の中を一周、軽く見回す。雑貨や飾りの類いは一切無く、1人が生きていくのに必要最低限のものしか置かれていない。扉の向こう側にキッチンらしきところは見えたが、寂しさを感じるほどがらんとしていて調理器具も食材もほとんど見当たらなかった。


 俺の胸中には、1つの予感があった。このままここから立ち去ったら、先生はいつか綺麗さっぱりこの世から消えてしまうんじゃないかという漠然とした予感だ。

「もし俺が、ここに残ると言ったらどうしますか」

「……どうしてそうなる」

「覚えていないかもしれませんが、俺はあなたに世話になりました。礼をさせてください」

「申し訳ないが、君がここで出来ることなんて無い」

「はっきり言いますね。にしては随分顔色が悪いようですけど、まともな食事を摂ってないんじゃないですか。俺、家事ぐらいならできます」

「必要最低限は口にしている。今すぐ生きていけなくなるほど困ってない」

 先生は頑なな態度で俺がここに残ることを良しとしない。なら、手段を少し変えるしかない。

「そうですか。……別に俺をここから追い出しても構いません、けど」

「けど、なんだ」

「追い出されたら、先生のことを警察に言いつけます。合法でここに住んでるわけじゃないんですよね」

 部屋に静寂が訪れる。先生は俺のことを苦々しい顔で睨んでいるが、俺は内心、いつかの日の先生とのやり取りを思い出していた。長い溜息を吐いた後、先生は短くなった煙草を狭いテーブルの上にあった灰皿に押し付ける。

「取引が上手いな……、分かった。君を追い出したりはしない。だが条件がある。ここに住むなら、あまり物を増やさないで欲しい」

「分かりました。条件はそれだけですか」

「そうだな。いや、あとは、俺のことを先生と呼ばなくていい」

「それは、どうして」

「君に敬まれるようになった経緯を俺は覚えていないし、そもそも君のことを覚えていない。それなのに、先生と呼ばれるのはどうも居心地が悪いんだ」

「……それが、俺がここに残る条件なんですね」

 先生は頷く。机の上に置かれていたオイルライターが日の光を反射して、それが嫌に目を刺してきた。


「分かりました。下倉さん、よろしくお願いします」


 先生がここで何をしようとしているのかは分からない。分からないが、自分勝手かもしれなくても俺はここにいなきゃいけない気がした。

 それに、先生は俺のことを忘れてしまっている。ここでまた去ってしまえば、先生との縁は今度こそ完全に切れてしまう気がして、情けないことに俺はそれに耐えられそうになかった。

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