ことば

@mixxi

第1話

*我々人類が用いる言語はどれだけ論理的であり根拠に富んであろうと、主観的である。*

 私たちが住んでいる世界にはいろいろなものや現象で溢れているが、当たり前だがそれらは初めから名前がついていたのではない。現象、感情、物体や五感から得られる情報などといったもので溢れている世界を、我々はことばによって区切り命名し、表現してきたのである。


 どの言語においても共通だが、ここでは日本語を取り上げる。

 「つくえ」とはなにか。と問われると、平たい、物がおける、作業ができるなどが挙げられる。つまり「つくえ」という単語はこれらの意味を内包したものである。

しかし「つくえ」を構成する要素は、「つくえ」以外の構成要素でもある。たとえば「ゆか」だってものを置くことができるし、平たい。


このことから、言葉というのは用途や見た目、感触などの組み合わせをグループ化して表現しているに過ぎないとわかる。

 また単語を構成する要素は、個人個人によって異なってくる。ある人が思い浮かべる「つくえ」は、狭く、高さが20センチほどしかないといったちゃぶ台のような要素によって、またある人は一本の大木から切り出して作られた、巨きな、大切な、高級なものなどといった要素によって成り立っている。おなじ「つくえ」という言葉もそれぞれの経験や感性、思考によりどこで区切り表現するかに差異が生まれる。つまり、ことばで表せられるものは全て話者の区切り方によって伝えられ、聴者の区切り方によって受け止められるのである。


 ここで再度一文目を読めば、きっと意味をわかってもらえるだろう。どれだけ論理的に話をしようが、その情報をつてる際に用いる言葉は話者の主観によって区切られた世界である。もしそれが分かったつもりだとしても話者と聴者の区切りの差異が、どれだけ小さかったとしても、その論理のアラとなって出てくる。


 また日本語というのはよりこの差異が目立つ言語だと私は考える。日本語はかなと漢字によって成り立っているが、漢字というのは中国から伝わってきたものである。自分たちで言語を生み出す際は、それぞれの経験、言葉で区切る前の世界の現象をもとに自分たちで区切っていく。しかし、他国から渡ってきた区切り(=漢字)は、自分たちの経験によるものではない。つまり世界に溢れる森羅万象を無視し、借り物の区切りを用いてコミュニケーションを取っているのである。その単語の表す“区切られた世界“を実感することなく用いれば、自身で生み出した言語より、他人との差異が生まれてくるのは自明であり、同じ実感を持っていてもそれを相手と共有することは難しくなる。これでは自信の意見を相手とぶつけ合おうとしても、どちらも意見を正確に伝える術がないからぶつけられない、もしくは中途半端になってしまう。故に言葉に表さずに、区切られる前の世界を”察する“という文化が生まれたのも納得がいく。

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