第35話
それでは、本日はよろしくお願いいたします。
「よろしくお願いします」
それでは安賀繚乱さん、早速ですが質問をしてもよろしいでしょうか。
「はい、勿論」
今回執筆……完成された小説、『暗冥』に登場するキャラクターは、実在する人間がモデルとの噂を聞き及びましたが、事実でしょうか。
「はい、事実です」
モデルとなる人物は、どのように選定したのでしょうか。
「……自殺した娘の部屋に、自殺者の新聞やネットニュースの切り抜きが大量にありまして。その中でも、机の上にあった数枚に書かれていた人を、書かせていただきました」
なるほど。失礼ですが、娘さんはどうして自殺を?
「幼い頃から苦労をかけてきてしまいましたので、そのせいかと。……正直、理由はわかりません。本当に、唐突に死んでしまいました。……いいえ。人が死ぬ時はいつだって唐突です。誰も彼も、それを忘れてしまっているだけなんです」
どうして、そのように思うのですか?
「……私は、他の人よりほんの少し多く、人の死を見てきましたから。父と祖母と弟は、火事で死にました。私が家出している真っ最中に。それから、関わりを絶った異父弟が。そして、血の繋がらない娘が。……ね。多いでしょう」
そういった周囲の死の積み重ねが、安賀先生の世界観に繋がっているのですね。
「そんな大層なものでは……ないですよ」
それから、私色々と調べているうちに不思議に思ったのですが。
「はい」
三枝虎珀。彼は実際に自殺したという報道がされており、その死に方から新聞にも取り上げられていました。……しかし、彼の家族の名前は、プライバシー保護のために一切載っていなかったんです。その兄弟構成すら。……しかし、貴女は実在する三枝作玖という人間の存在を知っていた。珍しい名前なので、当てずっぽうでは不可能です。どのように、彼のことを調べたのでしょうか。
「……コンタクトを取りました」
連絡先すらわからない一家に? しかも安賀先生は、あの家庭のかなり踏み込んだところまで描いていました。例え取材が叶ったとしても、一小説家でしかない人にそこまでを話すとは思えません。実際私も、自分の立場と小説『暗冥』を交渉材料にしましたが、それなりに苦労しました。
「……与太話みたいな話ですよ」
はい。
「私の娘が遺したメモに、三枝作玖くんの存在があったんですよ。荒唐無稽ですけど、本当なんです。あの子が、連絡なんてとりようもない、何年も前の自殺者の家族の存在を知っていたんです」
あの具体的で的確に描かれた三枝作玖という人間は、娘さんによって伝えられたと。
「……あの、一つ訊いてもいいですか?」
はい、なんでしょう。
「どうして、私を取材しようと思ったんですか? そりゃ、私はデビューこそ華々しかったかもしれませんが、それ以降は凡作しか量産できていません。今回の『冥喑』だって、未完の名作だなんだと煽られましたが、蓋を開けてみればこれも凡作です。……どうして、私なんですか?」
……私、個人的に貴女のファンでして。それから、私はもうすぐ定年でこの仕事も辞めるので、最後にどうしても安賀先生のお話を伺いたく思いました。
「そうですか……ありがとうございます。私の小説を、『暗冥』を、好きでいてくださって」
『暗冥』の読者に、何か伝えたいことはありますか?
「そうですね……先ほども言ったように、小説『暗冥』に登場する人物は、全て実在の人物を元にしています。どうか彼らの生き様を見届けて、そして生死に問わず、褒めてあげてください。よく頑張って生きたねって。死んだとしても生きたとしてもあなたたちの人生は、生き様は、尊いものだったって。……どうか、彼らを、忘れないでください」
……よろしいでしょうか。
「はい。ありがとうございます」
それでは、最後に一つだけ。
「美蘭くんをこの世に残してくださり、ありがとうございました。業田和奏さん」
男はボイスレコーダーを切りながら、深々と頭を下げた。その唐突な行動に、四十歳の業田和奏は思わず目を白黒させる。
「あ、あのっ」
「申し遅れました。私の苗字は、ご存知でしょうが、漆原。……あなたの異父弟である漆原美蘭の、血縁上は父にあたる存在です」
白髪が斑らに混じった髪をしている、能面のような表情をした記者はそう名乗った。確かに、彼は最初から漆原と名乗っていたが、苗字が偶然一致しているだけだと思っていた。それに、美蘭がいなくなってからかなり長い時間が経過して、彼のことを忘れかけていたこともある。
「なにも、お礼を言われるようなことはしてないのですが……」
「いいえ。……まるで自分の存在を誇示するように焼身自殺をした彼ですが、そのニュースは一日で消費されて終わりました。彼はきっと、そんなことを求めていなかった。だから、漆原美蘭という人間を、その願いを克明に描いていただいて、ありがとうございます」
無表情のままで感謝を告げる漆原は、少し異様だ。そもそも、和奏は漆原に、あまり良い印象を抱いてなかった。かつて幼い美蘭の口から語られた父は子に無関心な姿しかなかったから。
「……美蘭くんは、ヤングケアラーでした。一般で言われるものとは少し違うでしょうし、だから彼自身もそれを自覚してはいなかったでしょう。自分が一般より可哀想な子供であることは、自覚していたかもしれませんが」
漆原はやはり表情を変えないまま、訥々と語る。己の息子であるはずの人間を、まるで他人のように。
「私は、美蘭くんの母……血縁上は、あなたの母にも当たりますね。彼女とは利害の一致から婚姻関係を結んでいました。子供を作ったのも、その一環です。『あなたは世話はしなくていい。お金だって払わなくても、認知してくれなくともいい。ただ、子供が欲しい』と。流石に養育費は払いましたが……一般で言う父としての役目は果たしていないということは、私にもわかります。
それでも、私は妻の言葉に甘えてしまった。きっとそれが全ての間違いだったのでしょう。私があの子をヤングケアラーにしてしまった。しかしその、本来なら子供に背負わせるべきではない役目を果たせなかったことで、彼の自己肯定感は地に落ちた。なにをしても、母の呪縛が付き纏うようになった。だからこそ自分を認められたいと願うようになって、しかしそれが歪んでいって、そうして彼はああなった。その行き着く先が、あの凄絶な死に様だった」
まるで懺悔をしているようだと、和奏は思う。いいや、それは実際、懺悔なのだろう。
父としての義務は、漆原にはなかった。しかし、責任は果たすべきだった。表情が全く動かない彼も、人一人の命、それも血縁上とはいえど己の息子に対する情はあるようだった。
「だから、本当に感謝しているんです。死んでしまって誰の記憶にも残らない、こんな老害の後悔の象徴にしかなれなかった彼が、小説の世界で生きていた。懊悩して、求めて、そして彼は脚光を浴びた」
それは、紛れもない漆原美蘭の願いだった。
ありのままの自分を見て、認めてもらいたい。
そして『暗冥』の中では、ありのままの漆原美蘭がいて、そして読者にはその姿を見てもらえた。きっと、彼というキャラクターが好きだと言ってくれる人もいる。
美蘭が焼身自殺をしてから、はや十年以上が経過している。その長い時間の中で、漆原美蘭という人間は人々の記憶から薄れつつあった。
学校での友人や同級生。教師や、同じく音楽を愛していた同志まで。
彼の声を忘れ、願いを忘れ、想いを忘れ、顔を忘れ、匂いを忘れ。
そして全てが忘却の彼方へ。漆原も、もう彼の声は思い出せない。動画などに残された声を聞いて、ようやく記憶を手繰れるだけだ。
「……どうしてそこまで漆原……美蘭くんのことをわかっていながら、見て見ぬふりをしたんですか?」
そうやって声をかけて、気遣ってやるだけで、もしかしたら美蘭の結末は変わったかもしれないのに。
どこか責めるような響きを帯びてしまって、思わず口を塞ぐ。しかし漆原は特に気にした風もなかった。
「私は、人間としては欠陥ですから。社会人として弱点があるという意味ではなく、およそ人間らしい感情や感動がない、という意味で」
「……どういうことですか」
「私は、少々この仕事に入り込みすぎました。記者だとか、ジャーナリストだとか。金銭が将来の幸福を作ると信じて働き続けて……最終的に出来上がったのが、私です。人と人との関係に利害しか見出せず、持ち込めない。そこに情を見出せないし、持ち込めない。そういう、機械のような、人形のような」
相も変わらず、漆原の表情は変わらない。だからだろうか、どこかそこに悲哀を感じた。意思を持ちたくても持てない、哀れなアンドロイドのような。
「そんな私が彼に語りかけたところで、一体何になると言うのでしょう。伽藍堂の言葉はどこまでも空虚でしょう? それをまた空白に反響させることは、不可能に等しいと思います」
漆原という男は畢竟、言葉で誰かを救う器用さなど持ち合わせていない男なのだ。その生き方はどこまでも孤独。だというのに、他人の孤独を癒せるはずもなかった。
哀れだと、和奏は思う。和奏の母は己の孤独を癒したくて、利害の一致により漆原と結婚したのだと聞いた。漆原の方の事情は知らないが、意識的であれ無意識的であれ、彼は孤独を抱えていたのだろう。それを癒そうとして、けれどもう孤独じゃなくなる方法なんてわからなくて、他人の孤独を癒すために生まれた己の子供すら切り離した。
そういった意味では、確かに美蘭は自分の親の孤独を癒せなかったのだろう。母の狂おしいほどの渇望と、父の無自覚の荒涼を、潤すことはできなかった。しかしそれは当然だとも言える。どちらも原因は美蘭が生まれる前からのことであって、それを推し量って傷を癒せ、なんて無理難題だ。
つまりは、美蘭は自分ではどうしようもない問題を吹っ掛けられた純然な被害者と言えよう。生まれてきた環境が悪かった。その中で、彼はきっと足掻いたのだ。
「……そうですか」
美蘭を書いて良かったと、心から想った。精一杯に生きた彼の存在を、世に残せて。
そして同時に、冴良を想った。彼女のことも、同じように救えていたらいいな、と。
和奏にとって、冴良は人生における光だった。ある日突然、自宅の前に捨て置かれた子ども。なぜだか放っておけなくてそのまま育ててきた。父親を名乗る男性とは連絡を取り合ったけれど、冴良があまり母親に似ていないのが辛いから、といつしか関わりは途絶えている。
女手一つで子どもを育てるのは大変だった。けれども今となっては、苦労の記憶より幸福の記憶の方が鮮烈だ。
おおよそ家族愛などという感情を持ち合わせていなかったのに、冴良との暮らしでそれを知った。母と呼び慕ってくる彼女を見て、孤独が癒やされた。
和奏を反面教師にしているように恐れ知らずに育った彼女の勇敢さに、自分も少し強くなれた気がした。
全て、過信だったけれど。しかし冴良の存在が和奏に成長を、そうとまでは言わずとも何かがあったのは確かである。
和奏は、小説『暗冥』の表紙を撫でた。
赤黒く染まった校舎。図書室の扉に手を駆けて、最奥で青い炎が燃え盛っている廊下に足を踏み出そうとしている少女が描かれている。その後ろ姿が、薄く微笑んだ口元が、部活でいつも着ていた袴や薙刀を握っているたこが目立つ手が。
冴良と同じだった。どこか晴れやかに死に進もうとしているその姿が、彼女の最後の姿に重なる。
ふと、絵の中の冴良がこちらに手を振ったように見えた。目を擦ってもう一度見るが、しかしそこにはこちらに背を向ける少女がいるだけ。
和奏は目元を擦る。そして、幻視した冴良に応えるように、微笑んで見せた。
「インタビューを終わらせていただきます。本当に、ありがとうございました」
漆原が深々と頭を下げる。そして和奏の返事も待たずに立ち上がった。
「さようなら。もう二度と、会うこともないでしょう」
飾りも誤魔化しもしない言葉に、和奏は苦笑する。
そして、彼女も同じように答えるのだ。
「さようなら」
生きているあなたへ。死んでしまったあなたへ。笑い、喜び、泣き、憤り、そうしてやがては死んでいく遍く人間へ。
さようなら。どこかの不思議な世界で、また会う日まで。
安賀繚乱・著 『暗冥』後書きより引用
暗冥の世界 凪野 織永 @1924Ww
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