終幕

 自宅アパートへ戻ると、そこには『KEEP OUT』と書かれた黄色いテープが引かれ、たくさんの野次馬や警察官がごった返していて、とてもではないけれど部屋に入れるような状態ではなかった。


 押しかけていたマスコミの後ろで家の様子を覗いていた僕に気付いた隣に住んでいるおばさんが、「お母さん達は病院に運ばれたよ」と教えてくれた。


 死んでしまったと思い込んでいた僕は驚きを隠せなかったけれど、おばさんは単純に両親が負傷したことにショックを受けたものだと判断してくれ、僕の肩を優しく抱いてくれた。そして、この辺りだと恐らく徒歩十分程の所にある割と大きな病院じゃないかなと、タクシーを呼んでくれた。


 僕は彼女に礼を告げ、五分足らずで到着したタクシーに自分だけ乗り込んだ。


 お隣さんは同乗してくれると言ってくれたのだけれど、僕はひとりで向かいたいんですと告げ、彼女の申し出を断った。どうやら救急車を呼んでくれたのもこのおばさんだったらしく、重ね重ね礼を言い、後日改めてお礼に伺いますと、子供らしからぬことを口にした僕に、「子供がそんなこと考えなくていいの」と、苦笑いで僕を送り出した。


 病院に着くと、二人はそれぞれの病室で寝ていた。


 受付で彼らの息子であることを告げると、今はまだ安静にしなければならないからと、小さな子供を言い含めるような口調で諭され、ベテランと思われる看護師が付き添って病室まで連れて行ってくれた。


 父は口に透明なカップ? のようなものをあてがわれ、苦しそうに呼吸をしていた。


 母は一見ただ寝込んでいるように見えたけれど、腹部には縫い合わせたばかりの傷ができていたのだろう。看護師は「お母さんは背中を二十七針縫ったのよ」と教えてくれた。


 その日僕は、母の病室で眠りについた。仮眠できる小さなベッドが部屋には備え付けられていて、そこで僕は気を失った様にぐっすりと休んだ。


 なんだか夢を見たような気がしたけれど、起きたら忘れていた。


 もしかしたらつぐみさんが夢の中で僕に何かを言っていたんじゃないかと、そんなありもしない妄想も頭を過ぎったものの、恐らくつぐみさんは二度と僕の前に姿を現さないであろうことは、何となく僕には分かっていたので、敢えてこれ以上は考えないようにした。


「……おはよう」


 母は頭をこちらに傾け、したことのない朝の挨拶を口にした。


「おはよう。大丈夫?」


 白々しくも挨拶を返し、容体を確認する僕に、母は「まぁまぁね」と背中に手を回して軽く撫でる。


「朝ご飯どうするの? お金持ってないでしょ」と、身体を起しかけた母の肩に手を置き、ゆっくりとベッドへと戻す。


「多分、この後警察がここに来るだろうから、そしたら僕が事情を話すよ」


 母は何も言わず、天井を見詰めていた。


「今から父さんのとこにも行ってくる。目を覚ましたかもしれないから。二人は何も言わなくていいよ。僕が刺したってことに頷いてくれるだけでいいから」


 母は目を閉じ、「そう」とだけいい、数秒後には浅い寝息を立て始めた。


 僕は暫くの間、母の寝顔を見ていた。目尻に数本の皺ができていた。僕の知っている母は、決して美しくはないけれど、肌は割と綺麗なほうで、紫外線をあまり浴びない為か、化粧をしなくても外を出歩けるくらいにはつややかだったと記憶していた。しかし、近くで見ると豊麗線ほうれいせんやくすみが見て取れ、三十代半ば相応の顔立ちになっていた。


「それじゃ、ちょっと行ってくる」


 僕はそっと部屋を出、父の病室へと足を向かわせる。



「……起きてた?」


 窓の外を眺めていたらしい父に、そう声をかけると「おう」と、こちらを振り返ることもなく父は言い、「母さんとこ行ったか?」と、窓際で何かをついばむ小鳥を見ながら訊く。


「うん。今また眠ったとこ」

「大丈夫そうだったか?」

「うん。多分」

「そうか」


 元々無口な父は、これでも口数が多いほうで、ここまできちんと会話の ていがなされたのは僕が小学生の頃以来なのではないだろうか。


「……母さんにも言ったけど、警察が来たら僕が説明するから、二人は何も言わなくていいよ」

「……」


「流石に怪我人に対して問い詰めるようなことはしないだろうし、僕が刺した事実を肯定してくれるだけでいい」


 やはり父は無言で外を見遣るばかりだった。返事を期待していたわけではないので、容体にも障りかねないしと、早々に部屋を出ていくことにする。


 スライド式のドアに手をかけ、ひとつだけ伝えておきたいことがあったのを思い出す。


「こんなことをしておいて今更だけど」


 素直な気持ちを伝えることは、大人になる為の第一歩であることを、僕はつぐみさんに学んだ。


「――生きててくれてよかった」



 最後の晩餐ってわけじゃないけど、少年院に入ってからではまず食べられないであろうものを今のうちに食べておこうかなと、僕は病院近くのマクドナルドに向かう。

 お小遣いなんて残しておいても仕方ないし、この際手持ちのお金は全部使い切ってやろうと、手当たり次第注文してみた。

 トレーを山盛りにしながら席に向かい、三つ目のハンバーガーで既に気持ち悪くなっていたけれど、もったいないから無理矢理全部食べる。

 昨日はあまり眠れなかったこともあり、しかも食べ過ぎで気持ち悪いしで、僕は暫くテーブルに突っ伏しながらウトウトしてしまう。

 ハッと目が覚めたのは、正午を二十分ほど過ぎてからだった。

 僕は急いで病院に駆け戻る。警察とすれ違いになってしまったら困るし、わざわざ警察署まで行くのも面倒だ。

 しかし、僕の悪い予感はいつもいつも的中してしまうので、ここでも当然のように、警察とのすれ違いは起こっていた。

 どうやら、午前中に現れた警官は、僕が外で時間を潰している間に来て、あっという間に帰ってしまったらしい。


 母の病室に戻ると、横になって本を読んでいた母に「なんで僕がマックにいるって言ってくれなかったんだ」と問い詰めるが、母は「気付かなかった」と言い、一方父はというと、「あぁ」と、よく分からない返事を返したのみだった。


 仕方がないので、僕は自らの足で交番へと向かう。


 そうだ、初めから出頭しておけば良かったんだ。面倒だからって、向こうから来るのを待っている必要なんてなかったんだ。最寄りの交番だっていいんだし。僕が自供すれば、それで僕は逮捕され、罪を償うことができる。


 通学路にある見慣れた交番へ着いた僕は、開口一番「両親を刺しました」と告げた。


 目を丸くしていた警察官二人は「とりあえず落ち着いて」と、息を切ら して駆け込んだ僕を宥め、お茶を勧めて「詳しく話してくれるかな?」と、悪戯が見つかった子供に説明を求めるように優しい口調で促した。


「昨日、すぐそこのアパートで男女が刺された事件がありましたよね。あれの犯人が僕です。息子の僕が、両親を刺しました」


 端的に答え、出されたお茶で喉を潤す。


「あーあれね。ちょっと待ってね」


 ひとりが席を立ち、どこかに電話をかける。残ったもうひとりが調書を取りながら更に詳細に話を聞き出す。


 僕は覚えている限りの情報を包み隠さず伝え、「イライラしてやった」とつけ加えた。


 きっとテレビや新聞雑誌の報道では『キレやすい子供が起こした事件』のひとつとして取り上げられ、あることないこと騒ぎ立てられるんだろうなと思うと 、少し両親に悪い気もしたけれど、未成年の僕の名前が外に出ることはないだろうし、何より、両親は紛れもなく被害者である。


 まぁ、矛先が保護者である二人に向くことも最近の傾向としてあるのかも知れないけれど、少なくとも傷を負った二人を負い込むような世論になるとは思えない。


「――了解しました」


 ガチャリと受話器を置き、四十がらみの警察官が僕の隣に座る。


「今ね、確認したら、その件はもうご両親から話聞いてるみたいなんだよね」

「あぁ、さっき病院に来てたみたいですからね、警察の人が。でも、どちらにしても僕がやったことは事実――」


 警察官は眉根に皺を寄せ、渋い顔をして遮る。


「それがね、お互いに刺したって自供してるらしいんだよ、二人共」

「――は?」


 お互いに? 何を言ってるんだこの人は。というか、警察はちゃんと捜査や聞き込みをしたのか?


「別々に話を聞いたらしいんだけどね、夫婦で供述が一致していたんだよ。初めに夫が妻を刺し、次に妻が夫を刺したって。整合性もあるし、状況証拠も矛盾していない。本人たちはお互いを訴える気はないらしいし、一応事件はこれで決着が付く感じなんだよね。まあまだ厳密には捜査中でもあるし、そもそも起訴されるかは検察次第でもあるけど。――しかし、君は自分がふたりを刺したと言う。これはどういうことなんだろうね」


 探りを入れている風でもなく、単純に不思議に感じているだけに見えるのはベテランが成せる技なのか、僕が頭に浮かべるクエスチョンマークの量と同じくらい、この警察官の頭にも同様のマークが浮かんでいるだろうことは見て取れた。


「でも――確かに――」

「まあ、落ち着きなさい。改めてご両親に話を伺いに行くから、君もその時は同席しなさい」


 恐らく、二人の警察官は、両親の発言を信じていただろう。両親の自供は整合性云々と言っていたけれど、一方で僕の自供は支離滅裂な部分も多分にあり、興奮していたせいか、その時の状況を殆ど覚えていなかったので、何か質問をされると「そうだったと……思います」としか返せないことがしばしばあったから、僕が両親を庇っているんじゃないかと当たりを付けていたと思う。


 ――真実は全く異なるのだけれど。


 犯人は僕で、被害者は両親。これは誰が何と言うと紛れもない事実である。

 それは僕以上に父と母のふたりが知っているだろうし、ならば何故僕を庇うようなことを言ったのだろう。


 世間体なのだろうか。子供に刺される親など、保護者失格だと負の烙印を押されることを忌避したのだろうか。


 しかし、二人の証言は食い違っていなかったらしい。


 いつのまに打ち合わせをしたんだろう。まだ出歩けるような状態ではないだろうし、そもそもあの二人がそんな話をするような関係性ではないだろう。なにせ、あれだけの大喧嘩をしていたのはたった数時間前の出来事なのだ。しかも死んでいたかもしれないのに、それでも息子を庇いたいという利害が、会話がなくとも一致したというのだろうか。


 ――信頼関係というのは、かくも不思議なものである。


 僕は二人を信じることはできていなかったけれど、二人はお互いを、罵り合いながらも信頼していたということなのだろうか。


 信頼とは、信用とは、いったい何なのだろうか。


 それはきっと、大人だとか子供だとか関係なく、一方的に、それこそ相手のことなんて考えずに、『信じる』と決めた相手に対し、ただただ無償の信を置くことなのではないだろうか。


 僕はこの先、彼らの信頼に応えることができるのだろうか。


 僕を庇って罪を背負った彼らの信頼を裏切ることなく、胸を張って大人に成っていくことができるのだろうか。


 つぐみさんが言いたかったことは、信頼にどう応えるかということだったのではないかと、今になって気付く。


 彼女は僕を信頼してくれることはなかっただろうけれど、微かにでも、僅かにでも、僕がきちんとできる可能性に賭けてくれていたのではないだろうか。


 僕は自分のことばかりで全く周りが見えていなかった、文字通りの子 供だったのだろう。

 『ガキなんだもん』というつぐみさんの別れ際の台詞は、せめてもの餞別だったのかもしれない。


 恣意的に――というか、好意的に解釈すれば、ガキではなかったら考えてもらえてたということなのかもしれないし、実はこれは脈ありとも言えるのではないかと、強引にポジティブな思考を持ってみる。


「ありえなくはない……よね」


 そう考えると、誰かに期待されることの喜びは、生きる為のエネルギーになり得るのだと実感できる。


 恐らく僕の将来を考えて、罪を被った両親と、僕の背を押してくれたつぐみさん。


 今はまだ三人だけしか僕に期待を寄せてくれてはいないけれど、『大人』になる頃には、もう少し多くの人が僕を一人前の人間として扱ってくれるのだろうか。


 まずは両親に、証言の真意を確かめに行くのが先だ。


 病院へと向かう僕の足取りは、自分でも気味が悪いくらいに軽かった。

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空不思議 入月純 @sindri

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