傘と私

たなべ

傘と私

 私はあまり傘を差さない。街で九割九分の人間が傘を差しながら歩いていても、私は傘を差さない。よく他人ひとには「傘、差さないの」とか「濡れているよ」とか心配される。それでも私は傘を差さない。霧雨、小糠雨は勿論、涙雨、小雨、気分によっては盆雨でさえも私に傘を差させない。時々、これはどういうことなのだろうと思うことがある。霧雨など弱い雨なら分かるのだ。それこそ、そんな中、態々傘を差すなんて煩わしいし、馬鹿らしい。でも私は思い返すところによると、バケツをひっくり返したような雨の時でさえ、傘を差さず、さも何も起きていないかのように振舞うことがあるのだ。そんなの、傍から見れば惨めに決まっている。天気予報とかそういう情報を得ることを怠けている堕落者か、将又、傘を買う金も無い貧乏人か。そんな風に思われるに違いないのだ。なのに私は敢えて、傘を差さないことを選択する。濡れることを選ぶ。私は惨めに思われたいのか?可哀想だと思って欲しいのか?そうして誰かに手を差し伸べて貰いたいのか?違う。どれもぴんと来ない。違和感を覚える。私はそんなことを欲しない。では何なのだ。何故、私は傘を差さない。前髪からぽたぽた水滴が垂れ、靴が不快に濡れ、持っている荷物が雨によって蹂躙されても、どうして私は放っておく?一番、妥当性のあるのが、単に奇を衒っているという結論である。私は心の表層では普通でありたい、普通でありたいと願っているくせして深層では普通であることを厭わしく思っているへきがある。大衆の習慣(ここでは雨天で傘を差すこと)に抗ってみて、気持ちよくなることがある。自らの希少性、特別性に惚れ惚れするのだ。でもこれは私だけの感覚では無い筈だ。皆誰しも、学校の文化祭で才能を発揮したいと思うだろうし、世界を救うヒーローを憧れてきたと思う。そう。だから私は、大衆の習慣に抗うことが、本質的に大衆の習慣に内包されていると考えている。異分子が少しだけ出るのは普通なのだ。寧ろ、皆が皆おんなじ行動をしていたら、おかしい。そうしたら、人間を生物だと称するのを止めなくてはならない。詰まるところ、普通がいいけど、普通が嫌という思考は実に凡なのであって、全く恥じるところではない。というか、普通を厭うようになれば、その時に、自我は一段階成長したと言える。普通でありたくないという普通はポジティブなものだ。だがそうなると自然に、普通とは何かという論議が始まってしまう気がする。普通でありたい、若しくは普通は嫌だと願う以上、明確な普通というものを見定めないといけなくなる感じがする。普通とは何か。それは単純なようで奥深い、100%の人を納得させる結論が出せない問いの一つだ。何か閉じた集合(適度に小さい)があって、その中で普通に関して議論するのは、有効な気配がする。そこでの普通を決めてしまうこともできる。「身長は150-180cm、体重は40-70kg、性別は男性か女性で、高等教育を経験している」とか決め打ちしてしまうこともできる。でもそれで良いのだろうか。なぜなら普通というのは規則では無いから。ぼんやりとして境界の無い空間、それが普通である。「これが普通」だと言ってしまえるのは同じ思想体系を持った人間の集合だけだ。例えば宗教とか。そう考えると、普通を定義するには、まず徹底した思想教育が必要そうだ。人間が幼い頃から、「これが普通です」と繰り返し、繰り返し念仏のように唱えて、刷り込ませて、そうしてそれを百年くらい、世界中で行い続ければ普通が出来上がる。勿論、これでも完璧ではないわけで、全員共通の普通は現れない。そうだ。つまりそれは、普通とは何かという疑問が無効だということだ。そんなことを考えても陽が暮れるだけ。生産性の欠片も無い。こういうことは考えるのが好きな人間たちに任せることとしよう。さて、話題は逸れてしまったが、これは傘の話だ。傘と私の話だ。それに戻ろう。これを書いているかん、私にはある収穫があった。私は、私が高校三年の時に書いた随筆を読み返した。「不幸」と題されたそれにはこう書いてあった。


 梅雨が明けたというのに、天気は散々に雨である。私は雨の日は好きであるが、雨に濡れるのは居た堪れない。靴の中の湿り気だったり、雨粒の冷感だったり。こういうものは私の意に反して襲いかかってくるので、時に非常な不快感を発生させることがある。それと、私は傘の下の窮屈な空間もあまり好まない。傘を境に生と死が隔てられている様な、そんな不気味な感触が私にはするのだ。傘の外に出てしまったら死ぬのかもしれないという緊張がある。「傘は盾で雨は弾丸」こういう意識があの空間にいると芽生え始める。傘さえ無ければこんな思いに苛まれずに済むのにと思いつつ、濡れるのは嫌なので傘を差す。私は無力である。


なるほど。傘は生と死という分類を生じさせるのか。私は不思議と得心するところがあった。今とは異なる価値観で生活していたのも分かった。濡れることを厭っていた何て。そんな時期があったのだなあと半ば感心する。ただ、それは一旦置いておいて、今は傘と生と死について考える。傘で隔てられて、外が死、内が生だとしたら、傘を差していない私はこの考えの下、死んでいることになる。大量の弾丸を頭から被り死亡。実に鮮烈で良い死に方だとも思うが、死んでしまっては元も子もない。どうすれば私は傘を差さずして生きることができるのか。考える。暫くして、高校三年の私と同じように、傘が全ての元凶なのではと思い付く。傘が無ければそもそも境界が発生しないのだ。傘を差しているから、内と外という概念が生れて、そして生と死というものが派生してくる。そうだ。そう考えると傘は邪悪だ。傘は恐怖の源だ。傘を差せば、死ぬ恐怖と大衆に飲み込まれるという屈辱が同時に襲い掛かってくるんだ。ああ厭だ。厭だ。理不尽だ。傲慢だ。暴力的だ。傘はこうして私の中で争いを生むのだ。そうしてこれを読んだ人間は下らない人間だと私を揶揄するだろう。どうしてそんな些末なことばかり気にして、また奇でも衒っているのか?とか指摘するんだろう。全く、妥当な意見だ。瑕一つ無い。しかし、(また話が逸れるようで申し訳ないが)些末なことを見逃して、無視して蔑ろにしていたら、本当に詩美で快い芸術は生れ得なかったと私は思っている(芸術など必要ないと考えている人間は一度、芸術の無い世界を想像してみると良い)。些細な事、つまらない事にこそ芸術心は宿るのだ。実際、共感を得るには物事を具体的にすればするだけ良いのだ。それに共感した時、その人はそれを芸術だと興味深いと、面白いと認めることができるのだ。芸術が分からないのは、勿論、造詣の浅深にも依るだろうが、一番はその作者に共感ができないからだ。思考が宙を舞って、狙いが絞れないからだ。でも一見、平行に見える二直線が遠く、遥か遠くで交わるように、或る時期が来たら、作者と自分とに自然と交点が生じて、その芸術を分かるようになるかもしれない。共感できるようになるかもしれない。芸術を理解した時の快感は何物にも代え難い。その瞬間、この世界に自分が存在することを真正面から肯定されたような感じがする。世界の何処かに作者がいて(又はいた)、その顔も知らない誰かと、言葉を介さず自由なコミュニケーションが取れる。これが芸術の素晴らしいところである。言葉を必要としないところが特に良い。言葉は量子的だ。不連続だ。意識は連続している、思考は連続しているのに言葉はそんな体たらくなものだから、むず痒い思いをしなければならない。思惟と言葉の間には何個も何個も歯車があって、口から発される、手で書かれる頃には思考は姿を微妙に変じ、幾らかの齟齬を孕んでいる。更にそれを相手が耳や目で受け取って、神経に伝達し、頭の中で言語化するので、もう滅茶苦茶である。中には、歯車が非常に少ない人がいて(文豪などがそれに当たる)、そういう人は、自分の考えていることをいとも容易く実世界に導入できるのだが、普通の人間には無理な話である。さて、突然だがまた話を元に戻そう。注意して言うが、これは傘の話である。傘をテーマにした文章である。だから、私は傘の話をしなければならない。傘は一昔前、権威の象徴であった。上流階級の人間のみが傘を持つことを許され、平民はそれに平伏していた。雨具として使われ出したのも近代になってからの話で、それまではずっと日除けだとかに使われていたようである。明治時代になって、西洋から洋傘が伝来し、現在、一般に言われるような傘が日本に広まった。そう考えると、私の傘を差さないという行動は一種の懐古主義だったのだろうか。まあ、でも当時を生きていない私が懐古と言っても、おかしな話ではあるとは思う。そして現に私は今が好きなのだ。過去も未来もどっちもあやふやだ。どちらも「必ず存在する」とは言えないし。だが、今を愛するということは結果的に過去も未来も愛するということなのだ。時間は連続的に流れていく(量子力学の登場でこの認識さえも危うい状態になっているのだが)。今というのは、定められない。一瞬で「今」は去っていく。範囲を区切っても区切っても、無限に分割できてしまう。いや、それは間違いだ。自然界に無限は存在しない。無限に時間を分割出来たら、いつか幅が零になって時間が止まってしまう。だから無限は存在しない。因みに言うと零も自然界には存在しない。くっついているように見える物体同士も原子レベルで見れば、電磁気力によって反発しあって、絶妙な距離を保ち続けている。街で手を繋ぎながら歩くカップルの手も、地面から生えている雑草も、全部全部、離れ離れである。そう考えれば、傘を差さなくても雨に濡れることは無いとも言える。頬を伝う雨も身体を撫でる雨も靴下を湿らす雨も、全部嘘なのだ。雨は何もしていない。それでもって傘も何もしていない。皆何もしていない。やっと、尤もらしい理由が出来た。私が傘を差さない理由。今度から、そう主張しよう。

 A「雨に濡れているよ。大丈夫?」

 私「実は濡れていないんだよ」

 A「そんなことないよ。濡れているよ」

 私「微視的に見るとね、雨粒と僕の身体は電磁気力で反発し合っているんだ。だから濡れていないよ。誰が何と言おうとね」

こんなことを実際に言ったら、相手は興醒めだろうが、いいのだ私は普通だから。冗談、ジョーク、戯れ。そう捉えてくれるし、理解してくれる。きっと皆楽しんでくれる。ああ、次の雨の日が楽しみになってきた。この愉快をあなたと今すぐ共有できないのが心底残念。

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傘と私 たなべ @tauma_2004

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