勇者が征する魔王道

綴音リコ

第1話 穏やかな日常

「さぁ、俺の手を取って?」


 雲間から射し込んだ月明かりが、彼の翠の瞳を透かす。

 光が反射して赤い閃光を放つそれは、まるでスフェーンのように神秘的だ。


「不実の罪で穢されてなお、貴女はなんて気高いのでしょう」


 大仰な素振りで額に手を当てた青年は、もう一度少女に手を差し伸べた。

 にんまり笑う様子は、御伽噺に出てくる妖しげな猫のよう。

 怨嗟、諦念、安堵、感情に支配された彼女の眼にいつもの理知的な光は灯らず、ただ安寧を求めて手を伸ばした。

 しっかりと掴んだその細い手を見て、青年は口の端を歪めて嗤う。


「朽ち果てる世界で、永遠にワルツを踊りましょう」



 *



「瑠璃、るりー? 起きて、るり!」


 うぅーん、うるさい。

 聞き慣れた級友の声と無遠慮に肩を揺すられる感覚に、月瀬瑠璃は不機嫌に瞼を抉じ開けた。

 途端に目に入った光は柔らかいオレンジ色をしていて、どうやら数刻ほど眠ってしまっていたらしいことが伺えた。

 心地好い眠りから強制的に起こされ、瑠璃はギラリと真横を睨んだ。


「せっかく素敵な夢見てたんだけど?」

「何言ってんの、いつも夢なんか見ないくらい爆睡でしょ。耳元でゾウがタップダンス踊っても起きないでしょうに」

「はぁ? そんなわけないでしょ喧嘩売ってんの?」


 あぁん? と綺麗な少女にあるまじき表情を浮かべて凄んでみるが、長い付き合いである彼女には効きやしない。

 鼻を鳴らした彼女が、壁に掛けられた衣装を指さした。


「ほら、あと一時間であんた達〈魔王討伐軍〉のお披露目パーティが始まるでしょ! ぼさっとしてないで、髪整えるから着替えて座って!」


 面倒だと憎まれ口を叩こうとした口は、友人の鋭い眼光によって閉ざされることになる。彼女は高嶺の花と持て囃される瑠璃の唯一の本当を知っていて、唯一制御できる貴重な人物だった。

 ふくれっ面を隠さずドレスに袖を通し、備え付けのドレッサーの前に腰かける。逃がさないとばかりに、すぐさま友人が背後を取り瑠璃の髪を梳かし始めた。


「にしても、この半年で色々あったよねぇ」

「……そうね」


 ふんふん、と瑠璃と反対に機嫌のよさそうな声を聞きながら、瑠璃は今までのことを回想するかのように目を伏せた。


 友人の言う通り、高校生だった瑠璃たちを取り巻く状況はここ数ヶ月でガラリと変化した。

 瑠璃が在籍する2年A組がこの美しき世界に飛ばされたのは、受験を仄めかされるようになり始めた11月のこと。その日は朝日をいっぱいに含んだ教室でHRを行っており、気が付くと生徒だけで非現実的な空間に立っていたのだ。

 戸惑う彼らを出迎えたのは桃色の髪を持つ愛らしい少女で、彼女は自身を聖女と称した。


『突然このような手荒な手段で勇者様方をお招きしてしまい、申し訳ございません』


 澄み渡る湖色の瞳を潤ませた聖女は、弱々しく眉を下げてそう言った。

 曰く、この世界は魔王の手によって脅威に晒されているとのこと。魔王は並外れた力を有しており、倒すには多くの犠牲が必要である。しかし異世界より召喚せし勇者たちであれば、その光の力で魔王を倒すことができる。

 簡単に言えば、世界を跨いだことにより特別な力を持った瑠璃たちに、勇者として魔王討伐に出向いてほしいということだった。

 普通ならパニックになってもおかしくない状況だった。そうだというのに誰もが期待に満ちた笑みを浮かべていたのは、一体何故なのだろう。

 異世界転移のチート系ラノベが流行っていたから。受験という人生の大きな分岐点を前に誰もが漠然とした不安を抱えていたから。それともただ単純に、目の前の儚げな少女のことが可哀そうになったから?

 理由は何であれ、当時のクラスメイトの表情は喜び一色で、冒険への期待感に満ちていた。

 剣や弓、魔法薬の調合、文献の研究。それぞれが有するスキルを存分に活かし、彼らは訓練に明け暮れた。さらにこの世界の常識や知識を学び、少しずつ新しい生活に順応していく。未知の力を扱い、目に見えて成長していく自分を見て、この暮らしを苦に思う生徒はきっと一人もいなかった。


 ——そうして異世界召喚の目的であった魔王討伐へと選抜メンバーが向かったのが三か月前。

 〈魔王討伐軍〉に抜擢された瑠璃は、同じく選ばれた四人のクラスメイトと聖女と共に見事に魔王を打倒した。が、道中で問題を起こしまくる級友たちを制御する方が難しかったと断言できる程度には呆気なかった。

 ギャーギャーと耳障りな喚き声を上げて魔剣を振り回す姿は明らかに小物臭くて、聖騎士の称号を賜ったクラスメイトが軽く小突いただけで勝敗が決まった。これにはいつもうざったく暑苦しい聖騎士も拍子抜け。

 目をぱちくりさせてこちらを振り返られた時は、流石の瑠璃も目を逸らした。

 まだ暴れたりないとうずうずしているパーティメンバーを宥めつつ聖女に説明を求めれば、口許を引き攣らせてニコリと笑う彼女。


『ちょっと、明らかに弱すぎない? 本当に魔王なの?』

『えっ、あっ、えーと……それはほら、聖騎士様が強すぎただけですよぉ! 流石は異世界からの勇者様方、素敵ですぅ! ……あのぼんくら王、全然話と違うじゃない、どういうつもりなわけぇ……?』


 緩く巻かれたサイドテールを揺らして小首を傾げる姿をじっとりと瑠璃が見詰めても、聖女はその場を盛り上げるように両手を合わせて声を張った。


『わぁ、あっという間に倒してしまうなんて、流石は勇者様方! 皆さん、早く城へ帰ってこの偉業を国王陛下にご報告しなくては。きっと褒美としてたくさん素敵なものがいただけますよぉ!』

『えぇ! それって豪華なご飯とかぁ?』

『あたし最近新しいコスメ欲しかったのよね~』

『もちろんですとも。さぁ帰還しましょう。勇者ご一行の凱旋です!』


 なんかこの女怪しくね、なんて考えるのはどうやら瑠璃一人だけであったらしい。

 聖女の勢いと報酬に目が眩んだらしい魔王討伐軍は、目を白黒させつつ帰路に着いた。

 帰り道の太陽は煌めく海面に半分ほど身を隠していた。焼けるような豪奢な朱に、夜の帳が混じり合う。憂愁を帯びたその光景は、息を呑むほど美しく、まるで未来を憂うような色だった。


 狐に抓まれた感覚に陥る旅が終わり、国王に魔王の討伐を報告したのが二日前。国王は跪いた魔王討伐軍を見るや否や、非常に動揺した素振りを見せた。


『な、何故生きて……あ、いや。んん、よくぞ戻った、勇者たちよ。此度の活躍、誠にご苦労であった』


 今何故生きてるって言った? 言ったよね??

 信じられない言葉が聞こえた気がしてガバリと顔を上げれば、国王は慌てた様子で言葉を取り繕い、披露宴を開くと告げた。

 パーティとなれば豪華な食事もお目いっぱいのお洒落もし放題、そして招待されたこの世界の誰もが自分を讃えてくれる。承認欲求の強い高校生にはこれは効果覿面で、はしゃぐ高校生たちをメイドに押し付け、国王はその場を去った。

 しかし些細な違和感は、瑠璃の不信感を募らせるには十分すぎるものだった。いくらファンタジックな体験をしているからと言って、クラス全員が完全にここの住人を信頼しているわけではない。

 もちろん不思議な運命に心が躍らないわけでなはないが、物事には限度というものがある。将来に確固たる夢があったり、現実世界で譲れないものがある生徒たちは皆少なからず焦燥感や不安感を抱いている。瑠璃はその筆頭だった。

 元の世界では自分たちはどのような扱いになっているのか。そもそも元の世界に戻れるのか。そんな疑問を抱えながら雑魚を倒し帰還して、ここに来てこの発言。

 ゾッとするなんてもんじゃない。

 きゃいきゃいとはしゃぐクラスメイトたちを前に、瑠璃は黙りこくるしかできなかった。


『はい、完成! いやぁ流石私、いい腕してるわぁ』


 ふっふ~ん、と自慢げな声に、沈んでいた思考が浮上した。

 気付けば鏡の中では目の覚める青のドレスを身に纏った妖精のような少女がこちらを覗き込んでいた。尤も、その表情ったら酷いものだったが。


『さぁ行こ、瑠璃。主役が遅れちゃ大変でしょ』


 いつの間か深緑のドレスに着替えていた級友が、憂鬱そうな瑠璃の手を引っ張った。



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