物部奏はちょっと物騒

龍田乃々介

物部奏はちょっと物騒

「じゃあ、とにかくドキドキしてもらえたら、わたしのことを好きになってくれる……ってこと?!」

昼休み、女子トイレの鏡の前で二人の女生徒が話していた。

「まあ……そういう解釈でいいと思うけど……」

アイデアをもらえた女子は胸の前で両手をぐっと握り気合の程を示す。

「わかった……!わたし、家をお化け屋敷にする!庭にお経書いた木ぶっ刺して、骸骨を玄関からぶら下げて、床に穴ぶち開けて生腕を」

「やめろやめろやめろ。せんでいいよせんで」

片手を振って制止し、もう一方で眉間を抑える。友人は彼女の本質をよく知っていた。


「はぁ……。かなではさー、素のままで十分こえーから……」



二年生になって初めての中間考査を一週間後に見据えた日曜日。生田存人アルトは春風の心地よい晴天の下、扉が開かれるのを待っていた。

「……あと二分したらもう一度メッセージ送って……それからインターホン押してみようかな」

洋風の小さく冷たい門の向こうにある一軒家の扉は、彼の最新の友達が住まう家のものである。

その友達は、少し奇妙だった。始業式のあと帰宅部仲間と帰ろうとするアルトを呼び止め、こう申告してきたのだ。「わたしたち、おともだちになりませんか?」地味だが整った顔立ちの、三つ編みおさげの少女だった。アルトはこれを快諾した。

「休みの日の物部もののべさんってどんななんだろう……やっぱ文学少女スタイルなのかな」

物部奏もののべかなでについて彼が知っていることは多くない。去年も同じクラスだったこと。席が二回隣接したらしいこと。恥ずかしがりで喋るのが得意じゃないこと。はっきり知っているのはそのくらいだ。

他には、予感していることが一つ。

「物部さん……やっぱり、俺のこと……」

今日彼は、それをしかと知ることができるのを淡く夢見てやってきた。春の陽気に惑わされ、奥ゆかしく閉じられた扉が開き本心が聞けることを、そしてその先の関係性が現実となることを期待して……。

熱のある目で軒先を見つめるアルトの肩が、突如後ろから叩かれる。

「お待たせ!ごめんね、生田くん」

「うぉわっ!!!!」

驚きのあまり仰け反って車道に飛び出しそうになるアルト。その手首をがしりと声の主は掴んだ。

「あぁっご、ごめん!急に声掛けて、危なかったよね、ごめん……」

「え、あ、物部さん……!?」

汗ばんだ手で彼を繋ぎとめていたのは、さっきまで彼が見つめていた家に住むはずの物部奏だ。だが彼は奏が外へ出てくる瞬間を目にしなかった。

「あ、ありがとう、手……」

「あっ、ごめんいつまでも握ってて……わああ手汗、ごめん、なにか拭くもの……」

「いや気にしないで!それより、えっと、なんで後ろから出てきたの?」

「それは、その……」

奏は後退りして細い指をお腹の前で合わせくるくると回す。やや悩んで言うには、

「後ろから……声を掛けたくなって……」

「……? それは、なんで?」

「す……すき……隙だらけだったから……」

「隙だらけだったから!?」

目を白黒させるアルトに奏はさらに説明を加えるが、彼の耳には入って来ない。今日はもしかしたら告白されちゃうかもな、へへ。そう考えていた自分の甘さを反省し、己の油断を見つめなおすことにした。

この子は、もしかすると今まで奥手だっただけで実は、ちょっとやばい子なのかもしれない。

そんな不穏な予感に肌がひりつくのを感じながら。冷たい鉄の門が開かれ、アルトと奏は物言わぬ重々しさの漂う家へ入っていった。



奏の部屋に通された。

「わたし、飲み物取ってくるね。くつろいでて」

「あっ、はい……」

白のレースを基調とした女の子らしさと高級感を両立させるインテリア群は彼女が豊かな環境で大切に育てられたことを感じさせた。座り心地の良い座布団に手触りの良いカーペット、普段はしまわれているのだろう折り畳み式の低い円卓、本棚には生地の厚いカーテンで目隠しがされていて「あの」

「はい!」

びくりとしたアルトの脊髄から返事が飛ぶ。耳元で聞こえたかのような細くもはっきりした声は、ドアの外から聞えていた。

奏が出て行ったそのドアはよく見ると少し開いていて、隙間から廊下が見えている。

「……あんまり、見ないでくれると……」

するすると白い指が隙間から内側に侵入してくる。

「……助かる、かな」

ころっと首が落ちたような勢いで指の向こうに顔が現れた。奏の目元だけが見えていた。二つの眼が、確かにアルトをとらえていた。

「はいわかりました!」

「……………………敬語……」

言い残した言葉が幻だったかのごとく奏はまばたきのうちに消えた。



戻って来た奏は紅茶の入ったティーカップと、皿に盛られた一房のマスカットをトレーに載せていた。

「アレキサンドリアだよ。お母さんが二人で食べてって」

勉強前の糖分補給だね、と言いながら奏はカップとマスカットを手際よく配膳する。アルトの手前にはあっという間にお手拭きと紅茶、そして高級そうなフルーツが並んだ。

「い、いいのかなこんな高そうなもの頂いちゃって……」

「貰い物だから気にしないで。それにこういうものは、お客さんが来たときに食べるものだから、むしろちょうどいいタイミングだと思うよ」

「そうなんだ……」

そういわれたものの、アルトの指は大粒のマスカットへはなかなか向かない。手を拭き、半端に伸ばした手を少し引っ込めて紅茶を手に取り、そういえば紅茶を飲むときにはマナーがあるらしいことを思い出し、しかし何をしてはいけなくて何をどうすべきなのかが思い出せずソーサーの上に戻す。ちらりと奏の方を見た。

奏は彫像のように凛とした姿勢で固まり、作り物のような真顔でアルトを凝視している。

「ごめん、紅茶を飲むときのマナーがわからなくて……」

「……はっ。あ、ああいや!いいのいいの!気にしないで!」

何か粗相をして咎められていると思って謝るアルト。手をぶんぶんと振って誤解を解こうとする奏。二人の攻防はしばらく続いた後、奏が先に食べて見せることで終着する。

「最初からこうすべきだったね……。ふるまう方が先に食べて毒がないことを証明しなくちゃ」

「毒の心配はしてなかったけども……」

奏はお淑やかな仕草でカップに口を付ける。心臓の音さえ響きそうな静かで張り詰めた空気の部屋で、しかし彼女が紅茶を啜る音は聞こえない。一口分を飲み終えた奏が陶磁器の触れ合う繊細な音と共にカップを置いて、芸術的な所作がそこに完成した。

「お、おお~~」

ただ飲むという動作をここまで洗練できるものなのか。アルトが思わず拍手をぱちぱちと鳴らし賞賛を贈ると、顔を真っ赤にしたご令嬢はまたも手を振って恥ずかしさを紛らわす。

「わ、わたしのことはいいから!ほら生田くん、気にせず飲んで食べて楽しんで!こっこれ、マスカットも、おいしいよっ!はいっ!」

あたふたとした動きで一粒のぶどうを摘み取った奏は机に手を突き前のめりになる。精一杯伸ばした腕の先、枝のような白く細い指先につままれたエメラルドのような果実は、アルトの口元へ迫っていた。

それは、恋人同士の恥ずかしくも仲睦まじいコミュニケーションの一種として社会一般に知られる行為、「あーん」であった。

「あ…………、あーん……」

奏も口に出して言った。

「え、あ、えっ、……っとぉ~…………」

瞬間。アルトの脳は時を縮め、その可憐な指に宿る宝石を己が下賤な口で受け取ることの是非を厳正に審判した。いや、結論は議論する前から決まっていた。ただそれを押しのけるか否かの欲望と誠実の戦いが繰り広げられたのだ。差し出されたものを受け取らないのは失礼だ、指に触れなければ舌で受け取っても構うまい。誠実ぶって主張する欲望。口で受け取るなどというはしたない真似が気になる女性の前でできるものか、そういうのはちゃんとした関係になってからである。欲望に怯えた誠実。相反しながら混ざり合う心の戦争はマスカットに付着した水滴が皮の上を滑る数秒の間に幾星霜と繰り返され、その戦いは緑の宝玉がその唇に触れるまで続くかに思われた。

しかし戦争は、いつも勝者なく終わる。

「ごごごめっごめんっ!ごめんね!わたしったら、ヘンなことして!」

細く白い枝にったエメラルドはふいにアルトの前から消え、我に返ると、そのマスカットは引っ込められた奏の手の中に納まっていた。

ああ、甘酸っぱい瞬間だったな。回顧するアルトの口内に甘酸っぱい汁が満ちることはなく、その胸の内は苦汁で満ち満ちていたが。


「ごめんね生田くん……食べさせるなんてそんな、畜生扱いだったよね……」

「いや……、えっ?」


手中の果実をぱくりと一口にする奏。そのアレキサンドリアはとても甘いはずだが、彼女の目の端には涙が浮かんでいた。



「ところでさ、お隣の部屋って物部さんのお姉さんの部屋?」

円卓に向かい合わせで問題集を開いて一時間というころ。アルトはなるべく平静を装って訊いた。

「うん……あ、生田君耳いいんだね。うるさかった?」

「や、そんなほどではないんだけど……」

壁の向こうから小さく話声のようなものが聞こえる。さっきのことがあって気まずい空気になり、逃避するように無言で勉強していたものだから部屋が静かだ。なのでぼそぼそとした声でもアルトにはよく聞こえていた。

「ちょっと黙らせてくるね」

「いや!そんなほどではないよ!大丈夫大丈夫!」

「そう……?」

立ち上がり部屋を出て行こうとしていた奏を何とか座りなおさせる。あのまま行かせて声が聞こえなくなったらかえって怖い。そう思ってのことだった。

シャープペンシルを置き、気に障ってしまわぬようこっそりと溜息をつく。

奏の家に来てからというもの、少しも心が休まる瞬間がない。後ろから突然肩を叩かれたり、部屋の隙間から覗かれたり、物騒な物言いも一度や二度では済まなかった。

そう、物騒なのだ。奏は。

腕を組み思考を巡らせてみるアルト。なぜなのか、こんなにこの子が危なくて恐ろしい存在に感じられるのは。見た目はこんなにも大人しそうなのに。そう、見た目はいかにも文学少女といったオリーブ色のトップスにチェックのロングスカートで……

「あ、そういえば」

「はっ、はい……?」

心臓が忙しすぎて、今の今まで彼女の私服がとても似合っていることに少しも触れることができなかった。そんな失礼があっていいのか?アルトは心の中で首を横に振る。

「ごめん、言うタイミング逃してた。今日の服すごいかわいいね。似合ってる」

「…………ぇ、ぁ、はは、へへへへ……」

顔を赤くして照れ笑いをする彼女。その笑顔に惹かれるものがあるのをアルトは感じていた。それと同時に、脳のどこかで音のない赤ランプがくるくると回転明滅しているような違和感も。

「今まであんまり触れた事なかったけど、もしかして物部さんってこう……人がいっぱい死ぬ小説とか読んでたりする?」

「えへへ……、え? えっ、小説?」

思い切って聞いた。彼女の人を緊張させる言葉遣いや行動は、もしかするとあのカーテンに隠された本棚の本から影響しているのではないか。このお淑やかな少女が一体どんな本を読んできたらこんな危険な匂いのすることになるのか興味が湧いたのだ。

「ほら、その本棚。普段どんなの読むのかな~って」

「あ、ああええといやそのこの棚はなんていうか本なんてそんな面白いものないっていうかいや面白いものじゃないってことは全然ないんだけどそれはわたしにとってっていうか生田くんが見てもむしろ引いちゃうかもなあって実は片付けるつもりだったんだけど場所がなくて」

「ええ~?気になるなあ~。大丈夫だよ、僕結構本読むほうだしどんなジャンルでも気にしない……」

言いながら視線を本棚へ滑らせた。その目に入って来た光景は、不可思議にして異様であった。


さっきまで閉じていた棚のカーテンが、いつの間にか開いている。


白い棚の中を埋め尽くすものに目を疑った。それらは写真だった。

無数の写真だ。小さな部屋の壁紙かのように一人の少年が映った写真が何枚も貼り付けられ、さらにその上に人型の輪郭に沿って切り取られた少年の写真がピン止めされている。それは三つある空間の中の中段で、上のスペースには同様の壁紙に加えて少年の写真を使ったアクリルスタンドが、下のスペースには少年のものらしきハンカチ、消しゴム、ジップロック入りの毛髪が見えた。


写真の少年は、生田存人アルトだ。


「………………」

「えっ……あれ、なんで、閉じてたはずなのに……」


アルトが奏を知ったのは二年の始業式のあとであり、その以前以後に写真を撮られた記憶はない。

写真の中のアルトもそういった表情をしていた。


「これ……僕の……と、盗撮……?」

「……………………生田くん」


恐る恐る声の方へ振り向く。

丁寧に切り揃えられた前髪の影が奏の目元を暗くしている。

「生田くん」

平坦で、冷たい調子の声。色のない肌と無機質な表情。


しかしその瞳は潤み、震えていた。


「ず、ずっと前から……好きでした…………」


大粒の雫を目元に湛え、苦しさを引き絞ったような声になって言った。


「教室で聞こえてくる生田くんの話が面白くて、ついつい意識してたらいつのまにか見つめるようになってて、見つめすぎてバレちゃったらと思うと怖くて盗み撮りするようになって、つい出来心で飾ってみたらすごく幸せな気分になって止まらなくなっちゃって、気づいたらこんなふうになってて……!」

「そ、そうなんだ……」

「でもこんなのいけないよね、犯罪だよね……」

「それはまあ、そうかも…」

「自首します。ムショの中から生田くんの幸せを願ってるね……」

「いやいやいやいや」

混乱。アルトの脳内は怖気の走る事実と惚気るような告白が錯綜し一つの考えにまとまらない。知らないうちに油断した姿を撮影されたた挙句飾り立てられていたという屈辱とそれをおくびにも出さず実行し秘匿していた少女は、目立った特徴もなく平凡だと思っていた自分をたった一人の特別だとこれ以上ない形で証明してくれた少女でもある。

自分はどうすべきか。彼女は自首すると言っている。盗撮にはどんな罰が下る?懲役したら会えなくなる?そうでなくても前科がつけば社会から冷ややかな目で見られることは間違いない。もしかしたらこの綺麗な家には住んでいられなくなるかもしれない。引っ越してしまうかもしれない。会えなくなるかもしれない。それは、……それは。


「物部さん」

「……はい」

「いや、奏ちゃん」

「…………は、へ?」

「これは盗撮じゃないよ。実は知ってたんだ。君が僕の写真撮ってたの。そう、黙認してたんだ」


 僕はまだ、彼女のことをよく知らない。

 去年も同じクラスだったこと。席が二回隣接したらしいこと。恥ずかしがりで喋るのが得意じゃないこと。言動がちょっと物騒で、そして僕のことを盗撮しまくった写真で棚に飾りつけスペースを作っちゃうくらい好きなこと。

 それくらいしか、まだ知らない。

「気にしてないよ。自首なんてしなくていい」

アルトは奏の頭に手をやり、ぎこちなくもゆっくりと撫でた。安心してもらえるよう、心が伝わるよう、祈るように、ゆっくりと、何度も、何度も。

「う、うう……」

両手で顔を覆い、奏は声をあげて泣いた。

アルトはその隣に座り直し、その涙が流れ終わるのをただ穏やかな顔で待つのだった。





「結構大きい声で泣いてたけど、部屋の外まで聞こえたりしたかな。いや、僕が奏ちゃんに酷いことしたと思われてたらどうしよー……なんて」

「あ……、ごめんね、一昨日から旅行でお父さんもお母さんも今家にいないの」

「えっ?」

「隣の部屋はずっと物置で、お姉ちゃんも元々いないから、心配しないで」

「え、…………えぇ???」



「それじゃあ、あの棚のカーテンは?」

「………………さぁ……」

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物部奏はちょっと物騒 龍田乃々介 @Nonosuke_Tatsuta

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