フミと白武4─少女と魔物─





 ──それは、フミが白武にすべてを打ち明けた、あの最後の夜の日のこと。





 障子を静かに閉め、フミはひとつため息をつくと、重い足取りで自分の寝床がある部屋へ戻った。


 そこは白武が使い童を呼ぶ前までは物置きとしていた場所だった。

 使い童として初めて入城し、最初に白武に案内されたその場所を見た時、フミはとても驚いた。

 薄暗く、狭く、埃っぽく。書物や骨董など物が溢れて足の踏み場もない、とても人が横になって寝るような場所ではなかった。

 フミはいまだに、あの時の白武の顔を憶えている。

『恥ずかしい話だが、私は片付けが苦手なんだ』

 消え入りそうなほどの声でポツリと呟いたその顔は、とても恥ずかしそうにしていた。自分の村を訪れる時の白武は凛とした立ち振る舞いで威厳を感じさせていたのに、まさかこんなにもだらしない一面があるとは思わなかった。


 フミの使い童としての初めての仕事は、この物置きを整理することだった。





 もうあの雑然とした部屋の面影はない。布団と、小さな文机だけがその部屋にある。フミはゆっくりと布団に潜りながら、足元に目をやった。明日のためにまとめた自分の手荷物が、一つ。三年間ここで過ごしてきたが、荷物と言う荷物はこれだけ。ほとんど着の身着のままでやってきて、また着の身着のままで鎮西山へ帰る。最後は笑顔でここを発ちたかったが、それだけは叶わなかった。

 とても大きな後悔と、そして不安、そして未だ気になるのは、あの少女のこと──。


 あの書面を取締方が持ってきたということは、おそらく、少女の身に何かが起きたということだ

 (──無事だろうか)

 (──折檻を受けていないだろうか)

 (──また違う場所に幽閉されているのだろうか)

 (──もう外に出ることはできなくなったのだろうか)


 殿の妻だから近づいたわけではないにせよ、やはりフミが起こした行為は不貞であり、死罪となるほどの重い過ちである。

 しかし、あの少女が殿の妻では無かったのなら、何の身分も無かったのなら、もしかしたら連れ出すことも考えたかもしれない。だが、結局は地位に平伏しひざまずく自分は、強者には抗うことのできないただの卑怯で臆病なネズミなのだと、フミは酷く自分を蔑んだ。それどころか、今まで本当に良くしてもらった主の白武の顔にも泥を塗り、連帯責任で厳罰を受けるかもしれない。不甲斐なさに涙がまた溢れる。

 フミは布団を頭まで被り、ただただ、このまま何も起きずに白武の日常が続くことを、そして少女の無事を願った。

 雨は続く。先程よりは弱まりながらも、屋根を穿つほどの雨音は手加減を知らない。

 フミは鎮西山を思い浮かべた。

 名木が畑に植えて芽を出したという苗が、この雨で流れずにいることを願った。






 そして、それは夜も更けた頃であった。


 空はまだ暗く、明け方まで遠い頃。寝所の障子が僅かに開いた音がした。

 続いて、床が軋む足音。それはとてもゆっくりとしており、誰かに気付かれることのないように慎重な足取りであった。

 最初は隣の寝所の音かと思っていた。その部屋には使い童が三人おり、就寝の時間になっても騒いだりこっそりと夜中に部屋を抜け出すので、フミは時々寝不足になるのだった。


 だが、どうも様子が違う。

 足音が一人、二人、三人と数えたところで、さらにもう一人が増えた。

 そこでようやく気付く。

 これは、隣の部屋の足音ではない、と。



 フミが勢いよく身体を起こすと、そこには白武ではない大人──昼間訪れた取締方が三人と、縄に繋がれ、噛ませ布をして酷く憔悴した少女がいた。



 少女は、フミが今まで文字を教えていた、あの少女──殿の妻だった。



 慌てて立ち上がろうとするフミの後ろに、いつの間にか三人のうちの一人が背後に回り込み、喉元に小刀を当てた。「騒ぐな」という声はとても小さく、しかし酷く冷酷で、フミは後ろ手を縄で拘束される。少女はそんなフミを見ながら、泣いていた。何かを訴えようとするも、噛ませ布が邪魔をして喋ることができない。少女の背後にいた男が、頭を殴った。

米多めたフミ。この女に見覚えは無いか」

 雨音は強い。部屋の中の潜め声など掻き消すほどに。

 少女は首を振っていた。その仕草が「何も言うな」「知らないと言え」と訴えていた。


 もう既に、男らがここに少女を連れてきた時点で、フミが犯した罪は白日の下に晒されていたのだ。


「……彼女を知っています」

 

 その返事に、少女の声にならない悲痛な叫びを上げると、男がまた殴る。それでも暴れようとする少女に向かって「それ以上騒ぐなら、今ここで殺す」と、フミの後ろの男が小刀を肩に浅く突き刺した。痛みで顔が歪む。目の前でこれから起こる絶望に打ちひしがれた少女は項垂れ、これ以上騒ぐことを止めた。

「来い」

 二人は男に無理やり連れられ、縁側から降りて東院の庭を横切る。いつもは静かな庭が、よりによっての大雨で砂利を踏みしめる音すら聞こえない。静かな夜であればその音だけで目が覚めるほど、そこは静寂に包まれていたからだ。


 フミは横目で、白武がいる寝所を見た。

 自分がこれからどうなるのか、分かっていた。

 せめて主の無事だけでもと、心の中で祈り続けた。









 しばらく歩かされた先に、見覚えのある木枠の格子扉があった。それは少女が過ごしていた半地下の座敷牢であった。

 男たちは鍵のかかっていない扉を乱暴に開けると、階段を数段降りていく。フミも男に押される形で中に入る。とても黴臭く、暗く、土竜もぐらの寝床よりも劣悪な環境だった。

「入れ」

 少女は麻縄と噛ませ布を外されると、男に蹴飛ばされる形で座敷牢に押し込められ、外側から鍵を掛けられた。木の格子越し、少女はフミに手を伸ばす。だが届かない。こんなに近くにいるのに触れられない。

「もう自分が何をしたか分かっているな、お前は殿の妻をたぶらかした」

 顎を掴み、大声で凄む。骨が砕かれるほどの力に顔が歪むも、フミは抵抗などしなかった。男を睨み、決して怯えず、堂々とした顔はまるで自分の行いが正義に基づくものだと言わんばかりであった。

「誑かしたわけではありません。私は彼女に読み書きを教えただけです」

「綺麗ごとを抜かすな!」

 男は無抵抗のフミの鳩尾を力いっぱいに殴る。格子の向こうで少女が叫ぶ。やめろ、そいつは関係ない、何も悪くない、と。だが、その切実な叫びが届くはずもなく、再び男がフミの腹を蹴った。よろめき、その場に踞る。

「正直に言え、本当は男女の交わりをしたのだろう」

「違います、私はただ、文字をその子に教えていただけです」

「まだ言うか」

 再び腹を蹴られて、フミは背中を丸め、死にかけの芋虫のように横たわった。今までに味わったことのないような壮絶な痛みに堪えながら、霞む視界の中、格子の向こうの少女を見る。

「白武は阿呆の子と言ったな。なにが阿呆の子だ、人に教えるほどに読み書きができるではないか!」

 男に言われ、フミは我に返った。完全に墓穴を掘ってしまった。昼間、白武が取締方の前で、嘘をついてまで自分を庇ったことが露呈したのだ。だが今更訂正など出来るはずがない。

「……文字を教えることの、何が悪いのですか」

 痛む腹に気が遠くなりながら、言葉を紡ぐ。もはや、フミの命運は尽きた。どうせ死ぬのだ、殺されるのだ。ならば、せめて腹に溜まりかねた思いを全てぶちまけようと、なけなしの気力を振り絞る。もういい、もう喋るな、と少女が泣いた。

「開き直りやがったか、小僧!」

 今度は頭を蹴られて、フミはもう、起き上がる気力すら消え失せた。血の気が引き、視界は霞み、周りが自分を罵倒する声すら遠くなる。


「止めろ」


 また一人、聞き慣れない男の声が聞こえた。

 その声に、男たちは一斉に振り返ると、慌ててその場に額をつけて平伏した。ゆっくりと近付く足音が誰なのかフミは目を細めるが、ぼやける視界ではよく分からない。


「してしまった事は仕方ない、そう子どもを痛め付けるな」


 そこに入ってきたのは、側近を連れた榮の国の殿、豊添とよぞえであった。


「出しなさい」

 豊添は座敷牢を指差し、平伏した一人にそう声を掛けると、男はすぐに立ち上がって座敷牢の鍵を開けた。少女は泣きながらフミに駆け寄り、ボロボロになった身体を抱き締める。フミは薄れる意識の中、何も言うことができなかった。

「助けてあげなさい」

 その言葉を待たずとも、少女はフミの身体に手を翳していた。何かを願うように目蓋を閉じて、頭から顔、顔から胸、胸から腹と、ゆっくりと手を動かす。手を当てたところから、ぼうっとした暖かさが感じられる。まるで穏やかな春の陽射しのような、そんな優しい暖かさであった。

 男に殴られて赤黒く染まった頬は元の美しく健康的な肌の色に戻り、あれだけ気が遠くなるような痛みも息苦しさも、いつの間にか消え去る。まるで最初から暴力など受けなかったかのように、フミの身体は綺麗さっぱり、元の姿に戻ったのだ。

「フミ……」

 名前を呼ばれ、ゆっくりと目を開いたことを確認すると、少女はフミを力一杯に抱き締めた。無事を確かめ、喜びながら、フミの胸元で声を上げて泣く。

 だが、フミは助かった喜びよりも少女とこうして手を取り合えた喜びよりも、白武から聞かされていた半信半疑のようなある話が、紛れもない真実であったことに愕然としていた。

 この少女が誰にも殿の妻と公にされないまま、座敷牢に長く幽閉され続けた理由が分かったのだ。

「君は……」





 ──少女は所謂、『魔物』であった。


 白武からは常々聞いていたのだ。

 この城は伏魔殿である、と。


 ──この城には表に出ていないだけで、『魔物』が大勢いる。先代の殿から今の豊添に変わってからというもの、城内は酷く殺伐と、そして混沌を極めていた。

 今まで仕えていた士官も近衛隊も、中央院の顔触れも、ある日突然入れ替わり、城内は知らない人間で溢れかえった。城を追い出された者の行方は分からない。風の噂では南の平原にて、裸のまま野垂れ死に鳥の餌になったとも聞く。

 全て、この豊添と、彼が連れてきた『魔物』の仕業である。彼らは常識ではありえないような摩訶不思議な力を以てして、榮の国はおろか、七国を乗っ取ろうとしている、と。


 白武があれだけ取締方に嫌悪感を露骨に表したのは、そういった経緯があるからだ。先代の殿の時代の取締方は理路整然と悪を裁き正義を見定め、城内の秩序と平和を保っていた。

 だが豊添によって全員刷新された取締方は、理不尽極まりない理由で人を吊し上げ、真実を見定めるまでもなく言語道断で罪を被せて罰を受けさせる。もはや城内の秩序などというものは完全に失墜した。


 「ありがとう」

 フミはゆっくりと起き上がり、まずは少女に礼を述べた。白武があれだけ嫌悪の対象としていた『魔物』が、涙を流して目の前にいる。そして、その魔物はフミを助けたのだ。

 本来ならば忌み嫌うべき対象なのかもしれないが、フミはどうしても、彼女のことを嫌いにはなれなかった。それは助けてくれたから、だけではない。

 彼女の顔が、立ち振舞いが、自分を呼ぶ声が、どうしても『伏魔殿に住まう魔物』とは思えなかったからだ。

「……彼女には、こんなにも素晴らしい力があるのですね」

「そうだとも、君も良く分かっただろう」

 豊添は優しく微笑みながら、フミへと歩みを寄せた。城内の慶事などで遠巻きには見たことがあるが、一国の殿とこんなにも間近で対面したことは、今日が初めてであった。

 伏魔殿の長らしからぬ、虫も殺せぬようなとても穏やかな顔であった。

「ではなぜ、彼女を閉じ込めたのですか」

 声が震える。だが、フミの中の正義の心が、このまま黙ることを許さなかった。何かが変わる可能性はほとんど無いと言っても良い。だが、自分の言葉が行く末の一寸すらでも動かせたら──きっと未来は大きく変わるかもしれない。

 豊添は微笑みながら、しかし何も返事はしなかった。

「こんなことをしなくても、彼女はあなたの妻なのですから、愛をきちんと伝えれば、この牢屋など要らないはずです」

「もういいんだ、喋るな」

「どうして自分の妻をこんな所に閉じ込めるのですか。彼女を自分のものにしたいのですか。この不思議な力を誰にも渡したくなくて、だからこんな場所に押し込めたのですか」

「喋るな、フミ!」

 少女の制止を振り切って、フミは声を張り上げる。震える拳を抑えながら、目の前の穏やかな男を睨み付ける。周りの男らが「無礼者め!」と立ち上がるのを、豊添は片手を上げて制した。

「助かったついでだ、君に二つ、真実を教えてあげよう」

 フミに近付き、頭を撫でる。

 だが、その目はとてもとても、冷たかった。

「愛する者は阿呆な方が良いのだよ。頭が切れるとすぐに悪いことを考えるからね」

 優しい声色でありながら、投げ掛けられたその言葉は、とても一国の殿とは思えないようなものであった。フミの瞳が驚きで揺れる。


(──この男こそ、魔物の長だ)


「そして二つ目。君は助かったけれども、明日を生きることができるとは言っていないよ」


 その瞬間、後ろからがフミの首に手を掛けた。咄嗟に外そうとするも、その力はあまりにも強く、抗うことができない。

 気付けば少女は再び男らによって引き剥がされ、牢屋に押し込められる。

「とても稀少な経験だ。死に損ないが生き返って、再び死ねる。この学びをあの世でも忘れないように」

 フミの視界が再び霞む。

 少女の声が遠くで聞こえる。


(──白武様、名木、ごめんなさい)


 しばらくして男の手が緩むと同時に、フミは冷たい土床に横たわる。


 フミはもう二度と、鎮西山に帰ることも、白武と秋祭りで再会することもできなかった。


 本来ならばとても喜ばしい、十五になったばかりの、とある雨の夜のことであった。





(続く)






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座敷牢少女の七国平定記 雑古兵子 @zakoheiko

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