ほんとうのかなしみのこと

清瀬 六朗

かなしみ

 あの夜

 きみは窓からこの夜の月を見上げていた

 飽きもせず

 飽きもせず見上げていた

 文学少年

 自分が文学少年と呼ばれることをどう感じていたか

 ともかく きみは

 将来は小説を書いて発表して生きたいと思っていた

 ほんとうに

 発表するあてなどない小説を

 細かくます目を切った紙に 鉛筆で

 ずっと 書き続けていた

 (もちろん そんな原稿 いまは残ってないよ

  あんなに一所いっしょ懸命けんめいに書いたのにね 残念!)

 そんなきみは、窓からあの日の満月を見て

 月が明るい夜は なんだかかなしいな

 と うそぶいた


 きみは ほんとうのかなしみをしらない


 ほんとうのかなしみというのは

 ただ かなしいだけじゃない

 胸のなかを乱暴にかき回されるような気もち

 そこには 憤りも怒りも

 なぜあのときこうしなかったんだろう

 あのときあんなことをしてしまったんだろう という後悔

 失われたものへの思い

 失ったものは二度と手に入らないのに つのっていく思い

 手に入らないからこそ つのりつづける思い

 そして これから失うことへの恐怖

 自分が何かできれば失わずにすむのに

 それができないゆえの

 いや 身をすててまで それをなす勇気がないゆえの

 憤り 恥ずかしさ 何もかも破ってしまいたいこの思い

 そして 祈り

 無益かも知れないと思いながら それでも

 祈らなければいられない 祈り

 祈りをくりかえさなければいられない 祈り

 ここまで 来てしまったことへの

 好んで、なのか、どうなのか

 ここまで来てしまったことへの

 何と言えばいいのだろう この気もちは

 こころ細さ

 何を見てもたのしいとは思えない この感覚

 何ごとも

 少なくとも 何ごとかはうまく行くさという楽観が

 ひとかけらもできない

 メランコリー

 自分ならなんとかできたはず

 自分ならなんとかできるはず というおご

 まったくがたい 奢り

 それが混じったのが、かなしみ


 きみには こんなかなしみはわからない

 それは ここまで来ないとわからない

 だから 文学少年君 いいかい

 きみは 幸せなんだ


 ぼく

 あの日の君と同じように 月を見上げるぼく

 すぐに見るのをやめてしまったのは

 月を見ているとかなしくなる ということが

 もう じゅうぶんに わかっているからか

 それとも これ以上のかなしみがわかるのが

 こわいからか

 目のふちを泣きはらしそうになっている いまのぼく

 へんだね

 涙なんか ながしてないのに


 もしかすると ぼくは

 すこし後のぼくに言われるのかもしれない

 きみは ほんとうのかなしみを知らない

 きみは 幸せだね と


 だから ぼくは 文学少年だったぼくに言いたい

 きみはほんとうのかなしみは知らなくていい

 もっと幸せになってくれ と

 そして たぶんやっぱり小説を書いているはずの

 すこし後のぼくにも言いたい

 きみは 今夜のぼくの

 ほんとうのかなしみのことを忘れないでほしい

 そして ほんとうのかなしみのことを忘れてほしい

 もっと幸せでいてくれ と


 すべてのきみに 言いたい

 ほんとうのかなしみなんか知らなくていい

 でも 知ってしまったら

 忘れないで そして 忘れてほしい

 もっと幸せでいてくれ と


 さあ

 家に帰って

 暖炉にたきぎをくべよう


 (終)

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ほんとうのかなしみのこと 清瀬 六朗 @r_kiyose

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