第二話 改過自新
「義兄さん! 結珠が攫われました!」
時は三年ほど前に遡る。結珠と出会い、一年が経った時分であった。己はあくどい思惑を持っていると者がいると人づてに聞き、くだらない不良少年たちの相手をしていた。町に影響が出始めているというので己が出張り、ちょうど市民に迷惑行為を行っていたので奴らをとっちめたところであった。
そして地に伏せた不良たちを警察に引き渡そうと携帯を取り出したところ、弟分である勇太から電話がかかってきたのだ。彼は切羽詰まった声で、半ば叫ぶようにして伝えてきた。少女が攫われたと。
「落ち着け。どこに拉致られたかわかるか?」
内心では己も焦っていたが、勇太が取り乱している時に兄貴分である己までその様子を見せていてはならぬと思い、落ち着いた声色で尋ねた。
「仲間の一人が結珠を誘拐した車を追っています。大津からは出ていませんが、北東に向かっているようです!」
大津は康時たちが“拠点”を置く市の名前。拠点はいざという時の避難所である“隠れ家”とは違う。数少ないが、常に仲間が数名詰めている事務所のようなものだと思ってよい。
誘拐がたった今の出来事だというのなら、まだそこまで離れてはいない。誘拐犯の追跡もできているのなら、仲間からの情報を頼りに追えば今からでも十分に間に合う。
「わかった。行くだろう場所と、わかる限りの犯人の人数を分かり次第教えてくれ」
勇太にそう伝えるなり、通話は切らぬまま康時は駆け出した。康時は息切れというものをした経験がほとんどないし、走りも常人とは比べものにならぬほどの健脚である。少女を攫った者の居場所さえわかれば、自身の足ですぐにでもそこへ赴くつもりであった。
勇太が電話越しにうなずくのがわかった。
「はい。三十分ほどくだされば、すぐにでも突き止めてみせます!」
彼の放った三十分という数字に、康時は眉をひそめる。怪訝そうな表情で、少し引っかかることがあった。
「三十分? そんなにかかるのか?」
「え? は、はい」
「真信がいるのにか?」
真信はこの康時率いる名も無き集まりの中で、最も近代技術の知識に富んだ人物である。コンピューターやその他の電子機器、デバイスを扱わせれば右に出る者はおらず、こと情報収集においては、この集まり随一の専門家といえた。多くのことが未知数である敵を相手取るときには特にこの能力が光り、相手方の素顔から生い立ちまでを、わずか数時間で突き止めたこともある。康時にはそれを成す過程や理屈が全く理解できなかったが、気になってそのやり方を尋ねてみたところ延々と訳のわからぬ講義を受けることになったのを覚えている。
そんな頭抜けた技術者である真信がいるにも関わらず、犯人の数や向かう先を絞り込むのに三十分もかかるものかと不思議に思ったのだ。危険は伴うが、これだと現在誘拐犯の車を追っている仲間が直接確認する方が早いのではないか。
すると勇太があっと声を漏らした後に、少し言いづらそうに答えた。
「その......真信さん、今は行方知れずでして」
「行方知れず? どういうことだ」
突然の告白に驚きを隠せず、詰め寄るような訊き方になってしまう。そんな話は誰からも聞いていなかった。
「義兄さんが出かけて少しした頃、真信さんも外出されたんです。別に変なことでもないし、俺たちも気にしませんでした」
勇太が言うには、それから一時間ほどで、結珠と散歩をしていたという仲間から彼女が誘拐されたという連絡が入ったらしい。仲間は人気のある道だからと油断していたところを狙われたという。
「それを聞いて、俺はすぐに真信さんに電話をしました。ですが......」
「繋がらなかったってか」
「はい。電源を切っているようではないのですが、何度かけても同じ結果で......」
勇太が申しわけなさそうに言う。康時の表情に、わずかな不安が浮かび上がった。
「そうか、わかった。今追っている仲間の位置情報だけ教えてくれ」
「了解しました!」
勇太は数十秒の間隔で、逐一犯人の状況を報せてきた。それを追って康時も走る。やがて結珠の攫われた車が何処かに停まったようで、その場所を聞くと通話を切り、駆けることに集中しようとした。
その時である。
「なんだ?」
ポケットに仕舞った携帯電話が、勇太との通話を切って間もなく再び震えたのだ。なにか言い忘れたことでもあるのかと携帯を取り出し、そこに表示された名を見た。康時は目を丸くする。
「真信......!?」
行方知れずと言われた彼から電話がかかってきていたのだ。康時はすぐさま応答した。
「真信か!? 今どこにいるんだ!」
驚きと焦りから思わず怒声のようになってしまう。電話口から、あの男のいつも通りの早口が返ってくるかと期待していた。が、
「......朝霧氏、ですか?」
何故か真信の声は途切れ途切れになっており、息を乱しているようだった。言葉の間に荒い息遣いが聞こえ、それが康時の困惑をますます強めた。
「申しわけ、ありません......しくじってしまいました......」
「しくじった? どういうことだ? そっちで何が起きている?」
康時の問いに真信は少しの呼吸を挟み、数秒して答える。
「少し、買い出しに行くつもりだったんです......だから一人で......」
ですが、と真信は続ける。
「あの新興宗教の団体......覚えていますよね......? 待ち伏せ、されました......」
「なんだと......」
真信が新興宗教の団体と呼ぶのは、未だ康時たちですら尻尾を掴めずにいた名も無き集団のことであった。目的も宗旨もわからない。そもそも何を崇めているのかすら不明とされる、まるで暗闇に潜む蛇のような者らであった。康時とその他数名は幾度か相対したことがあったが、相手の面々の内の一人の顔を見ることすらできなかった。
しかし一つのみ、明らかになったことがあった。それは奴らが、結珠の身を狙っているということである。集団の頭と思われる男が、己らが神を崇拝する団体であることと同時に直々に明かしたのだ。堂々たる様子で幼子の身を求めていると恥ずかしげもなく言ってのけた。
無論、康時及び仲間たちが結珠を引き渡すはずがない。そう答えると、ならば力ずくで奪い取ってみせようと高笑いと共に宣言した。
そうして敵対することになった宗教団体であったが、奴らが一人になった真信を待ち伏せ、辻から銃弾を放ったのだという。今の真信は、肩に一発と腹に一発、弾を食らっている状態らしい。
「今、そちらで結珠姫が攫われたようで......」
「ああ、知っているのか」
真信は結珠の境遇から、彼女のことを姫と呼んでいる。彼は既にこちらの状況を理解しているようだった。
「攫ったのは、奴らで間違いありません......朝霧氏......結珠姫を、どうぞお救いください......」
言われるまでもない。そう言葉を返そうとした時であった。
「真信!」
突如、真信が激しく咳き込んだ。当然のことだ。 銃弾を受け、息もまともにできぬほど衰弱しきっているのなら、身体の機能が狂っていてもおかしなことはない。しかも今しがたの咳には、どこか水音のようなものが聞こえた。もしや吐血もしているのかもしれない。
「真信、まさか血を吐いたのか!」
「お気に、なさらず......僕のことは、もう構わないでけっこうです......」
否定をしない。ということは、吐血は己の勘違いではない。すぐに助けに向かわねば、手遅れになるだろう。本人は構うなと言っているが、康時の心中は、
ーー見捨てられるわけがない。
と叫んでいた。己を支えてくれた仲間を、見殺しにできるわけがない。己の足ならば、今から場所を聞き、駆ければ間に合うかもしれない。
「真信! 今いる場所を言え! すぐに向かう!」
康時はそのように命じたが、彼は大きく息を吐くと、苦痛を必死に押さえているらしい声色で言う。
「馬鹿を、言わないでください......我らのリーダーがそんなものでは、困ります......」
「何を言ってる! 早く......」
「どうせ間に合いません......それに......」
その時、真信はわずかに、笑みを零したような気がした。
「僕の敬愛した朝霧氏は......子どもを、見捨てるようなお人ではありません......」
「見捨てねえ。お前も結珠も助ける! 諦めたようなことを言うな!」
「......奴らの人数は、およそ数十名と見えます」
康時がはっと息を呑む。真信の言わんとしていることが理解できた。
「朝霧氏のいない状態では、結珠姫の救出は......覚束ないでしょう......」
仲間たちの数は、どれほど集めても十を超えない。対して、相手方の人数は数十を超す。無論、そんな状況でも康時が駆けつければ何の苦も無く結珠を助けられるだろう。
だがそちらに向かえば、間違いなく真信は手遅れとなる。今でさえ死にかけているのだ。
選択の余地はない。真信はどちらも助けるなど、不可能であるとわかっている。
「だが......!」
「迷っている暇は、ありません......朝霧氏......あなたなら、どうするべきか......おわかりのはずです」
真信の言葉が突き刺さる。己が不甲斐なく、ただ歯噛みをするしかできなかった。
「......そっちには仲間を向かわせる! 結珠は俺が助ける。だから死ぬな!」
精一杯の意地。一縷の望みすらないとわかっていても、縋ることを止めたくなかった。そこからは、もう真信は何も言わず、最後に小さく、また笑みを零したような気がした。
結珠の小さな身体を抱えて、康時は悲しみか、あるいは喪失感に近い感情に打ち震えていた。その目にはわずかに涙が浮かび、周囲には血溜まりと、白装束の無数の男たちが転がっていた。町外れの鬱蒼とした林の中に、信者たちは待ち構えていた。
「すまねえ......」
その声は震えていた。己の腕の中で眠る結珠は、小さく寝息を立て、彼の心中を知る由もない。
朝日が昇り始めていた。これがこの名も無き集団が成ってから、始めて人死にが出た朝であった。
真信は間に合わなかったと、そう聞かされた。
「すまねえ......!」
己の未熟さを痛感したのは、だいぶ久しぶりのことだったように思う。
康時が拳を構え挑発の言葉を口にしたとき、眼前の男たちは冷や汗を垂らして、これまでに感じたことのない類の恐怖に震えていた。未知のものに対する恐れ、腹を空かした獰猛な獣と対峙したような根源的な恐怖にも似ているが、それらとも僅かに異なるような。
しかし男たちは己を叱咤し、その恐怖を抑え込もうと必死になっている。
目の前の子どもを見てみろ。己たちより一回りも小さな体躯ではないか。手足は決して太くなく、むしろ華奢とすら言える。拳ひとつで今にも吹き飛んで行きそうな具合だ。
「どうした......? やるならさっさと来い」
だというのに、先ほどから、体の芯から起こっているかのような震えが止まらない。こんなことは、不良として生きるようになってから......いや、産まれてから一度としてなかった。
男の一人が歯を食いしばり、拳を強く握った。額には隠しきれぬ汗が見えるが、それでも引くに引けず、康時へ力一杯の一撃を放つ。
「う、おらァ!!」
雄叫びと共に放たれたそれを、康時は頭ひとつ分のみ後ろに退き危なげもなく躱した。
外した。そう思ったと同時、
「うっ!!」
下半身に激烈な痛みが走った。康時が男の睾丸を蹴り上げたのだ。踏み込みでがら空きとなった股間に容赦なく狙いを定め、的確に急所を打ち抜いた。
痛みに悶えた男が股間を押さえ、膝を着いた瞬間にちょうど良い高さとなった顔面へ康時は足裏で強烈な蹴りを見舞う。鼻から血を噴き出して男が倒れ込む。
「この、クソガキィ!!」
残る二人も腹を決め、康時に飛びかかった。しかし振るわれた蹴りは彼に掠りもせず、虚しく宙を切る。むしろ反撃として腹に拳を一発喰らい、よろめいた。
「ぐっ......」
もう一人は康時に掴みかかろうとしていたが、振り向きざまの彼の刃が如き眼光に気圧され、その一瞬の隙に手首を取られる。
「は、放せ!」
すぐにまずいと気づいた。男は水から打ち上げられた魚のように必死にもがく。
しかし、それがますます彼の首を絞めていることに気づかないことが哀れである。
「暴れないほうがいいぜ」
康時が静かに忠告してやる。だがそれでも激しくもがき続ける男。
掴まれた腕を振り回し、それが体重と共に強く下方へ落ちた時であった。康時が男の襟も掴み、身体を軸に沿って半回転させたのだ。そのまま姿勢を低めつつ懐へ入り込み、手首を持った手をさらに下へ下へと引きずり込む。
男の全身が、彼の背中で浮き上がった。
「ぐぶっ!!?」
奇妙な悲鳴を上げ、男が頭から真っ逆さまに地面に叩きつけられる。しばらく脳天を押さえて転がっていたが、その内動かなくなった。
数秒ほどで大の大人が、たった一人の高校生に沈められ、残った最後の男は信じられないという風に後ずさっている。
「どうする? 後はアンタだけだ」
康時が一歩踏み出すごとに、男は恐れに息を呑んでぎこちなく後退した。もはや勝ち筋は見えない。勝敗は決しても同然であった。
だが、
「く、くそ! この野郎!!」
男の中のプライドのようなものが、赦してくれと懇願するなど許さなかった。そこらに落ちていた尖りのある小石を拾い上げると、康時めがけて振り下ろそうとした。
そうしようとした“寸前”であった。
康時の間合いに入った瞬間、鳩尾の辺りに、さながら爆撃のような衝撃が襲う。男が辛うじて見えたのは、拳を振り抜き、そして引っ込めた後らしい彼の姿勢のみであった。腰を落とし、確実に鳩尾を狙っていたことがわかる。
ーーなにが起きた?
脳内が困惑で埋め尽くされる。反撃、というよりカウンターを貰ったのはわかる。しかし、そもそもカウンターというものは攻撃の予備動作、遅くとも動き始めに放つものだ。
だが今の彼は、男が小石を“振り下ろす”と決め、そうして間合いに入った時.....言うなれば、男が“ここだ”と攻撃の瞬間を見定めた時に、カウンターを放った。
思えば今しがたの動き、むしろ高校生の予備動作が見えなかった。小石を振り下ろそうとした時には反撃の意思があるようにすら見えなかったのに、気づいた時には、この体が宙を舞っていた。
何もかもが、理解できなかった。
「つ......」
悲鳴を上げることすら
それで状況が終わったことを確認した康時が、絡まれていたーー自分から近づいたようだがーー高校生と向き合い、安心させるように笑みを浮かべた。
「大丈夫か?」
「え、ええ......」
「話を聞く限り、こいつらにタバコのこと注意したみたいだな。正義感が強いのは結構だが、向こう見ずに危険に飛び込んでいくもんじゃねえぞ」
康時はそう窘めた。この男たちは見るからに柄の悪い連中である。近づくべきではない人種だと容易にわかるはず。なのに自ら叱責に向かい、逆鱗に触れるようなことをするべきではない。そういったことを手短に伝えた。
言うべきことを終えると、康時は挨拶代わりに片手を軽く上げて、その場を辞そうとした。踵を返し母親の待つ駐車場へ行こうとしたその時である。
「あの......!」
康時の話が終わるのを待ちタイミングを見計らっていたかのように、高校生の声が背にかかった。
「どうした? まだ何か?」
康時が首を傾げて応える。高校生は、その黒髪を揺らしながら少し言葉に迷っているようだった。礼でも言われるのだろうか。
そう思って待っていた矢先、彼の口から飛び出した言葉に愕然とした。
「“鬼神”」
目を丸くして、しばし呼吸を忘れた。
高校生が言葉を継ぐ。
「もし僕の勘違いであれば申し訳ありません。この名に、思い当たることはありませんか」
神妙な面持ちでそう尋ねた彼の顔を、康時は驚きの浮かぶ表情のまま見つめた。
鬼神。神話などに現る、人知を超えし異能を持つとされる架空の生物。そしていつしか呼ばれるようになった己の異名でもあった。
まさかこの一連の流れから、神話の話をしだす訳がない。表情、声色から見ても、冗談を言っているわけでもないだろう。であればこの男、己のことを知っているのか。そう考えた。
この高校生が何者かはわからない。しかしなにも知り得ぬこの状況、誰でもいいから頼りたかった。もし己のことを知る人物なのであれば、手を貸してくれるかもしれない。
「お前......誰だ」
敵である可能性も考慮せねばならない。埠頭で死んだはずの鬼神が、たしかに冥府へ行ったことを確かめに来た何者かであることも否定しきれない。
しかしその考えは、高校生が目から静かに涙を流し、次に放った言葉で一切が消え失せる。
「やはり......そうですよね? たしかに貴方なのですよね?」
彼は震える手を伸ばし、気づけば己に近づいていた。手首を弱々しく掴むと、膝を着いて言った。
「朝霧氏で、間違いありません......!」
「その呼び方......」
この世で、己をそのように呼ぶ者は一人しか思い当たらない。勇太に負けず劣らずの優男顔が、脳裏に思い起こされた。だが今、眼前にて涙を流す男と己の知る彼はとても似ても似つかない。
それに彼は、たしかに命を落としたはず。遺体を確認したし、小さなものではあるが葬儀も行ったのだ。この記憶が間違いであるはずがない。
だがよく見れば、この所作のところどころに感じるもの。どこか既視感があった。
ーーもしや、本当に?
であれば理解の及ばないことが起きている。今朝からずっとこの連続である。だが裏を返せば、有り得ること。己と同じことが彼にも起きているのだと考えれば、辻褄は合った。
「お前もしや......真信、か?」
「はい、朝霧氏。またお会いできて......」
その後も泣き続けていた真信らしい高校生を落ち着かせると、ひとまず腰を落ち着けて話せる場所へ行こうという話になった。未だに信じられないが、この男の口調や滲み出る雰囲気から、どうしても彼の姿が思い浮かぶ。まずは話を聞かねばならない。
二人で連れ立って裏路地から出ると、既に駐車場へ向かっていると思っていた母親がそこにいた。彼女は一連のことを見ていたらしく、たいそう驚いた様子で様々なことを康時に問おうとしていた。しかし横に並ぶ高校生の姿を認めると、間が悪いと感じたらしく口を閉じた。
「訳は後で話す。悪いが、少しこの高校生と話がしたいんだ。待っててくれないか」
「で、でも......」
「頼む。大事なことなんだ」
不安気な顔で、おろおろと康時と真信を見比べていた彼女だったが、康時の真剣な面持ちから引かないだろうとわかると、
「......わかった。あんまり長くは駄目だよ」
と言って引き下がった。
母親が去った後、真信はよく行く喫茶店があるのでそこにしようと誘い、二人でその店へ入った。客はあまり多くなく、店はそれなりに広い。話をするには適した場所だろうと康時もわかった。
「朝霧氏、そちらへ」
店の角、そのテーブルの入口に近い方に座ろうとすると、真信が制して奥の椅子を手で示した。康時には理解できなかったが、彼は康時をいわゆる上座に座らせようとしているのだ。こうした細かなところでも康時を敬う姿勢を見せるあたり、彼の敬慕の深さが伺える。
首を捻りつつ真信に言われたように座ると、彼は対面に腰を降ろした。すると人がいないこともあり、すぐに店員がお冷を持って現れる。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらの呼び鈴でお呼び出しください」
「あ、もう決まってるのでお願いしても?」
「かしこまりました」
真信がいくつか注文を伝えると店員は恭しく頭を下げ、奥へ引っ込んでいった。二人きりになると、彼は姿勢を改めて言う。
「改めまして、お久しぶりです。朝霧氏」
「ああ......本当に真信なのか」
「はい。朝霧氏の率いるあの集団にて、情報捜査を務めておりました、鶴牧 真信です」
本物だ。そうとしか思えなかった。このにこやかな表情、それにこの堅い言い回しは、あの真信そのものであった。
「しかし、その顔は」
だが、だとすればこれだけが解せない。優男といった雰囲気を持つ顔であることは同じだが、しかし今と以前の顔は全くの別物だ。己と同じことが彼にも起きているのだとすれば、いったい何故このようになったのかを知りたかった。
「うーむ......僕はおおよその見当がついているのですが、これを説明するには何からお伝えすればよいものか......」
真信は顔をしかめ、顎に手を添えた。
「本当か? 頼む、教えてくれ。今の俺にいったい何が起きているんだ」
「勿論です。少々、お待ちを」
康時に断りを入れ、真信は一分ほど考え込んだ。そして頭の中でおそらく説明の順序が完成すると、再び康時に向き直り、唐突に質問を投げかけた。
「まず......朝霧氏、“ギャルゲー”なるものはご存知でしょうか?」
「ギャルゲー? ......いや、わからない」
聞き馴染みのない言葉に、康時は首を捻る。
「ですよねえ......」
「それと今の状況が関係あるのか」
「はい。ではまず失礼を承知で、お尋ねしたいことがあります」
申し訳無さそうな顔になり、真信がそう前置きする。うなずくと、大仰に息を吸い込んで彼は尋ねてきた。
「朝霧氏は、一度お亡くなりになられましたね?」
心臓が跳ねるような感覚に襲われる。それには様々な理由があり、何故真信がそのことを知っているのか、わずかに己の中にあった“姿形が変わっただけで、まだ己は生きているのかもしれない”という希望を否定されるような問いのような気がしたのもあった。
だが冷静になれば、埠頭の戦いで己が生き延びたという方が現実味の薄いことであることは、当然にわかる。だがそれを認めれば、己のすべき事がいよいよわからなくなる。それが怖かった。
だが眼前には真信がいる。もしかしたら成すべき事を教えてくれるかもしれない。彼を信じ、まずは自分の状況を正しく受け入れるべきだと思った。
「ああ。死んだよ」
「やはり......」
「何故わかった?」
「それは......」
一拍の間。
「ここが、死後に来れる世界であると推測できるからです」
「死後に......あの世ってことか?」
「少し違いますね」
どうにも話の要領を得ない。彼岸というわけではないのだろうか。
「転生......と言えばわかりやすいでしょうか?」
「転生?」
康時が脚を組み、頬杖をつく。
「それは......輪廻転生ってやつの話か?」
曰く仏教の教えにおいてはそのような概念があるという。生者が死に至りその身が滅びようと、生前にも己の内にあった“魂”なるものまでは失われず、その魂は時を経て、やがて新たな世界に新たな体を持って生まれ変わるらしい。
その考えを見透かしたかのように、真信は話を続けた。
「おそらく朝霧氏が想像しているものと、大まかには同じといえるでしょう。ですが輪廻転生は仏教における“六道”に生まれ変わるのが一般論。この世界は、それに該当していないと僕は見ています」
六道とは天道、人間道、修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄道の六つを指す。その内のいずれかに生まれ変わるものだというが、真信はこの世はそれらとも違うという。
「なら、いったい俺たちは何処にいる?」
「その問いが、先ほど申し上げました“ギャルゲー”に関係してきます」
またしても聞き馴染みのない言葉が飛び出した。そのギャルゲーというものがいったいなんだというのか。康時は黙って次の言葉を待った。
「まず朝霧氏、テレビゲームはご存知ですよね?」
「テレビゲーム......? まあ、聞いたことくらいは」
そういった娯楽に疎い康時でも、テレビゲームが何かくらいは知っていた。テレビの画面に映し出された映像を、リモコンやコントローラーを用いて人間が操作する遊びだったと記憶している。主なものとしては横スクロール式のもので、キャラクターがステージのゴールを目指すもの。他には狩猟として怪物を倒すものもあったと憶えていた。
しかし知ってこそいるが触れたことは一度として無く、知識としては皆無に等しい。話について行けるかと不安になっていたところ、真信は順序立てて一から説明してくれた。
「ゲームには、様々なジャンルがあるのです。アクション、ロールプレイ、シュミレーションなど多岐に渡ります」
「............そうか」
「ああ、ここは理解できなくとも結構です。さほど重要でもありません」
真信がこほんと一つ、咳払いをする。
「それらの中の一つに“恋愛シュミレーションゲーム”と呼ばれるジャンルが存在するのですよ」
「恋愛......シュミレーションゲーム?」
「端的に言えば、ゲームの中のキャラクターと擬似的な恋愛体験ができるゲームです。個性豊かなキャラが多数登場し、その内の誰かと共にデートをしたり、学校生活を楽しんだり、青春を送ることができます」
真信いわく、画面に映し出された少女のイラストと共に流れる文章を読み進め、稀に現れる行動の選択肢を経て物語を進行するらしい。好感度なるものが存在する系統や、そもそも物語の進行に関係する選択肢がないゲームもあるのだとか。
しかしそこまで聞いて、康時は途端に解せないと思い眉をひそめた。
「それって、その主人公ってのとヒロインとやらがイチャついてる様子を観るゲームってことだろ? 何が悲しくてそんなことをしてんだ」
「うぐっ!?」
すると唐突に真信が胸元を押さえ込み、前屈みになって苦しみだした。驚いた表情をした後すぐさま焦り出し、康時は席を立って彼に駆け寄る。
「お、おい! 真信、どうした!」
「い、いえ......まさか朝霧氏に刺される日が来るとは思わず......精神的なダメージが」
「何を言ってんだ! 何も刺してなんかねえぞ! とりあえず、すぐ病院に......」
「あ!? ち、違います! そういうのでは......」
そう言って真信の手を引こうとすると、今度は彼が焦った様子で康時を宥めた。どうにか康時を落ち着かせると、二人は座り直し、話を再開した。
「......話を戻します」
真信は咳払いをすると、場を仕切り直す。
「その恋愛シュミレーションゲームは、無論のこと創作ですので本来の日本には存在しない地名などが登場する。似たような名をもじって使うこともあるそうですが......」
真信は真剣な顔つきとなり、康時にひとつ問いかけた。
「朝霧氏、今いる町の名前をご存知ですか」
康時は顎に手を添え、しばし考えた。思考を巡らせ記憶を辿る。そういえば町の看板や店の名を眺めていたときに、それらしいものを見た気がする。
「
「そうです。......朝霧氏、私は今から信じられないことを言うかもしれません。ですがどうか冷静に、落ち着いて聞いていただけますか」
「......? ああ」
突然にそのような前置きをされ戸惑う。しかし、次の瞬間に真信の発した言葉は、たしかに信じられぬことであった。
「阿黒町は......今より十年も前に、僕のプレイした恋愛シュミレーションゲームの世界に登場する町名なのです」
冗談だろうと、言おうとした。だが、真信の目があまりに真っ直ぐこちらを向くものだからーー
ーーゲームの、世界?
思わず口を噤んでしまった。
近江の鬼神 〜“ギャルゲーの親友キャラ”とやらに転生したらしいが、世界が危険に満ちている〜 @rane
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