第一話 鬼哭啾々
「......誰だ。これは」
洗面台を見つけ、鏡に近づくと、そこに現れたものを信じられなかった。歳は未だ二十歳にも満たぬであろう、青年とも呼べない男の顔。彫りが深く、頭は明るい茶髪がはねている。肌にはたるみなどが全く見当たらず、とにかく若々しかった。どことなく、先ほどの少年とも似ている。
どこから見ても、己の顔ではない。
寝ている間に、整形でも施されたのか。いったいなんのために。いや、それにしては特有の手術跡がなさすぎる。風聞によれば跡は一ヶ月程度で消えるというらしいが、それでも完全になくなるわけではないとも聞く。この顔にはそれらしきものがなく、天然のものとしか思えなかった。
「どうなっている......?」
何故、己の顔が別人になっているのだ。見知らぬ家に寝ていたことといい、見覚えすらない姿になっていることといい、本当に何が起きているのかと困惑することしかできなかった。
しばらく固まった表情のままそうしていると、背後の扉が開いた。振り向くと、そこには先の少年が立っている。尚も心配そうにこちらを見ていた。
「えっと...... 鏡そんなに見て、どうしたの?」
この少年のことも不思議なものだ。何故こちらにこれほど親しげに接してくるのか、何故己のことを兄と呼んでいたのか。ベッドから降りる前にわからないながらも考えた末、もしや狂人に攫われて家族としての芝居を打たされているのでは、と思った。家絡みのことで心を病んだ狂人が、人を攫い自らの思うような家族を作り上げようとしている、など。顔は何か特殊な技術を用いて作り変えたのかもしれない。
さすがに荒唐無稽が過ぎるということは、当然のこと理解している。しかしそうとでも考えなければ、今置かれている状況を己に納得させることができなかった。
もし、万が一。想像した通りのことが起きているとするのなら、まずは彼らの腹を探るため従う素振りを見せておく必要がある。
「あ、ああ。いや、なんでもない」
「そう? いちおうお母さんに具合が悪そうだから休ませてあげてって、言ってきたよ」
少年がこちらへ歩み寄る。体が強張り、自然と力が入る。そして、彼が手を伸ばしてきた。己に直接害を加えるようなら、その時はもはや抵抗も辞さない。そのような考えで構えていたが、
「本当に体調が良くないならボクにもすぐに言ってね。お兄ちゃんは無理しないで、ゆっくりしてて」
背中に手を回し、穏やかに優しくさすってきた。その手つきには悪意などは感じられず、むしろ言葉に違わず本当に己を気遣っていることが窺えた。
「今日は二年生になってからの始業式だよね? 行けないのは残念かもしれないけど、体のほうが大事なんだよ」
混じり気のない純朴な目を向けて、宥めるように言ってくる。洗面台の前に立っていたことで、支度をしようとしていたと思われたのかもしれない。
少年は手を引いて、部屋に戻るよう促す。その言動には狂人の片鱗すら見えず、康時はばつの悪そうな顔になった。
「馬鹿らしい」
少年が己を部屋まで送り、重ねて安静にしているようにと言い残し、部屋を出ていった。足音が聞こえなくなると、康時はベッドに倒れ込む。
万が一と思ったが、冷静にならずとも自分の考えが有り得るはずがないとわかる。自分のことながらいったい何を馬鹿馬鹿しいことを言っているのかと嫌になった。これではどちらが狂人かわかったものではない。
己はこれまでに、数千を超える悪党という悪党を見てきた。中には他者を騙し、自らの欲を満たそうとする小賢しい下衆もいた。そういった者たちには共通して、目の奥に黒い濁りのようなものが浮いているのが見える。隠そうとしても隠しきれぬ、人の本性のようなものが透けて見えるのだ。
しかしあの少年にはそういったものが一切としてない。濁りどころか、まるで陽光に輝く水面のようにすら見える目を持っていた。そしてただただ兄と呼ぶ相手を心配する心優しい言動。己の思っていた人間像とは正反対を行く温厚篤実な子である。
状況の理解は振り出しに戻ってしまうが、しかしあの子を疑うことのほうが愚かしい。
「それにしてもあの男の子、二年生になってからの始業式といっていたな」
始業式という言葉に聞き馴染みはないが、二年生ということは、己は今学生の身分であるらしい。姿の雰囲気、見た目よりわかる歳から推測しておそらくは高校生だろう。現在が四月であることから考えて、新たな学年が始まる時期とわかる。
「学校な......」
一度も行ったことはない。五つの頃に両親が行方をくらまし、己はそれ以来野に放られその日暮らしの人生を送ってきた。官学を学ぶ以外にはどのような場所なのか、どういった事が起こるのかなど何も知らない。ただ外側から、校舎という施設を眺めたことや学生を見たことがあるのみだった。
しかし深く考える気にはなれない。自分が今どうなっているのかすら理解できていないというのに、他のことに思考を割く余裕はなかった。
頭を冷やすために、もう一度眠ろう。そう思い、布団を被った。もしかしたらこれは、あの埠頭で己が死ぬ直前に見ている夢のようなもので、次に眠れば正常な状態に戻るのではという考えもあった。
そうして目を閉じる。しばらくして、まどろみ始めた頃だった。たしかリビングのある方向である。その辺りから軽快な機械音が鳴り響いた。チャイムと思われた。
「ん? なんだ」
思わず身を起こした。別段、己が反応する必要はないのだが、今は様々なことが気にかかる。
少し扉の方を見つめ、ふと思いついて部屋のカーテンをずらした。この家は二階家であり、己のいる部屋は二階にある。もしこの窓が玄関に面していれば、ここから訪ねてきた人物を知れるのではないかと思ったのだ。
果たして、幸いにも窓は玄関を見下ろせる位置にあり、玄関扉の前にいた二人の男女が見えた。身形からして高校生である。
「まさか」
そう一言を呟き、康時はしばらくその男女を見つめていた。やがて玄関扉が開き、母親と思しき人物が姿を現した。己と同じ明るい茶髪だが長髪であり、それを頭の後ろで一本に束ねている。細身なところなどはあの少年に似ていた。
彼女は二言三言、二人と交わすと、申しわけなさそうに小さく頭を下げた。声は聞こえないため話の仔細まではわからないが、なんとなく内容の粗方は理解できる気がした。
おそらくあの二人組みは友人であり、“陸斗”と共に登校をしようと思ってわざわざ家まで足を運できたのだろう。しかし体調が思わしくないということになっているために、母親の彼女が己に代わって断ってくれた。そのようなところだ。
二人は少し驚いたような素振りを見せた後、母親に礼を言って踵を返した。しかししばらく歩くと、白のセーラー服に身を包んだ女生徒がゆっくりと振り向く。
「お......!」
そしてこちらの窓を見上げた。康時は咄嗟に身を隠し、窓枠の下から覗き込むようにする。別に隠れる必要はないだろうが、仮に手を振られたりすれば面倒だった。
肩まで伸びた黒髪。女性にしては長いとも短いともつかぬ長さで、身丈は平均か、少し低い程度と見える。康時の主観だが、ずいぶんと器量が良いように思えた。ただ二階からではその容姿の細かく知ることはできない。
男子生徒のほうは多少身長が高く見えるが、これといった特徴は見受けられない。襟首にかからない程の黒髪に、若者らしい中肉中背。顔は背けているため確認できなかった。
彼女はあの少年と同じく、こちらを心配気な表情で見上げている。よほど仲の良い友人なのだろう。
ーーなんだ?
首を捻る。窓の下に隠れているはずだが、何故か妙に己と視線が合っているような気がする。彼女に視線を向けられていると、得も言えぬ奇妙な感覚に襲われるようだった。
しばらくこちらを見つめた後、彼女はそれに気づいた男子生徒に呼ばれ、共に家を後にした。二人が塀を出たところで、ようやく康時は顔を出す。
ーーますますわからない。
優しい家族に、友達思いの友人。男らしい色味のある部屋で突然に目覚め、しかも今の己は学生であるという。己の狂ったような妄想が見当違いだというのなら、いったいなにが起きているのか。
ただこれも狂言という前提で、ひとつ思ったことがあった。それは、これではまるで、
「まるで他人の人生に乗り移ったみたいだ......」
というものである。これまで何の変哲もなく生きてきた男子高校生がおり、普通と何も変わらぬ家族に友人がいる。そして学校での新たな学期が始まろうというところに、あの埠頭で命を落とした己の、魂のような何かがこの体に乗り移った。そうしたことで己は今わけもわからず、このような状況に陥っている。それが頭によぎった考えだった。
無論のことこれも有り得ないことだとはわかる。もっと言えば先ほどの誘拐の説よりも、もっと荒唐無稽かもしれない。
康時はカーテンを再び閉め、ベッドの上で背を壁にした。肩の力が抜けると、目もとに手を置いた。
しかしそれならば辻褄は合う。弟らしい少年が、己を兄と呼ぶことも、自分が今を一切理解できないことも。
「くそ......」
混乱の渦巻く頭の中で、ただ何度も思うことがあった。
ーー結珠や仲間たちに会いたい。
その一事である。これほどまでに心細い思いは、両親が蒸発したとき以来だ。両親の行方がわからなくなったとき、様々なことを思った。寂しさやこれからどうすればよいのかという不安、二人は無事なのかという心配。挙げていけばきりがない。しかしそれは己が生きる過程で出会った仲間たち、戦う中で生まれた友人たちのおかげで薄れさせていくことができた。
その中には結珠と勇太も当然にいたのだ。何より己の心の支えであった彼女たちに、今はただひたすらに会いたかった。
また結珠と顔を合わせて話したい。また勇太と共に馬鹿話をしたい。他の仲間たちとも、また一緒に酒を酌み交わしたかった。だが、
「くそ......!」
今はただ困惑と、薄らと見える絶望感に苛まれるだけである。そんな己が酷く情けなく、また、悲しかった。
康時は目をぎゅっと閉じ、強く握った拳を太ももに叩きつけた。
部屋の扉のノックされる音で目が覚める。どうやら深く思考に浸っていたら、気づかぬ内に眠ってしまったらしい。数秒待って、一人の女性が中に踏み入ってきた。先ほど玄関前で高校生二人の相手をしていた、つまり母親と思しき人物である。
彼女は、虚ろに瞼を開け仰向けになっていた己を見ると、三歩ほどゆったりと歩み寄った。
「陸斗、お母さん少し買い物行ってくるから。体調が悪化して辛いようだったらすぐに電話してね」
わずかに笑みを浮かべて言う。康時が上体を起こすと掌を向けて寝ているように言ってきたが、寝ていたせいで身体の気怠さが気持ち悪く、むしろ少し起き上がりたい気分だった。
「弟は......?」
「お、弟?
言ってしまってから、己の失態に気づく。思わず名前を知らぬために、あの少年のことを“弟”などと呼んでしまったが、兄が弟に対しをそのような呼び方をするはずがない。母親が微笑を崩して当惑した表情になっていた。
一瞬で頭が覚醒し、康時は慌てて、とにかく口を開いた。
「あ、ああ。ごめん、寝惚けていたみたいだ。そうだな...... 斗碧はどうした」
「......どうしたの陸斗。なんか喋り方が変じゃない?」
「えっと、いや。これは......」
言葉遣いにまで突っ込まれ、どうするべきかと狼狽えてしまう。考えてみれば当然のことだ。同じ日本語にしても、人によって喋り方の癖が異なるもの。己が“陸斗”の話しの癖を知らない以上、これに不審を抱くのは当たり前といえる。
数秒、考えに考え、ようやく出てきた言葉は、
「......気にしないでくれ」
というものだった。無理がある。唐突に高校生である息子の口調が変わり、それについて言及し“気にするな”など。気にならないはずがない。自分でも苦しいとはわかっているが、いきなりこう言われては、これ以外の返しが思いつかなかった。
しかし母は己の顔をじっと見つめた後、
「そう、まあいいよ。斗碧は学校に行ったよ。今日から新学期だしね」
と言い残し、あっさりと引いた。もっと食い下がるかと思っていただけに唖然としてしまう。しかしこれ以上に言及してこないならば、それは好都合。元来物事に頓着しない性分なのか、あるいは他に理由があるのかはわからないが、それを知る必要もなく康時は黙って背けていた視線を母に向けた。
彼女は踵を返し、部屋から立ち去ろうとする。
「じゃあ、さっき言った通り、辛くなったら電話してね。行ってきます」
「ああ」
康時はうなずき、そのまま見送ろうとした。が、ふと思いつき、行こうとする母の背を呼び止めた。
「ちょっと待ってくれ」
「うん? どうしたの?」
「その、やっぱり俺も一緒に行かせて貰えないか。買い物」
すると、彼女が目を見開いて驚いた様子になる。そして再びこちらに向き直り、半ば小走りのようにして寄ってきた。
「き、急にどうしたの? 今まで...... 小さい頃でもそんなこと言わなかったのに。いや、そもそも今は陸斗、具合が悪いって......」
彼女は言いつつ、己の額に掌を当てる。熱を確かめているのだろう。ひんやりとした手の感触が直に伝わった。
しかし実際には熱などない。弟...... 斗碧は母に“兄の具合が悪そうだ”と言っただけのようだったし、そもそもが勘違いである。様子のおかしい己を、斗碧が具合が悪いと思い違えてくれたため、それに乗っただけ。
当然、母は触った額の感覚が予想通りのものではなく、疑問符が付いたようになっている。
「あれ......? 微熱、いや平熱?」
「寝てる間に、だいぶマシになったんだろう。歩くくらいはできる」
「い、いや、でも駄目だよ! せっかく治りかけてきたのに、外出なんてしたらぶり返しちゃうよ」
「頼む。......一人でいる方が心細い」
理屈をこねようとすればするほど押し問答になる気がして、情に訴えるように言ってみる。こう言われれば、多少なりとも考えが揺らぐかもしれない。
案の定、彼女は少し迷う素振りを見せた後、
「......わかった。けど無理はしないでね」
と、絞り出したような声で言った。
「約束する」
それに頷いて返し、康時はベッドから足を床へと降ろした。
支度を済ませた後、母親が車を出し二人は家から最寄りの商店街へ足を運んだ。三食をコンビニ弁当で済ませてしまう康時にとっては、あまり縁の無い場所であっただけに新鮮であった。
平日の昼前ということもあり人通りはまばらといったところ。ちらほらと背広姿の男たちが見えた。
母親が入っていったのは、その一角にある小ぶりな食品小売店である。見る限り、主に肉、魚、野菜を中心に取り扱っている店だろう。母はかごを持つと店内を回りつつ、選んだ品を次々にその中へ入れていく。食品の選定はかなり手慣れたもので、たまに良い物を見つけたのか片笑むことはあるが、それ以外では表情をぴくりとも動かさずに流れ作業の如きものであった。
しかし康時も彼女ばかりに目を向けていたわけではない。入口の
今朝いきなり何処かもわからぬ場所で目が覚め、見知らぬ家族が現れた。全く奇想天外なことが起き、しばらくして冷静さを取り戻した康時は、
ーーとにかく今の状況を把握したい。
と考えていた。日本ではあるだろうが、しかし県はどこで、さらに町の名前はなにか。己に何が起こっていて、何故ここに連れて来られたのか。そういったことを知り得る情報をとにかく多く集めたいと思っていたのだ。
そのためには家にいるばかりではいけない。外へ出て、町の看板や特徴から己が何処にいるのかを知り、またこちらは難しいだろうが何故このような事になったのかを探る必要がある。
そして多少無理筋のやり方ではあったが、母親と共に外出ができたのは僥倖であった。外へ出るにしても、土地勘の無い己のみではあるいは迷う可能性がある。その点、彼女について行けば好き勝手に行動できるわけではないにしろ、道に迷う心配は払拭できた。彼女について回るだけでも、少しずつではあるが町のことなど情報を得られてはいる。
一人で動き回るには、もう少しばかりこの土地に慣れておきたかった。
「ん......っしょ」
母親の声にそちらを振り向くと、かごの持つ手を片手から両の手に持ち替えていた。中を見ればもうかなりの食品が積み重なっている。
康時は彼女の横に並び、手を差し出した。
「重いだろ。持つよ」
「本当? ありがとう」
目を細めて笑うと、こちらにかごを手渡してくる。先刻までは己の体調をいちいち気にかけていた彼女だが、しばらく不調の様子を見せず一緒に行動していれば安心したようで、そのようなこともなくなった。
手にかごが渡され、彼女が手を離す。その時であった。
「お......っと!」
ずしりと重々しい感覚が、かごを持つ腕の全体を襲った。思わず体が前のめる。慌てて力を込めれば持ち上がったが、それを見た母親が急いで持ち手を握り直した。
康時と彼女で、驚いた表情になっている。
「だ、大丈夫!?」
「あ、ああ。大丈夫だ。少し、思ったよりも重くてな......」
「もう...... 気をつけてね」
母親は康時が気を抜いて油断していたためにそうなっただけだと思い、ゆっくりと手を離した。しかし康時自身は、未だに驚きを隠せず、目を見開いていた。手に伝わるこの重量感が、あまりに重く。
気を抜いて油断していたというのも勿論あった。現にこうして力を込めていれば、何の問題もなく持つことができている。しかし康時の思うところは、そこではなかった。
かごに入れられているのは、せいぜいが四人家族三日分の食料と飲料水が少々といった程度。以前までの己であれば、たとえ気を抜いていようとこれくらいのもので体勢を崩すことは有り得ない。過去に火災に巻き込まれ、唐突に家の梁が落ちてきたときでさえ己は片腕のみで止めてみせたのだ。
ーーこの身体はただの高校生でしかない。
そう気づいた。
つまるところ、この一般人に他ならぬ体はかつての己の身体の膂力に遠く及ばない。そもそも以前の身体が、我ながら化け物じみていたのだ。他者の体にたった一撃の拳を見舞うだけで、その体は骨が砕け、さらには宙を舞い、放っておけばその後に死んでもおかしくない。ただの一人間の力では、そのような芸当は真似できまい。
端的に言えば、弱くなっている。己の力の中枢であった“筋力”が消えて失せた。勿論、闘争の強さを左右するものはそれだけではない。しかし紛れもなく力量を定める根幹、重要な柱のひとつであることは確かだった。
「陸斗......? どうしたの? また具合が悪くなってきた?」
絶望とまではいかないが、得も言えぬ喪失感のようなものに駆られていた。そこに母親の声が割って入り、正気に戻る。
「......いや、大丈夫だ。次は何が必要だ?」
「あ、うん。次はね......」
母親が先導して次の角へと向かう。
正直に言ってしまえば、かなりの衝撃を受けている。己の戦闘が板につくまで頼りにしていたのは、樹木の幹すらも一撃でへし折る程の膂力であったのだから。戦いに慣れてからは、加減を交えることができるようになっていたが、それでも稀に文字通り全力を尽くすこともあった。
それが無くなったのだと思うと、なにか長年愛用していた大切な物が壊れた時と、似たような感覚になるものだ。
会計を済ませ、店から出たところで母親が声をかけてきた。
「そろそろお昼だけど、何か食べたいものある?」
周囲をきょろきょろと見渡していたところに言われ、康時は腕を組んで迷うように唸った。今の店が取り扱っていたのは材料ばかりであり、惣菜や弁当などはなかった。
しばらくして、康時が言う。
「いや、あんまり腹が減ってなくてな。昼飯はいらない」
「え、食欲ないの?」
やっぱりまだ体調が悪いのか、とでも言いたげな視線である。
「えっと、あれだ。きっと朝から寝ていたから」
「それでもお腹は減ると思うけど...... 少しくらいは食べたほうがいいんじゃないかな」
「いや、本当にいいんだ」
先行して歩き出すと、彼女も足早に後ろを付いてくる。そして横に並んできた。
「まあでも、その調子なら、明日は学校に行けそうだね」
「......ああ、そうだな」
そう相槌を打ったが、内心では困り果てていた。学校など行ったことがなく、義務教育すら受けていないというのに、小学校どころか高等学校へいきなり行けと言われても勝手すらわからない。ドラマなどで幾度か結珠と一緒に学校の風景を見たことはあるが、フィクションのものと現実を混同するのは危ういし、そもそも各校によって規則や仕様も細かに違うというではないか。
その上、己は二年生であるという。つまり一年間はその高校で過ごした経験があるということ。一年生の頃ならばまだしも、二年生にもなって学校の事を理解できていないとなれば、流石に周囲から不審感を持たれる。しかも何処の誰が、陸斗の友人なのかもわからない。
どうしたものかと、先刻から薄々と思っていた。
ーー仕方ない。まずは目の前のことを、どう乗り切るかを考えねえと。
ひとまず、学校が何処にあるのかは問題ないだろう。朝の男女二人が家に来てくれれば、彼女らについていくだけでいい。その後に何をすればいいのかなどを、考えておく必要があるだろう。
「学校に持って行かなくちゃならねえ物もあるはず...... どうにかして調べておかねえと」
口内で転がすように呟く。他の学生に「忘れ物をした」などと、万一にも揶揄われるようなことがあれば注目を集めることも有り得るかもしれない。無論、康時にとっては面倒事である。高校生ほどの歳の者がそんなことで揶揄うのかという疑問はあるが。
そのことで、歩みを進めつつも思案に耽っていたときだった。
「ふざけんな! んの野郎!!」
突如として横合いに男の怒号が飛んできた。反射的にそちらを見ると、店と店の間に偶然にできたような路地裏があった。怒号はその奥から飛ばされたようで、よく目を凝らしてみれば少し開けた空き地らしきところで三人の男たちが立っている。こちらに背を向けて、何かを囲み込んでいるようだ。
立ち止まった康時を見て、母親が不思議そうに彼と同じ方に目をやった。そして、路地の奥にあったものに気がつくと、ぎょっとして康時の手を引こうとする。
「見ちゃ駄目だよ。行こう」
母親はそう言ったが康時の耳にその声は届かず、彼はただ、あの三人の奥にいる者に注視していた。あの壁のような背中たちのせいで気づきにくいが、誰かがそこにいる。
「あれ多分、学生じゃねえか」
「え?」
「誰かが絡まれてる」
康時が親指で指し示した先は、絡んでいる男たちより二回りほども小柄な男子であった。朝に家まで訪ねてきた二人の内、男のほうと同じ意匠の制服を着ている。つまりは彼と同じ、ひいては陸斗と同じ高校に通っている学生なのだろう。
「あ...... 本当。陸斗の学校の生徒?」
母が訊ねるが康時はそれには答えず、じっと視線の先のものに意識を向けていた。
おそらく三十路ほどに見える三人が、たった一人の子どもへ一斉に怒声を浴びせている。男子のほうは引くこともせず、気丈にも真っ直ぐ男たちを見据えて言葉を返している。
それを見ている内、何か康時の中で揺れ動くものがあった。己の内に染み込んでいるようなそれが、極めて自然に、なんの躊躇もなく一歩を踏み出させた。
「ちょ、ちょっと陸斗!?」
母親が康時の腕をつかみ、止めようとする。
「あのままじゃ、暴力沙汰になっちまいそうだ。止めてくる」
「いや、なんでわざわざ......!」
「なんでって。あの様子じゃ言い合いが白熱してったら、高校生の方は怪我じゃ済まなくなるぞ」
「そうじゃなくて! 自警団員さんに報せて任せればいいじゃん! なんでわざわざ陸斗が行くの!?」
「......自警団員?」
聞き馴染みのない言葉だ。普通、そこは警察だと言うと思ったが、いったい何者だろうか。
「そうだよ。そもそもあの感じじゃ、陸斗が行っても収まらないと思うよ。通報だけして、お母さんたちは家に帰ろう?」
母が手を引き、宥めるように言ってくる。
自警団員とやらは謎めかしいが、今すべきはそれについて知ることではない。康時は母親の手をつかんで離し、なるべく穏やかに訊いた。
「その自警団員は、今から通報したとして、どれくらいでここに来れる?」
「え......? うーん...... どんなに遅くても十分以内には?」
「最速なら」
「三分...... いや五分くらい?」
首を捻りつつそう答えた母親に、康時は首を振って言った。
「それだと遅い。高校生が殴られる方が先だ」
「で、でも陸斗が行っても......!」
「大丈夫だ。こういうのは慣れてる。それに、なるべく穏便に済ませられるよう努力はするさ」
母親の両肩に手を置き、目線を真っ直ぐに彼女の目を見つめる。
「先に駐車場に向かっててくれ。後から行くよ」
「ちょっと! 陸斗!?」
有無を言わせず走り出し、康時は背後から己を呼ぶ声も無視して路地裏の奥へ駆けていった。
「しつけえんだよ! テメェは!」
「舐めやがってよ」
男たちが飽きもせず、口々に男子高生に罵声を浴びせている。男たちの一人が、彼の背後の壁に手をつき、圧をかけるようにしていた。
しかし男子高生もまた、一歩も引かずに男たちを見上げている。その目には怯えなどが全く見えず、むしろ底には信念らしきものを秘めているようにも見えた。彼ははっきりとした語調で言い返す。
「ここでの喫煙は、ご遠慮下さいと言っているだけです」
「テメェに言われる筋合いがあるか」
「知人の私有地です。彼は近頃、ここに煙草の吸殻が散らばっていると困っておりました」
先ほども言ったことですが、と言葉の通じない男たちに辟易している様子だった。そこに背後から、男の肩をつかむ手が現れた。康時である。
「おわっ!?」
思わぬところから介入され、三人があっと驚いた様子で後ずさった。一方、高校生の方は康時の姿が見えていたため、驚きこそしないが、いったい何者かと疑問符を浮かべている。
男が叫んだ。
「な、なんだテメェは!」
「ただの通りすがりだけどな。アンタら、ちょっと騒がしかったもんだから。もう少し、声を抑えて貰おうと思って」
「ああ......?」
男が困惑した隙に差し込むようにして、康時が尋ねる。
「ずいぶん叫んでいたが、何があったんだ? 酔ってるわけでもねえよな?」
できる限り穏やかに訊くと、彼らは僅かに気勢を削がれたようで、立っていた青筋が引いていく。
「ああ...... いや、アンタには関係ねぇだろう」
「まあ関係はねえけどよ。だがアンタら、あのままじゃ、そこの高校生を殴っちまいそうな勢いだったろう」
「いや、それはな......」
康時は流れとしては順調だと、内心でうなずく。この調子で宥めていけば彼らの怒りを鎮めて、この場を上手く収められよう。
そう思い、話を続けようとした時だった。
「そこの男たちが、ここで煙草を吸っていました。僕はそれを咎めただけです」
奥の男子高生が、止せばいいものを水を差してきた。彼の一言に反応し、怒りが鎮まりかけていた男三人の顔が、再び一気に気色ばんだ。
「テメェ、いい加減にしつけえぞ......」
ーー馬鹿野郎......!
まるで消えかけた火焔に油を注ぐような愚行である。しかしそれだけでは終わらず、彼は立て続けに言う。
「禁じられている場所で喫煙をしてはならないというのは、常識ではないですか。それを無視している彼らに、そのことを指摘しないのは道理に反します」
もう止めておけと心の中で念じるが、当然それがあの男子高生に伝わるはずもなく、まだ何かを捲し立てている。
三人の内の一人が、拳を握るところが見えた。今にも殴りかからんという殺気までもを感じる。
ーーまずい。
男が拳を振り上げると同時、康時も急ぎ動き出した。見るからに体重を乗せた渾身の拳が放たれる。
「な......」
誰かが声を漏らした。康時は男子高生と彼らの間に割って入ると、飛来した拳を掌で受け止めたのだ。その間に起きた、康時の風が疾るかの如き動きにその場の誰もが驚愕していた。
互いの腕が震え、拳と掌による力の押し合いとなる。しかしこの身体は陸斗という一般の男子高生のものであり、三十路ほどの男が相手となれば流石に分が悪い。わずかに相手の男が優勢であった。
「く......ふっ!!」
力の方向を逸らして拳を押しのける。他者に力負けするなど、これまでの人生で一度も経験したことがなかった。初めての感触に手に違和感を覚えつつも、動揺を隠して康時は前を見据える。
「......穏便に済ませたかったが、アンタらどうしてもこいつを殴らねえと気が済まねえって顔だな」
三人の怒りの矛先は、背後の男子だけでなく康時にも向き始めていた。もはや己は無関係な人間とはいえない。この男たちと揉める十分な理由ができたと、腹を決める。
「構わねえぞ。ただ、こいつを殴りてえなら」
両の拳を握り、右手は顎の傍へ、もう片方は腹に添える。体は半身にし、相手の攻撃に備える。膝はほんのわずかに曲げ、いつでも相手に飛び込めるようにする。
康時が強敵を相手取るときにのみ使用する、臨戦態勢を示す構えであった。
「まずは、俺を倒してからにしてもらおう」
今までの穏やかな雰囲気から一変。まるで猛獣が眼前に突如として現れたかのような緊張が、裏路地一帯を支配する。その異様なまでの威風に、男たちは冷や汗を垂らしてたじろいだ。
ただし一人。背後の男子高生のみは康時の威圧に呑まれず、彼の背中を目を丸くして見つめていた。彼の構えに至るまでの一連の動作に、どうしても既視感を覚えてしまう。
「その、構えは......」
息をするのも忘れて、立ち尽くしてしまった。もしこの既視感が本当なら、それは“あの人”が再び己の前に現れてくれたことになる。わずかな希望を持ちながらも、ほとんど諦めていた。
彼には、光明が見えた気がした。
「かかってこい」
そうぽつりと呟き、康時は開いた掌を己の方へと引き寄せた。
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