近江の鬼神 〜“ギャルゲーの親友キャラ”とやらに転生したらしいが、世界が危険に満ちている〜
@rane
プロローグ
月の明るい夜であった。師走の寒冷が肌に突き刺さる。二度撃ち抜かれた脚からは、とめどなく鮮血が流れ出ているが、それでも歩みを止めるわけにはいかなかった。
側で共に走っていた青年が、足がもつれ転びそうになった己の身体を支えた。
「義兄さん、あと少しです。気張ってください」
「わかっている」
足取りがおぼつかない状態でも、強がって言葉を返す。己の前を行く、未だ十歳にも満たない少女が心配そうにこちらを振り返る。
「大丈夫だ。行こう」
痛みと疲労に歪む顔を鎮め、無理矢理に笑みを浮かべて見せた。この少女は仲間内の誰よりも己の力を知っている。これくらいで死ぬとは思っていない筈だが、それでも、やはり苦痛を覚えているはずの己を見て、不安な思いを拭うことはできないらしかった。
海の波打つ声が聞こえる。それだけが今の希望だった。この先にある仲間が手配したボートにたどり着けば、海岸に沿って、いわゆる隠れ家へと逃げおおせることができる。そこならば、この少女を匿うことができるし、仲間たちの助力も得られる。
仲間たちは己を慕う者たちの集まりで、その力の形こそ違えど、全ての者が一騎当千。今に追ってきている烏合の衆ごとき、蹴散らしてくれよう。
「
気づかぬ内に息が荒くなっていたらしい。眼前の少女が不安気な表情で彼の名を呼んだ。それでも、笑みを絶やさずに彼女に目をやった。
自分の身体のことだ。まともな状態でないことは百も承知。先ほどから、全身の震えが止まらない。さらに僅かに血を吐いたのか、口の中に鉄の臭みと味が広がっていた。それは脚に銃弾を受けたからではない。無論それも一因としてあるだろうが、“その程度のこと”ならば、平素では軽症も同然だった。
数時間前から既に百を数える悪党たちとの闘争を繰り返し、それ故の疲労。さらにはその間に幾度か受けた傷もある。
思えば、銃撃を食らってしまったこともその所為かもしれない。少女に向けられた銃口。それから彼女を庇い、これを受けてしまった。普段ならば絶対に有り得ない。彼女を守った上で、己の身も顧みることができたはずだった。
ーー何が“鬼神”だ。
心中で自分自身を罵った。己の異名とされる名。誰が最初に呼び始めたのかはわからない。しかし、気づけば裏の者ーー主に極道を中心としてーーこの名は浸透していた。戦場で、さながら鬼神のように猛り狂う姿から取られたものらしい。
しかし今の様はどうだ。鬼神どころか、その姿は不格好極まりない。子鹿のように脚を震わせ、他人の肩を借りなければ歩くことすらままならない。
情けない。その一語が胸中に絶えず響いていた。
「不甲斐ねえ......」
「何を言ってるんですか...... ここまで義兄さんがいなければ来れていません」
彼の心中を察したらしく、青年がそのように言った。その言葉には、叱責、敬慕、恐れなど、様々な感情が入り混じっているように聞こえた。
ここまで徒党を組んで襲ってきた百数人。それは全て、この男一人で相手取ってきた。少女は戦う術を持たないし、青年については、彼が万一倒れた時の“保険”として体力を温存してもらう必要があった。
無論、尋常の業ではない。悪党の中には、こと喧嘩に長けた者も幾人といただろう。それら全てを真っ向から薙ぎ倒し、もう少しで目的の場というところまで来たのだ。およそ人間のできることではないだろう。
「康時、自分を悪く言わないで」
このような状況で、気丈にもそんなことを言ってくれる。励まされて胸の内が熱くなるのを感じると同時、しかし子供にまで気を遣わせてしまったという事実に少々の恥を覚えてしまった。
「ああ...... すまない」
気を取り直し、脚に力を込めて歩き続ける。ボートの浮かべられた場所は、間近に迫っていた。
「しかし、まさか“奴ら”本当に同盟を組むとはな」
「義兄さんの恐ろしさがわかれば、いずれこうなるだろうとはわかっていました」
「ああ。“鹿島連合”か...... もともといた組員が全て合わさっていたとするなら......」
「総勢、八百六十六人」
少女の声が横から割って入ってきた。暗記には少々細かい数字がぴたりと告げられ、一瞬きょとんとした二人の男が肩を揺らして朗らかに笑った。
何故か笑われたことで、少女の顔が少しむっとする。
「......なんで笑うの」
「悪い悪い。流石だな」
片手で拝むようにして謝ると、横から青年も同調してくる。
「ええ。本当にこの子の頭脳には驚かれます」
この少女は出会った時から、たびたびこのようなところがあった。未だ年齢は二桁にすら届かぬ身にも関わらず、頭脳明晰な仲間が集まっている中で、その一、二を争う程の聡明ぶりを見せていた。とりわけ暗記においては右に出る者がおらず、ルービックキューブを混ぜる過程を見て、その後にそれを遡行する形で揃え直したこともある。仲間内では未来の智将などと持て囃されていた。
笑ったことで、機嫌を損ねてしまったかと思ったが、彼女は小さく息を吐くと、そっぽを向いていた視線をこちらにちらりと寄越した。
「......後で何か買ってね」
不機嫌そうな声色だが、本当に怒っていれば彼女はそもそも口を利かない。頷いて返した。
「それにしても、まさか俺一人を殺すためだけに、あのチンピラ共があそこまでするとはな」
「武器の密輸のことですか。たしかに」
あのチンピラというのは、今は合併して鹿島連合となった集団のこと。以前までは三つある全く別の組織たちだった。極道、半グレ、日ノ本の未来のためと嘯き、法を犯すことすら是とする血も涙もない集団。そういった者たちが、康時ただ一人を冥府へ送るためだけに手を組んだ。
彼らは連合となった後、いったいどのような手を使ったのか海外より刀剣類や銃弾薬、暗器までもを秘密裏に輸入したという。少女の言った八百人以上の構成員の分を。ここに来るまでに奇襲を仕掛けてきた悪党たちも、それらしい武器を携えていた。
奴らと対峙する羽目になったのは、完全なる成り行きだった。初めは組織の木っ端とのいざこざから始まり、そこから状況が肥大化していった。奴らが襲い来る度に返り討ちにする。騒動に巻き込まれれば己から殴り込むこともあった。そうして寄せては返してを繰り返す内に、いつしか奴らにとって康時は公権力以上に厄介な存在となっていたらしい。
「悪いな...... 俺の問題に、お前らを巻き込んじまった」
「康時」
少女が咎めるように鋭く言った。それに青年も乗ってくる。
「またそれですか。いい加減にしてくださいよ。俺たちは巻き込まれて嫌々義兄さんに付き合っているわけじゃない。俺たち自身が、あいつらと戦うと決めたんです」
青年が目に力を込めてこちらを睨む。似たようなやりとりをこれまでにも何度かしてきた。決して巻き込まれたわけではない。だから責任者を気取るのはやめろと、仲間たちは一貫して言う。
しかし、
「それはわかる。だが、ただのチンピラとの喧嘩で済むものを、ここまで大きくしたのはまぎれもなく俺だ」
今この場にいる二人は特に被害者といえた。二人とはそれなりに長い付き合いになる。最初は身寄りのない者同士で集まっていただけだった。どうにか日銭を稼ぎ、毎日を必死に生きる仲間。そのうち人が集まり集団は大きくなったが、元はその程度のものでしかなかった。
幸か不幸か、己は喧嘩の才に自分でも恐ろしいほど恵まれていた。それ故に昔から向かってくる悪党を迷いなく叩きのめしてしまう。それが良くなかったのだろう。
喧嘩で負かした悪党が面子を気にするような輩であれば、仲間を引き連れて必ず報復に来る。それを倒せば次はさらに多くの仲間を連れる。それを繰り返していれば、いずれ戦争のような状態になってもおかしなことではない。悪党に人脈があれば、際限なく人を集めることができるのだから。
しかしそれも、己一人ならばまだよかった。一人ならば例え負けて死のうがどうでもいい。しかし、己には少ないながら仲間がいた。ここまで大きな話にはなるまいと高をくくっていたせいで、彼らまで巻き込む事態となってしまったのだ。
俺たちも共に戦うと、そう言ったのはたしかに彼らからだ。だがそもそも己が自重していれば、このようなことにもならなかった。
ーー思えば“鬼神”と呼ばれ始めたのも、この頃からだったかもな。
鬼神。言い得て妙だ。神はともかく、鬼とは災いの象徴のようなものではないか。余計な面倒事を持ち込んでくるあたり、己にぴったりだろう。
すると、まるで心中を見透かしたかのように二人の視線がさらに鋭くなる。
「義兄さん、さっきの話をもう忘れたんですか? 自分のことを悪く言うのは......」
「自分を責めているわけじゃねえ。これは反省しているんだ」
流石のこの二人も本当に心の中まで見抜いているわけではない。鬼神の異名への自嘲はともかく、事の肥大化を誘ってしまったことについては言い逃れできる。
二人はそれでも疑うような目を向けてきていたが、それだけで己が口を滑らせるような人間ではないことはわかっているだろう。やがて諦めたように溜め息を吐いた。
「義兄さん、俺たちは義兄さんのことを大切に思っているからこう言うんです。わかってください」
「わかってるよ。お前たちが思うより、ずっとな」
性分ゆえに己を蔑ろにしてしまう節があることは自覚している。だが生まれてこの方、まともな生活とは縁遠く人間関係も希薄だったために、その分この二人とは強く通じ合っていると思っている。だから二人が己をこの上なく大事に考えてくれていることは理解しているつもりだった。
ただ二人が己を大切に思うように、己もまた二人のことを何より大切に思っている。彼らに危険が及ぶのなら、いっそ自分の身を盾にするだろう。なればこそ、今の状況で己の扱いを二人が思うように変えることはできなかった。
「それ、本当?」
少女が問うた。
「本当だ。信用できないか?」
「嘘はついてないと思う。でも何か引っかかる」
おそらく彼女は、己が二人の思いを理解していたとて行動を改めるかは怪しいと言いたいのだろう。なかなかに鋭いものである。己はこの先も、自分の不逞を責めるだろうし、生き方も変えられない。
「......俺は両親の顔すら覚えていない。お前たちを代わりだなんて言う気はねえが、血の繋がった家族がいない分、お前たちとは真摯に向き合っていると思ってる」
彼女と目を合わせ、はっきりと言ってみせる。それでもしばらく何か言いたげな目でこちらをじっと見つめていたが、
「............まあ、いいよ」
と一言残すのみで、前を向いた。
それから脚を早めて歩いていると、開けた埠頭にぽつんと佇む倉庫にたどり着いた。とにかく巨大。まるで眼前の海の前に立ちはだかる要塞のようにすら感じられる。
長らく使われていない埠頭ゆえ、この倉庫も今や廃墟と言っていいだろう。本来ならここで積み荷を運送のトラックに積み込むようだ。
「ここです。ここの裏口から出たところにボートが手配されてます」
青年が指を指して言った。
「そうか。すぐに行くぞ」
鉄製のシャッターの側に設けられた扉から三人が倉庫へ入っていく。中は当然ながら、何一つ無い。完全ながらんどうである。ただ少し埃っぽさを感じるようだった。
「寒いな......」
冬の倉庫ということもあるが、脚からは血が流れ出ていた。先刻よりはだいぶマシにはなったが、それでもかなりの出血をしたことには違いない。血が抜けたことにより、体温が下がったのかもしれない。
それに気がついたか、青年がわずかに焦ったように倉庫内を見回した。
「あの扉です! 早くボートに乗りましょう!」
扉に駆け寄る。そうして青年がドアノブに手をかけた時だった。
「は......」
突如、何の前触れもなく少女が弾かれたように背後を振り返った。何事かと残る二人も同じ方向へと目をやる。男二人にはまだわからなかったが、少女の耳朶は間違いなく“ある音”を捉えていた。
徐々にその音は近づき、同時に大きくなってきている。数秒した頃、ついに二人もその音に気がついた。
「くそ、まさか撒けていなかったのか?」
歯を強く噛み、眉間に皺を寄せて言う。音はこの間にもさらに近づいている。凄まじい速度であることが容易にわかった。
「いえ、道中で襲ってきた奴らは義兄さんが残らず昏倒させたはず...... となれば」
「待ち伏せか」
近づく音の正体は車などのエンジン音であった。それも数台程度のものではない。無数の音が重なり合い、それは巨大な轟となっていた。音からは少なくとも数十と聞こえる。が、しかし二百は優に超えているだろう。
鹿島連合であることは間違いない。今、己たちを襲う理由があるのは奴らのみ。あの集団の総勢は、少女が先ほど告げた通り八百六十六名。康時がその内の百余名を倒したが、それでも七百人以上が残っていることになる。
今宵の鹿島連合は己ら三人が仲間たちから離れたところを狙い、総力を挙げて仕掛けてくる算段だったのだと、つい先刻わかった。しかしそれを知って不思議に思ったのは、何故数名ずつ襲わせているのかということだった。奴らは何故か連合の数を用いて一斉にかかってくるのではなく、六から七人程度の少人数で幾度も襲いかかってきた。最初は街中故に騒ぎにならぬよう気を配っているのかとも考えたが、それではわざわざ頭数を揃えた意味がない。“鬼神”の力をわかっていながらそうしたならば、見通しが甘いという話ですらないだろう。
しかし今になって、康時は奴らの思惑が理解できたように思えた。つまり街中で襲ってきたチンピラたちは捨て駒。構成員は各所に配置されていたというから、おそらくは己の位置を追うための追跡機のような役割を与えられていたのだろう。そして喧嘩までさせたのは、体力を少しでも削ぐためと考えられる。
そして街に争いの音が聞こえにくく、逃げ場のない場所であるこの埠頭にたどり着くまで待ち伏せていた。そう考えれば辻褄は合う。エンジン音はともかく、闘争の声や音は波打つ音で誤魔化せる。そして後ろは海。陸側を取り囲んでしまえば、己たちに逃げ場はなくなる。奴らはボートの存在を知らないために、そう考えたのだろう。己らが埠頭まで来た理由もわからないが、都合が良いのでまあよしと。
「
名前を呼ばれた少女がこちらを振り向き、僅かに視線を上向けると、数秒もせずに戻し、答えた。
「百二十六」
「じゃあ全員で来たと考えて...... 七百四十人ってところか」
青年がうなずく。
「たいそうな人数です。ですが、ボートに乗ればこちらのもの。さすがの奴らも、海まで追ってはこれない」
そう得意そうに言ったが、康時と結珠は下を向いて唸った。青年は訝しげな顔で二人を交互に見る。
「なにか......?」
「このままボートに乗るのは危険すぎる」
「ああ。奴らは銃を持っている。今ボートに乗り込んだとしても、陸から銃弾を乱発するだろう。基幹を撃ち抜かれりゃ、ボートが動かなくなっちまう。最悪は俺たちも蜂の巣にされるだろうな」
そう言って最後に舌打ちを放つと、青年の表情がみるみる内に険しくなっていく。鹿島連合の連中が密輸にて仕入れた銃は、小さな拳銃のみではない。その中には、かなりの巨躯である機関銃も混じっていたと聞く。それを海上に浮かぶ己たちに乱射されるようなことがあれば、まずボートは無事では済まない。
「では、どうすれば」
「そうだな...... ぐっ......!」
青年の問いに答えようと口を開くと、突如として彼の支えていた康時の身体から、一瞬力が抜けた。体勢を崩しそうになった体を持ち上げて、康時の腕を青年が自らの肩に回した。
「義兄さん!」
「康時! 傷が......」
少女が叫ぶと同時に、青年も足元に目をやった。傷が広がってしまったのか、再び脚が出血を始めている。応急処置のための布すらなく、先ほどより増した痛みに康時は歯噛みした。
結珠が足元に取り付き、傷口を小さな掌で強く抑え込んだ。
「結珠、それは......」
所謂、直接圧迫止血法という術だが、これにはそもそもガーゼやハンカチといった布を要する。掌、それも彼女のような小さなもので為せるようなことではなかった。
しかし少女は康時の声を聞かず、一心に押さえる腕に力を込め続けている。そこで気がついた。彼女にしては珍しく、酷く狼狽えている。常に子供とは思えぬ程に冷静沈着に、明晰な頭脳を以て動くあの少女が、額に汗を浮かべ、息を乱していた。
彼女の掌が、徐々に赤黒く染まっていく。
「に、義兄さん、とにかく今は安静に! 動かないでください!」
青年が言い聞かせるが、己の頭は既に芒とし始めていた。血を失い過ぎれば、人間はまず卒倒する。血中に含まれている赤血球が少なくなり、全身に酸素を送ることができなくなるためだ。それが己の中で進んでいるようだった。
目の前がわずかに霞んでいく。全身から血の気が引き、冬の気候とは別に寒々しさを感じた。
「
「どうしました!?」
勇太と呼ばれた青年が血相を変えて、弱々しくなりつつある己の声に応えた。
何故彼の名を呼んだのか、己にもわからなかった。朦朧となっていく意識の中で、突然過去の記憶が湯水のように溢れ出てくる。過去に己の前で散った者、恥じぬ戦いの末討ち死にをしたと伝えられた者。最期まで己と共に戦ってくれた者、裏切った末に己の手で決別した者。救えた者、救えなかった者。何故か今になって、かつての仲間たちと今いる仲間たちの顔が脳裏に稲妻が走ったかのように思い出された。そして、彼らと共に在った出来事も。
「結珠、真信、千波......」
まるで念仏を唱えるかのように、仲間たちの名を呟き続けていた。勇太は、まるで訳がわからないといった風に、しかしどうするべきかもわからず、その様子を見つめている。
そして少しして、念仏が止まった。康時は大きく息を吸い込み、吐き出すと、視線を地にやったまま結珠と勇太に向けて言った。
「お前ら、先に行け」
その言葉に、何を言っているんだと言いたげに勇太が睨む。
「なにを、ふざけたことを......」
「大真面目だ。今ボートを発進させれば、まず間違いなく死ぬ」
そこまで言って、康時は彼と視線を合わせた。
「俺がここで奴らを食い止める。お前らは先に行き、仲間たちを呼んで来い」
「間に合いません。いくら義兄さんといえど、今の状態であの人数を相手にしては......」
「俺を信じろ。それとも他に、方法があるか」
勇太はうっと言葉に詰まる。当然、他に術などない。最も力に長けた康時に足止めを頼み、その隙に仲間を呼びに行く。それが最善であるとはわかる。
しかし、ここから隠れ家までどれほど早く着いても三十分はかかる。そして戻って来る頃には一時間が経っていることになるのだ。どう転んでも、康時が無事で済む筈がない。
「頼む勇太。結珠を連れて行け」
青年は康時の脚を未だに押さえ続ける少女に目をやった。止血のみに意識が言っているようで、まるで話を聞いていない。
「し、しかし義兄さんを見捨てることなど」
「見捨てろとは言ってねえ。仲間を呼んで来いと言っているんだ」
そんなことを言っているが、ここで彼を置いていけば死ぬだろうということは、無論のこと理解している。その上で、それを建前とするしかこの二人を行かせる方法はないと踏んだのだ。
「腐っても鬼神と呼ばれた身だ。それらしく、しぶとく生きてやるさ」
無理矢理に口角を上げ、歯を見せて笑ってやる。それでもしばらく瞑目し迷っていたが、やがてぎこちなく、深々と頷いた。
「......わかりました」
「頼むぞ」
次に足元でうずくまるようにしていた少女に目を向けた。片膝をつき、少女との目線を合わせる。
「結珠」
「康時...... 康時......!」
結珠は縋るように己の名を何度も呼びながら、全身を震わせていた。声をかけたことにも、全く気づいていない様子である。
「結珠」
再度名を呼ばわり、彼女の手首を掴んだ。すると結珠ははっとした様子で顔を上げ、己と目が合う。
「聞いてくれ。俺が鹿島連合を足止めする。お前は勇太と一緒にボートに乗って仲間たちを呼んできてくれ」
「な、なにを言ってるの? そんなことできるわけない!」
結珠も当然ながら、勇太と同じ思いなのだろう。ここで己を置き去ることは、見捨てるも同義であると。しかし康時は続けて言う。
「大丈夫だ。俺の強さは、お前が一番よく知っているだろ?」
「無理に決まってる!! 康時が強いことはわかってるよ! けどそれとこれとは話が別! そんな血も足りない体で、疲れ切ってて...... なにか良い方法を考えるから諦めないでよ!!」
もはや悲鳴のようであった。仲間内で、最も己と共に時を過ごした少女だ。それだけに愛着や執念というのも、他より幾倍も強かった。滅多に見ることのない涙を流し、声には嗚咽すら混じっている。
「今からじゃ、流石のお前でも無理だ」
「そんなことない! 私のことを天才だって...... そう言ったのは康時でしょ......!」
「だからこそ、こんな所でお前を失うわけにはいかない」
「嫌だ!!」
首を激しく振ると、結珠が胴に抱きついてくる。顔を胸にうずめ、声を引きつらせている。
「私のことを家族だって、大切な子だって! そう言ってくれたのは康時だった! 私は......私は、“お父さん”を失いたくない!!」
お父さん。その言葉を彼女の口から聞いたとき、己の胸に何か熱いものが込み上げてきた。目を細めて咄嗟に堪えたが、己の眼からも感情が零れ落ちそうになっていた。
康時は結珠の首に両腕を回し、力強く抱きしめる。今の己の身体は弱っているはずなのに、それは強く、彼女への思いをこの腕に伝えていられるように感じる。
「今も、これからもずっとそう思ってる。血の繋がりはなくとも、お前のことを世界で一番大切な娘だと」
声に力を込める。彼女へ、己の思いを少しでも多く伝えられるように。
「だったら、私の前からいなくならないで...... 私の大切なものを、奪わないで......!」
泣きじゃくる結珠の頭を、優しく撫でる。彼女の髪は、まるで雪原のような純白であった。腰まで伸びたそれが、倉庫の天窓から差し込む月光に晒されて輝いている。これがひどく美しい。初めてこれを目にした時、まるでお伽噺の雪の精が現れたのではないかと、この歳にして本気で思った程だった。
結珠の腕に込める力が強められた。決して己を離さんとしているようで、それがどうしようもなく愛おしい。
「ありがとう。結珠」
昔は己が誰かに愛されるなど、縁遠い話であると思っていた。恐れと蔑みの視線ばかりを向けられてきた己にとって、結珠を始め仲間たちの存在はこの世で何よりも温かった。
最愛の少女にそれだけを告げる。別れの言葉は、言うべきでないとわかったから。
「嫌だ......! やだ!」
二人は月明かりのみがある暗がりの中で、抱き合っていた。結珠が康時と離れることを拒み続けていると、これまで鼓膜を震わせていたエンジン音が徐々に小さく、少なくなっていく。鹿島連合が康時たちに追いつき、これから倉庫に踏み込むつもりなのだ。
この子と離れるのは、己も胸が張り裂けそうな思いである。しかしここで心中など、以ての他だ。結珠を胴から引き離すと、勇太に彼女を預けた。尚も彼女は手を伸ばし、こちらへ寄ろうとしている。
「勇太...... 兄貴分として、最後の頼みだ」
最後。その言葉に、彼は目を閉じて必死に喉から出そうになる感情を抑えているようだった。
一拍置いて、それを口にした。
「結珠を、頼む。お前が守ってやってくれ」
「はい。この命に変えても」
二人の視線が交差する。そこには、数百もの語が一瞬にして駆け巡っているように思えた。
頷き合い、勇太がドアノブを回して夜の闇へ駆けていく。
「康時! 康時っ!! 待って、勇太! お願いだからやめて! 私も康時と一緒に......!」
少女の喚く声も、少しずつ闇夜へ溶けて、消えていく。二人の姿が完全に見えなくなると、康時は瞑目し、腹を決めて踵を返した。
入ってきたドアの取っ手を回し、外へ踏み出す。そこへ出た途端、数百の車、バイクの発する眩い光が己を照らした。前面には、見るからに堅気ではない、紺のスーツや柄物のシャツを身に纏った、鹿島連合の連中が犇めいていた。そのほぼ全てが武具を握っており、殺意がひしひしと伝わるのを感じる。
その内の誰が最初だったか、己の姿を認めた者たちが口々に叫ぶ。
「おう! 鬼神が出たぞ!!」
それらの声を皮切りに、熱気が伝播するようにして何百と寄り集まった烏合の衆が叫び始めた。やがてそれは全体に広がり、重なったそれらが怒号となる。殺してやる、八つ裂きにする、目をくり抜いてやろう。口汚く、この上なく残忍な数々の語が己一人に浴びせられている。
その中でも、康時は一切として怯むことはなく、一歩、また一歩と集団へと歩みを進めた。彼のその眼光を形容することは難しい。凄まじく鋭い。強いて言えば、それはまさしく“鬼神”のようであった。
「死ね! 朝霧!!!」
苗字を呼ばれるのは随分と久しいことだ。絶望的な状況にも関わらず、この殺意と憎悪のみが向けられている感覚も相まって、どこか懐かしさを感じていた。
己の苗字を呼ばわった男がその手に握られた拳銃を発砲し、それに続いて十人ほどの男たちも引き金を引く。
「かかってこい」
ぽつりと呟く。放たれた弾を目で見て、避けた。全ての弾が通り過ぎるとほぼ同時に、康時は身を低くし、獣の如く駆けた。歯噛みこそするが、これくらいのことでは、もはや奴らも驚かない。“鬼神”が銃弾を躱したことなど、一度や二度ではないのだから。そうでなければ、これ程の頭数を揃え、危険を犯して武器の密輸などしない。
五十メートルはあったはずの距離が、五秒もせずに詰められた。最初に間合いに入った男の頬桁を、力の限り殴りつけた。音も追いつかぬ程の轟速で拳が飛び、頬の骨、いや頭蓋がひしゃげる感覚が手に伝わる。筆舌に尽くしがたい気色悪さであった。
殴られた男の身体は宙に浮かび上がり、後方の者たちを五人も巻き込んで後退した。鹿島連合の者共も覚悟を決めて康時に挑んできたはずだが、いざ彼の圧倒的な暴力を目の前にして、思わず一歩後ずさっていた。
その隙を見逃さず、最も近いチンピラの鳩尾に膝蹴りを見舞う。相変わらず骨の砕ける感触が襲い、蹴られた男が声にならない声を漏らして地面に倒れ込んだ。持っていた刀を奪い取り、康時は眼前を睨みつける。
「い、行け! 怯むな!」
誰かが叫び、波が押し寄せるようにして奴らが殺到する。それに応じて康時も前へ前へと踏み込む。
いつもなら、決して人の命を奪える武器など持つことはなかっただろう。かつての己のまま生き続けていれば、あるいは違ったかもしれないが、あの日の己は、結珠によってその醜悪な心を消し去ることができた。人を殺めること。それは力を持つ自分にとって、なによりも危惧すべきことであった。
だが今宵は違う。あの二人が無事に帰るためには殺しを躊躇うことはできない。力を緩めた途端に死ぬかもしれない。ただでさえ血を流しすぎて、いつこの命を落とすかもわからないのだから。
だから今は、己の醜悪さを取り戻す。心中で何度も唱え続ける。結珠や仲間たちには、決して見せられぬこの思い。
ーー全て道連れにしてやる。
己は今、どんな顔をしているのだろう。いったいあの少女の父親を、まだやれているのだろうか。
そんなことを思う。しかしたとえ人殺しになり、あの子の親を名乗る資格を失おうと、今はただあの子と仲間のため“鬼神”になる他ない。
ーーああ、結珠。
今まさに鬼と成ろうとする心に、わずかな隙ができたようだった。静かな言葉が、ひとつ零れ落ちた。
ーー会いたいよ。
朝の報道は、「近江海岸」の埠頭で起きたとされる、ある話題で持ち切りであった。曰く、反社会的勢力同士の抗争。埠頭のアスファルトは血で塗れ、現場を調査した警察官の話によれば、転がっていた死体は二百と五十を超えていたという。あくまで死者数。負傷者まで含めれば、それは数え切れぬ程のものとなるだろう。
その場には密輸にて持ち込まれたと思われる銃器や刀剣などが無数に散乱しており、この件は戦後最大の大抗争であるとされた。埠頭の死体を運ぶ人手が足りず、今でも対応に追われているという。
ただ、現場を直接見た者は不思議なことを言う。無数に横たわる銃や刀の内、埠頭のちょうど真ん中という所に一本のみ地に刺さった刀があったらしい。何故それだけそのようになったのかはわからないが、そのすぐ側に他所とは比べものにならぬほど広がった血溜まりがあったという。
まるで、そこに一人だけ立ち続けた者がいたかのような広がり方に見えた、と。
埠頭で亡くなった仏は、そのほとんどが無縁墓に埋葬された。多くの者が極道や半グレ。元より身寄りがなかったか、あるいは家族から絶縁された者ばかりであったのだ。だが、中には親族などに引き取られ、順当に墓に入ったのもいる。
その後は抗争に参加したと思われる男たちが続け様に逮捕、起訴された。逮捕の際に、反社たちは大きく抵抗するかと思われたが彼らは、
ーー鬼神が...... 鬼神が......
と、うわ言のように繰り返すだけで警察官の腕を振り払うことすらしなかったという。鬼神の意味はわからない。しかしいずれもそのように呟き、何か恐ろしいものを見たらしかった。
鬼神。もしや、本当にそんな怪物が現れ、あの惨状を作り出したのか。冗談半分でそんなことを言う若い警察官もいた。不謹慎だと上官に咎められていたが、しかし現場でのチンピラたちの倒れ方や彼らの身に纏っていた統一されていない服装など、不可解のことが多くあった。
皆が口では冗談だと言い続けているが、この抗争の真相を深く掘り下げていけばいくほど、あの血塗られた埠頭にいたかもしれない“鬼神”の存在が現実味を増していっていく。
警察官の間では、そのような「噂話程度」の話になっているが、実際にあの戦いの場におり、あの暴れぶりを目にし、パトロールカーのサイレンが聞こえると同時に逃げ出した者たちは、鬼神の存在が真であることを知っている。武装した仲間たちが次々に殺されていく様子は脳裏に深く刻み込まれ、鬼神の名を聞くたびに恐怖に苛まれていた。
その者たちは、あの近江海岸にて血の海を生み出した、ある男への恐れと、ある種の畏怖を込めて、こう新たに名付けたという。
“近江の鬼神”
と。
生温かな日差しが、目元に降り注いだ。鳥のさえずりが聞こえ、ゆっくりと目を開けた。
自分は何をしていたか、己に問う。未だぼやける視界の先が見えない。上体を起こし、康時は右手で両目を押さえた。
ーーそうだ。俺は奴らと殺し合いを......
そこまで思い出して、はっと頭が覚醒した。慌てて目をこすり、周囲を見渡す。結珠は。結珠や仲間たちはどうなった。
しかしそこは己の思った風景ではなかった。血塗れの埠頭を想像したが、何故か黒の毛布を被っている。そもそもが屋内だ。状況が飲み込めず、康時はしばし呆然としていた。どこかの一人部屋と見える。文机があり、小物に、絵の描かれたポスター。壁にカレンダーが掛けられており、そこには四月とあった。六日の枠に丸が付けられている。
何もかもが己の知らぬもの。全く見覚えがなく、誰の部屋かもわからない。
「どこだ、ここは......」
誰かが己を助けて、匿ってくれたのか。そうも考えたが、まさかあの戦場に立ち寄り、その中から己一人を連れ出して治療まで施した上に、このような良質なベッドまで貸したとは思えなかった。
そういえば銃弾を十発以上受け、刀で深々と腹と脚を斬られたはずだ。そのことを思い出し、服をはだけて身体を見る。
「これは......」
目を見開いて驚く。傷が一つもなかった。治療して完治したという水準ではない。まるで、そもそも怪我などなかったかの如く清潔な肌があった。
ーーわからない。
何も今の状況がわからなかった。頭の中は困惑で埋め尽くされ、思考が完全に止まってしまう。
辛うじて考えることができたのは、あの愛娘の笑顔だった。
ーー結珠。今は何処にいるんだ。
会いたい。ただその思いばかりが溢れてきた。だが今の己の身すら理解できぬというのに、そのために動くことができず、もどかしかった。
埠頭で戦い始める前までは、堪えることができていた涙が、今になって溢れ出す。一筋の線が眼から頬を伝って流れ、服を濡らした。
その時であった。誰かが部屋に近づく足音が耳に届き、ふとそちらに目をやった。
「お兄ちゃん? もう起きてる?」
彼女のことばかり考えていたせいで、一瞬、結珠の声かと思ったが全くもって違う。そもそも結珠は己ことを“お兄ちゃん”などとは呼ばない。それは、幼気な少年の声だとわかった。
部屋の扉が開かれる。姿を現したのは、身丈が未だ百六十にも満たないだろう、やはり少年だった。彼は己の顔を見ると、あからさまにぎょっとした様子で駆け寄ってきた。
「ど、どうしたの、お兄ちゃん!? なんで泣いてるの?」
「お兄ちゃん......?」
「え? う、うん。大丈夫? 体調でも悪いの?」
見知らぬ少年にいきなり兄と呼ばれ、ますます訳が分からなくなってくる。困惑しつつも涙を拭い、少年の目を見つめた。それに不思議そうに、彼は首を傾げる。
「なあ、君はいったい......」
何者なんだ。そう問おうとしたが、何故か言葉が詰まって出てこない。すると、少年は手を伸ばし、優しく己の背中をさすってくれた。
「ほ、本当にどうしたの? 具合が悪いなら、ボクがお母さんに伝えてくるから安静にしてて。“陸斗”お兄ちゃん」
「陸、斗......」
いったい誰の名だと思ったが、彼の口ぶりからして己のことを呼んだのだとわかる。自分の名は流石に覚えている。“朝霧 康時”。それが己の名である。
絶えず強まり続ける困惑に、頭痛すら感じ始めていた。少年が不安そうな表情でこちらを見ている。
埠頭で鹿島連合の足止めをしていたはずが、突如に見知らぬ場所で目を覚まし、面識のない少年に兄と呼ばれている。一から十まで何一つ理解の及ばぬ状況に放られ、かつて“鬼神”と称された男は、頭を抱えた。
ーー結珠、皆。俺はいったい......
どうなってしまったんだ。しかしその彼の心中を知り、問いに答える者は一人もなかった。
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