これからを生きる君の為に

土丸

第1話

           これからを生きる君の為に

                            土丸 (村上純一郎)


福島県 石川郡は阿武隈川の支流北須川渓谷に沿った集落である。その渓谷には山女魚が生息し両岸には奇岩が点在し岩の間を清流が流れ落ち、秋の紅葉は特に美しい。


その石川郡の中にかって母畑村と云う村が存在した。

母畑村には豪農で且つ地主の大庄屋が一軒その他は 殆どが零細な農家で、わずかな農地を持って営農する自作農 50軒と

自分の土地を持たず地主から耕作地を借りて農業を営む小作農が43軒程の山村である。

時は昭和八年、前年には清朝最後の皇帝溥儀を執政とした満州国が誕生した。

日本はいち早く承認するが、その満州国を調査した国際連盟のリットン調査団は満州国を日本の傀儡国家だとみなし、独立した国家とは認めず、満州から日本軍の完全撤兵を要求した。その為、日本は国際連盟を脱退して、国際社会から孤立していくという

軍事色一色に染まって行った時代である。

 母畑村の小作農民、鹿助二十四歳は四年前に、同村の遠い親戚にあたる二つ違いのマチと結婚し今年 4歳になる第一子、節子と三人暮らし 鹿助は分家するときに実家より2反の田畑を貰いあとは5反の畑を地主より借り計7反の耕作地を妻マチと共に朝から日暮れまで耕し 暮らしを立てている。

長女節子が寝付いた後、鹿助とマチはすこし肌寒くなった囲炉裏に薪をくべながら  マチと談笑するが、会話は自然暮らし向きの話になる。

 「今年の作柄は昨年と比べるとあまり良くないナ 昨年の七割方じゃないか!」

「夏の長雨が響いたんでしょうか?」

「それしか考えられんな。全部で三十五俵採れればいい方だろう。 そのうち小作分の地主への納付が十三俵 残りは二十二俵で家で食べる分を差し引くと、十七俵ぐらいしか売りに回せん。と言えば

マチは「自分は子供の頃から貧しい家庭に育ち貧乏には慣れております。足るを知れば不足などありません。親子3人暮らしていけるだけで有り難いと思っています」

マチは農作業の合間に家の周りにも野菜を植え家計を助けている。

 マチの健気な言葉に牧蔵は弱気なことも言えず、「まぁ!どうしようもない時は実家に相談すれば、なんとかなるだろう」と言って話を打ち切る。

鹿助の隣家に奥野さんという同じ年ごろの夫婦者が住んでおり家族ぐるみの付き合いをしている。 ある日の午後、

鹿助は奥野さんと今年のコメの出来具合の話をしていた時の事、今年は夏の長雨でモミにあまり実が入っとらん この分では自家用のコメを差し引くと売りに出せるコメは何俵も残りゃせん。地主さんに借金を申し込みでもしないと、こん年は年越しもできん。と奥野さんに云うと・・。内も同じようなもんだ本家に泣きつくか借金しかないだろう・・・・

すると奥野さんは今年農閑期に都会に出稼ぎに行かないかと鹿助を誘った。世界恐慌の煽りで都会も不景気は続いているのは知っているが出稼ぎに行けばそれなりの現金収入になる。また、奥野さんと二人ならば心強くもありお互いに女房とも話し合ってみるということで別れた。

その日の夜、マチに都会への出稼ぎの事を話すと マチは奥野さんと二人なら心丈夫であるし、それにこんな年に備えて少し蓄えも欲しい、貴方の体が大変じゃなかったら留守は私がしっかり守ります。私と節子の事は心配しないでくれと返事した。

二日後 鹿助と奥野は二人で取り敢えず役場に行き農閑期に出稼ぎに行きたいと相談してみると、役場の係員は親切な人で、いま都会もご存じの通り世界恐慌のあおりで不景気なんだ。 十月から来年の三月までの農閑期の間、定期で雇ってくれるところは少ない。又、三月迄の契約で行っても、途中で解雇される者も少なくなく農閑期半ばで頸になり帰ってくる者が多いのが現状ということを親切に話してくれた。

役場の係人は話は変わるけど、今、国では満州への試験的な移民を募集している 募集しているのは退役軍人でしかも農業経験者が対象ではあるが若し満州開拓に関心があれば問い合わせてみるが如何かと。

満州開拓では一世帯あたり三町歩の畑を割り当て開拓してもらうという。 その三町歩の購入代金というのは到底内地ではあり得ないような金額で、しかも開墾した後の収穫の出来高の内から支払えば良いという鹿助には夢のような話であった。

役場からの帰り道、鹿助と奥野は世間にはうまい話があるもんだ。おれも⒊町歩の地主さまだ。小作人を使ってお大臣の暮らしが出来るかもな!と話すと奥野さんはみんな3町歩地主だ、小作なんてやるもん居ないべという。そりゃそうだ、だったら満州人を雇って小作させるべ!二人はすっかり地主になった気分で上機嫌、 帰宅してから女房のマチに話すと そうだね、だったら私も早く男の子をもう一人産まなきゃと云う。 ん?何故だと云うと最近国防婦人会というのが出来て、その人が言うにはマチさん所はまだ女の子一人だけかい!と聞かれてそうだと答えるとその婦人会の人は「女は男の子を産んで兵隊に出してこそ一人前だ」

あんたはまだ半人前だからね と言われたとか、その奥さんのご主人は退役軍人だそうである。先達て役場で国防婦人会の講演会があり、エプロン姿に国防婦人会のタスキを掛けた主婦が銃後の主婦の心得という講演があったそうだ。

最近は在郷軍人が村中でも威張っていて四、五人集まっては 酒場で酒を飲み

「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」とか「義務は山より重く死は羽毛より軽ろし」とか大声で談笑していると云う。

鹿助は最近の世の風潮を口には出さないが苦々しく感じる。

先だっての事、同村の出征兵士が満州で戦死し戦死広報をうけた家庭がある。その家庭に国防婦人会の人が訪ねてきて“誉の家”と書かれた木札を持ってきて「オメデトウございます」と言ったらしい。それでそこの主婦が「亭主が戦死して何がオメデトウか」と言ったら「アンタは非国民だ」と言って帰って行ったらしい。

ほんとに国防婦人会の連中は何を考えているんやら 大体俺に言わせれば、「命捨てるほどの国なんてあるのか!」と思うんだがネ 妻は黙って鹿助の話を聞いていたが、

「他所でそんなこと言わないで下さいよ、警察にでもきかれたら引っ張られますよ」と鹿助を戒めた。

堅苦しく、近所の人にも思うことを話せない。村人がお互いに監視しているように感じる事さえある。

それから、暫らくすると奥野さんが鹿助宅を訪ねてきた。知り合いで退役軍人がいるとの事でその人に満洲移民についていろいろ話を聞いたそうである。話によると満州は満州事変以来、抗日運動が激しくとてもそんな悠長な話じゃないという。

だから予備役兵でしかも農業経験者を送り込みたいんだ」とその在郷軍人は話したそうである。

今、一般人が満州開拓に行くのは止めた方が良いという話だったと言う。 

それを聞いて鹿助はそうかー!役場の人は簡単そうに話していたけど、やっぱりそんなうまい話は無いんか。しかしここでこのまま小作農やるのはかなわんナー んだな マッ! お互い焦らずゆっくり考えるべ! 

それから、間もなく満州開拓移民の一般募集のポスターが役場にも掲示されるようになる。  ポスターを見ると『往け若人北満の沃野へ満蒙開拓青少年』小さく「義勇軍募兵」詳細 市町村役場“ とある。鹿助は奥野さにこのポスターの事を話すと、奥野さんはこれは、 前に聞いた予備役兵募集と同んなじだ。

満蒙開拓者募集じゃなく、義勇軍募集のポスターじゃないか。

満州に渡ったら徴兵検査で甲種、乙種で合格している連中に真っ先に召集令状を出すんだろうな。まぁ目的は満州開拓よりまず満州治安の方が先だろうからナ。

鹿助が満洲は満州国が治安するんじゃないのか!満州は一つの立派な国家じゃ無いか! と言うと、いや国連は満州を独立した国家とは見ていない。日本の傀儡国家と見ている。

だから軍部としては内地から開拓民を大量に入植させて満州の地を本土の一部にして既成事実にしたいんだろ! とにかく満州に今行ったら俺もお前も“誉の家”にすぐなっちゃうよ! 

日本から開拓農民を大量に移民させ既成事実にし、武力で満州を鎮圧し日本国の一部にする。

どだい無茶な話だよ。挙句国際連盟からやり玉に突き上げられると国連脱退だ! 

“満洲は日本の生命線”なんて手前勝手なことを並べてヨ

ところでお前徴収検査受けたんだろ? なんだった?俺は乙種合格だ お前は?一緒だ俺も乙種 そうか、いっそ丙種だったら良かったのにナ! みんな本心じゃそう思ってるよ     

だれも“『誉の家』になんか成りたくないからナ    

 しかし、「国防婦人会のオバサン連中はなにを考えているんかね!」 「なにも考えてはおりゃせんサ 連中は国防婦人会のメンバーになったことで、村中のおかみさんの教育ができる立場になって得意になっているンだよ。時世がこんな風だから自分達がやってる事に対し国からのお墨付きだもんナ」

軍部にしたってこういう婦人会のような連中の後押しがあるから、無茶なことしても通ると考えているんだ、でなければ五一五事件なんて起こして犬養首相暗殺なんか出来なかったと思うよ。

これはクーデターだよな!現役の軍人が首相の自宅に押し掛けてピストルで殺してだよ、結果は死刑にもならず、軽い罪で収まった。国民の間からも減刑嘆願が山のように届いたと云うじゃないか。

国のやることも良識ある国家がやる事じゃないけど、国民もまったく同じだよな。そりゃ中には良識のある人間も沢山いるとは思うけど、おおっぴらに云うとすぐ憲兵が自宅に押し掛けピストルで撃たれるし! まったくお先真っ暗とはこのご時世だよな! 俺達も二人の時は、こんなこと言えるけど人前ではダンマリだから大きなことは言えないけど。

この頃になると村中からも召集令状で入営する者が出始め、その都度 “祝い出征”の幟を立て見送る風景を見るようになった。

 

2ヶ月の後、実家の兄夫婦がひょっこり鹿助宅を訪ねてきた。鹿助にしてみれば、借金を申し込んだその返事だと思いきや、満蒙開拓移民の話であった。鹿助が奥野さんからの話をすると、暫らく黙り込んでいたがその日は夫婦して帰って行った。

それから暫くすると兄から南洋興発という会社が南洋諸島への農民移民を募集しているという話を教えてくれ、サイパン、テニアン移民募集の案内書を持参してきた。

その案内書を見るとサイパンには既に数千人の沖縄出身の農民が入植しており、サトウキビの栽培をしているとの事。

鹿助は奥野さんと二人で、南洋興発のサイパン、テニアン移民募集を一緒に検討することにし、奥野さんと二人で案内書を何度も読み返した。奥野さんは案内書を読み暫らく考え込んでいたが、この募集は開拓とはなっているが開拓しても自分の農地になる訳ではないんだ。つまり南洋興発株式会社に雇われ、会社の所有地を月給を貰らいながら開拓するんだそうだ。

開拓した後はそこにサトウキビを植え刈り取ったサトウキビを会社に納める。会社はその出来高に応じて代金を契約社員に払う。

マァ会社勤めの農民といったところだね。

安定した仕事にはおもえるけどなー」

満洲移民とサイパン移民の違いをよく調べてみて検討する事にし、鹿助と奥野さんは

別れた。

鹿助と奥野さんは 南洋興発に直に問い合わせる事にし、その結果は

まずサイパン移民は南洋興発という会社が母体になっていること、満州開拓と違うところは一方は国家プロジェクトであるが、サイパン、テニアンは一企業の事業であること。

ただし、南洋興発には国も軍も参画している事、一番の違いは南洋興発は既にサトウキビ栽培が軌道に乗っており砂糖生産高は台湾に次いで国内2番目であること、会社の経営状態は極めて安定しており沖縄からの移民の大半は国元に毎月送金しているとのこと、それにサイパン、テニアン移民には徴兵義務が猶予される事、等をおしえてくれた。

又、サイパン、テニアンは国際連盟から日本に委任統治された島であり、言わば日本国の一部であると。日本が先年国際連盟を脱退した折、日本への委任統治も剥奪されるのでは無いかと危惧したが国連は日本の南洋委任統治の継続を承認したこと。

鹿助夫婦と奥野さん一家は、サイパン移民は満州よりはるかに無難と考え、何より徴兵義務が猶予されると言うことにマチは喜び、ここで借金して小作を続けるより南洋興発の契約社員になってサイパンでのサトウキビ栽培に懸けることにした。

それにサイパンまでの渡航費用は会社から借り入れる事が出来るという事だし、年が明け来年一月の半ばに南洋興発の船で奥野さん夫婦と共に移民する事にしたのである。

地主からの借地は契約を解消し、2反の鹿助の所有地は兄夫婦に管理してもらうことにし、鹿助夫婦それに長女節子と奥野さん夫婦は、年が明け昭和9年1月半ば横浜港からサイパンに向けて出港する事となる。

今年収穫したコメの内から地主に納める分を差し引いた十七俵のコメは種籾も残す必要はなく、全て現金化しサイパンに持っていく事にし、年の瀬も迫ったある日、鹿助宅に

兄夫婦それに奥野さん夫婦が集まり母畑村での最後のお別れ会を白米を炊き兄夫婦が持参した北須川渓谷でとった山女魚を囲炉裏で焼き自家製の野菜を肴に宴会を模様した。兄からは、いくばくかの餞別をもらい又いつの日か母畑村に帰ってくる日もあるだろうと云う兄の言葉に‘鹿助は “志を立て郷関をゐず学若しならずんば死すとも帰らず” と想いを述べる。 

サイパン、テニアンは委任統治の日本の島でありピザは必要ない 南洋興発から渡航費120円を借用し、年が明け1月15日横浜港から鹿助家族と奥野夫婦を乗せた南洋興発の船は出港した。

船内には福島県からの人を始め東京(八丈島)、山形の人等、合計四、五十名の人が乗船していた。気温6度、船は貨物船であり

船内に暖房はなく鹿助たち一家は有りっ丈の服を着こみ自分たちの手荷物に囲まれ寒さを凌いだ。

途中沖縄の宮古島に立ち寄り、7日間の船旅と聞いていたが、船が南下するに従い段々と温かくなり、鹿助が4日目の夜甲板に出てみると漆黒の空に満月が出ており、

月の光で海が輝いている。鹿助は妻のマチと5歳になる節子にも声を掛け、三人で月光と満天の星空を船の低いエンジン音の中、

希望に満ちた思いで星空を仰いだ。

七日目の午前一〇時ごろ船はサイパンの港に着岸し南洋興発の社員が“今から名前を呼びあげる人はここで船を下りてください”と声がかかり呼ばれた人々は両手いっぱいの荷物を抱え下船して行く。

鹿助一家と奥野一家はサイパンの先テニアンで下船することになる。

テニアンとサイパンは五キロほどしか離れておらず、テニアンは周囲四〇キロメートル、面積一〇〇平方キロメートルほどの小さな島で、船から見るとテニアンは標高

150mくらいの低い山が一つあるだけの平べったい島である。

青い海に浮かぶ緑の島は日本の夏くらいの気候で、雪深い福島の母畑村に比べると鹿助には別天地に思えた。

テニアンで下船すると、会社からの説明があり、開拓地は碁盤の目のように一区画6町歩に区割りされており、

一区画に4名でチームをつくり 共同作業で一区画の開拓に当たる事、テニアンの町には 尋常小学校が2校、現地人が通う国民学校が1校それに日用品を売る萬屋、映画館、酒保、、病院、郵便局等の施設が整っており生活に不便を感じることは無いとの事。

買い物等はすべて通帳で買い支払いは年末の俸給から支払う事になっている事。またテニアンには原住民のチャロモ人40名程が自給自足の生活をしている事、等の話があり 長旅で疲れているでしょうから今日はゆっくり休んで下さいとの事で南洋興発の社員の説明は終わった。

テニアンに上陸し最初に萬屋に行くと食料品の他衣類、金物、履物等何でも売っている

中でも鹿助が何より一番気に入ったのは 

ここテニアンでは内地の母畑村にように

警察官がいつも住民を監視しているような空気は全く無く、大正時代の自由な日常生活を営む姿を再び見ることが出来た事である。    

妻のマチは召集令が猶予されていることが一番の喜びと何度も鹿助に話した。

開墾するための四人のチームは会社が既に人選しており奥野さんと同じチームではなかったけれど居住地区は商店街の近くに固まっていて行き来に不便はなかった。

テニアン到着後3日目からサトウキビ栽培の経験がある沖縄出身の比嘉さんをリーダーとし開墾に従事する。

島は低い小山一つだけのほぼ平地であり、ヤシの木を倒し低木を切り払い土を掘り起こしキビ畑の畝を一日一日広げていった。

原住民のチャロモ人の話ではここでは子供一人が生まれるとヤシの木一本とパンの木2本を植えるとそれで事足りると云うような話も話題になった。ヤシの木は木の上に何個もの実を鈴なりに付ける。ヤシの殻をくりぬいて飲む水は何とも言えないくらい美味しく仕事中の飲料水になった。

一年が経ち6丁歩の開墾も出来上がり、

年の暮れ、初めての俸給を会社から受取る。

明細を手にすると、それには一年間通帳で買い物した全額が給料から差し引かれており、

なお且つ会社からの前借金 120円も返済が済んでおり、その他に拾円札が何枚か給料袋に入っているのを見て鹿助と妻はテニアンは良いところだー。と喜ぶ!それにここでは警官も南洋興発の正社員も契約社員に対して高圧的な姿勢は全くなく、もっと早くテニアンにくれば良かったとマチと話した。

その日はチーム四人がリーダー格の比嘉さん宅に集まり食事会をした。比嘉さんは沖縄の人で宮古島でサトウキビの栽培をやっていたとの事であり殆ど彼の指導の下、開墾している。

彼が言うには次年度は早々にサトウキビの苗を6丁歩分会社から買い受け植え付けをしましょう その上 来年も頑張って6丁歩開墾を目標にしたいという。

その為には4人共同で牛を1頭飼いたい。

牛が居れば開拓の労力は半減します。

それに収穫できたサトウキビの運搬には牛は無くてはならぬ家畜と言う。

比嘉さんの話によると宮古島からテニアンに移住した人はかなりの数いるそうで、開拓に行ってる人から沖縄にお金が送られてくるのを眼のあたりにし、自分も行く気になったとの事、鹿助も母畑村から出てきた経緯を

自分は小作農で不作の年が二年も続くと娘を酌婦として売る話も現実にあり 自分も借金して小作農を続けるより移民を選んだと話すと 周りは少しの間無言になったが、いい選択です。ここサイパン、テニアンは沖縄では夢の島と言ってます。皆は鹿助夫婦がテニアンに来る事を選択したことを褒めてくれ、鹿助が内地での国防婦人会、在郷軍人等の話をすると 鹿助の他一人山形出身の人を除き、自分の村ではそんな空気はないなァ と云う。沖縄、それに八丈島出身の人の話では、肩を怒らせ気が詰まるような雰囲気は無かったらしい。

ここ南洋諸島は国際連盟から日本に委任統治された島であり、内地に比べると特に国民に対するプロパガンダは少ないのだろうかと鹿助は思う。

満州事変が収まり日本と中国の間で上手く話し合いが付きさえしたら、ここ南の楽園で南洋興発の契約社員として豊かにそして平和に暮らすことが出来るだろうと鹿助とマチは話し合う。

6才になった娘の節子は子供同士仲良く遊び友達の中にはチャロモ人の子供も混じって遊んでいる。

ある日節子がヤシの実の殻を半分に切り、それに各々紐をつけた物を足につけ、

ぽっくりぽっくりと音を立てながら歩いている。それどうしたのと聞くとチャロモの友達から貰ったと云う。

日本でも空き缶に紐をつけそれを履いて遊んだ物と全く同じ遊びだ。ありがとうとお礼は言ったのと聞くと「シジュウスマーセ」と言ったよと言うので、それなに? と聞くと、ありがとうって意味だよと節子は言う。子供の方が誰とでもすぐ仲良しになれるって

ホントだネと夫婦で話あう。

「チャロモの友達の名前は「ハムズちゃん」だよ」 家に遊びに行った事あるの? うんあるよ どんな家だった? 土の上に木の葉っぱが敷いてある家。そう いつもハムズちゃんと遊ぶの? うん、沖縄の子もみんな一緒だよ。

いつかハムズちゃんを家に連れていらっしゃい。お母さんご馳走つくるから・・・ 

テニアンでの平和な生活が続いた。 

島には映画館があり家族で映画を見に行ったり、鹿助は仲間4人で酒保に飲みに行ったり 週に一度の休日とか農閑期には家族で海水浴に出かけたりする。

内地の母畑村に比べるとテニアンは数段良い暮らしができた。 酒保では沖縄の泡盛が一番ポピュラーでだんだん泡盛に慣れてくると値段の高い日本酒よりうまく感じ鹿助は家でももっぱら泡盛である。

テニアンの生活にも慣れ日本が現在満州事変の只中という事もここでは無縁の遠く離れた内地の出来事、内地に比べると南洋のサイパン、テニアンは天国に思える。

来年は節子のテニアンの尋常小学校への入学式。小学校では内地と同じ教科書を使い内地から赴任してきている先生が授業をする。

男女共学ではなく男子と女子では別々のクラス分け、理由は男子と女子では成長の過程で能力差がある為だそうだ。

先住民のチャロモ人の子供は別の学校に入らなければならない。理由は日本人と比べると能力差があるからとの事、

しかし学校には尋常小学校もチャロモ人の通う学校にも内地と同じく皇室拝殿があり、登下校の際は必ず遥拝することが決まりである。

何日かしてチャロモ人のハムズちゃんを節子が家に連れてきた。ハムズちゃんは手に一杯のバナナを抱えている。

二人は部屋で仲良く遊んでいる。そのうち二人が童謡「ウサギ追いしかの山小鮒釣りしかの川」と歌っている。聞いているとチャロモ人のハムズちゃんが歌う発音も節子とかわりなく、歌詞を間違える事もなく上手に歌う。 

節子はチャロモ人の子が日本人の子と同じ尋常小学校学校に入学できないことを不満げに親に話した。

 昭和一二年節子が小学校二年生の年、満州事変に続き日本軍は日中戦争へと突き進み内地では物価統制が始まりここテニアンでも味噌醤油コメの値段が上がった。

また初の戦時国債として“支那事変の国債”が発売され南洋興発でも社員に国債を買うことが推奨されるようになる。

鹿助は奥野さんとも国債購入を相談してみるが、も少し後にした方が良いだろうとの奥野さんの意見で国債の購入は見合わせることにする。

国は兵隊は国民を強制的に召集し、戦費は増税と国民に国債を買わせ戦争を続けることのみに専念する。

 マチは娘節子がハムズちゃんが同じ学校に通えなかった事を今でも私に話すと言うと

鹿助は「五族共栄」とか看板だけはきれいごとを言うが、日本政府の考える事はまったく変わらないナと鹿助は顔をくもらせる。 

次の年昭和13年7月長男輝夫が誕生した。

 

昭和15年九月、日本は日独伊三国同盟を締結し、米国からの石油、鉄の輸入が極めて難しくなる事を予測し石油の入手先を東南アジアに求め日本陸軍は同年同月石油産出国である北部仏印インドネシアへと進駐する。

翌昭和16年8月米国は日本に対し石油、

鉄の輸出を全面禁止にし経済封鎖に踏み切

った。

石油を米国からの輸入に依存していた日本は中国との戦争を継続する為には石油は不可欠あり、その入手先を米国に代わり東南アジアに求めたのである。

 しかし東南アジアの国々は米国、イギリス、オランダの自治領であり、東南アジアから石油を調達すると云うことは米英蘭との直接衝突も辞さないということである。

日本軍は本格的に東南アジアに進駐する前にハワイ島の米海軍基地を壊滅する必要があった。

昭和16年12月8日、日本海軍の山本五十六司令長官指揮する海軍連合艦隊は真珠湾を奇襲攻撃する。この奇襲攻撃で米側の主な損害は、戦艦5隻が沈没、他戦艦4隻、巡洋艦、駆逐艦が各々3隻が損傷、飛行場への攻撃で航空機188機が破壊され、戦死・行方不明者は2300人を超えた。

 一方、日本陸軍は真珠湾攻撃と時を同じく

して同年12月、マレー半島、グアム島、

フィリピンにも上陸占領し、翌17年には

マニラ、ラバウル、シンガポール、ジャワ、

コレヒドールを占領する。

しかし破竹の勢いの進軍も、この年

17年の5月迄で、同年6月5日~7日の日本連合艦隊の総力を賭けたミッドウェイ海戦では、日本海軍は空母4隻、航空機約300機を失うという甚大な損害を受け それ以降、制空権も制海権共に失い、東南アジアと日本間の輸送は極めて難しくなりインドネシアから石油を輸送するどころか日本から占領地への武器弾薬、食糧の搬送、それに兵員の補充さえ満足に出来なくなってしまったのである。

ミッドウエイ海戦では当初アメリカ軍は日本の連合艦隊がどこに向かおうとしているかが解らず、予測をするがはっきりしたことは解らない。日本の電文を解読するが、FX地に向かい進んでいるということは解読できるが、FXが何処かは判別できない。そこでFXがミッドウエイ島と推量し

平文で「ミッドウェイ島の飲料水が極端に不足している至急飲料水を搬入せよ」と電文を流すと、 「FXは水不足」という日本海軍の電文を傍受することができた」

そこで日本連合艦隊がミッドウェイ攻略に向かっていると判断し、その手前で万全の態勢で待ち伏せしたのである。

食糧、弾薬の補充が無い日本陸軍はそれ以後一方的な苦戦を強いられ ガダルカナル玉砕、アッツ島玉砕、と敗退が続く。

 テニアン島の鹿助たち南洋興発の契約社員は総員、軍の命令で軍属となりサトウキビ栽培を中止しテニアンに駐留してきた陸海軍8500名と共に畑を潰し飛行場づくりに従事する事になる。

日本兵の宿舎の為、学校が兵舎にあてがわれ、それでも足らずに民家に分宿する事になりその為 鹿助の自宅は駐留してきた日本兵の為に明け渡し 家族4人は奥野さん宅に移り寝泊まりを共にする事になった。

鹿助はもちろんマチと16歳になった節子も鍬でキビ畑を均し土をモッコで運んだ。

2か月の後、滑走路二本が完成し試験飛行の為飛行機が一幾飛来したが日本軍の

飛行機がそれ以後飛来することは一度もなかった。


19年6月にはアメリカ軍はサイパン島に上陸しサイパン島で地上戦が始まる。

一ヶ月間の戦いの末7月にはサイパンが玉砕し、7月10日からはテニアン島にもサイパンからの砲撃 テニアンを取り囲む米国艦船からの艦砲射撃に続いて五四〇〇〇名の海兵師団が上陸しテニアンに駐留している日本軍8000との間で地上戦を繰り広げるが、わずか10日間で日本軍の組織的な戦いは終り壊滅してしまった。

 生き残った敗残兵とテニアンの民間人はアメリカの敗残兵掃討から逃れ島の南のジャングルへと逃避行が始まる。

テニアンの自宅裏に同居していた奥野さんと共同で作った手作りの防空壕は堅牢とは云えず当初三日ほど使用したが、周りの皆が大挙して南に避難するのを見て鹿助・奥野さん夫婦も皆と一緒に避難する事になる。

当初 100名程まとまって逃げた鹿助の避難民グループも南のカロリナス台地に近づくと自然の洞窟が幾つも現れ、その豪を避難場所に決める者、さらに南へ避難を続ける者と何度か分裂し途中奥野さん夫婦と離ればなれになってしまった。

鹿助一家も海が見下ろせる比較的大きな洞窟に身を寄せ 10名の民間人それに2名の敗残兵と共に同じ穴に潜んだ。民間人の内6名が子供だ。小銃の音、戦車砲の音が聞こえ戦車のキャタビラの音が聞こえてくると、 

誰一人話すものはいない。小さい子供までが一言も喋らず沈黙すると、なお一層状況が差し迫っていることをひしひしと感じ恐怖が襲う。 

戦車のキャタビラの音が遠のくのをじっと待つのである。 戦車の音が遠のき暫らくしたとき遠くで一発の銃声が聞こえた。その後数十発の銃声と手りゅう弾が何発も炸裂する音が連続して聞こえ間もなく静かになった。

 米軍の掃討作戦は戦車一台の後ろに四、五名の兵隊がついて行動する。

壕の中と米兵間の戦闘が終わり壕の中の民間人、日本兵が全員死んだのである

壕の入り口は草木で隠しているが米兵が壕に近づき話し声迄聞こえてくると見つかったと思い豪の中から発砲したと思える。


鹿助一家は豪での生活が4日目が過ぎた頃、敗残兵が同居する壕で供に行動することに不安を感じ、鹿助一家のみで別の洞窟に移った方が得策と考え、夜、背中に湿疹ができ衰弱した照男を背中におぶり

マチと節子は互いに手をつないで夜中手ごろな新しい壕を探しに出発した。


洞窟を抜け出し、飲み水を探し、食べれる物を探すが食べるものが無いと木の根を掘り石で叩いてしゃぶった。             

道中道端で死体を何度も見るが不思議に怖いとは思わない。火炎放射器で黒焦げになった死体、砲弾で顔の半分が無い死体、腹部が裂け中から臓物がはみ出した死体 その死体を踏まないように歩く。

今自分が生きて子供を負ぶって歩いているのが真実なのか 又は夢の中なのか判然としなくなり、生死について何の感慨さえも無くなってしまうのである。

その地獄の場を過ぎ一体の死体も無いところにさしかかると、 自分が生きている事に初めて恐怖を覚えた。それは自分が今からあの死体と同じ肉片になる事への恐怖が急に襲うのである。

暗い中2時間も歩いてだれも入っていない小さな壕を見つけた。

近くに民家が有る訳はなく飢えと渇きを解消することはできないが、衰弱した照男の事を考えると、ここに落ち着く他に方法はなく、そこに潜り込んだ。

3日たち、木の根ばかりしゃぶる日が続いた。ここが一家の最後の地になるのかという思いが頭によぎる。そんな時、明け方近くになって一人の下士官らしき日本兵が二人の部下と共に鹿助一家の壕に入ってきた。

厄介な連中が来たと思ったが兵隊が持っている水筒の水を分けてもらい一息付くことができ、ありがたかった。  がその夜、兵の一人が食べるものは持ってないかと聞くので

 我々はもう何日もなにも食べてないと

云うと、

その兵は上官に向かい 明日の夜ここにいる軍属の民間人1人を含め我々4人で最後の夜襲を決行しましょう。「奥さんと二人の子供はここで死んでください」と云う。   

 下士官は暫らく黙ったまま返事をしない。

兵は重ねて 戦陣訓の「死んで虜囚の辱めを受けず」です。と

するとその下士官は戦いに敗れ、そのあと始末には、「大将の俺一人がここで腹を切るその代わりに ふたりの兵と民間人4人の命は助けてくれ」と敵に頼む、これが日本の大和魂だと俺は信じている。

あすの朝おれはこの豪の前で敵が来るのを一人で待つ、そして敵にそのように話す。上手くいくかどうかは解らん。 しかし死ぬのは何時でもできるだろう」違うのか?  そう云うと二人の兵は黙り込んで忍び泣いた

 あくる朝その上官は一杯の水を飲むと、上半身裸になり棒の先に褌をまいた白旗を挙げて壕の前に胡坐をかいて座った。

鹿助たちは暗い壕の中からその様子を見守る。兵たちに下士官の名前を聞くと西郷兵曹長ということを聞いた。

昼過ぎになり戦車のキャタビラの音が聞こえ3.4人の米兵が銃を構え西郷兵曹長へと近づいて行く。 西郷曹長は何やら米兵と話していたが、暫らくすると米兵の一人が「殺さないから出て来い、水と食べ物あるよ」

と日本語で豪の中に向って大声で話しかける。

日本兵二人は顔を見合わせたが、西郷兵曹長を真似て上半身裸になり褌の白旗を掲げ壕から出ていった。その後ろに鹿助が6歳の照男を背負い、マチと節子は連れ立って穴の中から出た。

穴から出ると米兵は節子と輝雄それにマチにビスケットを握らせ水を飲ませた。

節子、マチ共に水は飲んだがビスケットを食べないでいると、米兵はビスケットを取り出し自分でも目の前で食べて見せた。 

鬼畜米英、捕虜になったら男はアメリカ本国へ連れていかれ重労働をさせられ、女は艦船に連れていかれ乱暴される。 と教え込まれていた米兵の意外な行動に戸惑ったが

もしかすると、鬼畜米英にも西郷曹長のいう大和魂が有るのかもと思い、不安と同時に感激もした。

 その後西郷曹長は殺されることなく曹長を 含め私達七名はテント張りのトラックに乗せられテニアンの米軍基地の日本人強制収容所に連れていかれる。

収容所は基地とは隔離された所にあり、そこには居住施設とは別に倉庫、事務所があり 周囲には見張り台があり有刺鉄線が収容所を取り囲んでいる。

車が着くとマチと節子、照男はそこで降ろされ、鹿助と西郷兵曹長他二人の日本兵は

事務所に連れていかれる。

マチと節子が不安そうに見送る。節子は収容所内の一角に大きな釜が並んでいるのを見つけると、母親に私たち3人はあの釜に投げ込まれるんじゃない?と云う。マチもびっくりして節子をみる。  そのとき米兵二人が、こっちに来るようにと手招きする。怖がる節子を勇気づけ照男を抱いて恐る恐る近づく。

早く来いと手招きする米兵。

仕方なく近づくと良い匂いがしてきた。 

「食べ物だよ!」 見ると大きな釜の底になにやらスープが入っている。米兵の一人がスプーンとお椀を渡してくれた。

すくって口に入れると食べた事がない食べ物しかし美味しい。底から肉と野菜をすくい2杯づつたべた。衰弱しきった照男はスープさえ飲もうとしないのを見ると米兵は基地内の診療所に連れていくと云って連れて行った。

 人は危害を加えられると思っていた人に

親切に接しられると殊更感動する。

マチも節子も米軍の捕虜に対する接し方に感激し尊敬の念さえ抱いた。

そこに鹿助が米兵に連れられ一人だけ帰ってきた。西郷兵曹長はと聞くと西郷兵曹長と二人の日本兵はもう少し調べることがあるそうだ。という。

マチがここで食事と水を貰ったこと、そして照男は病院に連れて行かれた事を鹿助に話す。

 照男の具合は悪そうかと聞くと体の湿疹が酷いんです。  すると米兵はたぶん栄養失調だろう。と云う。米兵は日本語が上手だ 米兵に感謝し、どこで日本語を習った? と聞くと  米兵はアメリカ本国で勉強したと云う、自分たちは“日本語情報士官”で 役目は暗号解読、それに捕虜の尋問が主な仕事だ、コロラド大学ボルダー校の海軍日本語学校で勉強したと言った。

日本では英語は敵性語だとし、授業から英語科目を外し、英語を勉強したいと思うだけでスパイを疑われた。こんな事ではアメリカに勝てるはずがない。 鹿助はアメリカ人に対し強い劣等感を抱き 自分達日本人が惨めに思えた。

アメリカ兵は そんな鹿助を見て、

ここには 今、千名の日本の民間人が強制収容されている。彼らの日々の行動を見てると収容所内外に野菜を植え それを民間人同士で売買し、この収容所にもその収穫した野菜を売っている。

その秩序ある活動を見ていると日本人はきっと将来世界に比肩する国家になるだろうと思う。と云った。

 鹿助はアメリカに対し劣等感を感じている所に日本人の資質を褒められ、慰められ

又、未来への希望をも感じた。

 米兵の話は続く、日本人には収容所内で米軍基地内での洗濯、遺骨収集、それに収容所内での炊事等をさせている。彼らには一日25セントの給料を支払っている。 

あなたも収容所内での仕事をしてもらうが

日本に帰る日が来るまで

日本国の教育の在り方、世界の中での

日本の在り方について、よく考えてください。

それがあなたが此処収容所で出来る一番

意義のある仕事です。というと米兵は帰って行った。昭和19年8月のことである。

 鹿助は涙がこぼれるのを禁じえなかった娘の前でも妻の前でも泣いた。

ふと日本が懐かしいとも思った。


テニアンでは米国による滑走路建設が急ピッチで進む。

我々が何か月もかけて造った2本の滑走路の上に、数台のブルドーザーが呻りを上げ

新しい2500m級の滑走路3本がみるみる完成していった。

今では、鹿助の家も奥野さんの家も滑走路の下になり影も形もない。

鹿助は気がかりの奥野さんの消息を収容所内の米軍事務所に行き捕虜の中に福島県出身の奥野という人は居ないか尋ねるが記録の中には存在しないとの事だった。

鹿助は希望者が少ない遺骨収集を選び作業の折、一緒に仕事している日本人仲間に奥野さんを知る人がいないかと事あるたびに尋ねる。

そんな日が幾日か過ぎたある日、

奥野という夫婦者と一緒の壕で過ごしたという人が見つかった。その人の話では自分たちの壕では携行した水、食料を食べつくし、夜になると当番を決め当番者は水筒を腰に何個もぶら下げ食料探しに壕を出るのが日課になっていた。

自分達の壕には民間人が6人、兵5人が 同居していた。

 ある日奥野さんが当番の日、奥野さんは奥さんも一緒に連れて行こうとした。

ところが、兵の一人が奥さんは壕に残していけと云う。

奥野さんが二人で行きたいと云うと、兵は

お前が米兵に摑まったら壕の在りかを米兵に喋らないとも限らない。喋ったらここに居る者みんな殺されてしまう。奥さんはここに残して行ってもらう。と言う。

奥野さんは仕方なく一人で壕の入り口に這い上がり入り口を隠した茂みを掻き分け出て行ったよ。

出て行って暫らくして、そうだね15分も経った頃、銃声が2発聞こえた。

それっきり奥野さんは朝になっても帰ってこなかった。 米兵には兵隊が着る軍服も

軍属が着る服装も見分けが附かなかっただろう。  

奥さんは次の日の夜、夜が明けきらない内に一人で壕をでていったよ。

 

 鹿助は壕の場所を聞き、だれも居なくなっている壕の内も周りもくまなく探したが奥野さんらしき死体を探すことはできず、また壕から暫らく歩いたところに、多くの日本人が身を投げたスーサイドクリフ(ばんざいクリフ)があり、その場所までは行ったが、急峻な断崖であり見下ろすことしかできなかった。

 

テニアン島にはサトウキビ栽培の農民1万3千人がいたが現在収容所には九五〇〇名が収容されている。3500名が市街戦で死亡したか自決したのである。又収容されている民間人九五〇〇の内、四〇〇〇名は子供であった。


 19年十月米軍テニアン飛行場の滑走路3本が出来上がり日本人捕虜が初めて目にする巨大な長距離爆撃機B 29がテニアンに飛来した。航続距離六千kmのこの爆撃機は日帰りで日本本土空爆を可能にした。

 昭和19年十一月のはじめ東京の空を目指しB 29がテニアンから飛び立つ。

大量の焼夷弾を東京の上空1万mの高さから投下し無差別空襲をする。その任務を終えて、その日の内に基地に帰還する。

帰還した爆撃機の乗組員たちは収容所にいる日本人の子供たちの所に自然と足を向けるのである。

そして子供たちにチョコレートをあげたり、

一緒にボール遊びをしたりするのである。

東京で無差別に女、子供も殺してきたその日の内に。 

その矛盾した行動は自責の念からか、若しくは母国に残した己の子供を思い出しての事か解らないが。

しかし、かれらの精神状態が極めて複雑だろう事は容易に想像がつく。

 その収容所内の子供たちの為に昭和19年学校が出来る事になる。節子一七歳、照男六歳の時である。テニアンスクールと呼ばれた。責任者は聖職者でもある日本語情報士官のテルファームック中尉、教材は尋常小学校で使っていた教科書をそのまま使い、学校長は尋常小学校で教師をしていた池田先生、英語授業はテルファームック中尉自身が担当する事になる。鹿助の長女節子も照男もこの学校に入学することなる。男女共学である

 節子はここテニアンスクールでの教育内容が今まで学んできた尋常小学校での教育方針とがあまりにもかけ離れている事に戸惑った。

尋常小学校では親に孝行を尽くせ、兄弟仲良くしなさい、とある。が、その後に、

『万一国に危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ』と続く。

節子は日本兵が敵前で「天皇陛下万歳」と叫びながら決死を前提に突撃するのは

兵はこうした教育を子供の頃から教え込まれ、それを実践していたんだと思った。

 子供のころの教育がいかに大人になっても影響するかと節子は考え 日本語情報士官の米兵が父に言った 「日本の教育について考えなさい。世界の中の日本の役割についてかんがえなさい」 それが貴方がここで出来る最も意義のある仕事だ」 といった言葉が忘れられない。

 節子は英語の授業には特に力を入れた。

特に英語が好きという訳では無かったが 日本の軍国主義の教育に対し反戦主義の父の影響もあり、軍国教育に同感する所が全くなかったからである。

節子はテニアンスクールのムック先生の授業を楽しみにするようになった。

それはムック先生が英語の授業の合間にキリスト教の話をして呉れるからで、今日の話は聖書の中の「マタイによる福音書」の平和について書かれている箇所で、聖書では「平和は、ただ戦争が無い状態だけではありません。より積極的に他者との間で、お互いを尊重し、いたわって、より良く生きること」 と聖書は言っています。

ムック先生はアメリカでは牧師さんだったそうである。

ムック先生はそう云うと生徒たちに「戦争と平和についてみんなも考えるように」と云う。

 節子は夕食時、両親とよくムック先生の話をした。そして戦争が終わり日本に帰る日が来たら、もっと上の学校に行って小学校の先生になりたいと話すと、父も賛同し今度の戦争がなぜ起こったかを考える事はとても大事な事だと言った。

でも もう一つ、なぜ国民がこぞって、この戦争に協力したかも考えてみる必要があると思うヨと父は言った


父の話 

日本では古来から有力者を頂点にした

村 社会が存在しており、農村では皆が協力し合って生活してきた歴史があるんだ。村のルールを守らない者、秩序を破る者にたいしては その者を排除してしまう村八分と呼ばれる制裁を課していたんだね。

 村八分と云うのは農村では田植え、収穫、害虫駆除、屋根の葺き替え、等単独でやるには大変困難な仕事が沢山あるんだ、そんな作業は村中総出で協同作業で当たるんだが

村八分にされると、火事と葬式の時を除いて後は仲間外れにし手を貸さない。これが村八分なんだ。

だから自分が村八分にならないよう、まず目立つようなことはしない、そして人と同じようにする。 頂点に立つ有力者に逆らわないように生きようとする、結果、人の目を気にするようになる。これは自己防衛の為の行動だよな! これは村の秩序を保つにも役に立つよね。これらの事を『同調圧力』って云うんだけど、

同調圧力の良い点はチームワークが生まれ皆で協力し乗り越えようと云う気持ちが生まれる事などは同調圧力の良い点だね。


でも悪い点は集団の中では少数意見の者を異端者扱いにしたり、違った意見を持つ人を仲間外れや排除しようとする。 お互いが言動を厳しく監視し合う結果、息苦しい空気が生まれ、自分の意見が言えなくなる。

今回の大東亜戦争では、この同調圧力が過度に作用してると思う。

仮にもし多数の人々がこの戦争継続に反対行動を取ったなら、遅くとも19年度の内に休戦協定に持ち込む機会は何度も有ったと思うんだ。

考えてみて、みんなの言動が間違っている

と思ったら自分の考えを話してみよう。

でもそれをやるには常日頃、君が柔和であり、且つ周りを和ませるような性格の持ち主でないと効果は無いと思う。


お父さんの友人でそんな性格の人がいたんだけど、その人は皆の言動が間違っている時はハッキリと自分の意見を言うんだ。

いつもは感情的にならなくて、優しい空気感があり、誰に対しても平等に接し、相手の意見を尊重する。

そんな人がみんなの言動が間違っていると思った時は、躊躇せずハッキリ断言するように自分の意見を言うんだ。

そういう態度に周りの人は感心し、みんなに厚い人望があったよ。

洞窟で出会った西郷兵曹長みたいにね。

この同調圧力は身近な身の回りでもいくらでも発生する。例えば学級内、職場内又住んでる小さなコミュニティの中でも発生するんだネ 

国民と国家の全てを「丁半賭博」に投げ込むような軍部の行動、その理不尽な事に対して、それは間違っていると思っても何も言わなくて成り行きを見ているという事は賛同している事と同じことなんだ。

集団の中にいると、自分が言わなくても私の責任になる訳ではないと考えるからだなんだね。日本人は自分の意見を表に出して言わない、とよく外国人から言われるが、むやみに自己主張しないことが日本人の礼節と考える人もいる。 が、外国人から見ると日本人は何を考えているか理解できず、奇異に感じる。と

捉える外国人は多いんだ。


父の話を聞き、もし学校の先生になったら、

教え子たちにも父の話をしようと節子はおもった。

昭和20年3月、300機のB29がテニアン島から東京の空を目指して飛び立つ。東京大空襲である。この空襲で9万5千名を超える方が亡くなり、続いて8月6日と9日広島と長崎に原爆が投下され、死者数は両方合わせて二十一万四千人がなくなった。 昭和二十年八月一五日、日本はポツダム宣言を受諾する

ここに軍人民間人合わせて三百十万人の死者を出した太平洋戦争は終わったのである。


昭和二一年三月 鹿助・マチ・節子・照男四人を乗せた引き上げ船がサイパンを出港する。テニアンで暮らした一〇年と数か月、楽しかったこと、苦しかったことが錯綜する。

敗戦一年前に米軍に占領されたサイパン・テニアンでは日本人に対する島民感情が

良く大きな混乱もないまま静かに引き上げて行った。


日本に帰って落ち着いたら又、テニアンを訪れよう。その時は奥野さん夫婦も一緒に連れて帰ろう。 テニアン島がだんだん小さくなる。   

                                   完        

                                                        

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