君が空に羽ばたいた日

あおいの人

第1話 君が飛べなかった日、僕が飛んだ日

9月14日。君に翼がないことが分かった。



9月17日。いつもと変りない朝を迎えた。

朝8時に起きて慣れた手つきで身支度を整える。


体が寝汗でベタベタとする。顔だけでも洗おう。


「...隈がひどいな。」


自分の顔を見てひどい顔だなと思った。


でも見る人もいないんだ。気にする必要はないだろう。


身支度を終えて部屋を出ようとしたとき、部屋の隅に置いてあるアコースティックギターに目が行く。


少し昔のことを思い出した。



「私、空を飛んでみたいんだ。」


あの歌を歌う時、彼女は口癖のようにそう言っていた。


「飛んでどうするの?」


僕は疑問に思い、そう聞いてみた。


「うーん...」


彼女はギターの手を止め、小さな声で唸りながら、考えるそぶりを見せた。


「地面を歩いてる人を見下すかな。」


そう言いながら彼女は悪い顔を見せた。


「なら、君が飛べたら僕も飛べるか試してみようかな。」


そして僕たちはまた歌い始めた。



「...やっぱり人は飛べないみたいだね。」


僕は玄関のカギを開け外に出る。


もう9月のはずなのに外は異常に暑く、秋の片鱗を全く感じさせない。


「...もう最後なんだ。この暑さも覚えておこう。」


玄関のカギは閉めず、アパートの階段を下りる。


行先はもう決まっている。行きなれたところだ。迷うことはない。


歩いて少しすると、見慣れたカフェの前を通った。


「そう言えば最後に彼女と会ったの、ここだっけ。」



「人の生きる意味って何だと思う?」


珍しく真剣な表情で聞いてくるものだから、少し驚いてしまった。


「どうしたの?急に。」


「答えてみてよ。」


彼女が表情を変えずに聞いてくるから、少し考えることにした。


「...何かを達成するためとか?」


「うん、私もそう思う。」


彼女はそう言って話をつづけた。


「人は何かを達成するために生きている。じゃあ、その何かって何だと思う?」


「...なんだろう。」


「目標だよ。人生における目標。けど、ほとんどの人はその目標を見つけることすらできないんだよ。」


「...君の目標はもう見つかったの?」


「うん。あるよ。内緒だけどね。」


彼女は机の上にあるコーヒーを飲み干し、席を立った。


「行こうか。」


僕もコーヒーを飲み干し、席を立つ。


会計を済ませ、店の外に出る。


「「あっつい」」


顔を見合わせ二人してクスクスと笑いあう。


「じゃあ、明日は僕の家で集合でいい?」


「うん。いつもの時間に行くね。」


「分かった。じゃあまたね。」


「またね。」


二人して別々の方向に歩き出す。


「目標を達成した人は、その後どうなるんだろうね。」


僕は後ろを振り返る。でも彼女は振り返らず歩みを進めていた。


僕も深くは考えずに歩みを進めた。



次の日、君は僕の家には来なかった。



「君は目標を達成できたのかな。」


独り言を呟きながら、歩みを進める。


彼女が飛び降りたと母から聞いたのは、9月14日の昼過ぎだった。


彼女が約束の時間になっても来ないから、連絡しようとした時だった。


最初は何の冗談だと思った。


彼女の葬式に出た時も何の実感もなかった。


また、いつもの笑顔で。いつもの声色で、僕の名前を呼んでくれる。

そんな気がしていた。


でも彼女の遺骨を見た時、初めて彼女はもういないんだと実感した。


「泣かなかった僕は、薄情なのかな。」


僕は行きなれたマンションの階段を上り始める。


1階 2階 3階


ふと歩みが止まる。


302号室。彼女の家だ。インターホンを鳴らせば彼女が出てくるんじゃないか。

いつもの笑顔を見せてくれるんじゃないか。


僕はインターホンに手を伸ばしそうになる手を押し留める。


「...もう...いないんだ。」


僕は手をおろし、また階段を上り始める。


4階 5階


屋上へとつながる扉へ手を掛けるが、ガチャガチャとなるだけで開く様子はない。


「普通に考えたら、開かないよな。」


僕は4階の踊り場に戻り、外を見る。


数日ぶりに見た空はどこか欠けている。そんな気がした。


「君は...飛べなかったんだろうね...」


もし飛べてたら、彼女は空を飛びながら僕のことを馬鹿にしに来るはずだ


でも君は、もうどこにもいない。


僕は踊り場の塀にのぼり、腰を掛ける。


もし、この空を飛べれば、前みたいに綺麗に見えるだろうか。


「...僕の目標。見つかったよ。」


君が飛べなかったなら、僕が飛ぼう。


そして、君の代わりに空からみんなのことを笑ってやるんだ。


僕は体重を前に傾け、重力に身を任せた。



「馬鹿だねぇ。」


どこからか、声が聞こえる。この声は、忘れられない。彼女の。


声を出そうとするが、出ない。体も動かず目も開かない。


「これは君の目標じゃなくて、私のだよ?」


彼女の手が、僕の頭にそっと触れる。


「次は、自分の目標を見つけるんだよ?」


彼女の手が僕の頬を包むと、僕の意識はゆっくりと薄れていった。



目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。


「ここは...」


周囲を見ようとするが体が思うように動かない。


目だけで自分の体を見ると、足や手は分厚い包帯のようなもので包まれている。


僕は動くのをあきらめ天井に目を向ける。


僕はきっと失敗した。その目標が達成できなかったのか、それは僕の目標じゃなかったのか。


今はもう、はっきりと分かる。


僕は、かろうじて動く右手を視界の中に入れる。


昔、彼女がくれた指輪は、まだそこにあった。


「分かったよ。」


僕は滲む視界の中で、夢の中の彼女の言葉を思い出した。


「僕の目標...探してみるよ。」


彼女はきっと...空を飛べたんだろう。


いつか僕の目標を見つけて、達成したら。


いつが僕が君のもとに行けたら。



空を飛んでる彼女に、聞いてもらおう。

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