彼方からのまなざし

00





「本日の講義はここまでとします」


教壇に立つ那佐弐教授の放った一言によって、講堂に薄らと張り詰めていた緊張が弛緩した。

学生達は慌ただしく筆記用具をかき集め、我先に席を立ち始める。

その後まるで降り注いだ雨粒が小川となり海岸を目指す様に、講堂に唯一設けられた出入り口へ殺到した。


そんな光景を雛壇状になった座席の中央付近から静かに眺めている人物がいた。

絹の様な濡羽色の髪を持ち、七色の不思議な色彩をその瞳から放つ彼女の名は『蓮台野ヨミ』という。


ヨミは今しがた講義でとったノートをボンヤリと見返し、暫く時間を潰した。

そしてある程度人が捌けた頃合いを見て座席を立った。

その際、不意に右隣の机上に一冊のノートが開かれたまま放置されているのが視界の端に映りこんだ。


既にその座席に人影はない。

恐らく忘れ物だろう。

しかし、自分の横に誰か座っていただろうか?

そう微かな疑念を抱きながら、ヨミは腕を伸ばしそのノートを手に取った。

自ずとページに記されたモノが眼に映る。

途端にヨミの顔は深い困惑の色で染まった。


紙面の上は、酷く奇怪な形状をした文字列によって一埋め尽くされていた。

『ひらがな』でも『カタガナ』でも『ローマ字』でもない。

絵図の連なりとして表されたそれらは、どちらかというと古代エジプトで用いられていた象形文字に近しいモノだ。


一体これはどこの何という言語なのだろうか?

文字を眼で追っていると、ヨミは次第に自分の脳裏へ奇妙な映像が流れこんでくるのを感じた。

それは今まで一度たりとも訪れた事のない未知の場所の情景だ。

人間界ではありえない角度で切り出された巨大な石塊やモノリスから成る都市で、四方八方どこを見渡しても奇妙な象形文字がその表面を覆っていた。

また、いずこともしれない下方からは声ならぬ声が響き渡り、鼓膜を不快に振動させた。


本能的な嫌悪感を覚え、ヨミは慌ててノートから眼を逸らそうとした。

だが、どういうわけかその試みは失敗に終わった。

まるで強烈な引力に捕らえられた惑星のように、その文字列から一時たりとも眼が離せないのだ。

いや、それどころではない。

指先一つ満足に動かせなくなっていることにヨミは気が付いた。


そうこうしている内に、脳裏を流れる冒涜的な都市の映像はより鮮明になっていく。

いつの間にか都市の内部に入り込んでいたヨミは、巨大な門扉の前に立っていた。

見上げるほどに高い扉は僅かに開かれており、隙間からは原初の人間が恐怖した暗闇がそのままの姿で存在していた。

そして更にその奥深くから、何者かの『まなざし』が向けられていることにヨミは気が付いた。


額からドッと嫌な汗が噴き出し、強烈な眩暈と吐き気がヨミを襲い始める。

視界は歪み、グルグルと湾曲していく。

このままでは気を失ってしまう。

本能的にそう悟った瞬間。

背後からヨミの肩へ何者かの手が置かれた。


「君、大丈夫?」

声を辿って反射的に首を動かす。

そこにはこちらを訝しげな表情で覗き込む那佐弐教授の顔があった。


「は、はい……」

酷い気分の中で何とか頷き、ヨミは反応を示した。

いつの間にか今まで視界を埋め尽くしていた映像は遠く消え去っていた。


「この講堂を使う授業は、今日はもうないから施錠するよ。君が最後だ」


慌てて辺りを見渡すと、先程までいた人達は人っ子一人いなくなっていた。

一瞬ノートを見ていた筈が、想像以上に時間が経過していたことにヨミは眼を瞬かせる。


「すいません。いま出ます」

固い口調で応え、ふらつく足取りでヨミは教授の前を横切ろうとした。

だが那佐弐教授は、彼女の手に不自然に握られたノートを目敏く見つけ出し、引き留めた。


「それは?」


「……これは隣の席で拾ったんです。きっと誰かの忘れ物かと」


「そうですか。よければ私が預かりますよ?」


こんな得体のしれない物体を教授へ預けるのは気が進まなかった。

躊躇するヨミに、彼は「どうしましたか?」と訝しげな視線をより一層深めていく。

ここで断って持ち帰るというのも妙な話だ。

何かしら後ろめたい事情があると誤解されてもおかしくない。


「お願いします……」

結局提案を断り切れず、ヨミはノートを教授へ渡し、講堂を後にした。


平穏な日常の中で遭遇したこの不思議な出来事。

それがすべての始まりだった。




01




翌日、ヨミは授業の合間に大学の食堂へ足を運び、昼食を取っていた。

黙々と学食のスープを自分の口へ運んでいた彼女だが、ふとどこかから視線を感じその手をとめた。

顔をあげ周囲を見渡す。

食堂は酷く混雑していて、至る所で食事をかきこむ学生の姿が視界を埋め尽くした。

そんな中、微かな気配を頼りに視線を彷徨わせていると、やがて一つの『まなざし』へ行き当たった。

30メートルほど離れた席に座る、男子生徒からそれは注がれていた。


ヨミは始め、その人物が偶然こちらを見ているだけだと思った。

だが、いつまで経っても一向に視線が逸らされる気配はないし、幾つか異様な点が眼についた。

彼はまるで魂を抜き取られたかのように無表情で、瞬き一つしないのだ。

その様は人間性を全く感じさせず、酷く不気味だった。

とてもこんな状況では落ち着かず、食事を続ける気分にはなれない。

気味が悪くなり、ヨミは半分ほど食事を残して食堂を後にした。


そしてその日の帰り道。

次に『まなざし』と遭遇したのは、ヨミが駅へと続く商店街通りを歩いている時だった。

昼が夜へと移り変わる逢魔が時。

普段その通りは、学生や主婦によってある程度ひと気が約束されているのだが、その時はやけに閑散としていた。


見慣れた店舗の前を幾つか通り過ぎ、やがて駅の姿がぼんやりと遠方に浮かび始めた頃。

一人の女性がこちらを向いて、往来の真ん中に立ち竦んでいた。

女性は可愛らしいニット帽をかぶり、水色のキャンパスリュックを背負っていた。

そのことから、恐らくヨミと同じXXX大の女生徒なのだろうと推測された。


だが、やはり先刻の男子生徒同様、彼女は表情が抜け落ちた顔でヨミの事を凝視していた。

不動のまま夕陽に照らされ長い影を道路へ落とすその異様な出で立ちに、ヨミは思わず息を呑んだ。


警戒心を抱きながら、決して視線を逸らさずヨミはその奇妙な女性を暫く観察した。

しかし、いくら時が経とうとも彼女はただ見つめてくるだけで、その場からは動く気配は一向にみえなかった。

まさか横を通り抜けるわけにもいかない。

最終的にその日は、大きく道を迂回して駅へ向かい何とか帰宅した。


自分の周囲を何か得体の知れないものが徐々に浸食し始めていることを、ヨミは肌でヒシヒシと感じた。




02




それからも奇妙な『まなざし』は絶えることなく、それどころかより一層頻度を増し、着実にヨミの生活を包囲していった。


キャンパス内を歩いている時や、行きつけの喫茶店でお茶をしている時。

はたまた自分の住む下宿の廊下でさえも。

それは老若男女問わず、多種多様な恰好をして至る所に現れた。


幸いにして、彼らは一様にただこちらを黙って見つめてくるだけなので、危害を加えられることはなかった。

だが、そんな保証のない安全がいつまで続くかなどわからない。

当然そのような状況では気など休まるわけもなく、ヨミは自分の精神が少しずつ摩耗していくのを感じた。

一刻も早く何とかこの状況を脱しなければならないと強く思った。


ヨミは先日偶然手に取ったあの奇妙なノートこそが、この現象の引き金になったのではないかと検討をつけた。

明らかにあの不思議な出来事を経験してからこの異常な現象は起こり始めたのだから。

那佐弐教授へ手渡した後、あのノートは一体どこへ向かったのだろうか?

持ち主の元へ戻ったのか、はたまた遺失物保管所へ預けられているのか。

全くの不明だが、一先ずそれを明らかにすることが先決だった。

ジッとしていても事態が好転することは恐らく望めない。

自分から行動を起こさなければならない。



決断してからは早く、ヨミは早速、那佐弐教授が普段滞在している研究棟に向かった。

研究棟は4階建ての建造物で、多様な題材を扱う研究室がそこかしこに乱立している特異な場所だ。

まだ学部2年生であるヨミはこの場所へ一度も足を踏み入れたことはなかった。

初めてがこのような動機によるものになるとは、何とも複雑な気持ちだった。


自動ドアを潜り抜け、広々としたエントランスへ出る。

グレーを基調とした内装は特段眼を引くところもなく淡白な印象。

案内板から大まかな位置関係を掴み、ヨミは無機質な廊下を歩み出した。

活気溢れる声が聞こえてくる研究室の前をいくつか通り過ぎ、階段を上る。

どこも同じような光景が続くので少し迷ったが、途中すれ違った学部4年生の集団に道を尋ねて何とか目的地へ向かった。


程なくして那佐弐教授の研究室へたどり着いた。

扉は固く閉じられており、冷たい廊下に重苦しく佇んでいる。

内部からは一切の物音は聞こえず、ひと気は皆無。

明らかに他の研究室と様子が異なっており、その場所だけ妙な威圧感を放っていた。

しかしここで足踏みしていても仕方がない。

一度大きく息をして覚悟を決め、ヨミは扉をノックした。


「蓮台野ヨミと申します。那佐弐教授にお話があって伺いました」


「…………どうぞ、お入りください」


暫くして擦りガラスの向こう側からくぐもった声が返ってきた。

妙に抑揚のない声で発せられた返答を不審に思いながら、ヨミはドアノブを回す。


「失礼します」

室内へ入ると、噎せ返るような新書の匂いと共に、ヨミの視界一面を本が埋め尽くした。

床上から机上まで、ありとあらゆる空間に本の山が連なっている。

そんな書物の山脈とも形容できる空間の奥底で、那佐弐教授はヒッソリと椅子に腰かけていた。

照明が落とされ、カーテンの閉め切られた部屋は昼間だというのに薄暗く、ここからでは彼の表情を窺い知ることは出来ない。


「……こちらへ」

異様な光景に気圧され入り口で立ち竦すヨミに、教授は彼の対面にある応接ソファーへ座ることを促す。

些か躊躇を覚えたが、本と本の間に設けられた僅かな通路を通り抜け、教授の元へ向かった。

そうして苦心の末に彼の前へ辿り着くと、勧められるままに椅子へ腰を下ろした。

自ずと教授の顔と近距離で対面しその全貌が明らかになる。

それを眼にした瞬間、ヨミは背筋が凍るのを感じた。


そこには、この数日間で遭遇してきた人々と同じように無機質な『まなざし』があった。

いつも講義で眼にするあの温和な顔つきは完全に消え去り、デスマスクさながらの表情が張り付いていた。

緊張によってヨミは全身が強張るのを感じた。

ゴクリと唾を飲み込む音が耳につく。

何とか勇気を振り絞り、乾いた喉から言葉をひねり出した。


「那佐弐教授……先日の講義終わりに私がお渡ししたあのノートブックの所在を伺いたくて参りました」


「それは…………此処にあります」

教授は妙にぎこちない動作で傍らから件のノートを取り出し、間に置かれたコーヒーテーブルへそっと置いた。

ノートは開かれており、ページにはやはり奇怪な文字たちが踊り狂っていた。

それを視野に収めた瞬間、ヨミは再び奇妙な光景が脳裏へ流れ込んでくるのを感じた。

引きこまれそうになる紙面から無理矢理視線を逸らし、向き直る。


「これには眼を通されましたか……?」


「ええ。もちろんです」


「…………まだお持ちということは、本来の持ち主は見つかっていないんですね?」


「いえ、見つかりました」


「それではどうして教授がまだお持ち何です……?」


「これは”私達”の持ちモノだからです」


想定外の回答にヨミは眉を顰めた。

”私達”とは誰の事を指すのか。

思わず「それはどういう事ですか?」と真意を尋ねる。

「………………」

しかしその問いに対して彼の口から回答が与えられることはなかった。

だだ深い沈黙と、無遠慮に注がれる『まなざし』が返ってくるのみだ。


「ええと……」

ヨミは困惑し、居心地の悪さを感じた。

言葉に詰まり次に何を言うべきか思案するが、適切なモノは見当たらない。

会話は途切れ、二人の間には気まずい時間が流れ始めた。

壁につけられた時計の針が刻む音が空々しく響く。

永遠にこの無為な静寂が続くのではないかとヨミが錯覚し始めた頃。

ようやく教授は口を開き、沈黙を破った。


「貴女の瞳は本当に興味深いですね」


脈略のないその言葉は、悪戯にヨミの混迷を深めるだけだった。

どういった意図でその発言はなされたのか、皆目見当もつかない。

それから彼は、今度はヨミの瞳をジロジロと観察しながら、ブツブツと呪文のようなモノを呟き続けた。

最早対峙している相手の事などお構いなしだった。


「……瞳……特異点……観測…………円環……始まり」

さながら壊れた機械のように淡々と単語を吐き出すその様に、ヨミは本能的な恐怖と危機感を覚えた。

ここは一旦引くべきだろうか。

ヨミは脳裏でそう思案した。

すると、まるでその思念を読み取ったかのように彼は急に椅子から立ち上がった。


「……どうされました?」

いつでも動けるように身構え、頭上から見下ろす教授に最大限の警戒心が籠った眼差しをヨミは向ける。


「貴女の眼をもっと近くで視せてはいただけないでしょうか」

先程とは打って変わって、彼は奇妙なほど丁寧な口調でヨミに提案した。

そして突然腕を突き出し、まるで人体の動かし方を忘れてしまったかの様なぎこちない動作で、ヨミに掴みかかった。


「なっ……」

驚きの声を上げ、反射的にヨミも椅子から立ち上がり、横へ退いた。

寸での所を魔の手が通り過ぎていく。

勢いのついた彼はそのままヨミが元居た場所へ躍りかかり、椅子ごと無様に地面へ転倒した。

その衝撃により周囲にあった本の山が幾つか崩れ落ちる。


ヨミがそれに一瞬注意を引かれた刹那。

先程とは打って変わって今度はやけに俊敏な動きで、彼は身体を捩じって手を伸ばした。

その切っ先は見事にヨミの足首に食い込んだ。

すぐさま振り払おうとするがその握力は凄まじく、とても逃れることは出来ない。

それどころか次第に彼の手は万力のようにジワジワと足首を締めつけ始めた。

骨が軋む鈍い痛みにヨミは顔を顰めた。


躊躇いはあったが、最早そんな悠長なことを言っている場合ではない。

ヨミは捕えられていないもう一方の脚で、思いっきり彼の腕を踏みつけた。

グキッという嫌な音が鈍く鳴り響き、拘束が一瞬緩む。

その隙にヨミは足首を引き抜き、一歩退いた。


薄暗い闇の中、地面に這いつくばりながら、相変わらず表情の抜け落ちた顔でこちらを見つめる双眸と眼が合う。

那佐弐教授の皮を被ったその何かは、まるで芋虫の様に不格好な身体の使い方をして少しずつこちらへ這っていた。

とても人間とは思えない不気味なその光景に、ヨミは心底ゾッとした。

ヨミはそのまま研究室の扉を開け放ち、廊下へと飛び出た。



03



息を切らし、ヨミは研究棟の廊下を走っていた。

先程までは学生達の往来がそれなりにあった筈だが、どういう訳か今やその姿は一切見えない。

周囲は奇妙なほどに静まり、発光ダイオードの冷たい光に照らされた廊下は異様な雰囲気に包まれていた。

ゴムでコーティングされた床を踏みしめる独特な音が、騒々しいほど廊下へ響き渡る。


階段を降り、閉ざされた扉を幾度も見送り、やがてヨミの視線の先に出口の光が現れた。

だがそこへ辿り着く前にヨミは少しずつ減速し、やがて足を止めてしまった。

何故なら、まるで出口を塞ぐようにして立つ数多の学生の姿がそこにはあったからだ。

彼らはやはり、皆一様に無機質な『まなざし』をこちらへ投げかけていた。

そこには先刻ヨミに道を教えてくれた学生の姿もあった。


肩を寄せ合うようにして並ぶ人の壁は厚く、とても突破できそうにない。

仕方なくヨミは振り返り、元来た道を引き返そうとした。

しかし、その先に広がっていた光景に思わず息を呑んだ。

一体どこから現れたのか、今さっき通り抜けてきた筈の道を人の束が塞いでいた。

そしてあろうことか、今まで立ち尽くすだけの亡者であった筈の彼らは、ゆっくりと前進を始めた。

それは出口側の群衆も同様で、速度こそ緩慢なものの、いずれ包囲されてしまうことは必然だった。


退路を断たれ、袋小路となった廊下の真ん中にヨミは立ち尽くす。

ジワジワと湧き上がってくる焦燥を抑えながら、必死に視線を周囲へ彷徨わせ、次の一手を考えた。

すると、前方に少しだけ隙間の空いている扉が視界に映った。

ここは一階。もしかしたら部屋の窓から外へ出られるかもしれない。

一縷の望みにかけ、ヨミは扉の取っ手を掴み、部屋に逃げ込んだ。


照明のスイッチを入れると、暗い部屋に光が灯った。

どうやら生物化学系の研究室のようで、様々な薬品の入ったガラス瓶や顕微鏡。

細胞培養に用いられるキャビネットなどといった実験器具が並んでいた。

幸い部屋は無人の様子。

部屋の観察もそこそこに、ヨミは急いで厚いカーテンの掛けられた窓の元へ駆け寄った。

アクリルの布を掴み、勢いよく横へ引く。

すると人一人がギリギリ通り抜けられそうな小ぶりな窓が現れた。

外には大学の中庭に引かれた芝生が延々と広がっている。

しかし、その上に佇む無数の影を眼にしたヨミは、身体の力が抜けるのを感じた。

30は下らないであろう数多の『まなざし』がそこにはあったのだ。


呆気にとられ窓辺に立ち尽くしていると、背後から扉が開く音がした。

恐る恐るそちらへ視線を向ける。

亡者の大群を引き連れた那佐弐教授が奇妙な姿勢で立ちすくんでいた。


「貴女の眼を視せてはいただけないでしょうか」

録音された音声を再生する様に彼はそう告げると、片足を引きずり歩き出した。

ヨミは周囲へ必死に視線を向けるが、狭い室内に逃れられそうな場所は見当たらない。

諦めるのは早計なのかもしれない。

しかし、ここから逃れる手立てを微塵も思いつかなかった。

ただ無力に部屋の四隅へ追い詰められていくことしかできない。


程なくして、相変わらずチグハグな四肢の使い方で、教授はヨミの眼と鼻の先へたどり着く。

今度は獲物を逃さぬよう、ヨミの両肩を恐ろしい力で鷲掴みにした。

余りの恐怖にヨミは声を上げる事すら能わない。

そんなヨミの反応を一通り眺めたかと思うと、彼は突然首をヌッと突き出し、両者の眼球がぶつかり合う寸前まで接近させた。


自ずとヨミの視界は彼の虹彩によって埋め尽くされる。

そこには何処までも澄んだ蒼色があった。

表面は複雑な模様が波打ち、それは寄せては返す波のように刻一刻と変化を遂げていた。

そしてその中央部にさながら宇宙の特異点の如く鎮座する大きな黒点へ無数の光が瞬き始めた。

その光の粒子は加速度的に数を増やしていき、一つの形を形成していく。

やがてそれは10の14乗にも上る途方もない星々の集積である、遠く離れた銀河の姿と成った。

我々人間が想像もつかない時間をかけて、彼らはそこからやってきたのだ。

ヨミは唐突にそう理解した。


次第に深淵な宇宙の底へ意識が遠のいていく。

自分の意思とは関係なく瞳から零れ落ちる涙の温かさをヨミは感じた。

光の数は今や視界を埋め尽くすばかりになり、その閃光はヨミの事を飲み込んでいった。

そして最後に強烈な瞬きを眼にしたその瞬間。

ヨミは意識を喪失した。




04




ここはXXX大学の講堂。

教壇に立ち、些か大げさな身振りで表情豊かに講義を執り行うのは、宇宙物理学を専攻とする那佐弐教授だ。

天文学をユーモアたっぷりに紹介する彼の授業は人気があり、雛壇状になった講堂の座席にはこれでもかという数の学生が腰かけていた。

そして、その中央列付近には、他の学生同様授業へ耳を傾ける『蓮台野ヨミ』の姿もあった。


彼女の表情はとてもリラックスしていて、先日教授との間に起こった怪奇な事件がまるで嘘の様だった。

いや、事実彼女の記憶には、あの出来事に関する記憶は一片たりとも残っていなかった。

それが一体どのような技術によって成されたのは分からない。

しかし少なくとも、彼女から教授へ向けられる警戒心のない『まなざし』からそれは疑いようのない事実だった。


やがて照明が講堂へ灯され、那佐弐教授は講義の終わりを告げた。

それに伴い、講堂の出入り口へ殺到する学生によって、あっという間に蛇のような行列が形成された。


先日同様、ヨミは静かにその光景を眺めていた。

ある程度人が捌けるまで待つと、自分の荷物をまとめ席を立った。

その時、不意に左隣の机上に一冊のノートが開かれたまま放置されているのが視界の端に映りこんだ。

ヨミはそれに手を伸ばした。

だがまるで誰かから警告を受け取ったかのように、寸でのところで思いとどまった。

それからヨミは半ば無理矢理そのノートから視線を逸らすと、講堂の出口へ向け階段を降り始めた。


そんな彼女の後頭部へ静かな『まなざし』を送る者たちがいた。

丁度今しがたヨミが後にした座席の一段後ろの列。

その席へ横並びに座る平凡な恰好をした男女四名からそれは注がれていた。

彼らは皆一様に不気味なほど無表情で、驚くほど眼を見開いていた。

誰が見てもその異常性は一目瞭然のはずなのだが、周囲に残る学生は誰も気が付いていないようだった。


講堂の出口を潜り抜け、ヨミが暗闇へ完全に姿を消すその瞬間まで、彼らはジッと瞬き一つせず彼女を見つめていた。


きっとその『まなざし』が逸らされることは決してない。

彼女がこの世界に生きている限り永遠に……




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蓮台野ヨミの奇妙な日常 マルフジ @marumaru1212

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