真実のアトリエ
00
平日の昼下がり。
カンカン照りの青空の下。
老若男女が行き交う道を凛とした足取りで一人の女性が歩いていた。
濡羽色の髪を靡かせる彼女の名は『蓮台野ヨミ』という。
気が遠くなるほどに永い大学の長期休暇。
家に篭ることにもいい加減飽き飽きしたヨミは、その日1人で街に繰り出していた。
都内のとある街であるここは、洋服のセレクトショップや洒落たカフェなど若者の関心を惹く魅力的な店舗で溢れかえっている。
どの店に入ろうか中々決めることが出来ず、ヨミはそれらを傍目に彷徨っていた。
そんな最中、ヨミは路肩に出された一つのスタンド看板に出逢った。
看板には
【咲坂史了 個展
『世界の真実』
2024.2.3 sat. - 2024.3.2 sat. 入場料無料】
と白地の上に紅黒い字で淡白に記されている。
ヨミは少し気になり、その先にある建物へ視線を向けた。
ムラ一つ無い漆黒の壁に全身を覆われたシックな建物が、そこには佇んでいた。
建物中央部にある扉の真上の壁面には『saya art gallery』という文字が彫られている。
この場所は恐らくレンタルギャラリーや貸し画廊と呼ばれる類のモノだろう。
どうやら今現在、個展が開催されているらしい。
今日は3月2日。
看板の開催期間から見るに丁度最終日だ。
扉は一面ガラス張りで、本来内部の様子を外から窺えるようになっていた。
だが、主催者の意向なのか今は黒い幕が下ろされており、中がどうなっているのか全く分からない。
隠されると余計気になるのが人情というもの。
ヨミも決して例外ではなく、幾分かの興味を唆られた。
どうせ行きたい場所も碌に決まらないのだから、この際個展を観て過ごすのも良いだろう。
ヨミは早速扉に手をかけた。
中に入ると油絵具の独特な匂いがツンと鼻を刺した。
そしてそれと同時に視界一杯を名状しがたい紅の色彩が埋め尽くした。
画廊は異様な雰囲気に包まれていた。
確かにモルタル調の壁面には数々の絵画が所狭しに展示されている。
しかし、並べられたその作品一つ一つがどれをとっても壮絶なのだ。
一様に赤より紅い肉塊がキャンパス一面を埋め尽くしている。
悍ましい光景にヨミは酷く面食らった。
入り口に立ち尽くし、暫く周囲の様子を窺う。
少なくとも眼につく範囲でヨミ以外に来場者はいないようだった。
受付などもなく小路を思わせる画廊が折り曲がって奥へと続いている。
天井のスピーカーから流れる長閑なクラシックが酷く場違いだった。
最初の印象があまりにも強烈で驚いてしまったが、落ち着いて考えればこういった芸術的表現は別に珍しいものでもないのかもしれない。
芸術の世界は広い。
それに折角の出逢いだ。
理解できないと碌に観もしないで拒み、突き放してしまうのも勿体ないだろう。
些かの躊躇はあったが、ヨミはひとまず先に進んでみることにした。
手始めに一番手前に掛けられた絵へ近づく。
額縁の中には、正方形の紅い部屋を背景として、様々な形状の肉塊を組み合わせて作られた四本足の動物が非常にリアルなタッチで描かれていた。
よく見ると動物の表面には吹き出物の様に所々目玉が浮かび上がっている。
目玉はどれも生気に満ちた光が灯っていて、いまにもギョロリと動き出しそうだった。
この絵はどの動物を描いたものなのだろうか。
その答えを求めるように、ヨミは額縁の右横につけられた題名へ視線を向けた。
そこには『犬』とただ一文字だけ淡白に記されていた。
「犬…………」
言われてみれば、確かに三角形の耳が頭の上に垂れ下がっているし、辛うじてそう見えなくもない。
それにしても凄まじい変形と解釈だ。
人の感性とは本当に多種多様で不思議だとヨミは思った。
続いて少し進み、次の絵画へ足を向けた。
今度は天へと聳え立つ長方形の物体を肉塊で表した作品だった。
不揃いで歪な歯を携えた大小様々な口が肉と肉の間に咲き誇っている。
背後にある空は血の海の様に紅く、そこには恐らく雲と推測される肉塊がプカプカと浮かんでいた。
横のパネルには『マンション』と題名が振られていた。
その後も、
巨大な脳髄を思わせる『クラゲ』
肉肉しい触手の集合体として立ち上がる『電柱』
肝臓にひょろ長い足が生えた様な『馬』など。
狂気に満ちた絵画の前をヨミは過ぎていった。
そしてもはや一生分の紅色を眼にしたかと思った頃。
唐突に通路は終わりを告げ、妙に広々としたスペースへ出た。
他に道が見当たらない事から、どうやら画廊はここで終わりらしい。
正方形のその空間には今まで巡ってきた場所と異なり、ポツンと一つだけ作品が展示されていた。
突き当たりの壁面に飾られたその100号程度の巨大な一枚へ、ヨミは引き寄せられるように歩む。
そこには1人の人間が椅子に腰掛けている場面が描かれていた。
人間といっても、当然我々が思い浮かべる様な形状はしていない。
顔らしき肉塊には眼が5つあり、その真ん中を裂くようにパックリと口が花開いていた。
紅い筒状の胴体からは、腕と脚の様なものがそれぞれ2本ずつ伸びているがどれも形が歪で、先端には鋭い鉤爪が生えていた。
今まで観てきたモノも凄まじかったが、この作品の描き込みは一際鬼気迫る物が感じられた。
筋繊維の一本一本まで見て取れる程だ。
傍の小さなプレートには『自画像』と素っ気ない題名が与えられていた。
どうやらこれは作者自身を描き現したらしい。
正直に言って醜悪で、観ていて気分の良いモノではなかった。
絵画の至る所に滴る冒涜的な生々しさに辟易し、ヨミは一度眼を逸らした。
それから何の気なしに顔を横へ向けた。
目と鼻の先に、ヨミの顔をジッと覗き込む男の顔があった。
予想もしていなかった突然の出来事に、ヨミは眼を見開いて喫驚した。
反射的に一歩後ずさって距離を取る。
今の今まで画廊には人の気配など微塵もなかった。
それなのに、この人物はどこから出現したというのだろう。
「…………」
男は依然として無言のまま凝視を続けている。
奇妙なことに、彼はまるで幽霊でも見たかのような表情をヨミに向けていた。
「あの……」
このままでは何時迄も無遠慮な視線に晒されそうだったため、仕方なくヨミは声をかけた。
ようやく彼に微かな反応が芽生えた。
それから長い時間をかけて遠くに行った意識を取り戻すと、彼は静かに口を開いた。
「……ああ、ごめんなさい、失礼でしたね。その……貴女があまりにも美しかったから、つい見惚れてしまいました」
気障ったらしいその科白は、彼の口から語られると皮肉にしか聞こえなかった。
何故ならヨミの目の前に佇むこの男は、何処までも人間離れした美しい容姿をしていたからだ。
彫刻のように整った顔に腰にまで届きそうな銀髪。
睫毛の生い茂った目の奥に浮かぶルビーのような紅色の美しい瞳。
贅肉の見られない肉体と、優に190センチを越す身長。
アニメや漫画の世界に登場するキャラクターのようだ。
男の神々しさすら感じさせる容姿に見入ってしまい、思わず言葉を失うヨミに、彼は恭しく名乗った。
「申し遅れました。私の名前は……『咲坂史了』と申します。画家をしている者です」
『咲坂史了』
数テンポ遅れて、ヨミはその名前がこの画廊を主宰する人物のモノであることに思い至った。
一度咳払いをして気を取り直し、今度はヨミが自己紹介をした。
「蓮台野ヨミです。偶然通りがかってこの画廊にお邪魔しました。貴方がこれらの作品を描かれた方なんですね」
目の前にある『自画像』の絵画へ視線を送り、尋ねる。
形の良い顎先を縦に振り、咲坂と名乗った男は肯定した。
「ええ、そうです……蓮台野さん、私の作品はいかがでしたか?」
それは難しい質問だった。
どのように返答しようかヨミは悩む。
自分の本心とは異なるお世辞や当たり障りのない言葉たちが、次々に浮かんでは消えていった。
しかしヨミは、これだけ芸術に真摯に向き合う人間に向かって適当なことを言うのは、返って失礼な気がした。
だから率直に思った真実をそのまま口にした。
「正直なところ、どの作品もグロテスクで恐ろしく……まるで地獄が顕現したかのようだと感じました」
咲坂は歯に衣着せぬその感想を聞き遂げ、あろうことか微笑を浮かべた。
そして神妙に頷いた。
「ええそうですね……私もそう思います。こんな恐ろしい化け物たちの跋扈する世界は地獄そのものです」
作者にしては随分と自虐的な発言だ。
「では、何故このような絵を貴方は描かれたんですか?」
「……私の眼には世界がこの様に写っているからです。ただ物事のありのままを描いただけなんです」
それはどう言う事なのだろう。
何かの比喩なのだろうか。
絵をあまり嗜まないヨミにとっては、彼の語る言葉の真意を掴むことはできなかった。
困惑気味なヨミに咲坂は苦笑して謝った。
「ごめんなさい。変なことを言って困らしてしまいましたね」
「いえ……」
「ところで蓮台野さん。初対面の相手に失礼を承知ですが……一つ私のお願いを聞いていただけませんか?」
「お願い、ですか……?」
「ええ……よろしければ、蓮台野さんに是非私の絵のモデルになっていただきたいんです」
余りにも急な提案。
思わずヨミは眉を寄せた。
「モデル……でも、私にはそんなことをした経験が……」
「いえ、ただ目の前に数時間座っていただいて、私と二、三の会話をしていただければ大丈夫です。日程も蓮台野さんのご都合のよろしい時でいつでも結構です。
謝礼もよろしければお出しさせていただきます」
「なるほど……でも、どうして私なんでしょうか?」
「普段他の方にこんなお願いをすることは滅多にありません。ですが、蓮台野さん。貴女に先ほどお伝えした言葉に偽りはありません。私は、一目見た時から貴女の美しさに感嘆したんです」
「はあ…………」
「どうかお願いします。私は……貴女の姿を一人の画家として是非絵の中に描き現したい」
懇願する彼の姿はあまりにも切実なモノだった。
そこには一切の疚しさや不純さもなく、ただ純然な絵描きとしての欲求があった。
自分の一体何処にそこまでの魅力があるのかヨミには全く分からなかった。
飛び抜けた美貌があるわけでもなく、特筆すべき特徴があるわけでもない。
しかし、自身の理解の及ばない領域で、芸術化なりの着眼点と理由があるのだろう。
多少辟易はしたが、そこ迄の熱意を持って挑んでくれた事に対して、ヨミは決して悪い気はしなかった。
「…………」
どうせ向こう一週間予定は入っていない。
試しに絵のモデルをしてみるというのも、いい人生の経験になるのかもしれない。
それに下世話だが、金銭が出るという点も気にならないと言えばウソになる。
他の多くの学生と同様、ヨミも決してお金に余裕があるわけではない。
軽率な判断と咎められても言い返せない。
だが、多くの思考と打算を脳裏で巡らせた末に、ヨミはゆっくりと頷いた。
「……わかりました。私でよければ、ご協力させていただきます」
「良かった……うれしいです。是非よろしくお願いします」
咲坂はその恐ろしく白い手を差し出した。
それに応えヨミは手を取った。
01
数日後。
都内某所。
「ここが……」
そう独り呟くヨミの視線の先には一風変わった民家があった。
芝生の引かれた庭の中央に、明治後期を思わせる些か時代錯誤なデザインの建造物が佇んでいる。
曇り空の下、ヨミは芝生の上にポツリポツリと開かれた石の足場を踏みしめ、その建造物へと近づいていった。
年季の入った扉の前へたどり着くと、そのまま横に備え付けられたインターホンを押す。
暫くして室内から二三の物音が聞こえ、ゆっくりと扉が開かれた。
隙間から咲坂の白い肌と紅い瞳が覗く。
「蓮台野さん。ようこそいらっしゃいました。どうぞ、中へお入りください……」
声量はないが不思議と響く声に招かれ、ヨミは玄関へ足を踏み入れた。
建物内部は日本と西洋の良い所を上手く取りいれた和洋折衷な造りで、瀟洒な雰囲気で満たされていた。
ヨミは用意されたスリッパを履き、フローリングに上がった。
「こちらへ」と先行する咲坂の後ろ姿を追う。
閉塞的な廊下を進み扉を幾つか横切ると、程なくして一つの部屋へ辿り着いた。
突き抜けるように高い天井と、何処か思慮深さを感じさせるオフホワイトに一面を彩られた空間。
北側に大きく開かれた窓と天窓からは眩しいほどの光が差し込み、一種の神聖さを感じさせる。
部屋へ足を踏み入れると、油絵具の香りが微かに鼻腔をくすぐった。
ここが彼のアトリエであることは一目瞭然だった。
「少しそちらの椅子に腰掛けてお待ちください」
咲坂は短くそう告げ、部屋の中央付近にポツンと置かれた木の椅子へヨミを案内した。
何かと準備があるのだろう。
そのまま彼は壁面に沿って配置された棚の元へ行き、様々な色の塗料や絵筆を吟味し始めた。
ヨミは律儀に申しつけを守り、今後数時間を共にするであろう椅子へ静かに腰を下ろした。
椅子はその独特な流線型の形状が不思議と馴染み、まるで十年来の付き合いのある友人のように、親密に身体を支えてくれた。
また足元には飲料水のペットボトルが未開封の状態で数本置かれていた。
途中でヨミが水分補給をするために用意してくれたのだろう。
「…………」
依然としてカチャカチャと音を立てて棚を漁る咲坂の後ろ姿を尻目に、改めてヨミは低くなった視線で部屋を観察する。
真っ先に意識が引き寄せられるのは、やはり対面に置かれたイーゼルとキャンパスだ。
これから自分があの純白のキャンパスへ記されていくという事実に対して、ヨミは珍しく緊張を覚えた。
一体自分は彼の手によってどんな姿に変わり果てるのだろう。
到底想像もつかなかった。
「お待たせしました」
準備を終えた咲坂が円形のパレット片手に現れた。
彼は椅子に腰掛けるヨミを一瞥し、眼を細める。
「矢継ぎ早ではございますが、これから絵画の制作に移るにあたって、何か蓮台野さんの方で準備や質問等はありますか?」
「いいえ、私の方の準備は大丈夫です」
「わかりました。事前にもお伝えしましたが、特段ポーズなどはとらなくて大丈夫です。蓮台野さんはリラックスしてそちらの椅子に腰掛けていてください。
もし途中で休憩を取りたくなったらいつでも言ってくださいね」
コクリと頷き、ヨミは述べられた事項に了承の意を伝えた。
それを見届けると、彼は厳格な面持ちでキャンパスへ絵筆を伸ばした。
「それでは始めさせていただきます」
02
キャンパスに振り下ろされる絵筆の音が淡々と部屋には鳴り響いていた。
あれから数時間。
途中何度か小休憩を挟み、依然として制作は続けられていた。
普段人の視線に長時間晒されることに慣れていないヨミは、始め居心地の悪さを感じていた。
しかし、彼から向けられるあまりにも真剣なまなざしに、いつしかそんな気持ちも馬鹿馬鹿しくなり、すっかり消え失せていた。
あくまで自分は描き手の観察対象として空間と調和し、ただそこに存在していれば良い。
絵画モデルとしての経験は皆無だったヨミだが、この短時間の内に自然とそのことを学びとり、体現していた。
それには意識が周囲へ薄く広がり霧散していくような不思議な感覚を伴った。
いつしか日は傾き、外界から聞こえていた鳥たちの鳴き声も途絶えてゆく。
次第に咲坂の筆の動きがより小さく繊細になっていった。
おそらく彼の制作も佳境に差し掛かり始めたのだろう。
後もう少しの辛抱だとヨミは肩の力を緩めた。
だがその時、まるでそれを見計らったかのように、彼は唐突に口を開いた。
「初めてお逢いした時、私は蓮台野さんにこうお話したと思います。
”私の眼には世界がこの様に写っている。ただ視たままを描いただけ”だと。
きっと貴女はその回答を、頭のおかしな男の妄言だと思われたでしょう」
ヨミは思わず自分の耳を疑った。
そして、急にこの人は何を言いだすのだろうと思った。
ここ数時間、二人の間に会話は一切交わされていなかった。
だから、そんな脈略もない科白がこの場に突然挿入される道理がないのだ。
「しかし、事実として、私は……母の産道を潜り抜け産声を上げたその瞬間から、紅色に染まった世界を眼にしてきました。
空も地面も木も動物も人間も……万物は肉と血で構成され脈動する。
赤子の時からそうなのですから、私はそれが誰にとっても当たり前の光景だと認識していました。
ですが、いつしか私が描いた絵を眼にした人の引き攣った顔を見て、どうやらそれは大きな誤解だと気づきました。
そして、私の生きる世界だけが酷く悍ましく醜い世界であるという事実を知りました」
一方的に彼から語られる証言を、ヨミはただ黙って聞いていることしか出来なかった。
内容のあまりの突飛さに、混迷はますます深まっていく。
「私は、何とか他のみんなと同じ世界を眼にしたいと思いました。
この病気を何とかして治療したいと、正常に戻りたいと心の底から切望しました。
だから私は数えきれないほどの病院を巡り、試せることは何だって試しました。
だけど、それらはすべて徒労に終わりました。
私の世界は依然として醜い肉に覆いつくされたままでした」
ベチャベチャと、彼がキャンパスに絵筆を振り下ろす音が嫌に耳に響く。
その音は肉や血をヨミに想起させる。
「年齢を重ね、大人になっていくにつれ、私はいつしか絶望し諦めました。
ああ、私の世界はもうずっとこうなのだと。
決して正常には戻らないのだと。
だから……せめてこの眼に映る世界を他者と共有したいと絵描きを目指しました。
幸い家は裕福で衣食住に困ることはなかったので、私は家族から与えられたこの家でヒッソリと画業を続けられました」
ギョロリと彼の真紅の瞳が動き出し、ヨミの姿を捉えた。
そこには羨望や憎悪など様々な感情が、まるでパレットの上で混色した絵具の様に浮かんでいる。
「その末に、私の前へ現れたのが蓮台野さん、貴女です。
始め貴女とあの画廊でお逢いした時、私は自分の眼を疑いました。
貴女は私が今まで眼にしてきたどの人間とも違っていた。
眼は左右に一つずつ。
頭部には黒い糸束が生え、肉体が不思議な表皮で覆われている。
きっとそれが皆の語る『肌』や『髪』というものなのでしょうね。
本当に心の底から美しいと思った。
みんなが視ている人間の真の姿はこうなのだと思った。
なんて私の世界は醜く汚らしいのだと実感させられた」
溜め込んだ感情を吐き出すように、咲坂は最後の一筆を振るった。
「蓮台野さん。どうしても貴女に確認してほしいことがあります」
重苦しくそう言い、彼は力なく立ち上がった。
それからキャンパスを乱暴に鷲掴みにし、ゆっくりとヨミの方へ表面をむけた。
「このキャンパスに私が描いた貴女の姿は、正しい世界を写し出せていますか……?」
以前目にした彼の他の作品と同様、椅子も壁も窓も棚も、皆一様に紅へ染まり異様な変質を遂げていた。
しかしその中央に描かれたヨミだけは違った。
ヨミは普通の顔と髪と手足と皮膚を持った人間として、正しく描かれていた。
一方的に聞かされた常軌を逸した身の上話。
普通は信じられないだろう。
何かの冗談だと思うだろう。
だが、彼の鬼気迫る語りと悲壮に満ちた表情を眼にして、決してそれが嘘偽りではないことがヨミには本能的に解った。
瞬きすらせずジッとヨミを見つめ、彼は答えを待っている。
まるで罪状を言い渡される被告人のような面持ちで。
ヨミはそんな彼に、一挙手一投足細心の注意を配り、慎重に頷いた。
妙に渇いた声が喉から漏れ出る。
「ええ……これは、確かに私です……」
「そう、ですか……良かった。それは、本当に良かった……」
咲坂の瞳からは一滴の涙が零れ落ちた。
その雫はまるで血の様な紅色をしていた。
03
私はテレビの画面上へ不意に流れた映像を呆然と眺めていた。
アナウンサーが感情の抜け落ちた声で原稿を読み上げていく。
「昨日夜、東京都XX区で住宅一件が全焼する火事があり、焼け跡から一人の遺体が見つかりました。
火は『咲坂史了』さんの所有する木造二階建て住宅一棟。
およそ200平方メートルを全焼し、およそ4時間後に消し止められました。
警察と消防は遺体の身元の確認を急ぐと共に、火事の原因を調べています……」
四角く区切られた液晶には、未だ黒煙の上がる炭化した建物の映像がありありと映し出されていた。
変わり果てているが、その建物の外観に私は酷く既視感があった。
しかしこれは現実なのだろうか?
何かの間違いではないか?
あの後、私は咲坂さんと幾らかの事務的な会話を済ませ、逃げる様にして屋敷を後にした。
あんなやりとりをした後だ。
掛ける言葉もなく、とてもお互い顔を合わせていられる空気ではなかった。
「ピーンポーンパーンポーン」
突然部屋のインターホンが鳴り響いた。
見計らったようなタイミングに、私は肩をびくりと震わせた。
覗き穴を見ると、外には宅配便の配達員が怠そうに佇んでいた。
「お届け物ですー」と気の抜けた声が扉越しに聞こえてくる。
「はい」と短く返事をして、私は扉を開いた。
その瞬間、扉の隙間から紅い触手の様なモノが視界の端に映りこんだ。
ギョッとして、思わず扉を開け放ってしまう。
どれだけ周囲を見渡しても、そこには若い男の配達員が佇んでいるだけだった。
配達員は私の顔を訝しげにチラリと見て、伝票を手渡してきた。
「……蓮台野ヨミさんですね?
こちらお届け物です。サインをいただけますか」
何か注文をした覚えなど全くなかった。
しかし無理に突き返す訳にもいかず、結局為されるがままに私はその品物を受け取ってしまった。
手元に残ったのは灰色の布に覆われた20ミリ程度の厚さを持つ長方形の物体。
その時点で既にこれが何なのか大方予想はついていた。
一先ず部屋へ持ち帰り、机の上へ運ぶ。
恐る恐る布を剥ぎ取った。
中からは高価な額縁に収められた一枚の絵画が顔を出した。
そこに描かれているのは、やはり紅い部屋の内部で肉塊に腰かける私だ。
最後に眼にした時よりも更に手が加えられているようで、私の顔や身体はより緻密に瑞々しく描かれていた。
だが、自分の顔などそう長く見ていたいモノではない。
私は逃れるように絵画から眼を逸らした。
その時、不意にカーペットの上に一枚の紙が落ちているのを発見した。
こんなモノはさっきまでなかった。
恐らくこの絵画の開封をした時に落ちたのだろう。
私は腰を屈めて紙を手に取った。
そこには波打ち歪んだ字でこう書かれていた。
【蓮台野ヨミ様へ。
私の無理なご相談に乗っていただき、絵画のモデルまでしていただいたにも関わらず、この様なご挨拶になってしまい申し訳ございません。
私は貴女のおかげで、世界の真実を視る事ができました。
それは長い間夢見た悲願でした。
これでもう思い残すことは何もありません。
この作品は蓮台野さんへお譲りします。
部屋にでも飾って頂ければ幸いです。
最期に貴女と出逢えて本当に良かった。
ありがとうございました】
私はその独白から眼を離すことができなかった。
そして焼け跡から発見された遺体が、やはり彼のモノで間違いないという事を確信した。
私が彼の前へ姿を現しさえしなければ、彼は死ぬことはなかったのではないだろうか。
後味の悪いそんな考えが嫌でも頭をよぎった。
それからしばらくして、私はテーブルの上に置かれた絵画を壁へ立てかけた。
足を抱え込むように座り、改めて対峙する。
キャンパスに載った赤より紅い色彩を見つめていると、次第に私の頭に様々な考えが浮かび上がり始めた。
そもそも、彼の視ていた世界とは一体何だったのだろう。
脳視覚野の異常によるもの、精神異常によるもの、そこには様々な要因が想定される。
だが、こう仮定することはできないだろうか。
彼の視ていた世界の姿こそが真実であり、私たちの眼にしている世界が偽りであるというのは。
本当は世界はもっと醜くて、それに耐えられない私たちが、勝手に都合の良い姿を幻視しているというのは。
こんな思考は決して真実へ到達することの叶わない、無意味なシロモノなのだろう。
証明の出来ない、取るに足らない思考実験なのだろう。
だけど私の脳髄には、いつまでもそんな不吉な考えがへばりついて離れなかった。
本当に私たちの生きるこの世界の姿は、正常なのだろうか?
私には解らなかった。
了
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