蓮台野ヨミの奇妙な日常
マルフジ
死体散歩
00
多くの人が寝静まった深夜。
住宅地へ血管の様に張り巡らされた道を一人の女性が歩いていた。
線の細い顔の輪郭に切長の眼。
瞳は一見黒だが、見る角度によって様々な色に変化する不思議な色彩。
絹のように滑らかな濡羽色の髪は背中の中程で切り揃えられており、若干前髪が長いがきれいに整えられている。
彼女の名前は『蓮台野ヨミ』という 。
都内のXXX大学に通うしがない学生だ。
時折現れる無機質な街灯の光と何処か寂しげな月明りに導かれ、ヨミは黙々と道を進んでいく。
この辺りはまだ彼女の住まう下宿からそう離れておらず、遊具が撤去され雑草が生い茂るのみとなった公園や、道端に追いやられるようにして佇む道祖神。
おぼつかない日本語を奇妙なリズムで操る外国人の立つコンビニなど、そういった見慣れた光景が続いた。
今夜行く当ては特に決まっていない。
気ままな一人散歩といったところだ。
深夜に女性が理由もなく一人で出歩くのは、あまり感心されない行動なのかもしれない。
だが、ヨミにとってこの行いは定期的に必要な事だった。
何気なく目の前を通り過ぎていく日常の中で浮かんだ思考を整理するために。
そして、自分という人間の現在地を明白にするために。
ヨミは深い思考の海に潜ったまま、半ば無意識化に幾度も道を曲がり、横断歩道を渡った。
そうして呆然と流れていく景色を見送っていると、いつの間にか見知らぬ道に出た。
脳内を流転していた思考から意識を切り上げ、足を止める。
目前に続いていたのは比較的道幅にゆとりのある生活道路だった。
左右には多様なデザインの民家の塀が立ち並び、街灯を乗せた電柱が等間隔で延々と聳え立っている。
それは消失点まで一直線に続き、ここから果てを見渡すことはできなかった。
この道をずっと歩いて行ったら下宿から相当離れてしまうことは容易に予想できた。
普段のヨミならここら辺で切り上げて引き返す。
しかし今日は何かが違った。
まるで強烈なフェロモンを放つ花に昆虫が誘い込まれるように、その何の変哲もない道にヨミは強く惹きつけられた。
「…………」
もう少し冒険をしようか、それともここで引き返そうか。
道の入り口に立ちすくみ、ヨミは逡巡した。
暫く時が流れる。
不意に冷たい一陣の風が吹き、彼女の髪を攫った。
それを契機とするように、ヨミはその道へ足を踏み出した。
01
微かに湿ったアスファルトの地面を踏みしめる、シトシトという音が規則的に響き渡る。
辺りはまるでこの世から人間がすべて消え失せたかのような静寂に包まれていた。
夜も遅いためか、前にも後ろにも人っ子一人見当たらない。
錆びついた『止まれ』の道路標識や、枯れた向日葵を思わせる首を擡げたカーブミラーを何度か見送り、粛々とヨミは歩を進める。
平凡で変わり映えのしない市街地の景色が続く。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。
ヨミは200メートルほど前方に何か黒い影が地面に伏しているのを発見した。
あれは一体なんだろうかとヨミは眉を顰める。
どれだけ眼を凝らしてみたところで、形がぼやけ判別がつかない。
一歩また一歩と道路上に出現したその正体不明の物体にヨミは接近していった。
近づくにつれて、画像の解像度を上げる様にそれは形を収束させていく。
やがて、ヨミはその場所へ辿り着いた。
同時に彼女から発せられた息を呑む音が嫌というほどに周囲へ響いた。
街灯の真下。
冷たい光に照らし出されたそれは、一人の男性だった。
年の頃は二十代中程といったところ。
真新しいスーツを着こんだ彼は、汚れるのもお構いなしに地面へ四肢を投げ出し、奇妙な格好で仰向けに横たわっていた。
顔はまるで紙の様に白く、口は半開き。
表情の抜け落ちた顔で瞬き一つせずジッと空を眺めている。
生気というものを一片たりとも感じさせない異様な佇まいだった。
次の瞬間には動き出すのではないかと警戒心を抱きながら、ヨミは押し黙ってその男性を観察した。
だが、1分3分5分と時間がいくら経過しようと、男性は微動だにしなかった。
痺れを切らしヨミは声をかけた。
「あの……大丈夫ですか?」
「……………………」
反応は皆無。
いくら何でもこれはおかしいのではないかと思い、ヨミは男性へ接近していった。
そして手が届きそうな距離まで近づき、改めて何の反応もないことを確認すると、腰を屈めて顔を近づけた。
眼球の運動や筋肉の微動、呼吸による胸郭の動きは一切見受けられない。
口元へ耳を寄せてみるが空気の流れも感じない。
男性の手首にそっと触れてみる。
一切の脈はなく、体温は氷の様に冷え切っていた。
ここにきて漸く、ヨミはこの男性が死亡しているのではないかと悟った。
救命措置を施そうかと一瞬迷ったが、最早そんな域をとうに過ぎていると思われた。
一度立ち上がり誰か助けを呼べる人はいないかと周囲へ視線を向ける。
だが、依然として人影は見当たらない。
ヨミは自身のズボンの後ろポケットへ手を伸ばし、スマートフォンを取り出した。
画面を軽くタッチすると液晶に光が灯る。
左上には『圏外』の二文字が記されていた。
試しに110番と119番にかけてみるが、当然発信することはできなかった。
突如として出現したこの男性はいったい誰なのか。
彼の身に一体何があったのか。
何故こんな市街地の真ん中で電波がつながらないのか。
様々な疑問が脳裏に浮かんでは消えていくが、そのどれ一つに対しても答えを与えることは叶わない。
兎にも角にもこの状態を一刻も早く警察や消防に知らせなくてはならない。
それが一市民として最善の行動だろう。
まずは周囲の民家に電話を借りられないか試そう。
ヨミはそう判断し、些か気が引けたが、近くにあったインターホンを押下した。
「…………」
静寂。
念のためもう一度押すがやはり返答はない。
偶然壊れているのだろうと、今度は道を挟んだ反対側の家のインターホンを押下した。
だがこちらも同様だ。
それから他の家も何軒か周って試した。
しかし、何れも反応を返さず死んでいた。
これはどういうことなのかとヨミは首を傾げた。
仕方なくインターホンは諦め、次の行動を考える。
この長い道を引き返し、いつもの散歩コースに戻ると交番がある事をヨミは思い出した。
電話がダメなのなら直接赴くまでだ。
それにこの異様な空間から一刻も離れたい。
決まるが早いか、ヨミは物言わぬ男性に背を向け、元来た方角へ顔を向けた。
依然として静謐に包まれた道はそこに続いていた。
先程と比べ特に変わった点は見受けられない。
にも拘らず、何処かヨミは目前の道に対し、虫の知らせともいえる不吉な予感を覚えた。
ヨミは重い足を引きずり、夜を再び歩み出した。
02
不思議なことに、人の予感というものは押しなべて的中するものだ。
頭上の蛍光灯から発せられる『ビー』という不快な音を耳にしながら、ヨミは再び男性の死体と対峙していた。
一体なぜまたこの場所に辿り着いてしまったのか、彼女にもその理由はわからなかった。
あの後、この道の入り口へ戻るために一直線に引き返した。
しかしどれだけ進もうと、まるで道が無限に延びているかのように一向にたどり着くことはできなかった。
そしてあろうことか前方に酷く既視感のある黒い影が現れた。
嫌な予感と共に進むと、案の定この男性の元へとたどり着いた。
これは何かの間違いだろうと、それから何度も道を直進した。
しかし、いずれもこうして同じ結末を繰り返し、現在に至る。
途中どこかで道を間違えたのだろうか?
ヨミは自問した。
そんなことは到底あり得なかった。
道は退屈なまでの直線だ。
誤った方向に進むわけがない。
額を冷たい汗が流れ落ちる。
これはどういう状況なのか全く理解が追い付かない。
ジワジワと締め付けられるような閉塞感がヨミを襲い始める。
他に何か道はないだろうか。
ヨミは周囲へ視線を彷徨わせた。
すると、少し離れたところにある十字路が目に入った。
まだこの先へ進むことを試していなかったとヨミは気が付いた。
普通に考えて十字路を曲がれば少なくとも別の道へ繋がる筈だ。
細やかな希望を持ち、ヨミは十字路の先に続く薄暗い道へ進んだ。
しかし、結論からいってこれも徒労に終わった。
当たり前の様に十字路を抜けた先には男性の死体が横たわる道が続いていた。
前進しようと後退しようと右折しようと左折しようと、どう足掻いてもたどり着く場所は同じ。
まるで永遠に続く円環の中へ閉じ込められた様だった。
途方に暮れながら、ヨミは誰もいない道の真ん中に立ち尽くした。
それからこれで一体何度目の邂逅になるかもわからない男性に、眼差しを向けた。
彼は相変わらず一言も発することなく、ただ無表情に天を仰いでいた。
どのような行動をとろうとも、結局はこの男性の元へたどり着く。
それは逆説的にこの異常現象と男性が密接に関係していると言えるだろう。
円環から抜け出すカギは彼が握っているのかもしれない。
道に対して試せることは尽くした。
後探していないのはこの男性の死体だけだ。
再度ヨミは男性の死体へ近づき、その冷たい身体へそっと手を伸ばした。
そのまま身体のラインをなぞる様に手を這わせ、何か所持品がないか探っていく。
すると皴の付いたジャケットの胸元辺りに膨らみを感じた。
ヨミはジャケットを捲り、内ポケットへ手を滑り込ませる。
確かな手触りと共に中からは黒い牛皮の折り畳み財布が出てきた。
財布を開き、カード類を一つ一つ引き出して確認していく。
クレジットカードや歯医者の診察券。
古本屋のポイントカードなど様々なものが現れた。
その中でも一際眼を引いたモノ。『運転免許証』を選び取り、ヨミは自分の顔の前へ翳した。
カード右側に貼り付けられた写真の中の気怠けな眼と合う。
風貌からこの男性のものでまず間違いない。
視線を動かし、上から順に記載事項を確認していく。
名前 :岡本 裕
生年月日: 平成9年9月27日生
住所: 東京都XX区XX6丁目6-6 ウッドサイド 104号
有効年月日 : 令和XX年Ⅹ月Ⅹ日まで有効
番号:第 XXXXXXXXXXXX 号
形式的な文字列の中、ヨミはある一点に眼を止めた。
「この住所……」
ポツリと独り言を呟く。
わざわざ彼女が口に出し、反応したのも無理はなかった。
何故ならその住所はここからすぐ近く。
恐らくこの道沿いにあるアパートの一室だからだ。
奇妙な符合。
これはきっと何か重要な意味を持つはずだとヨミは直感した。
そしてその気づきと同時に、突如として背後から何か金属製の物体が地面へ落下するような『チャリン』という音が鳴った。
びくりと肩を振るわせ、ヨミは動きを止める。
それからゆっくりと時間をかけて振り返った。
アスファルトの道路上。
何処から現れたのか、そこには一つの鍵が落ちていた。
街灯に照らされ鈍い光を反射している。
周囲を見渡してもそんな物を落としそうな者は何処にも見当たらない。
膝を伸ばして立ち上がり、ヨミは鍵を拾った。
手のひらに乗せて観察する。
特徴的な銀色の犬のストラップを除いて何処にでもある何の変哲もない鍵だ。
形状と大きさからして、おそらく家の玄関の鍵だろうと推測された。
改めてヨミは男性の死体へ視線を向ける。
男性の住まいはここからすぐ近くにあるという事実。
それを悟った瞬間に現れた鍵。
まるで、その家へ向かえと無言の内に訴ったえかけられているかのようだった。
どういった意図がそこにあるのか、そのアパートに何が隠されているのか想像もつかない。
だが、どの道現状は八方塞がりなのだ。
取れる選択肢は実質的に一つしかない。
ヨミは鍵を握りしめ、その住所へ向かった。
03
『ウッドサイド』と名付けられたアパートは、まるで人目から逃れるようにヒッソリと道沿いに佇んでいた。
形状は日本全国によくみられる木造二階建て。
灰色に塗られた外壁は色褪せ、薄汚れていた。
また建物の外に鉄骨で組み上げられた外階段は頼りなく、所々に塗膜の剥がれと錆びが見られた。
建築されてからそれなりの歳月が過ぎていることが窺える。
ヨミはそんなアパートの共用廊下に立った。
天井に設えられた蛍光灯の光は妙に青白く、突き当りの一つが消灯と点灯を繰り返している。
そのせいか陰鬱で不気味な雰囲気を醸し出していた。
息を殺して、一歩また一歩とヨミは足を踏み出す。
101、102、103と固く閉ざされた扉が横を通り過ぎていく。
程なくして、ヨミは目的の部屋の前へたどり着いた。
扉には淡白な文字で『104』と記された白いプレートが取り付けられていた。
この場所で間違いない。
いつの間にか汗ばんでいた手のひらから鍵を取り出し、ヨミは慎重に鍵穴へ差し込んだ。
底を打つのを確認してそのまま横へ回転させる。
「ガチャッ」と小気味良い音を立てて、鍵は開いた。
そのままドアノブに手をかける。
ヨミはそこで一度動きを止め、眼を瞑り大きく深呼吸をした。
息を整え、乱れた鼓動を落ち着かせる。
この先に待ち受けるものと冷静に相対するために。
十全な時間をかけ準備を整え終えると、ヨミは扉を開いた。
瞬間、視界が眩い光に包まれた。
眩暈が訪れ意識が遠のいていく。
同時に誰かの記憶が自身の脳裏へ流れこんでくるのをヨミは感じた。
珈琲にミルクが溶けていくように、意識と意識の境界が混ざり合っていく。
そして目の前を誰かの人生がフィルム映画の様に移ろい始めた。
*
【これは彼の人生。
彼はサラリーマンの父と専業主婦の母の間に生まれた、何処にでもいる普通の男の子だった。
両親はどちらも優しく、片田舎にある家は決して裕福ではなかったけれど常に笑顔の絶えない家庭だった。
そんな恵まれた環境のおかげか、彼は非常に温和で純朴な青年へ成長していった。
そして他の多くの子供たちと同じように幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と進学し、やがて就職の年になった。
就職活動にはそれなりに苦労したが、彼は何とか東京のある商社の内定を掴み取った。
それに伴って彼は上京し、初めて親元を離れて一人暮らしを始めることとなった。
これが運命の大きな分かれ道だった。
入社して初めの1年間は平穏な社会人生活が流れていった。
このまま人並みに仕事をして、他のみんなと同じように平穏な人生を送れると彼は思っていた。
自分を育て上げてくれた両親に恩返しをしようと思った。
しかし社会に出て2年目に差し掛かり、早くも生活に翳りが差し始めた。
いつの間にか、気が付いた時には朝から晩まで働き詰めの毎日になっていた。
膨らみ続ける残業。
やってもやっても終わらない業務。
家に帰っても自分のために割く時間などなく、ただ飯を食って寝るだけの生活が繰り返される。
時折両親が電話をくれたが、まさか心配をかけるわけにもいかず、ただ「大丈夫だよ」と返すことしかできない。
その頃には、彼は既に過労死ラインをとうに超えていた。
そこで彼に追い打ちをかけるような一本の知らせが入る。
旅行に出ていた両親が車両事故で急逝したのだ。
青天の霹靂。
彼は両親の仏壇の前にただ無言で佇むことしか出来なかった。
背後に伸びる影は重く、強い倦怠感に全身を包まれる日々。
限界は近かった。
それでも何とか最後の所で踏みとどまれていたのは、家で待つ大切な相棒のおかげだった。
しかし現実は何処までも非情だった。
その日も0時を廻った時刻に帰宅した彼は、意識を保っていられず倒れるように床に就いた。
そしてその夜、突然強い胸の痛みに飛び起きた。
極度の疲労による心不全が彼を襲ったのだ。
翌朝、もう彼が目覚めることはなかった。
こうして彼の20数年に渡る短い生涯に冷たい幕が下ろされた】
*
そこで映像は途絶えた。
この日本という国において、きっとこれはありふれた不幸話の一つでしかないのだろう。
別にヨミとこの男性は知り合いではない。
それどころか会話の一つすら交わしたことがない。
だから、涙を流したり深く悲しんだりすることはできなかった。
それでもヨミは、度重なる不運によりジワジワと衰弱し追い詰められていく同年代の姿を見せられ、微かな無力感と同情心が自分の中に生じるのを感じた。
彼はその劣悪な環境から逃げ出すことはできなかったのだろうか?
ただ退職届を叩きつけて別の道を模索する事はできなかったのだろうか?
いや、恐らく本人にしかその時の心境は分からないのだろう。
社会的な地位に対する執着や親からの期待、変化することへの不安。
そういった様々なモノが人の心には渦巻き、時に重しとなる。
第三者はあとから何とでもいえる。
ホワイトアウトしていた視界は霧が晴れるように戻り始めた。
ふと気がついた時には、ヨミは部屋の玄関に立ち竦んでいた。
目前に広がる空間は暗く、深い沈黙に包まれている。
一寸先すら見渡すことのできない闇の中、ヨミは周囲の壁を手探りで触れ、電灯のスイッチを発見した。
指先へ力を僅かに込め、スイッチを押下する。
辺り一面に白い光が溢れた。
目が痛むほどの眩しさに思わず眼を閉じてしまう。
瞳孔が慣れるのを待って、少しずつ瞼を持ち上げていった。
目の前に提示された空間は決して予想の範疇を逸脱するものではなかった。
質素なベットと小さな座卓。
文庫本やCDが疎らに詰まったカラーボックスと、ソファー。
1DKの空間に、独り暮らしをして間もない男性が最低限の生活を成立させるため、ホームセンターでかき集めたモノが淡白に配置されていた。
日々の忙しさに殺され、そんなモノに気を配っている余裕すらなかったのかもしれない。
しかし、ある一点だけ目につく特徴が部屋にはあった。
丸いボールのおもちゃや自動給餌器、見守りカメラなどといった、ペットを飼育するための道具が各所に散らばっていた。
ヨミは靴を脱ぎ部屋へ上がりこんだ。
それから窓際に置かれたベットへ一直線に歩いて行った。
やはり彼はそこにいた。
あの道で見たように、眼を開いたまま静かに事切れて。
死後からそれほど時間が経過していないのか、腐敗はまだ始まっていなかった。
そのまま彼の傍らへ視線を逸らす。
そこには飼い主に寄り添うようにして、体躯の小さな犬がうずくまっていた。
おそらく柴犬だろう。
辛うじてまだ息はあるが、かなり衰弱している。
微かにこちらへ顔を向けるだけで吠えたりする元気はないようだ。
痛々しいその光景をみて、ヨミは静かに目を伏せた。
なぜ彼があの道に奇妙な死体となって現れたのか。
ヨミは漸くその理由を理解した。
ただ、彼は誰かに見つけてほしかったのだ。
この小さな同居人が手遅れになる前に。
全てを失ってしまう前に。
既に不法侵入をしている時点で手遅れなのかもしれないが、ここから先は素人が下手に手を出してよい領域ではないだろう。
ヨミは再びスマートフォンを取り出した。
画面に触れ液晶に光を灯らせる。
今回は『圏外』の表示はなく、携帯キャリアの名前が左上に記されていた。
ヨミは110番を入力しようとした。
だが途中で思い直し、全く別の番号を打ち込んだ。
そのまま発信する。
数コールの後、相手が電話に応答した。
「……もしもし。こんな時間になんだ、ヨミ」
酷く眠そうな男の声がスピーカー越しに聞こえてきた。
「夜遅くにごめん伯父さん。助けてほしいの」
「…………また、何か面倒ごとに巻き込まれたのか?」
「ええ」
「…………わかった。俺は何処に向かえばいい」
「ありがとう。場所は…………というところ」
「……そこなら10分ぐらいだな。ちょっと待ってろ」
ぶっきら棒なその言葉を最後に電話は切れた。
ヨミは未だベットの上で小さく寄り添う者たちを静かに見守り、男が到着するのを待った。
04
後日譚。
あの後、刑事である伯父と合流した私は共に警察署へ赴いた。
そしてそこで事情聴取を受けることになった。
何故あの場所にいたのか。
何故男性が部屋で死亡していることが分かったのか。
そういった誰もがあの状況で抱くであろう事を問い詰められた。
しかし、まさか馬鹿正直に「彼の死体が散歩途中に私の前へ現れ、あの場へ導きました」などと言えるわけがない。
私は適当な供述をでっち上げ誤魔化した。
当然警察官たちは中々納得をしてくれなかった。
だけど、事件性がないことや伯父が口添えをしてくれたことも相まって、私はさほど時を待たず解放された。
何か面倒ごとに巻き込まれるたび、毎度お世話になっている伯父には本当に頭が上がらない。
そして今現在、私は近所にある河川敷を歩いていた。
時刻は午前8時。
照りつける太陽と時折頬を掠めていく風が心地よい。
今日は大学の授業が午後からだから、午前中は存分に時間を使える。
まだ我が家に来て間もないこの子のために。
私は自身の少し前を歩む犬の背中に眼を向けた。
あのまま警察に保護され、中々身寄りの見つからなかった犬は、様々な経緯を経て最終的に私が引きとることになった。
あの一件に関わって、私には見て見ぬふりがどうしてもできなかったのだ。
後から知ったことだけど、犬の名前は「カササギ」というのだという。
彼が生前につけた名だ。
本来、カラス科の鳥名である単語を犬につけるのは不思議な感覚だが、それもそれで個性があると思う。
彼の意思を引き継ぎ、私はその名前を呼びかけた。
「カササギ」
足を止めてクルリとコチラへ振り返り、カササギは「ワン!」と吠え返してくれた。
始めは随分と警戒されてしまっていてソッポを向かれてたけれど、少しは仲良く慣れたようだ。
私がカササギを飼うことに対して彼がどう感じるかは分からない。
それでも一つだけ確かなことがある。
それは、彼がこの小さな命の事を心の底から愛し、大切にしていたという事だ。
だから私も精一杯大切にして、これからカササギの横を一緒に歩んでいきたいと思った。
「ワン」とカササギがもう一度元気よく吠えた。
尻尾をぶんぶんと振り、早く行こうとリードを引いている。
「そうだね」と私は頷き、再び歩み始めた。
こうして新たな出会いと共に、私の奇妙な一日が終わりを迎えた。
了
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