ドS教師の憂い事 前編

 玄関のドアを開くとひんやりとした朝の風が頬に当たって、少しずつでも季節は移ろいでいるのだと実感する。そんな二学期の、中間考査も終わって学校全体に気の抜けた雰囲気が漂っていたある日の放課後、私は担任教師の土依先生(通称ドS)に呼び出され、生徒指導室に一人ポツンと座っていた。

 断わっておくけど、何か悪さをしたわけじゃない。強いて言うなら、まあ、その……テストの点数がほんのちょっと、悪かっただけだ。

 ほどなくしてコンコンとドアがノックされ、ドSが部屋に入ってきた。土依英守教諭。数学担当。年齢27歳。長身、色白の細見、美形。蒼空君ほどじゃないけど、はっきり言って整った顔のイケメンだ。切れ長の目にフレームの無い眼鏡と無表情な顔はクールを通り越して冷徹な印象を与える。そして見た目に反せずその性格はサディスティックそのもの。その生徒指導法には血も涙も無く、生徒に一切の慈悲を与えない。そんなわけで彼は生徒たちから「ドS」と名前を捩って呼ばれている。だが、イケメンはイケメン。私には理解できないが一定層の女子からはそこそこ人気があるらしい。

 しかし、改めてそのドSを目の前にしてドクドクと音を立てる私の心臓は、もはや爆発寸前だった。

「キミ、さぁ」

 ドSの冷たい声が二人だけの教室に響く。

「は、はい」

 抑揚の無い、無感情なその声に私は思わず姿勢を正す。

「なんでここに呼ばれたのか、わかってる?」

「は、はいっ」

「ふぅん、そっか。わかってるんだ」

「は、はぃ」

 さっきから「はい」しか言えない私はもうすでに生きた心地がしていなかった。

「じゃあ、どうする?」

「は、はい?」

「やるしかないよね?」

 ドSの言葉に私は思わずゴクリと唾をのみ込んだ。

 やるしかない?やるしかないってどういう事?はっ!まさか?このままだと数学の単位を落とす。落とせば内申書に響く。単位が欲しかったら僕のいう事を何でも聞けって……まさかそう言うこと?ど、どうしよう。初めから私のカラダが目当てだったとしたら……。仮にも私たちは教師と生徒。いや、そんな事は問題じゃない。お父さん、お母さん、私はいったいどうしたらいいの?誰か……誰か!蒼空くん助けて!

「フッ」

 固まったままの私を見てドSの口元が少しだけ緩んだが、目は全然笑っていない。

「まあ、キミに拒否権は無いから。取りあえずこのプリントを来週までにやってきて」

 そう言ってドSは私の前にプリントの束をドサッと投げた。

「は?へ?プリント?ええっ?しかも……こんなにたくさん?」

「そう。それ全部ね。毎週月曜日の放課後課題を出して、翌週にチェックするからそのつもりで」

「そ、そんなぁ」

「じゃ、僕は用事があるからこれで。戸締り宜しく」

「えっ?ちょっちょっと先生っ」

 そんな私の声は届かず、ドSは颯爽と生徒指導室から姿を消した。


「よっこらしょっと」

 BLUE-SKYのいつものカウンターに陣取り、私はドSから課されたプリントの束をドカッとテーブルに下した。

 カウンターの向こう側ではコップを洗っていた蒼空くんが目を丸くしている。

「なんです?それ」

「課題よ、課題。今日ドSの先生に出されたの」

「……ドSの先生ってのも気になりますけど、碧さんの高校ではそんなに一度にたくさん課題が出るんですか?」

「えっ?ま、まあね。JKの本分は勉強だし」

 洗い物を終えた蒼空君がひょいっとプリントを一枚取って興味ありげに眺めた。

「三角関数ですね、懐かしいな」

「えっ?蒼空君ひょっとして数学得意?」

「まあ得意と言うか、好きですね。大学でも専攻していますし」

 そうだった。休学中なだけで蒼空君は現役の大学生だった。学部までは聞いてなかったけど、専攻しているってことはひょっとしたらこんな問題ちょちょいのちょいなのでは。そんな淡い期待を寄せる私の心を察したのか、蒼空君は私の顔を見て優しく言った。

「役に立てるかは分かりませんけど、僕で良かったら協力しましょうか?」

「いいの?助かるーっ」

「でも、それにしたってすごい量ですね」

「そうなのよ。しかも先生なんかこのプリントの束を渡すだけ渡したら、用事があるなんて言ってさっさと帰っちゃうし」

 まあ私からしたら、生徒指導室にドSと二人缶詰なんて死んでもゴメンだけど。

「今は他にお客さんもいませんし、とりあえず解いていきましょうか。どこが一番苦手ですか?」

「んーとね……全部!」

「……碧さん?」

「だって数学嫌いなんだもん!」

「……じゃあ、一問目からみていきましょう」

 私が若干涙目になって言うと、蒼空君は半ば呆れながらも、どれどれとペンを執った。


 翌週の月曜日、蒼空君のおかげでなんとか課題を終えた私は、放課後また生徒指導室でドSと机を突き合わせていた。

「ふむ。ざっと見た感じは、よく出来ている」

 いつも通りの抑揚の無い声。いや、今日はいつも以上に声のトーンが低い気がする。先生疲れてるのかな。そういえば少し頬がこけているような、なんだかやつれた感じがする。よく見たらジャケットもあちこちほつれてるし、それも相まってか負のオーラが全身から漂っている気がする。

 私がぼんやりとそんな事を考えていると、ドSの胸ポケットがブルブルと震えだした。

「申し訳ない、ちょっと失礼する」

 電話かな?勤務中に、しかも生徒の前で電話を取るなんてよっぽどの用事なのだろうか。ちらっと見えた廊下に出て行くドSの表情は、明らかに強張っていた。

「えッ異常は無い?そんな……それじゃあいったいなぜ……先生、彼女は実際に日ごとにやせ細っているんですよ……いえ、それは分かりますが……」

 私はプリントの問題を目で追って、通話を聞かないようにしていたけれど、聞かずとも耳に入ってきた内容と、切羽詰ったようなドSの口調からは事の深刻さが伝わってくるようだった。

「すまなかった」

 しばらくして戻って来たドSの口調は電話の前と変わっていなかった。ただ、その硬く暗い表情は、私に余計な口を挟む隙を一切与えなかった。


「またたくさん課題がでましたね。先週より多いんじゃないですか?」

 カウンター席のテーブルに置かれたプリントの束を見て、またまた蒼空君が目を丸くした。

「ホント、もううんざり。でも……」

 私はそのプリントの横で机にぐでっと横たわっていた。

「でも……やるしかない。そうです、その意気です」

「ってそうじゃなくて。ちょっと蒼空君に聞いて欲しい事があるの」

「聞いて欲しいこと?」

 私はがばっと起き上がると、さっき生徒指導室で起きた一件を蒼空君に話した。

「なるほど……ちなみに先生は独身ですか?」

「えっ?うん、確かそう。直接聞いたわけじゃないけど。なんで?」

「そうであればその彼女というのは交際相手の方でしょうか。まあ齢の離れた妹なんて説も成り立たないわけじゃありませんが」

「そっか、そういう事もありえるよね」

「いずれにせよ、先生が抱えている問題は極めて個人的な事ですし、僕たちが首を突っ込めるような話しでは無いと思いますよ」

「うん、もちろん。それは分かってるんだけど……何となく気になって」

「今碧さんが気にしなければいけないのは目の前のプリントの山ですよ」

「うっ。そんな正論を……」

「ほら、ウインナーココアを淹れましたから。頑張りましょう」

「……はぁい」

 確かに蒼空君の言う通り、私なんかが首を突っ込んでいい話じゃ無い。後ろ髪を引かれながらも、私は腕まくりして課されたプリントに集中した。


 BLUE-SKYを出た時にはもう日はとっくに沈んでいて、街に吹く風の冷たさに、思わず身震いする。俯き加減で家に向かってしばらく歩き、赤信号に捉まったその時、ふと横を向いた先にドSの姿があった。

「あっ先生……」

 ドSは写真屋さんのショーケースの前で独り佇んでいた。視線の先には白い大きな額に入れられた家族写真。小さな子供が猫を抱き、その両横にはおそらく兄弟なのだろう。二人の男の子が肩を組んでいた。その後ろには優しそうな両親。みな幸せそうに笑っていた。その写真をじっと見つめていたドSの悲しそうな横顔が街灯に照らされて、私は思わず胸が締め付けられそうになった。

 ほどなくしてドSは、じっと見つめていた私に気づいた。

「……ああ、キミか。こんなところで何をしている。もう下校時間はとっくに過ぎてる。早く帰りなさい」

「先生、あのっ」

「ん?」

「あの、カノジョさんは大丈夫なんですか?」

「……なに?」

「すいません、私あの、さっき先生が電話されている時、会話が少し聞こえてしまって。すみません!盗み聞きするつもりは無かったんです。それでその、私気になって……」

「……………………」

 ドSはしばらく何も答えなかったが、しばらくして、絞り出すように声を出した。

「……食欲はある。毎日残さず食べているし。なのに日に日に痩せていくんだ。すまなかった。生徒に聞かせるような事では無いし電話に出るなんてもっての外だった。すこしナイーブになっていてね」

「先生……」

「気遣いありがとう。だけど大丈夫。彼女の好物もたくさん買ってきたし」

 そういって力なく笑ったドSが下げた袋から、大量の缶詰がガチャガチャと音をたてた。

「さあ、本当に帰りなさい。ご両親も心配するといけない」

「はい、さようなら先生」

 ドSは頷く素振りだけをみせて、私の方は見ずに駅の方へと消えて行った。


「……そんなわけで、桃かパイナップルかわかんないけど、とにかくたくさんの缶詰が入った袋を提げて、先生は帰っちゃったのよね」

「ふうん、なるほど」

「でも、本当に大丈夫なのかなぁカノジョさん。食べても食べても痩せていくなんて、私からしたら羨ましい限りだけど」

 先生宛の電話はきっと病院からだったのだろう。彼女は検査のため病院に行って、その結果がドSの携帯に架かってきた。あれ?でもそれならやっぱり彼女っていうのは蒼空君の言うように齢の離れた妹さん?身内じゃなければドSに電話があるってのも変な話だし。まあ、本来検査結果に異常が無いっていうのは喜ばしいことだけど、原因が特定できないぶんやっぱり不安は残るだろう。

「……碧さんの話を聞いてだいたいのことはわかりました」

「だよねぇ?……えっ?わかった?なにが?」

「きっと先生の言う通り大丈夫ですよ」

「えっ?えっ?どういう事?なに言ってるの?」

「それに、きっとこの先喜ばしい事が起ると僕は思いますよ。先生もまだ気づいてないみたいですが……」

「ちょっと、ちょっと。蒼空君さっきから何言ってるの?私にもわかるように説明してよ!」

「ええ、もちろん。だけどその前に」

 蒼空君はそう言って悪戯っ子のように笑った。

 この流れは、まさか……。


「僕と、ゲームをしませんか?」

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BLUE-SKY @zawa-ryu

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