第9話
見慣れたドアの前で一呼吸。今日もしとしと雨が降っている。撥水に優れた玄関マットは不思議な力で乾燥を保っているので私はその上で足踏みする。空はやたら暗い。夕方、雨降る中にここを経ってから一年ほど経っただろうか。覚悟を決めるのにそれだけかかってしまった。
ドアノブの下の鍵穴に差し込んで回す。家の中からガタ、と何か重いものを床に落としたような音がした。ドアノブを捻ろうとする気持ちはあるのだけれど、雨で滑るのを言い訳に、力を込めて握り込むことが出来ない。
はあ、と何度目かわからないため息とともに、ええいままよ、と体重を後ろあしにかけてドアを開く。
玄関マットから離れて外と家との境界を久しぶりに超えた。
「おかえり、梓咲。」
故郷のように玄関に段差はないので、どちらが見下ろすわけでも、見上げるわけでもなく、ただ目が合った。懐かしい心地がした。
そして遅れて、若干の衝撃がきた。彼が私の名前のイントネーションを正しく発音したのだ。しかも、言葉も理解出来る。夢かと思って3度瞬きする。
「あなたを心配していた、」
勝手に出て行った私を見捨てずにコミュニケーション方法を未だ模索していたというのか。
自分が情けないと思った。
なんて愛情深いのかと思った。
「ごめんその鳥の鳴き声みたいのは、さすがに分かんなかったけど。」
カタコトの、私の故郷の言葉だった。もはや聞き慣れない響きだった。それほど遠ざかっていたものを思い出した。
それにしても一体誰に教わったんだろう。一瞬考えて昔から張り付いていた影法師に思い至る。そうか、今回も彼女が助けてくれたのか。
「うん、ただいま、アーロン。」
彼につられてもう二度と口にすることはないだろうと思っていた言葉で返した。
彼は顔を強ばらせたまま変えないから通じているかわからない。目を泳がせていることから次の言葉を探しているようだ。
「ごめんなさい、俺、は、知ろうとしてこなかった梓咲のこと。」
ここに来た時、自分がどうされたら安心したか思い出す。自分の発した音に、相手の笑顔が咲いた時だった。怪訝な顔が一方いちばん怖かった。
だからなるべく心から笑うように努めてあなたの言葉に相槌をうった。
「……。」
もちろん彼の言っていることはわかる。でもどう返したらいいかわからない。ただこれはあまりいいリアクションではないと知っている。
通じなかったのか、自分の言っていることが原因なのか、色々な不安を抱かせてしまうことを私は誰より知っている。
「いいよ、」
短くそう返した。自分がそう思っているかもわからない。ただ彼の努力に報いたい一心で。
「もっと話そう。」
逸らしていた視線の標準を彼にばちっと合わせる。これが私たちのこれからだと思って。
その言葉に、無意識だろうか、彼の眉間に深く刻まれていた皺が解ける。よかった、伝わった、受け入れられたと私もつられて脱力する。
すると、彼は少し驚いたような顔をした。
理由がわからなくて、彼の言葉を待つ。一体なんだろうと聞き返そうとしたその時。
すぐにわかった。つむじから、髪が黒に戻っていくような感覚がある。少しくすぐったい。
背中の羽も、抜けていった。もうだいぶ育っていたから、畳んでいるのも疲れていたところだ。
フローリングに茶色い羽がふわりふわりと舞って落ちる。
「髪の毛、やっぱり黒の方が似合ってる。」
一連の変化を見届けて彼はそう呟いた。彼がつい漏らした言葉を理解出来た。
じゃあ多分、戻ってきた。
白い靴を履いたまま、空いていた距離を2歩で詰める。貴方の左手を両手でとった。ひんやりしていたから体温を分けるように包みこむ。
そんな私に貴方は面食らって、なんならすこし仰け反っていた。
思わず吹き出すと、彼はいつもの調子で虚勢をはろうとするものだから、それには気付かぬふりをする。
添えていた左手を離して片手をポケットにすべりこませて、取り出した選りすぐりの銀色の指輪を彼の薬指に押し込む。
これは鳥男、トゥルーバが言ってたことだけど、この世界、彼の故郷では、結婚ってメジャーじゃないらしいから指輪を送る文化だってもちろんそう。
元々、彼の人生に爪痕をのこしてやる為だけに寄りに来たんだけど、やっぱり帰ってくる場所はここがいい。
だから辛抱強くあなたがこの指輪の意味に気づくのを待ってみようと思う。この一年間のことたくさん話そう。恐れず話してみよう、私も彼を受け入れよう。
たぶん、この街に来てから一番の笑顔で彼に向き合うことができている。扉を打つ雨の拍手のような祝福を受けて。
ちぐはぐな白雨の のーと @rakutya
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