第2話 師匠の過去

師匠には子供がいた。奥さんもいた。師匠にとっては、とても幸せであった。

師匠は家族がいた時代について語ることは少ないが、語るときはとても幸せそうな顔をする。口角が僅かだが上がり、大切なものを傷つけないかのように、そっと微笑むのだ。師匠は家族のことについて話すとき以外、あんなに幸せそうな顔はしない。


だが、それはある一人の男によって壊された。


師匠は偽札を作る前は、工事現場の作業員として働いていた。今のように働き方改革なんてあった時代ではない。師匠は朝から晩まで、休日も働いていた。

子どもの成長はたまに見て喜ぶくらい。子供が初めて立った時も、話した時も、師匠は見ることができなかった。

奥さんとは子どものこと以外話さなかった。師匠はそれでよかった。

でも、奥さんは…よくなかった。

構ってくれないストレスからか、奥さんは夜の街へと吸い込まれていく。そこで出会った、ホストのような怪しげな男と会うようになった。話を聞くと、奥さんと男はクラブで出会ったらしかった。

奥さんが男と連絡したり、一日中一緒にいたりするため、師匠の家は回らなくなっていった。また、奥さんは男と食事をしたり、何処かに出掛けたりするときには全額負担していたらしい。お金も渡していたようだった。金銭面でも困ったことが多くなってきた。


子供は世話もろくにされずに、放置されてしまっていた。奥さんは子供の保育園の送り迎えはしていたようだが、そのあとは男のもとに通っていた。師匠が帰ると、夜ご飯として与えられた菓子パンを咥えた子供が、一人で眠っていることがよくあった。

結局奥さん方の実家に預けられることになった。

師匠にはその時、家族と呼べる人が奥さんと子供以外にいなかったからだ。頼れる身内がいなかった。

奥さん方のご両親はやはり自分たちの娘が可愛かったのか、師匠との離婚を切り出した。奥さんのほうが客観的に見ると悪いと思うのだが。仕事で忙しかったとはいえ、妻と子供を放っておいたお前が悪いと。ご両親はそんなメッセージを離婚届という一枚の紙に乗せて、奥さんと一緒に持ってきた。

そうして師匠は言い包められたのか、納得したのか、どちらかは知らないが、離婚を受け容れた。しかも子供は奥さんが引き取るという条件付きで、承諾したのだ。


奥さんは、子供と、自分たちの荷物を全部持って、一週間後に家を出ていくと言った。師匠は仮病を使い仕事を一週間休み、子供との最期の時間を過ごそうと決めた。

これまで現場がある時には一回も休んだことがなかった、真面目な師匠が休むことにしたのだ。並々ならぬ決意だったに違いない。

子供と残された時間で何をしたのか。鬼ごっこ。かくれんぼ。おままごと。折り紙。お絵描き。色々なことを、子供と取り組んだ。ぎこちないけど温かい時間を、師匠は貪るように味わっていた。


でも師匠がやったのはそれだけではなかった。

なんと、子供が描いた絵や字、アルバムを複製し出したのだ。

子供がいたという事実が、一人分になった荷物や間取りによって消えていくだろうと悟った師匠。奥さんもそのつもりだったのだろう。だから、自分たちの痕跡は残らないようにして、師匠の家を出るといった。師匠に子供がいたという事実を忘れさせたかった。そして、また一から人生を歩ませたかった。

それが優しさなのか意地悪なのか、俺にはわからない。

でも確実に、奥さんの行動が、師匠が新しい人生を歩むきっかけになった。大分常識から踏み外した人生を。


なぜなら師匠は、子供の描いた作品たちを複製する過程で、己の生まれ持った能力に気付いたのだから。

人よりものを複製する能力が凄まじく優れているということは、師匠はこの時まで気付いていなかった。ただ子供の作ったものを自分の手元にも置いておきたくて。でも写真じゃ物足りなくて。自分の手元にも同じものがあったらなという軽い気持ちで、子供の作品を複製した。

まず師匠は自分の給料で、子供の絵や字が描かれた紙と同じような質感の紙を買った。絵の具もクレヨンも、筆も買った。

そして子供が書いた字を真似して書いていった。お世辞にも綺麗とは言い難い、まだ字を覚えたての子供の字を、大人の師匠が真似して書くのだ。想像よりも遥かに難しいだろう。子供が字を書いた横に書いた落書きや、何かの拍子で破れたであろう紙の端も、完璧に再現していく。水彩画も折り紙も、子供が作ったように作っていく。紙にこぼしてしまった絵の具の染みや、何回も折ったせいでふにゃふにゃになった折り紙の感じまで、細かな部分まで真似た。

いや、それはもう真似という手段で生み出された偽物じゃなかった。

完璧という衣をまとった本物だった。

子供の写真がたくさん入ったアルバムも、師匠は写真一枚一枚を複製して、完成させた。

少しずつ偽物たちを作っては、自分の荷物の隙間に隠していた。奥さんが発見してしまったら、不気味に思うだろうから。


一週間後。師匠と師匠の荷物だけが部屋に残され、奥さんは子供を連れて出て行った。

師匠の手元には子供の作品の複製が残った。師匠以外の人が見たら、どちらが子供の作ったものかわからないような出来栄えだった。子供もどちらを自分が作ったか、わからないだろう。でも師匠はどちらが自分の作ったものかわかっていた。

自分が作ったものは、子供の名前を書かなかったのだ。

子供は保育園で教わったように、自分が作った作品や、自分の持ち物には名前を書くようにしていた。

自分が子供の名前を書いていたら、忘れたときに確認できてしまう。

複製するという能力を持つ代わりに、師匠は覚えることが苦手である。この時からとにかく何でも、書いて覚えていた。

子供の名前だから覚えておけるという自信はなかった。重要なことも、そうでないことも、書かないと忘れる。

でも、逆にすれば忘れることができる。

そこは、奥さんの思惑に乗ってあげたかった。最後にお願いを受け容れてあげたかった。それに自分も、新しい日常を過ごしていくためにはそうした方がいいと思っていた。


そして一人ぼっちになった師匠は偽物だらけの部屋で、あるものを作り始めていた。

仕事が終わったあと、おにぎりを食べながら必死に作った。おにぎりは片手でも食べられて、手が汚れにくいから、作業が終わるまでずっとおにぎりの生活だった。鮭、梅、鰹、昆布、ツナマヨ。焼き鳥やオムライスなどの変わり種や、ご当地もの、期間限定商品など、一生分くらい食べたという。

もう食べ飽きたからおにぎりは食べない、と言っていた師匠だが、それが本音ではないのは明らかだ。


多分師匠は、おにぎりが嫌いだ。あの頃を思い出すから。奥さんと子供を失った悲しみと、ある人物への憎しみが、ペンを持った師匠の手を震わせた日々を思い出すから。

師匠は言う。震えが作品に影響しないよう、ペン先が紙に着いているときだけ、息を殺していたと。

だから俺の特技は、ものを複製することと、息を止めることだ。師匠は笑いながらそんなことを言ったこともあった。辛い身の上話に、俺が変に感情を入れないように、ユーモアも交えながら話してくれた。

でも俺にはわかる。冗談を交えなければいけないほど、師匠の過去は壮絶なものであったと。覚えることが苦手な師匠でも思い出せるくらい、過去は師匠の体に刻み込まれていると。


おにぎり片手に作り続けた作品は、一日に一つできた。


およそ100日後。師匠はとある場所にいた。

居酒屋が立ち並ぶエリアから、ちょっと進んだところにある夜の街。自分の奥さんがあの男と会っていた場所だ。

工事現場から家に帰って、押し入れから紙袋をとってきて、待ち合わせの場所に立っていた。袋の中には100万円が入っている。

もちろん全部偽札だ。

この偽札が…師匠がおにぎり片手に、作り続けていたものだった。


一日に、一万円札を一つ複製する。

そして、師匠の奥さんを弱みに付け込んだ、ホストまがいの男を騙す。具体的には、彼に偽の100万円を渡す。

この企みが上手くいったら、仕事を止めると決心していた。

渡してどうするのか。自分に利益としてお金が入ってくるわけでもない。普通の人だったら疑問に思うだろう。俺も最初、師匠の過去の話を聞いたときにそう思った。金儲けできるか、というより、師匠のほうが紙幣を複製するので費用がかかっている。

でも、師匠にとっては利益なんかどうでもよかった。男が偽札を何の疑問もなく受け取るのか。すなわち自分の作った作品が、本物として通用するのか。これだけを確かめたかった。


この頃には師匠は完全におかしくなっていた。善悪の区別がつかなくなる始まりだった。

今師匠は、善悪の区別がついていない。人を殺すことは悪いこと。人のものを盗むのは悪いこと。それぐらいだったらわかるが、偽札を使うことは悪いと思っていない。


男は馬鹿だったから、師匠の奥さん以外にも他の女とも関係を持っていた。そのことを師匠は、男を尾行することで知ったので、女という立場を利用することにした。

当時世間を騒がせた、いわゆる貢ぐ系女子の偽札事件とはこのことである。


貢ぐ系女子の偽札事件。5年程前に新聞の一面を飾った、師匠の輝かしいデビューである。

捜査は今も難航しており、犯人はまだ捕まっていないことでも知られている。


それもそうだ。

師匠はものを複製する能力に長けており、複製できるのは「もの」だけでない。「人」でも可能だ。つまり、変装の達人でもある。お手本さえあれば完璧に再現することができる。

警察がいくら防犯カメラの映像を解析したとしても、そこに写っているのは、存在していない女。師匠である。


細かく師匠の犯行を説明しよう。

師匠はまず、奥さんと子供が出て行った日に、女の姿で男と会っていた。

露出が多い服に、栗色で長めの髪を綺麗にカールさせた上品な女を、師匠は少しの隙もなく作り上げた。おにぎりばかり食べて栄養が偏っている体はやせ細り、ペンを握り続けた腕はほっそりとしていたので、女性の体形になるのは容易かった。ウィッグと、それっぽい服装、メイクで十分に誤魔化せた。

師匠は男がよく一人で訪れている飲食店に出向き、そこで男と偶然を装って出会った。

若い女性を観察して真似た話し方やリアクション、自分の奥さんの口調を少しだけ取り入れたことで、男はまんまと師匠の虜になった。

男はホストクラブで働いていたので、師匠はそこにも週に一度ほど通った。

師匠は今の状態ではちょっと厳しいから、と3か月後くらいに100万円のシャンパンをおろす約束をした。

仕事頑張る、と言うと男は師匠に向けて笑みを浮かべた。いや、正しくは師匠が持ってくるであろう、自分が手にする地位と名誉に向けて微笑んでいた。

複製能力に長けた師匠は、観察力も凄まじい。あれは俺に向けた笑顔ではなかった、と振り返る。もっと別のものを見ていたと。


3か月間、男に会う為のホストクラブ代、それに男との食事代は師匠がほとんど出した。自分の給料からだ。奥さんも子供もいなくなり、どこに使えばいいのかわからなかったお金は、馬鹿らしいことに自分たち家族を引き裂いた男の為に消えていった。たまに、3か月後のシャンパンに期待している男が、食事はご馳走してくれた。


その3か月の間に男の誕生日がきたが、師匠はブランドもののネックレスを複製してあげた。

ネックレスなんて、師匠に言わせれば、ただチェーンに飾りがくっ付いているだけだ。ブランドのロゴさえ気をつければ、簡単に複製できる。


男の誕生日。師匠はブランドのバック(もちろんこれも師匠の作品)から、ネックレスを出して渡した。

「はい。これ、よかったらなんだけどプレゼント。お誕生日おめでとう。」

師匠が男に箱を渡す。自分の作品が絶対に自信作でも、他人に偽物を渡すのはこれが初めてだった。箱を持った手が少し震える。

「え。嬉しい。」

男は普通の人が絶対に買えない値段のネックレスに驚き、有難そうに受け取った。頬が高揚している。

「ごめんね。シャンパンおろすのでお金貯めないとなんだけど。どうしても渡したくて。」

「そんなことないよ。大切にする。」

男は、それが偽物だとは当然気が付かなかった。ありがとうは言われなかった。


およそ100日後。師匠が男にシャンパンをおろす日。

師匠は一旦家に帰ってから、いつも以上に化け始めた。髪は巻きがとれないよう、がっちりとアイロンでカールした。メイクも落ちにくいように工夫した。

これで、この女の姿になるのも最後。嬉しいような、名残惜しいような気持ちが入り混じって、変な浮遊感がする。


「これ。100万円。」

ホストクラブに入って、いつものように談笑して、ひと段落したときに、師匠は切り出した。

紙封筒からお札を取り出し、テーブルに乗せる。一枚一枚は薄い紙でも、100枚重なるとずっしりと重い。自分が作るのにかかった労力を考えると、本当の重さよりももっとある気がしてくる。

「これで、シャンパンおろすから。乾杯しよう。」

師匠が札束をテーブルに置くのを確認した男はうなずいた。目は偽物の札束しか見ていなかった。また、ありがとうは無かった。

それからしばらく、いつもの通りどうでもいい話で盛り上がった。

男は今日おろすシャンパンがどれだけ凄い価値があるのか、ぺらぺらな語彙力で説明した。先輩からの受け売りの知識だろうか。だとしたら、この店はすぐに潰れるだろう。だって、信じられないくらい話が面白くないから。

でも師匠は興味がある振りをして相槌を打っていた。世界で一番くだらない話だと内心思っていたが、それを感じさせない笑みを浮かべておいた。男は師匠の振る舞いに調子づいて、さらに喋り出す。

いい加減うんざりしていると、男が従業員に呼ばれて席を外した。ちょっと待ってね、と言い残し去っていく男に、小さく手を振る。ほっと声が漏れた。


師匠はわざと携帯を取り出し、驚いたように声を漏らした。それから、冗談でしょ、と髪を手で梳く。

男が離れたところからその様子を見ていた。

しばらくして、どうかしたの、と席に戻ってきた。

「仕事場から連絡。」

軽く携帯を掲げて、ため息をつく。

「ちょっとどうしても外せない重要事項があるらしくて。今すぐ来いだって。」

こんな時間にそんなことを言うなんて、どんなブラック企業だよと思うが、世間知らずな男は妙に納得した。

勘弁してよ、という風にうなだれテーブルに身を預けると、男が肩を叩いて励ましてくれる。

そして本当に、とか、今は一緒に飲もうよ、とか口先だけの安っぽい言葉で引き留めてきた。本心じゃないとわかっているから、それを振り切って帰るのは簡単だった。結局何だかんだ言いながら、金さえ手にはいればいいのだ。男に気はないはずなのに、最後にそれが透けて見えて、師匠は少しだけ落胆した。

「また今度、お礼に食事でも行こうよ。」

男の軽い誘いに、曖昧に返しておく師匠。どっちつかずの師匠の言葉に、男は、今度ゆっくりできる時でいいから、と重ねる。

「本当にごめんね。また。」

師匠は会計を済ませ、店を足早に出た。

いつもは適当に見送る男も、ドアが閉まるまで手を振っていた。


師匠はしばらくゆっくりと歩き、路地裏に入る。と、迷わず衣服を脱ぎ捨てる。ウィッグもとる。たっぷり塗り込んであるメイクも、落としていく。防犯カメラがないことはとっくに確認済みだ。

それから、近くのごみ箱に手を突っ込んで、自分のいつもの私服を引っ張り出した。

このゴミ箱は師匠が昨日に業者を装って持ってきたものだ。汚れているようにみえるが、師匠の、ぴかぴかの手作りだ。

私服のチェックのシャツとぼろぼろのジーンズに着替えていく。

脱いだワンピースとウィッグは、ビニール袋に乱暴に詰めて、ごみ箱に入れておいた。

「よし。」

師匠は自分に気合を入れるように軽くつぶやき、本当の姿で帰っていく。男に会う前にはなかった絶対的な自信が、背中に帯びていた。


この企みから師匠は、偽札で利益を出せることを確認でき、仕事を辞めた。

それからは、各地を転々としながら偽札を作り、変装しながら使い続けていた。お金が循環したり、警察の動きが少しでもあったりしたりすると場所を移した。

だから師匠の今日の姿は、本当の姿ではない。

今は40代のパンク系のおじさんだが、俺と変わらないくらいの年齢にもなれるし、女性にだってなれる。彼女がいないのなら、お前好みの女になってやろうか、と言われたこともあった。もちろん、好みが師匠にばれる恥ずかしさから、丁重に断ったが。


そんな俺が、師匠と出会ったのは。


「わかるか。」

師匠の声で、はっとする。意識がうどん屋に落ち着く。ピントが目の前の肉うどんに戻ってくる。うどんは大分冷めてしまっており、伸びている。おにぎりの海苔はしんなりの米粒に張り付き、持ってきてもらったときよりも元気がないように見える。

話を聞いているときは、真剣に師匠の過去に思いを馳せるから、ぼうっとしやすい。

それに今は、自分と師匠が出会った過去も思い出そうとしていた。いつもに増して、意識が飛んでいたのだろう。

「俺はいつも言っているように、過去のことから、作品を作る。それで飯を食っている。生活している。お前は、どうだ。」

喉が渇いてくる。嫌な渇きだ。俺自身について問われたのは初めてだったから、驚きで咄嗟に言葉が出ない。師匠が続ける。

「俺に無理に合わせなくていい。」

こんな風に突き放すように言われたのも、初めてだ。いつも黙って師匠にくっついている俺に何も言わなかったのに。

手元のお冷を握る。冷や汗をかいて熱を持った手に、氷が溶けて濡れたコップの感触が心地よい。うつむいて、コップの淵を指でなぞる。

何て返そうか迷うより先に、水を飲んで滑らかになった口から言葉が出た。案外簡単に。

「俺は、師匠の共犯者になるって決めました。出会った時に。だから。」

だから、と一拍置き、今度は師匠をしっかり見た。

「次は、使います。」

しばしの沈黙の後、

「いつも言うな。そのセリフ。」

まあいいけど、と師匠は親子丼に手をつけた。先ほどの問いかけや突き放すような感じが嘘のようだ。急に空気がふっと緩む。

師匠は一口食べると、うどんに、備え付けの容器から葱を掬い、たっぷりかけていく。俺もおにぎりに齧り付く。中に入っていた梅干しが舌先を刺激して、酸っぱさが口に広がっていく。程よい空腹のせいか、いつもより美味しく感じる。


それから俺たちは、他愛ない世間話をしながら食事をした。


食べ終わって師匠が会計を済ませ、うどん屋を出る。店員の、ありがとうございました、の声が背中に当たる。

財布の中を何気なく確認した師匠がぽつりとつぶやいた。

「ライブ、もう行けねぇな。」

手に持っていたのは、ライブハウスでもらったであろう、お釣りの7000円。よく見るとそのうちの5000円に、ホログラムが入っていなかった。

偽札が循環している。小さな店ではよくあることだ。客が払ったお金をお釣りとして使う。俺はうなずいた。

「そうですね。」

ライブに行けないということは、もうみぃみちゃんには会えないということでもある。師匠は偽札を作り、利益を出すのに引き換えて、こうやって色々失っていく。

「サンドイッチ、買って帰るぞ。」

師匠は気持ちを切り替えるように言った。

偽札作りの今のお供は、おにぎりではなくサンドイッチだ。師匠は毎日のようにサンドイッチを食べながら偽札を作る。ベーコンレタストマト、照り焼きチキン、卵サラダ。どの種類にするのかはいつも俺が決める。と言っても、目についたものを手に取っているだけだが。師匠が作業している間、俺は部屋を片付けたり、素人にもできるくらいの手伝いをしたりする。

「師匠。」

最寄りのコンビニを調べて、少しずつ歩き始めた師匠に声をかける。師匠は俺に背を向け始めており、うつむいた顔からは表情が読み取れない。

「みぃみちゃんにもう会えないの、悲しいですか。」

自業自得。そう言ってしまえばそうだが、師匠にも思うところはあるだろう。

「お前がいるから、まぁ普通だな。」

だから、放たれた言葉は、俺にとっては想定外のものだった。

「決められた踊りや歌をこなすみぃみちゃんより、いつも俺の作品を出さない、いつ使うのか予測できない、お前のほうが見ていて面白い。」

まあ次は出すらしいけど、とからかうようにふっと笑った師匠の声。

「強がりはいいですよ。」

強がりじゃないことはわかっている。この人は絶対に、本心じゃないことを言わない。

でも、疑わざるを得なかった。

俺が師匠の立場だったら、普通、とは言い表せないから。少しでも気になっていたのなら、離れるのは悲しいはずだ。

「強がりじゃない。」

師匠は前を向いたまま、はっきりとした口調で言った。

そして、お前も何か買うか、と続けて言う。もうこの話題はおしまい、という意味だろうか。俺は少し考えたあと、

「唐揚げ。」

敢えて明るい声でそう言った。肉がまだ食べたかった。

俺の言葉に若いなぁ、とつぶやいた師匠はすぐに返す。

「自腹で頼むぞ。」

「そこは驕りじゃないですか。」

不服そうに小声で言った俺に、バイト代あるだろ、ご馳走様です、と自分の分も払うように諭す師匠。

うどん屋で奢ってもらった借りがあるので、俺は渋々承諾した。

そうだ。今日は何のサンドイッチにしようか。師匠がこの前食べて気に入っていた、あのフルーツと生クリームのやつにしようか。

師匠が頬をほころばせて控えめに喜ぶ姿を想像して、俺は楽しくなってきた。


コンビニの位置を何度もスマホで確認する師匠と、連れ立って歩いた。

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反省会はうどん屋で 真田ヒョウ @myo310

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