エピローグ



「はい、コーヒーね」

 先生がコーヒーカップを目の前に置いてくれる間、榊はぴんと背筋を伸ばしていた。ありがとうございます、と礼を言う。

 九月ももう後半に入った。とはいえ「例年にない」やら「異例の」やらとお決まりのフレーズと共に、まだ残暑は続いている。夏とは一筋縄にはいかない。

 先生はいつものように定位置の席にどっかりと腰を下ろし、パソコンの画面を眺めた。スピーカーから流れる洋楽のミュージックビデオが映し出されていた。前まで書いていたBL小説は書き終わって、今はその終わってしまったという喪失感にやられているそうだ。コーヒーを淹れながら「このロス感があああ」と嘆いていた。その嘆きの感情が凝縮されて、全部このコーヒーに入っているのではないかと思うと少し飲みづらい。

 物語の創作の経験がない榊には、その喪失という感覚がよくわからない。一作書き終わるというのは、清々しい開放感をまとった、嬉しいだけのことではないのか。

 ああ、でも。

 自分が一枚絵を描き終えたという段階に置き換えて考えてみれば、少しだけ理解できるかもしれない。寂しいとか、これからどうしたら、などとは思わない。ただ自分にも趣の見えない感慨がある。今月も終わったな、と。言葉にすればたった一言なのに、それは透明な感情ではない。

「ろっくんは、今は無職状態って感じ? 新しい依頼は来た?」

 ごちゃごちゃとした思考を読んだかのようなことを、先生が尋ねてきた。たまにこういうことがある。完全なる偶然か、占い師だと人の心も見通せるのか、経験からの読みなのか。別になんでもいいと今の榊は思う。そんな思考を知っているのか、それともやっぱり知らないのか、先生は定位置に座って目を擦りながら「新月だから眠い」と呟いた。その感覚は理解できた試しがないなと少し困りつつ。

「そうですね」と、頷いた。ポケットからスマートフォンを取り出して、何も連絡が入っていないというのを示して見せる。「今は何の依頼も入っていませんよ。だからと言って無職というわけでは」

「いっつも思うけど、ろっくん死ぬほどスマホ似合わないねー」

「そうですか」絵の依頼を受けるためにしか使わないので、確かに持った姿が様にならないと自分でも思う。依頼が来たところで「アトリエに来い」以外の内容は返さない。そのくせにきちんと持ち歩いているのは、携帯電話という名前であるからには常に携帯しておかなければいけないと思うからだ。

 言葉は本質を的確に言い表しはしないが、本質が与えられた〈名前〉に添うことはあるのだと考えている。

 先生が、あははと笑った。「何よそうですかって。持ち歩いてても使わないんだから、パソコンとかにしておけば良かったのに。その方が画面大きいし良くない?」

「タイピングはできないので。……では、客もいなくて暇なので先生のことをお描きしましょうか」

 榊はひどく真面目な顔をして、冗談のつもりでそう言った。先生もそれをわかっているようだった。「んー、いいや」と彼女はまた笑う。少しさっきとは種類の違う笑みだった。

「ところでさ、ろっくん千葉駅前に飾ってた絵、外したんだね」

「見たんですか」

「うん。先月から占いの館みたいなとこでバイトしてるんだけどさ」

「はあ」反応に困る話は反応せずに流す。だがそれは話自体を聞き流しているわけではない。

「館に行くまでの通り道に絵があったのよね。だけど二週間前ぐらい? 急に無くなったから」

 コーヒーカップを上から見下ろせば、中で黒い水面が微かに揺れていた。黒い。でも、完全な黒ではない。他の人が見れば黒と言い表しはしない色。

 榊は「先月の終わりと同時に」とだけ呟くように答えた。先生も「そう」としか答えなかった。

 先生には、あの絵の依頼人である五月の客のことを話してある。結婚して籍を入れる前の自分を描いて欲しい、と言ってきたあの女だ。いつも快活に笑い、「あそこに行こう」「あれを食べよう」と榊のことをあちこち連れ出した。これ以上ないぐらいに振り回された一ヶ月。

 ──その挙げ句に、俺の描いた絵を見て死んだ。

 ある穏やかな昼過ぎに、広い野原で散々走り回った後、彼女が芝生の上に寝転がった。榊はすぐそばに突っ立って見下ろしていた。彼女は馬鹿のように大声を上げて満面の笑顔で笑ってから、しばらくしてふわあと欠伸をした。その時、片目に涙が盛り上がって草原まで伝い落ちた表情が、すごく印象に残っていた。不思議で、不思議に美しくて、それを描いた、ただそれだけなのに彼女は。

『あたし、……そっか。泣いてたんですね』

 今年の五月のことを俺は一生忘れない、と榊は思う。

 僕の遺影を描いてください。そう言って来た青年の声が頭の中に響いた。それからアトリエを最後に出て行った後ろ姿と。思い出す場面なんていくらでもある。室内で他愛のないことを会話している時の顔、海を前にして見せた顔、静岡から帰ってきた時の顔、サーカスのテントの下での顔。

 ──使い勝手のいいものが、好きなんですか?

 胡桃の木を見上げて、彼はそうからかうように問うてきた。その声も表情もまた鮮明に残っている。そうじゃないでしょうに、と言うように笑っていた。悪戯を指摘された子供のような、図星を指されたような妙な気分になって、どうしてこんな気分になるのかもわからなくて、榊は呆気に取られていた。

 あの青年は変わった。

 自分が救ったとなんて考えていないし、今回のことで五月の罪を償えたとなんて思わない。十字架を背から下ろすことなく、この先の道も歩くだろう。だが、そうだとしても。この八月の不思議な明るさのことだって、自分はきっと忘れはしない。

 一ヶ月一ヶ月が、色を知らぬ榊の中に鮮やかに降り積もっていく。

 絵を描く。先生に「孤独になりなさい」と言われたのは、きっとこの店に初めて通い出した頃。榊は孤独になろうとして、でも、人に見えるものが見えなくても、人に見えないものが見えても、孤独ではないのだ。結局自分は孤独ではないし孤独にはなれないことに気づいて、代わりに自分というものを手に入れた、その時から。

 人に与えられるものの全てをどろどろに溶かして、混ぜて、筆に乗せて、これからもそうやって生きていく。それが色が見えないという能力を与えられた自分の、天命というものなのだと思う。人と出会い続けて、人間を描き続けたその先で、自分は何に触れるだろうか。何を見るのだろうか。

 緩やかに無音の時が過ぎていく。

 ありふれた沈黙を、破ったのは榊のテーブルの上に出したままになっていたスマートフォンだった。バイブする。その振動が伝わって、カップの受け皿の上にあるスプーンがカタカタと音を立てる。先生が目を上げた。榊も瞬きをしてからスマホを手で持ち上げて、画面をつけた。

 フォームにメールが一件入っていた。内容は名前とメールアドレスだけだ。

 榊はコーヒーを一口啜った。さっきは「先生の嘆きを凝縮したものが入っているのではないか」などと考えていたが、それはいつも通りの美味しい味がした。心地の良い苦味。香ばしいような香り。

「なに、どうしたの?」

 先生が早く言いなさいよとばかりに立ち上がりかけていた。榊は少しだけ笑った。確かに笑ったのだが表情筋がほとんど動いていないので、周りからは無表情にしか見えないらしいのだが。単純に不器用な人間なのだ。

「絵の依頼が、入りました」

 今ぁ⁉︎と先生が仰け反り叫ぶ。榊はぐいぐいと酒のようにカップの中を飲み干すと、立ち上がった。「会計お願いしてもいいですか」

 別に依頼人が実際に訪ねてくるまでは何をすることもできないが、あの森に覆われたアトリエの空気の中で迎えたかった。だいぶ減ってきた絵の具の調達もしなければいけないし、キャンバスの枠木も全ての大きさを揃えておきたい。のんびりとコーヒーを啜っている時間などない。

 これから、どんな一ヶ月間になるだろうか。














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群衆と、タランチュラ 蘇芳ぽかり @magatsume

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