フィナーレ



 東京駅、丸の内南口のバロック調ドームから外へと飛び出すと、青い空が視界にぱんと弾けた。僕は辺りを見渡した。まだ待ち合わせの二時より十五分ほど早いから、単なる確認のようなつもりだったが、その姿を見つけて驚いた。駆け寄っていく。昼を過ぎて、明るいが穏やかな青天の下。

「榊さん! こんにちは。早いですね」

 彼は壁にもたれ掛かって、目の前に広がるターミナルを眺めていた。赤煉瓦とクリーム色の壁に、真っ黒な長いカーディガンが映えている。ここだけ切り取ればまるで雑誌の表紙だな、などと思いつつ、僕も榊さんの横に並んだ。何台ものバス、タクシー、車はメリーゴーランドのようにくるくると回り、人々を運ぶ。

「面白いですか? 見ていて」数日に一度の頻度でバイトをしにこの駅まで出てきている僕には、特に真新しいものはない。服屋自体は方向が違うからこのターミナルを通るわけではないが、都会というものにはそこそこ慣れている。まあ榊さんのアトリエはどちらかといえば田舎側だからな、と思ったが、彼は「別に」と答えた。「面白いかと問われると、よくわからない。ただ不思議だとは思う」

「不思議、ですか?」

「ああ。ここから見ていれば、あそこを歩いている者も、今駅に入って行く者も出て行く者も、〈人々〉だ。群衆に過ぎない」

「──だけど」僕は呟いた。何を言わんとしているのかわかった気がした。榊さんは横目で僕を一瞥してから頷いた。

「その人々が、一人一人から構成されている。一人一人がそれぞれに抱えている人生があって、物語を持っている。不思議だ」

 そうですね、と僕は返した。それと同時に、僕にとってはあなたが不思議そのものですよと言っていた。

 どうせ同じような順路でここまで来たに違いない。だから東京駅で待ち合わせる理由は何も無いのだ。しかし同じ電車に乗って来る理由もまた無かった。そこまで考えて、違う、と打ち消す。榊さんが不思議なのではなく、僕らの関係が不思議なのだ。人と人との繋がりが不思議なのだ。

「行きましょうか」

 僕は数歩前に歩いてから、くるりと振り向いた。「確かここから歩いて二十分ぐらいの特設会場でしたよね。時間もあるし、歩きでいいですか?」

 榊さんが硬そうな革のブーツのようなものを履いているのを見て尋ねたが、彼は「構わない」とだけ答えた。そういえば前に富津の漁港に行った時には、この靴で何時間も歩いていた。歩きやすいのか、そういうわけでもないが履き慣れているのか。どちらにせよ、見た目でわかることなど少ない。理由が一つだとも限らない。

 歩き出す。一人で夜道を歩いている時ほど速くはないし、一昨日葉山さんとデパートを歩いた時ほどゆっくりでもない、そんなテンポ。小さいリュックを背負い直した。頬に緩やかな風が当たって通り過ぎてゆく。

 サーカスを観に行く。

 榊さんの行きつけらしいあのカフェで先生に貰ったチケットには、八月二十七日──今日が公演の最終日だと書いてあった。



 巨大な赤いテントに、入り口から吸い込まれて行くように僕らは入った。中は蒸し暑いだろうと勝手に考えていたが、冷房がごうごうと音を立てて風を吹き出し、過ごしやすい室温になっていた。

 スタッフにチケットを見せると、すぐに通してくれた。招待席はあちらになります、と言う。スタジアムのように、真ん中の舞台を取り囲むように段状の席になっているが、その中腹あたりの席だった。二人横に並べないほどの幅の階段を、榊さんに続いて登る。公演開始の三十分以上前なだけあって空いている席も結構見えたが、それでもすごい観客の数だと感じるぐらいには埋まっている。

「招待券、なんですね。すごい」

「先生は妙な伝手ばかり持っている」

「サーカス団に伝手を持ったお客さんが先生に渡して、それを僕らにくれたんでしたっけ」

「そうだ」

 榊さんがついと立ち止まって、階段から横に逸れた。最低限の明かりの中で、顔色はよく見えない。赤い樹脂製の椅子は、年季が入っていそうだったが綺麗に磨かれていた。照明の映っている部分の周りに、細かい傷が円を描くように白く光を反射する。

 先生。彼女もきっと、僕を変えた一人なのだと思う。あの数時間ほどの会話が、僕に色々なことを気づかせた。それを先生に言えば、「あら、適当に楽しくお喋りしただけでしょ」とでも流されるのだろうが。

「あのカフェでも言いましたよね。サーカスって、小さい頃に観たことがあるらしいんですけど、ほとんど覚えてないです」

「そうか」

「ただ、途中でピエロが怖いって言って泣いたらしいんですよね。途中で抜けなきゃいけなくて大変だったんだよっていうのを、よく母さんが笑い話として出します」

「それなら」と榊さんは真顔で目線ををステージの方に遣ったまま呟いた。「ピエロはよく見ておかなければならないな」

 茶化すような言葉でいて断定口調だったので、僕は驚いて「そうですかね」と濁した。

 大音量で流れているBGMはメロディこそ軽快だが、様々な楽器の音が重なり合い、絡み合って重厚だ。細部を掻き消された周りの人々の会話は、僕の耳にはアトリエを囲う森のざわめきのように聞こえる。

「──榊さん」

 丸の内南口で会ってからずっと気負っていた割には、自然な声で話しかけることができた。彼は無言でこちらを向いた。僕は膝の上に置いた状態になっていたカーキのリュックサックから、小さい箱を取り出して見せた。

「これ、渡そうと思って。この夏のお礼みたいなものです。絵の代金とは別に」

 わざわざ箱を開けて中身を見せたのは、そうしなければ彼がそのまま礼を言って受け取るだけでやり取りが終わってしまうと思ったからだ。

 クッションになった台座の上で、色のついた二つの光がきらりと閃く。

 榊さんは静かに箱を受け取って視線を落としていたが、ほう、と呟いた。「ピアスか」

「はい」

 葉山さんに付き合ってもらいつつ散々時間を掛けて選んだ、丸いガラス石のついたピアスだった。あまり重くはないし、金属アレルギーにも対応しているので誰でも付けやすいはずだと彼女は言っていた。

 ただの金属の輪のようなピアスでは駄目だった。ダイヤに似せた透明な宝石のものでも駄目だった。僕は彼に色を与えたかったのだ。それは少しの傲慢と、大きな勇気と、それからきっと純粋な気持ちだ。

 榊さんはやはり首を傾げた。

「これは透明ではないな。白でもないし、黒でもない。色がある」

「見えるんですか。暗いのに」それに、あなたは色を認識できないはずなのに。言外の意味を、聡明な彼はきっと受け取っただろう。どんな穿った解釈も交えない、そのままの意味で。

「いや、ただの消去法だ。仮に明るくともそれ以上のことは見えない。これはどんな色をしている」

 僕は一度息を吸い込んでから、答えた。

「あなたに似合うと思った色です」

 答えになっていない、と言われても仕方なかった。自分で見ることのできない色など身に付けられないと言われることも覚悟していた。だが、画家は何も言わずに指先で台座からピアスを取り上げると、両耳の一番下のホールにさっと付けた。今までいつ見ても空っぽだったシンプルで無機質な穴に、彩りが差された。「どうだ?」と彼は訊かなかった。「似合ってますよ」と僕も言わなかった。ただ胸の辺りが何かで一杯に満たされたように、無性に熱かった。

 ブザーが響き渡り、客席の照明が完全に落とされる。どのくらい客席が埋まったのかを見そびれた。でも最終公演なのだから、ほとんど満席状態に違いなかった。ステージに降り注ぐスポットライト。サーカスのパフォーマンスが、始まる。ファンファーレが鳴り響くのと同時に奇抜な衣装で身を飾った踊り子たちが眼下の舞台に現れた。

「僕の話、聞いてくれますか?」

 榊さんは目を瞬いた。「今度、が来たのか」

「今がその時な気がして」

「それなら勝手に話せばいい」

 はい、と頷く。それぞれにステージを見つめたまま。

「やっぱり、遺影を描いてもらうのはやめようと思います」隣に座った黒服の男は相槌すらも打たない。はたから見れば独り言を呟いているように見えるだろう。だが、僕には榊さんがよく聞いてくれているのがわかっていた。「もちろん絵は描いていただきたいんですけど、それを部屋に見せつけるように飾るのもやめます。ただ大切に仕舞っておく、それだけでいいのかなって。今の僕が存在したっていう証なんです。いつかの僕に対しての」

 ブランコ乗りたちが華麗に飛び回る。まるで無重力だ。地面に引きつける力など、観客の笑顔の前には消え失せる。

 死にたくないです、と僕は言う。

「ずっとさびしかったです。生きる意味が見つからないと言い続けました。自分の周りには誰もいないと思い込みました。何度も影を見ました。それが死や絶望が姿を成した、倒さなければならない、本来誰もが倒すはずのものなのだと思っていました。そして勝手に諦めました。でも」

 でも、違った。

 その影の正体は、実はいつだって自分自身だったんです。

「それに気づいた時、視界が開けました。周りの人が自分を置いていくことが怖くて閉じこもった。でも、一度落ち着いて辺りを見渡してみれば、無償で手を差し伸べてくれる人がいました。生きる意味がわからないと言いながら、今までに僕が築き上げてきた過去だって、決して無意味ではなかった。僕はあなたがいつかに引用したヴィクトール・フランクルの言葉に帰り着きました。生きる意味を探し求めることが、生きる意味であり、生きるということです。僕の中のさびしさも全部、倒そうとしなくていい。ただ僕の中に帰ればいい」

 闇の中にいた人間が見ることのできた光。そう表現するとまるで特別なもののようだが、違う。かくしゃくとしているように見える人間も、柔和で優しい人も、みんな苦しみや闇の中を歩いている。

 幼少期の僕は、自分に負けることが何よりも嫌だった。そう父さんが言っていた。対戦相手として臨んだ、もう一人の自分。負けないで、負けさせない。そんなやり方があればいいのにと思う。何を甘ったれたことを言っているのだかと言われても仕方ないが──本当に死にたかったのか、そうではなかったのか、もうよくわからないのだ。僕は助けて欲しかっただけだったのかもしれない。でも助けを求める、それだけの簡単な言葉を知らなかった。だから醜く形を変えたSOSが、遺影を描いてもらうことだったのかもしれない。

 騎馬隊や豪奢な布を掛けた像がステージを練り歩き、踊り子たちは炎の燃え盛る松明を振りかざす。フラフープをリズムに合わせて回す、奇抜な衣装の女性。高く高く積み上げた椅子の上で極限まで筋肉を張り詰めさせて演技をする男性。吊り下げられた布を体に巻きつけ、空を飛ぶ人々。音楽に合わせて手を叩いた。何千人といるはずの観客は一つの波となっていた。ファンファーレの盛り上がりは最高潮を迎えた──その時、流れていた音楽のリズムが狂い、テンポが遅くなった。暗転。

 不気味なメロディの中、再びスポットライトが灯った。ポーズを決めた奇妙なシルエットが露わになる。ピエロの登場だ。

「よく見ておくといい」

 榊さんが呟く声が聞こえた。僕は頷いた。

 水色と青のタキシード、紫の蝶ネクタイ、白い化粧、真っ赤な鼻と口紅。道化師はお辞儀をすると、奇怪な踊りを始めた。観客席のどこかから小さい子供の泣き声が上がった。昔の僕だと思った。

 不器用なピエロは嫌われ者だ。ジャグリングをしようとしても、バーを落としてしまう。側転をしようとしても無様に背中から倒れてしまうし、パントマイムも上手くできない。他のパフォーマーたちはそれを遠巻きに眺めている。ピエロが近づいて行けば、同じだけ後ろに下がる。誰も近づこうとはしない。

 スポットライトの細い光の中、ひとりぼっちのピエロは再び踊り出す。気づけば息を呑んでいた。その滑稽だと思っていた踊りに、観客はいつの間にか魅せられていた。どこかおどろおどろしかったダンスに、ゆっくり、ゆっくりと勢いが付いていく。くるくるとコマのように回り、軽やかなステップ。もう僕には彼しか目に入らない。ステージの上に──世界の中にいるのは道化師だけ。そして道化師もまた他の存在などどうでもいいに違いなかった。自分に酔いしれているかのようだ。無我夢中で身体を動かす。

 僕ははっと短く息を吐き出した。

 あたかもタランチュラの毒に侵されたかのように、舞台の上で踊り続けること。狂ったふりをして、嘲笑を全身に浴びながら、でもその実すごく自由で。

 やがて踊り子が少しずつピエロの踊りに入り、ブランコ乗りたちもその裏でパフォーマンスを始めた。白いライオンの登場。わっと沸く客席。ピエロはいつしかその輪の中心で楽しそうに踊っている。

「怖くないです」と僕は囁いた。「もう、ピエロなんて怖くないや。当たり前なんですけどね」

「そうか」

 榊さんの低くて深い声が答えた時、暗かったテントの中にぼんやりとした明るさが戻ってきた。周りがぼんやりと見えるようになる。僕と榊さんは一瞬だけ顔を見合わせた。パフォーマンスは再び盛り上がっていく。

 絢爛として弾けるような音楽。交差する空中ブランコ。カラフルな光を駆使したイリュージョン。ステージを囲う六つの円筒から炎が噴き出す。

「お前は、これからどうするんだ」

 突然問いかけられて、えっ?と聞き返した。「どうするっていうのは」

「旅にでも出るつもりか」

 僕は少し笑った。「旅ですか。自分探しの旅とか、まだ見ぬ世界を求めて、とか?」

「さあ。そうかもしれない」

 相変わらず僕らは互いの顔も見ずに話す。風景の見え方は全然違うだろう。完全に別のものが見えているかもしれない。でも同じ方向を見つめて話している。

「それも悪くはない気がしますよ」と言ってみた。

「悪くはないのか」

「はい。もちろん今から全力で大学に通ってみて、今年度で取れるだけの単位を取ってもいい。サークル活動でも始めて仲間を作るのだっていい。でも何もしなくてもいい。留年したっていいです。大学を一度やめるのも無しではない。やりたいことを探すのでもいい、実家に帰ってもいいし、どこかそれこそ遠くの方に行ってもいい。どこかで働き始めたっていい。ずっと、自分にはこれしかないって、選べる選択肢なんてないんだって思ってました。でもそれは違うんです。僕は案外、まだなんだって選べます。これからも選び続けることができます」

 客観的に僕を見た人がいるなら、きっと疑問に思い、そして不憫に思うだろう。どうしてせっかく今までの人生で一生懸命に積み上げてきたものを今更壊そうとするのか。全部台無しにして、一体何がしたいのかと。だが僕もまた思うのだ。今持っているもの全てを仮に自分の手で壊すことになったとしても、変わりたいと切に願う瞬間があるのだと。

「どんな道を選んだっていい。もちろん選んだ結果、今のままの道なりで真っ直ぐに進んだっていい。ただ一つ大切にしたいのは、誰かがそれを望むからとか、そうしなきゃいけないと思うからとかじゃなくて、自分は何がしたいっていうのも考えるようにしたいです。誰に対しても言い訳をしないで、堂々と胸を張って生きてみたい」

 いつの間にかサーカスの喧騒は外にある。僕らはその中にいるはずなのに、不思議と僕らの外にある。

 道化師が手に持ったシルクハットをステッキで叩くと、音もなく白い鳩が飛び出してテント中を飛び回った。美しさを翼で捉えたような羽ばたきに歓声が上がる。それらが遠い出来事のようだった。僕はすっと背もたれに寄りかかって、榊さんの方を見た。「そんな考えじゃ、甘い、ですかね……?」

 彼もこちらをひたと見据えた。冷たさまで感じるほどに鋭い眼光。

「甘く、自分勝手で、時に非常に楽観的で、おこがましいほどに可能性というものを信じている」

「……」

「……と、いうのが、俺たち人間の歩き方ではないのか」

 つと目を見張る。「じゃあ」

「誰が馬鹿にしようが、呆れて貶そうが、自信が持てなかろうが、それでも好きにすればいい。お前の人生だ。……気づいているか。お前は初めてアトリエに来てから一度も、死にたいと明確に口にしていない」

「えっ……そうでしたか」

 僕は一瞬唇を噛み締めてから、ぎゅっと笑顔を作った。泣き笑いのような表情になったのが自分でもわかった。なんだ、僕は初めっから。

「ありがとうございます……」

 膝の上で拳を握りしめて、右隣に向かって小さく頭を下げた時、榊さんが「ところで」と言った。「大学については話していたが、バイトはどうする」

「えっ、ああ」急な話の展開に乗り遅れかける。そう言えば話していなかった。だがどうして榊さんが僕のバイトのことなど気にするのだろう。「えっと、今月一杯でやめます。あそこは僕の一つの居場所だったけれど、それでも自分で見つけた所じゃないから。店長さんにも話してあります」

「あの店に店長などいたのか」興味深そうに彼が呟くのが面白かった。この人は結構世間知らずなところがある。そりゃあお店なんだから責任者がいますよ、とからかうように言ってから、ある事に気づいた。「──えっ!?」

「どうかしたか」

「どうかしましたよ! 榊さん、僕のバイト先知ってたんですか……?」

 彼は涼しい顔だ。「二回三回見かければ顔ぐらい覚える」

「……はああ、そんな記憶力をお持ちだったんですか」

 もはや驚きを通り越してどちらに対してかわからない呆れすら感じつつ、記憶力ではないのかもしれないと思った。何せ榊さんは、人の本質を見て、人のことを描く画家だから。そしてきっと僕には見えないものがたくさん見えている人だから。

 それと同時に疑いのようなものも浮かんだ。八月に入って、つまり絵の依頼をしてからも、僕は頻度を変えずにバイト先には通っていた。なのに榊さんと一度も服屋で出くわすことが無かったのは、偶然だとばかり思っていたのだが、もしかしたら。

「榊さんも、案外僕と同じなんですよね」

 そして他のたくさんの人と同じなんだ。優しさや、弱さや、それからぐしゃぐしゃ過ぎて自分でも言い表せないような感情を持っている。

 彼は片眉を上げた。どういう意味だと問うわけでもないし、そんなわけないだろうと否定するわけでもない。むしろ、「今更か?」という表情か。彼は一度口を引き結んだようだったが、少し間を空けて「右に二つと、左に四つだ」と自分の左耳を指差した。

 空っぽの穴と、その下に一粒輝くピアス。

「俺がこれを初めて開けたのは」

「……ええ」目が合っているようで、合っていない。彼の瞳の中にある色の、あまりの美しさに吸い込まれそうだった。周り中の観客たちの打ち始めた手拍子も、まるで誰かがつまみを捻ってボリュームを落としたかのように消える。それは何色なんですか、と聞きたくなる。悲しみ、寂しさ、後悔、懐かしみ、……愛おしみ?

「初めて開けたのは中学二年生の時だ。左の耳の、今はピアスを付けているところ。その場にあった安全ピンで衝動的に開けた」

 咄嗟に何も言えなかった。この人に中学生時代があったというのが信じられないし、衝動に押されて自分の耳に穴を開ける人には見えないからだ。一人の少年が誰に知られることもなく、胸の内で何かを思い、机の上にあった安全ピンを無造作に掴み取ってぐっと自分の耳に突き刺す。それはすごく痛々しくて寒々しい光景だという気がした。耳たぶだってそんなに柔らかくはない。痛いのに、やり遂げるには力を強めるしかなくて。血が飛んだだろう。ろくに冷やしもしなかっただろうから、腫れたに違いない。開けた後どうしたのだろうか。流血もそのままにピンを刺しておいたのか。

「他の穴も全て中学を卒業する前に開けた。その後は祖母に止められてやめた。衝動が消えたわけではなかったが」そう榊さんは目を細める。「痛みはもう覚えていない」

「……」

「ピアスを付けることよりも、ここに穴を開けることの方が重要だった。あの頃が一番辛かった、な。ちょうど両親が事故に遭って死んだ頃で、それに俺も、自然と卑屈になるような時期で。学校が嫌いだった。特に美術の授業が大嫌いだった。デッサンの光の具合も、それから油絵の色も、俺の描いたものだけが浮いた。それから指示薬を使う化学も苦痛だった。色の変化が、俺にはわからない。別に授業だけではない。馬鹿にされて、からかわれて、憐れまれた。周りにいる人間の皆のことが嫌いだった。情けを掛けて──いや、単純な優しさで話しかけてくる者すら拒んだ。馬鹿にした人間を呪った。俺は自分の全色盲を憎んだ」

 だが、と彼は言う。俺もまた間違えたのだと。

「俺の最大の誤りは、伝えることを諦めたことだ。誰にも俺の見ている世界など理解できないと、俺の持つ〈本当〉を、持てる言葉の限りで説明することを放棄した」

「だって」思わず口を挟んだ。「だって榊さんは、ひどいことを言われたんでしょう? なのにわざわざ説明なんて……」

「それでも、話すべきだった。少なくとも適当な口先の嘘で誤魔化すことをするべきではなかったんだ。俺の言葉が、嘘だった」

 ──結局、俺にもそういう時代があったということだ。

 話を締め括った榊さんの目の焦点が僕の目の上に戻ってきた。彼だけに見える過去を通り抜けて。ややあって、彼は少しだけはにかんだように微笑んだ。

「今の色々なことを考えて生きた自分がいたという証を、どこかに残しておきたいというその感情は、解せる気がする」

「……っ」

「解せる気がするんだ」

 それは少しだけ硬くて、なのに角が取れて底光りするような悪くない表情だった。なんて不器用に笑う人だろうと、思った。見つめていると、彼は視線を逸らして咳払いをした。

「次、アトリエには三十一日に来い」

「っ……」少し考えて、腑に落ちた。「描いてくださるんですね」

 そうだ、と彼が言うのを聞いて、僕は右隣に向かって深々と頭を下げる。「よろしくお願いします。今の僕の見えている部分も、内部のぐしゃぐしゃした部分も、全部描いてください」

「言われなくてもわかっている」

 サーカスはいつの間にかフィナーレを迎えている。ライオンが火の輪を潜り、ピエロは球に乗ったままぐるりと客席の前列ギリギリまでを回りながら拍手を煽る。

 思い出したように僕はぱん、ぱんとまた手拍子を打つ。榊さんもやがて手を叩き出す。

 彼の言葉が──こんなにも真っ直ぐに飛び込んで来るのは、そこにあまりにも血が通っているからだ。言葉によってきっと幾度となく傷つけられてきただろう。それでも彼は人間から離れない。どんな肩書きもその本質を言い表しはしない。態度や行動が無機質に見えてもロボットではないし、全てを見透かして達観しているように見えても神ではない。……それでも、あなたは偉大だ。

 大海のように果てしなく広がるように思える群衆の中で、ただ一人しかいない榊禄介さんという人に出会うことができて、良かった。

 何千人という人が手を叩く音は、まるで土砂降りのようだ。手のひらの痛みなんてどうでもいい。惜しみない拍手を誰にともなく送り続けた。──僕も。目立たなくても、誰が褒め称えてくれるわけじゃなくても、それでも一途にひたむきに生き続けていける人になりたい。いつか差す光を求めて。賞賛など求めない、ただ胸を打つ本当の言葉が欲しい。いつか誰かの光になれるように。


     ❇︎


 アトリエに行かない三日間は、暇だった。もともと夏休みとはこんなに暇だったのかと気づいて、驚いた。僕は五月頃からの四ヶ月という時間を、全て暇だとも思わずに消費したのだった。

 それって結構やばい、と僕は笑う。

 最後の“BLACK TAO”でのバイトは、本当にいつも通りに終わった。他の店員は僕が辞めるのを知っているのか知らないのかわからなかったが、やはり誰にも必要以上の言葉を掛けられることはなかった。僕も敢えて何か言うことはしなかったが、帰り際にいつもよりはっきりと「お疲れ様です」と声を出して礼をした。この間話しかけたあの店員の彼は、今日は店にいなかった。

 在庫の確認や服の出し入れをしていた時、やっぱり僕はこの仕事が好きだったという念が突然込み上げて、少し困った。黒という色に囲まれた穏やかな時間。手の中でさらさらと溢れたり、光沢があって硬かったり、様々な布の感触。好きだった。すごくここが居心地が良かった。でもだからこそ──この仕事は辞めるんだとも思った。

 聖也くんにはちゃんと報告しなくてはいけない。事後報告にはなってしまうが、彼は責めたりしないだろう。それと結局、八月に入ってから今日まで、服屋の客としての榊さんには会わなかったことになる。当然といえば当然か。彼は今絵を描いている真っ最中なのだから。

 話は変わるが、葉山さんには連絡を取った。サーカスから帰ってきた後で、散々悩んだ末「一緒に選んで貰ったピアス、喜んでもらえたみたいでした。その節はありがとう。お礼に今度昼ごはんでもどうですか。あといつかバンド仲間という人たちにも会ってみたいです」と短くはないDMを送ったのだ。何故だか書くのも送信ボタンを押すのも、かなり勇気のいる作業だった。

 果たして返事は一時間も経たずに帰ってきた。

[喜んでもらえたなら良かった! お礼とか別にいいのになあ笑。じゃあ来週のバンドとかの都合見て予定合う日あったらまた連絡します!]

 僕ほどに長くはない文章を読みながら首を捻った。来週のバンドの予定を見て、というのはランチに来るのはバンド仲間を連れてということになるのか。つまり僕は邂逅の場をセッティングしたわけか。いや、流石にお礼に昼ごはんと言ったのに他の人は連れてこないか。バンドの無い日に葉山さんが一人で来るのか。だが葉山さんのことだから、よくわからない。そもそも僕も、食事に誘った後にバンド仲間にも会ってみたいという意味のわからない書き方をしている。失敗したかな……というか他の人がいてもいなくてもどっちでもいいし。何を期待しているわけでもないし。

 絵の仕上がりを待つ最終日になった。食料の買い出しをも済ませてしまった事で、完全にやる事の潰えてしまった僕は、またてくてくと歩いて千葉公園まで来た。「徒然なるままに、日暮らし……」歌うように節をつけて口ずさんでみる。公園内は意外にも人がまばらで、子供が全くいなかった。静かだな、と考えて気づく。ここにあったはずの騒がしさが移動した先。もう小学校や中学校は夏休みが終わっているのだ。子供たちはみんな「休みが続けばいいのに」とか「学校嫌だなあ」とか思いながら登校し、夏休み中にあった事や行った場所を級友たちに話しているだろう。そしていつの間にか、夏休みの話題なんてあっという間に消えて、別の何かへと方向を向けるのだろう。

 ボート乗り場のある大きな人工池。今日は出ているボートは水色の一艘だけだ。僕のもたれている日陰の下の欄干からは遠くて、どんな人が乗っているのかは見えなかった。

 これからどうするか。

 大学に行こうか、行かないか。葉山さんたちとつるむのは、きっと楽しいだろう。自分から関わろうとすれば、誰かと仲良くなることもできるだろう。やりたいことがあるなら勉強だって苦では無いだろう。そして、道に迷ったとしても、僕には居場所がちゃんとある。熱海に帰れば父さんも母さんも、尚もいる。帰らなくたってそこにいる。

 これからどうするか? 案外そんなの成り行き任せでいいか──そんな風に思えた。やりたいようにやってみよう。とりあえずは次のバイト先だけ決めなきゃな。

 池の水面は、思ったよりも澄んでいた。泥に溶け込んだような色をした魚が、すぐ近くを泳いでいくのが見えた。水の抵抗など全く感じていないと言うようにその動きは滑らかだ。水の中で鱗を光らせる事もなく、静かにまたどこかへ消えていく。

 詩が書きたいと、不意に強く願った。

 書ける。今なら。書ける。そうじゃなくて、書けなくても書きたい。今だから。上手い言葉を探すとか思いつくとかする前に、自分自身の持つの言葉を思いのままに。渇いた喉に水を求めるように、僕は猛烈に望んでいた。僕は深く息を吸い込んだ。

 その時、瞬きを一度するほどの刹那、風が強く吹いた。

 遠くから吹いた風は留められたボートを揺らし、浮かんだ鴨たちを揺らし、松の枝や葉の間をいたずらに通って、広い池の表面を白く撫で、そして僕の髪をなびかせて行った。目を見開いて、わっと声を上げた。熱い空気の中で妙に頬がひんやりとしていた。

 水面に落ちた葉は虫食いだらけで、葉先のほうが茶色く変色して枯れていた。空を見上げた。入道雲がどっしりと遠くに並ぶ中、真上にあるのは薄くて引っ掻いたような筋状の雲だった。

 秋が来るのだ。さっきの風は、挨拶。今すぐではなくても、まだこんなに暑くても、次の季節は確かに近づいてきているのだ。

 僕は池に背を向ける。


    ❇︎


 白い白い、朝だった。

 和やかな陽の光を一身に浴びて、夢を見ているような気持ちで、僕は門を前にしていた。ここに初めて立ち、インターホンを鳴らしたのは……たった一ヶ月前だ。信じられない。もっとずっと前のような気がする。でもその〈たった一ヶ月〉が、僕を変えたのだ。僕という人間を変え、僕の人生を動かした。そして今日が、最後の日。

 門に入り、胡桃を見上げ、森を抜け、そして建物へ。コマ送りのように一瞬一瞬を速く感じつつアトリエに入ると、床に榊さんが倒れていた。

「……!?」

 慌てて駆け寄りながら、大丈夫ですか!?と叫びそうになって、はっと思い出すものがあった。もうずっと前に思える会話の一つだ。『寝室は?』『そんなものはないから、冬場はこの辺りの床に布団を敷く』夏は何も無しで雑魚寝なのかと驚いたのだ。「なんだ……寝てるだけか」今更のように心臓が早鐘を打っていたのを意識した。僕ははあっと息をついた。人騒がせな人だ。

 空っぽの二台のイーゼルの前で、画家は、穏やかな表情をこちらに向けて眠っていた。微かな規則正しい寝息。床に投げ出された手の指先に、白い絵の具がこびり付いていた。こんな黒いジャケットなんて着てたら寝ずらいだろうに……などと思いながら、僕は荷物を壁に持たせかけて、しゃがみ込んだ。イーゼルの脚の一本の下に、一センチにも満たない小さな蜘蛛がいた。子供の頃からの習性で咄嗟に「くーちゃんだ」と頭の中で考えて笑ってしまった。手を近づけると、蜘蛛はぴんぴんと跳ねて隅の方へ消えて行った。

 そう言えば「くーちゃん」と「くうちゃん」ってよく似ている。

 だからどうということもないけれど。

 至る所に散らばった絵の具のチューブと、机の上に散乱した色んな種類の筆、巻いたキャンバスやら枠木やらが適当に放り込まれた木箱。秩序の無さが独特の秩序を生み出すこの部屋で、僕は今日までを過ごした。「過ごした」というだけの言い方では、あまりに味気なくて、時間の経ち方が速いように思えるけれど。

 榊さんの隣に寝転がった。木目調の床は冷たくて心地が良かった。机もテーブルも、椅子代わりにされている木箱も、高くそびえ立っているように見えた。風景なんて見方を変えればいくらでも変わる。仰向けになれば、とくとくという自分の鼓動がよく聞こえた。窓の外を見れば変わらず森が広がっていた。

 もし、誰も息をしていなかったなら、この世界は。

 僕は目を閉じる。


 本当に眠るつもりは無かったが、うたた寝をしていたらしい。真っ白な眠りだった。夢は見なかった、と思う。

 目を開いた僕は「起きたか」と問いかけられて、声のした方に顔を向けた。机の前の椅子にいつも通りに榊さんが腰掛けているのだった。下から見上げている状態なので、脚ばかり長く見えた。「はい、起きました」僕は慌てて起き上がって目を擦った。「少し寝ちゃってました」

「見ればわかる」

「でしょうね」

「絵は完成した」

「見ればわかります」

「だろうな」

 イーゼルに置かれたものは巨大で、嫌でも目に入る。百号サイズのキャンバス。そこに灰色の光沢のある布が被せられていた。さっきまでは無かったから、榊さんが目覚めてから僕が起きるまでの間に、どこかからこの絵を取ってきて、ここにこうやって置いたのだろう。想像してみる。意外と絵を見せる時の演出にこだわる榊さんの姿だった。

「好きにしてくれていい」

 それだけ言うと、榊さんは興味を失ったようにテーブルの上に頬杖を突いた。いつもと違うのは、彼が葉のデッサンを始めないことだ。手持ち無沙汰そうに、テーブルの一点を眺めていた。

「好きにっていうのは……じゃあ、見ても?」

「ああ。それはもうお前の絵だ」

 スッと息を吸い込んだ。僕はありがとうございますと一度呟いて、静かに布を取り払った。ビロードの上品な艶めきが一瞬だけ視界を埋めて、さらりと川が流れるように落ちて。そして、姿を現したのは。

 僕だった。

 一対の群青色の瞳が、まるで電流を湛えているかのように僕の目に光と熱を伝えた。目を開いた直後のような、ぼんやりとしていながら妙に冴えてはっきりとした表情の僕は、真っ直ぐな視線でこちらを見ていた。カラフルな線で縁取られた輪郭。淡い金色の風に煽られて、くるくると渦を巻いた髪がなびく。なびいて、そして先の方から周りの空間に溶け込んでいく。黄色やピンク、紫に黄緑。たくさんの色を混ぜ合わせながらも、青を一番に感じる色調で描かれた背景は……これは海の底? いや、違う。むしろ空よりも上。これはきっと宇宙の遥か彼方。顔の半分を柔らかく照らし出す光は、月明かりか星明かりか。それとも何か別の光なのか。

 絵から僕は響き、こだまする音を聞いた。それは沈黙という、神聖で涼やかな、そして綺麗な音だった。風が吹いて来るのを感じた。冷たく身を切るような、だが意識がぎゅっと冴え渡るような、そんな空気を感じた。指先を仄かに温めるような優しい熱を、小さいが絶望をも跳ね返す強いエネルギーを感じた。

 絵とは、分解すればただの布と枠木と塗り重ねた絵の具だというのに、どうしてこんなにも人の心を動かすのだろう。なんで僕は今泣きそうなのだろう。

 眠りから──そしてもっと別の何かから覚醒したその瞬間の僕は、毅然として顔を上げる。その周りを、正体のない靄のような飛び散った飛沫のような色が爆ぜ、取り囲んでいる。とても僕の持つ語彙では言い表せない色と、タッチと、輝きと。

 素晴らしい絵だった。それは今の僕なのだ。

 称賛する言葉を並べ立てて、榊さんにぶつけたいという衝動に駆られた。一つ一つの良さを上げて、僕もまた美しい言葉で返してみようか。だが、そんなことをすれば僕が空虚な満足を感じるだけだ。この場の尊さは失われてしまう気がした。安っぽいものに変わってしまう気がした。周りを飾るだけの言葉など不要なのだ。何も言い表せはしない。それを教えてくれたのは、今僕が自分の絵と相対しているのを横で見ているこの人だ。

 だから僕は、榊さんの方を向いてただ微笑んだ。

「ありがとう、ございます」

 榊さんは軽く驚いたらしく一瞬だけ大きく目を開いたが、ふいと顔を逸らすと、聞き取れないほどの低い声で何やら呟いた。

「なんですか」

「絵を描いた後、よくその解説を求められる。だがお前は要らなそうだな、と」

 僕は笑った。そんなオプションがあったとは。せがまれて解説を喋りつつ、榊さんは不本意だっただろう。榊さんが絵に描いた本質は繊細で、具体的な言葉に落とそうとすれば細部は欠けてしまう。そして何より、彼は他の誰でもない、自分の言葉を信用していないのだと思う。

 僕は頷いた。

「そうですね。そんなものが無くてもよくわかります。それに、教えられるんじゃなくて自分で見つけなきゃいけないんだと思いますし」言ってから、少し考えて、「でも」と彼の方を見た。「じゃあ題名だけ付けてもらえますか? この絵に」

 予想外だったのか、榊さんは眉を顰めた。「構わないが……」その後に省略された文言を、僕はわかった。あらかじめ予想していたとでも言えるかもしれない。よくわかったその上で、彼に向かってもう一度頷いてみせた。榊さん。

「言葉は、嘘をつきませんよ」

「…………」

「嘘をつくのは人間です。あなたの言葉が嘘なのかそうじゃないのかなんて僕は知らない。でも、あなたの言葉ならどんなものでも聞いてみたいって思うんですよ」そこまで言ってから、すみませんと謝った。「それが言いたかっただけなので、題名は別に大丈夫です」

「…………」

「この一ヶ月間、あなたが僕を見ていたように、僕だってあなたを見ていたんです」

 どうだ、というつもりで榊さんの方にきっと顔を向けた。彼は無表情だったが、いつもよりこちらを見る目が若干細くなっていた。俗に言うジト目とのようだ。そのまま溜息ともつかない息を吐くのを見て、自分がやらかしたらしいと悟る。生意気だと呆れられたか。まあいいや、と流してしまうことにする。

 すみません、ちょっと格好つけて変なこと言いました。笑みを作った時。

「……泥めること」

「え?」

「題名。〈泥めること〉で、どうだ」

 はっと空気を呑み込んだ。泥む。感じたことを伝える媒体はこの世界に無数にある。彼が絵を描く人間なら、僕は詩作をする人間だ。数にすれば人よりもたくさんの言葉に触れてきたという自負はある。だから、その言葉を僕はもちろん知っている。泥むこと。一つのことに心がこだわること。進むのが捗らずにいること。馴れ親しむこと。悩み苦しむこと。ひたむきな思いを寄せること。泥める──つまりそれらが出来るのだということ。

 僕は泥みながら生きていく。

 病める時も、健やかなる時も。

「すごくいいと思います。すごく、素敵です」

「それならば良かった」

「あ、榊さん」背負ってきたリュックサックをごそごそと探って、二つの封筒を取り出した。片方は茶封筒だ。「これ、今回の代金の五万円です。お確かめください」

 彼は受け取ると無言で軽く中を一瞥し、頷いた。「確かに受け取った。ところで、絵はどうする。今日持って帰るか」

「ええっと他に……?」

「住所を教えて貰えれば郵送にするし、別に車で送り届けてもいい」

 さっきも思ったが、妙なオプションだらけだ。絵の引き渡し後のアフターサービスが充実している。きっと最大限に頼む人もいるのだろうなと思う。今までこの人は何人の絵を描いてきただろう。これから先何人の絵を描くだろう。今というこの一点……僕ですら、彼の通過点だ。

 そして、彼もまた僕の通過点なのだ。

「いえ大丈夫です。自分で持ち帰りますから。まあ、さすがにこれ持って電車に乗るのは迷惑だと思うので、担いで帰ることにします。二時間も歩けば着くんじゃないかな」僕は言いながら、ははっと笑った。「十字架を担いで歩いた伊達政宗みたいですね」

「死装束ではないがな」榊さんが真顔で冗談に乗るのが、少し可笑しかった。今日の彼は機嫌がいいのか悪いのか測りづらい。

「あとこれも渡したくて」勢いの消えないうちに、僕は右手に持っていたもう一つの白い封筒を差し出した。榊さんはついと受け取って、ひっくり返して裏面を見た。封はしていない。「これは」そう尋ねながら中の紙を出して開こうとするので、僕は慌てて止めた。「それは僕が帰ってから見て下さいっ」

「ほう?」

「流石に目の前で読まれるのは照れ臭いので……。遺書という名のただの詩です。僕の〈ハイリゲンシュタットの遺書〉、ですかね」

「……わかった」

 彼は白い封筒と便箋を、机の上に静かに置いた。そのまま掬い上げるような眼差しでこちらを見上げるので、どうしていいかわからなくなる。落ち着かないというか、胃の座りが悪いというか、そんな感じだ。鋭いだけではない、色素の薄い明るい色をした瞳の中に、僕の影が落ちていた。もう渡すものは全て渡したし、言うこともないよなと自分の中で反芻する。言うべきことも言ったかな。きっと言った。尋ねることももう無い? もう僕はここを出て行くだけ?

「あの、」僕は咳き込むように尋ねた。「僕たちはどうして出会ったんでしょうか」

 言葉を重ねるごとに、沈黙であっても同じ時を共有するごとに、僕の中の榊さんのイメージは形を変えていった。出逢った瞬間というだけなら、それは彼が“BLACK TAO”に来店したのを僕が見た時ということになるだろう。だが、あの時の黒い服を完璧に身にまとい、鉄壁なまでにクールで大人なだけの榊さんは、もう僕の中にはいない。僕の中には色んな彼がいる。だけど、絵を依頼した初めの時点から変わらない評価もある。

 彼と会えたことが、僕の人生にこれ以上に無い幸いであるということだ。

 あなたとの遭逢は偶然でしたか。それとも、世界を超えた誰かの意思による必然でしたか。運命というものですか。僕は。……僕はあなたに貰ってばかりじゃなくて、何かをあげることができたでしょうか。少しでも、あなたの中に言葉を穿てたのかな……。

 榊さんの穏やかな表情は、変わらない。

「出会ったのは全くの偶然だったかもしれない。案外そうではないのかもしれない。どうして」

 僕は後の言葉を引き継ぐ。「どうして人は、理由を一つに決めたがるんだ、ですね」

「そうだ」榊さんは少し感心したような声色で頷いた。「理由が一つとは限らない。そして、あるとも限らない」

「……それなら」

「どうして理由を求めるんだ。出会ったという、その事実があるなら俺は十分だ」

 彼は手を差し伸べた。握手だ、とわかって、僕はおずおずとその手を取った。硬くて平たくて大きい手のひら。

 ぎゅっと目を瞑ってから、開いた。「そっか。そうですよね」

 僕はこの一ヶ月のことを忘れはしないだろう。通過点であったとしても、かけがえの無い八月だった。一度切りの八月だった。他の誰が、榊さんが忘れようとも、僕は覚えている。今の僕の存在を、彼の描いた絵と生きた僕が証明する。八月三十一日──Xデーはやってきた。それでも僕はここにいる。これからも歩いて行く。

「榊さん。本当にお世話になりました」僕はイーゼルから両手で絵を持ち上げる。重いかと思っていたが、意外と重くない。でもやっぱり重い。この重さがわかるのは、自分だけなんだ。「もう来ません。もう絵の対象じゃなくなったからここには来ないし、バイトも辞めたし、あなたと会う機会はありません。でも」

 僕がまた新しい自分になって、新しい客としてここを訪ねたら、その時はよろしくお願いします。

 精一杯の綺麗な微笑みと共に僕は言った。さあ、今度こそ、もう言うことはないから。

 「わかった」と榊さんが頷くのを見て、僕はくるりと背を向けた。アトリエを出て行く。手を振ったり、これ以上の言葉を重ねたりしない。もう振り返りはしない。今のこの気持ちに似た感情を知っている気がした。寂しいような、誇り高いような。いつだろう、いつ……ああ、卒業式の時かな。小学校でも中学校でも高校でも、僕は号泣するクラスメイトたちの横で泣かずにいた。目の表面は常に濡れてはいなかった。だが、自分が薄情でないことは自分が一番よくわかっていた。感動と震えを自分一人のものにするやり方しか知らなかっただけなのだ。

 森を抜ける。少しだけ暑さの和らいだ気がする空気と、空。

 大人になることのさびしさとは、夏が終わって秋を迎える時のさびしさと似ている気がします。ひぐらしが鳴いているのを聞いた時のような、驚くほど冷たい空気に触れた時のような、線香花火の最後の一本が灯火を落とした時のような。そんな感情だという気がします。

 百号の絵を抱え直し、僕は歩き出す。


     ✴︎ ✴︎ ✴︎


 客はいつも突然にやって来て、一ヶ月をここで過ごし、時が来ればどこかへと出て行く。もう二十年近くの間こういう風に画家業を営んできた榊にとって、客とはそういうものだ。

 今月も終わる。些細な足音が森を抜けて、アトリエの前を通り過ぎ、遠ざかってやがて消えていく。それを無意識のうちに耳に神経を集中させて追っていた。止まるな、真っ直ぐに進んでいけ。迷うな。

 そんなことを念じている自分に気づいて、はっとする。榊は自分に対して誤魔化そうとして、意味もなく一息に窓を開いた。

 突如として遮るものを無くして吹き込んだ風に、机の上に積み上げていたデッサンの葉が舞う。あっと思った時には遅い。くるくると回り、ひらひらと飛び、そして雑然とした床の上に不規則に散らばっていく。季節外れの桜吹雪。それをぼんやりと目で追いかけてから、ああと声を上げて微笑んだ。何をしているんだか、と一人でくつくつ笑いながら、ようやく息がつけた気がした。肩の荷が降りたというか。

 僕たちはどうして出会ったんでしょうか。

 ──わからない、そんなことは。俺がなんでも知っていると思うんじゃない。

 榊は屈んで、落ちた紙の葉を拾い始めた。


 緩くなった風が、机上に置かれたままになっていた便箋の片端をゆっくりと持ち上げる。数枚重なったうちの一枚が開いて、光がぱっと、大人の書くものほどに揃ってはいないが几帳面な字に当たる。

 〈赦されること、それを赦すこと〉。

 その連ねられた詩とも文章とも言えない文字列には、そんな題名が付けられている。


  自分が特別だ。

  そんなハシカのような 誰もが触れる 

  種類の錯覚が、私の形を変えていた。

  自分の吐き出す言葉が 人のものと違うと

  驕りを生み、社会を憎ませ、酔いしれた。

    神に出会った。

  私は一人死にそうになっていた。

  馬鹿だろう? 笑ってくれて構わない。

  私は本気だった それは事実なのだし。

  消えたい、消えたい、消えたい。

  何度呟いたことだろう

    だけれど、私のことを救ったものがあった。

  それはそれまで散々 私が軽蔑し、何も知らないと笑って来た

  ひとびとの言葉だった。

  ひとびとの真っ直ぐなだけの言葉は、

  私の獣を打ち砕き 私のひとりよがりな自信を 殺した。

    言の葉が散ります。

    美しく、残酷なほどの強さを持って散ります。

  私は、ひとになった。

    ……神なんていなかった。

  義務と権利。自由と責任。分からないことと分かるということ。

  引き留められた。言葉は 赦されようとする私に

  言葉を愛することを課した。

  その罰が 私を救う。

  身の丈に合った生を 私にあてがうのだ。

  生きてゆく。

  生きてゆく。

  誰が見ていたとしても、誰も見ていなかったとしても。

  歩いてゆく。少しずつでも。

  …………。
















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