振りかざした剣



 酒を飲んだかのような勢いで夜遅くまで話し込み、終電に飛び乗った。アパートで泥のように眠って、「もう朝か」と思いながら目を擦り擦り起きた時には、時計はもう九時を指していた。差し込む光で床に映った僕の影は、天然パーマに寝癖が加わって頭の辺りが爆発していた。何か人工的な音で目覚めた気がする。ああ、なんだ。スマホが鳴っているのか。電話? ぼーっとした頭のままで枕元のスマートフォンを取り上げると、「母さん」と表示されていた。

 え、母さん?

 一瞬、熱海在住という繋がりで尚から僕の話を聞いたのかとビクッとしたが、[もしもーしっ?]と言った声のテンションからするにそれは無さそうだった。まあそもそも母さんと尚は面識こそあるだろうが、あくまで互いに友達の親、息子の高校時代の友達という認識だ。連絡を取り合うわけもない。

「……もしもし?」[なに、あんた寝起き?]「ん。今起きたとこ」[あら珍しい。こんな時間に]「色々あって昨日遅かったから」[ふうん。色々ねえ]

 声だけで母さんがにやにやしているのがわかった。[彼女?]

 僕は自分の影を見ながら髪を手で撫で付けていたが、思わず手を止めて「は?」と声を上げた。酔いが覚める、という言葉が思い浮かんで、強く首を振った。だから酒は飲んでないのだ。

[なに、図星なの]

「いやいやいや、そんなわけないって。違うから」

[ふうん? まあいつか紹介してね]

 母さんは余裕の表情だ。見えないが多分。何か誤解されてしまったようだった。静かなアパートの六畳間。一人で仏頂面になった僕は「それでなに? なんで電話?」と問いかけた。駅の方から電車の走る音が微かに聞こえてきた。

[ああ、別に大したことじゃないんだけど]

「うん」

[あんた、この前来た時にうちにキャップ置いてったでしょ。黒いキャップ、真斗のじゃないの?]

 あっと声を上げた。「うん、僕の。忘れてた」

[やっぱりね。あんたが千葉に帰った次の日ぐらいには気づいてたんだけど、連絡するの後回しになってた。昨日お父さんが被ってたよ]

 母さんは笑っていた。[もらっちゃうぞーって言いながら釣りに被って行ってたから、ちょっと汗臭いかも。洗濯しとくね]

 僕も「ははは」と電話越しに聞こえるように笑った。ひとしきり電話線の上で笑い声が交差した。

[どうする? 取りに来たりする?]ややあって母さんは問いかけてきた。[どうしてもキャップ必要なタイミングとか、まああんまりあるとは思えないけど、大丈夫?]

 首を捻ってから、ううんと答えた。「いいかな、もう」

[もうって……まだ日差し強いけど。熱中症もまだまだ気を付けなきゃって今日天気予報で言ってたけど]

「それはわかってるよ」

 八月だってまだ終わらない。そんなこともわかっている。

[……ふうん?]「あのさ」訝しげな母さんの声と、僕の珍しく明瞭な声が重なった。

[なに?]

「なんで僕の名前、真斗にしたの」

 突然だなあと自分で思いながら、僕は訊ねた。一瞬の沈黙を置いて、母さんが[突然だなあ]と呟いた。だが意外にも、なんで今だの急にどうしただのと、それ以上詮索してくることは無かった。

[お父さんとどうしよっかって話し合ったんだけどね、なんとなくマサトっていう響きがいいなって思ったんだよね。真っ直ぐな感じがするでしょ]

「へえ」真面目の真でも、もちろん不真面目の真でもなかった。強いて言うなら真っ直ぐの真? でも響きで決めたというのならそれは偶然か。

[そ。だから漢字は後付けだよね。トを人って字にしても良かったし、マサを将軍の将にしても良かったし。なんなら雅とかにしちゃっても]

「じゃあなんでこの漢字になったの?」

[いやあ、だって将とか雅とかちょっとカッコ良すぎない?]

 ひど、と閉口する。「息子にカッコ良い漢字はもったいないと?」そういうわけですか。軽くがっくりする僕に、母さんはころころとまた笑った。さっきから楽しそうだ。

[地味でもいいから頑張って欲しかったんだよ。お母さんもお父さんもね]

「適当だな。でも母さんと父さんらしいね」僕はそんなふうに答えて話を締め括った。その後はどうでもいいような近況を母さんは話した。父さんの話が多かった。

 まだ仕事に行かないでずっと家にいるんだよ。子供たちが夏休みで来ないからって、学校の先生って楽だよねえ。

 へえ、じゃあ家で何してるの。

 最近はまた変なのにハマってたよ。プラモデル作り? みたいな?

 なんか童心に返ってる?

 なのかもね。船とか戦車とか作ってたよ。やったらこだわってさ。もちろんまだまだピアノも弾いてるよ。今日なんて朝っぱらからあの簡単な練習曲の……。

 ああ、タランテラ?

 そうそう、それ。ほんっと好きだよねえ。

 電話を切ってから、僕は自分が今だに布団から起き上がったままの体勢であることに気づいて苦笑した。寝巻きにしているTシャツは皺だらけで、表面が少し毛羽だっていた。夏の間中毎日使っているのだし、そんなものかとも思う。こんなに暑くて晴れているから、洗って干してもその日のうちに乾いてしまうのだ。

 ここのベランダは、日がよく当たる。

 いくつかの候補の中から日当たりの良さでこのアパートを選んだのを思い出した。遠い昔のような気がした。でも考えてみればたったの五ヶ月前ぐらいだ。お盆で初帰省をしたのだって、たったの一週間前。信じられないけれど。

 ろくな音感も持っていないくせに、昔から聴いていたピアノの音が頭に響いている。タランテラ、タランテラ。僕は意味もなく歌うように呟いた。何かの呪文みたいだった。似たような言葉が他になかっただろうか。カレンデュラ。似てる。ケ・セラ・セラも少しだけ似ている。似てないか。韻踏んでるの最後の二文字だけだ。

 立ち上がって、思い切り伸びをした。遅めの朝食にでもしようと思った。


     ❇︎

 

 バイトに行ったり、榊さんと沈黙の共有をしたり少し話したり。帰りにスーパーに寄って食料を買ったり、家に帰ってお湯を沸かしたり、レタスを千切って食べたり。日記の一文にもならないような日常のコマの積み重ね。どうでもいいようなことばかりだ。──それでも。

 僕は日付でもない、日々でもない、今日を生きていた。

 吊り下げた照明の明かりを真上から浴びながら、僕はテーブルに頬杖を付いた。夏の夜の蛍光灯は微妙に明るくて微妙に暗い。微妙に騒々しいのに、微妙に静かだ。今も電球がジーッと虫の羽音のような音を出しているのが聞こえていた。

 僕の生きた証なんてどこにも残らない。当たり前だ。少し大きいことを言うのなら、どんなにこの世の歴史というものに名を残したって、いつかは骨ごと宇宙の塵になって消える。地球温暖化だとかAIの暴走だとかを置いておいても、何千年、何万年後にはこの星そのものが滅びる日が来るだろう。僕らはかけら一つ残らない。……いや、そんな膨大な年月を挙げて格好つけたことを考えなくてもいいのだ。僕は今までに何人の人と出会ったことだろう。大衆の中で揺れている一人の人間の存在を、今一体何人が知っていることだろう。

 知られていなくていいんだ、別に。そんなことはさびしくないから。いずれ消えることは怖くないさ。怖くない。

 僕は布巾で拭いた後のテーブルに突っ伏した。頬に僅かに残った水分が当たる感覚があった。

 僕だけが、僕がここにいたことを知って、僕が生きている間中それを覚えている。

『僕が遺影を頼んだのは、遺書を書いているのは、つまり死ぬのは、僕が生きていることには何も意味がないからです。生きているだけの理由がないからです』

『理由。俺が考えるに、お前は本当にそれを知らないのだろうか』

 榊さん、僕はようやくわかった気がします。僕が生きることが、僕が生きたことの証明になる。そんな当たり前のことと、それに気づかないふりをしていた自分を。意味を見つけようともしてこなかったことを。

 ずっと前に、しかし日付にしてしまえばたった数週間前のいつかに、僕はソクラテスの無知の知を語った。知らないことを知っている、それゆえに自分は他者よりも知恵があるということ。僕が多くを知らないことを思い知らせた榊さんが、あまりにも無垢だったからだ。そしてそれに対して彼は「知の無知」という状態もあるのではないかと言った。その通りだ。僕は自分が知っているはずのことすら知らなかった。知らないと思い込んでいた。

 あなたはまるで、初めから全てをわかっていたかのようだ。本当に何という人だろう。そして何という人生を歩んできた人だろう。僕は何においても到底彼には敵わない、その感嘆は変わらない。でも。

 ──でも、彼が案外、遠すぎる場所にいる人ではないことを、僕はもう知っている。

 グッドナイト、自分。消灯をすれば、いつの間にかクローゼットの裏やテーブルの下に蔓延っていた闇がぱちんと突然膨れ上がって部屋を覆う。このアパートの小さい脱衣所や浴室には窓が無いため、電気を消してしまえば一切の灯りもない。ここでは夜は、いつも浴槽の深淵から頭をもたげてゆっくりとアパート全体を侵食していく。

 目を閉じると、蛍光灯の輪っかの形をした光が瞼の裏に浮かび上がった。眠りに落ちる前の思考はいつだって脈絡もない。遠くにいないで、意外と近くにいる。手を全力で伸ばしたならきっと届くのだ。僕と彼を分けたものはなんだっただろう。むしろ分け隔てる概念など元々ないのかもしれない。「まだ手遅れじゃあないのかな」声に出さずに呟いた。父さんがあの日の夜に言っていた。僕が一番負けたくなかったのは僕自身なのだと。忘れていた感情。だからこそ明確に思い出す瞬間を痛感することができる。炭酸水に舌をつけた時のような、びりっとくる感触。相変わらず一度決めたことを貫き通せない、弱い僕だけれど。だからこそ寛容でいられるかもしれない。


 夢を見た。

 薄っぺらなタオルケットに潜り込んだはずの僕は、気が付けば深海にいた。

 正確に言えば、それは一般にイメージする深海とは全く違う場所でありながら、僕はほとんど直感的に「ここは海の底だ」と感じていた。暖かくも寒くもない、無の温度。ただ何もなくて半透明に薄暗い場所を僕は漂っている。体をよじったり手足を動かそうとするたび、周りを満たす空気とも水ともつかないものが軽く抵抗を返した。音のない世界。

 風が吹いたのか、波が来たのか。突然に煽られる。服の裾が重力など感じていなさそうにゆっくり揺れた。なす術もなく僕はひっくり返されて──そこに影がいた。

「……、……」

 あっと叫んだはずの声は、しかし音として出ることはなかった。僕の口からは白い泡が出て、彼方頭上へと浮かんでいった。それを見てようやくここが本当に水中であると知る。

 影もまた、くらげのように揺らめいていた。この夏に何度僕の前に現れたことだろう。すっぽりとフードを被った姿は、他の何よりも黒い。夜の闇よりも、風呂場の深淵よりも、コーヒーカップの底よりも、熱海の家に忘れてきたキャップよりも、バイト先の店にずらりと並んだ服よりも。漆黒。濡羽色。言葉では言い表せない、美しい黒色。これでもあの人は、完全なる黒など存在しないと言うのだろうか。

 不意に影がすっと手を伸ばしてきた。指先で頬を静かに撫でられ、僕は目を閉じた。「僕を同じ場所へ連れて行ってはくれないか」。影にそう頼んだのは、確か、榊さんに心無い言葉をぶつけた日の夜。

 何度かに渡って僕の前に姿を現す影が、だんだんとより輪郭の確然としたものへ変わってきていることには気づいていた。触れられているのを違和感なく感じられるほどに、もう彼とも彼女ともわからないそれは強くなっていた。

 ──今度は、僕のことを連れて行ってくれるの?

 影は顔を見せないまま頷いた。

 ──そう。

 抱きすくめられるように包み込まれた。ぐっと全身を通り抜けた衝撃に一瞬息を詰めたその後、初めて柔らかな熱を感じた。肌寒かったわけでもないのに、それが僕の欲していたものであると気づく。貪るように僕は影に吸い付いた。もっと、もっと。もっと欲しい。

 温もりを、熱を、熱を。捕まえて。僕を支配して。足りない。さびしい、さびしいさびしいさびしい。愛が。温かい。愛、愛、愛、愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛あいあいあいアイアイアイアイ、相、合い、藍、哀、I。

 いつの間にか影は人型を失って一つの塊となっていた。うねり、形を変えて膨れ上がり、僕を丸呑みにしようと口を開くのを、最後に見た。辺りの色の濃さが深まっていく。ちぎれた黒が散ってまた重なり合い、視界は塗り潰される。何も見えなくなっていく。

 構わない。

 ずっと僕は消えたかったんだ。

 ──さよなら、せかい。

 目を閉じる。意識が曖昧に解けていく。嫌なことがあった。良いことがなかった。善く生きることができた? そんなわけはなかった。善く生きるってなんだよ、そんなこと言われたってわからないよ。もっとはっきりとした言葉にしてくれよ。いや、言葉は嘘をつく。色とは表面を覆い隠す紛い物だ。……知ってます。でも案外表面と変わらない本質もあると思うんです。本質と変わらない表面だってあると思うんです。嘘をつかない人はいません。でも誰もが〈真実〉を持っているのではないでしょうか? 〈真実〉はいつも正しいわけじゃない。同じように全ての嘘が悪いものだと僕は思わない。目に見えるものが全て偽りだとは思えません。それは希望や願いに過ぎないのかもしれないけれど。見えないものを大切にしたいと思うけれど、それは難しい時があるから。

 見えるものを、せめて大事にしたいのです。

 ごぽ、と音がして、何かを呟いた僕の口から泡が溢れた。それは束の間、光源など完全に潰えた水の中で不思議に煌めいた後、遥か上へとゆっくり昇り出した。

 僕は目を瞠ってそれを眺めた。声が聞こえた気がした。真斗。父さんと母さんの声。くうちゃん。尚の声。空野くん。先生の声。空野。空野さん。真斗くん。まーくん。過去に聞いた、たくさんの人の声。──。これはこれから先に出会う誰かの声。それから、あの人は、僕を何と呼ぶだろう。

 僕は。

 手に力がこもった。ぐにゅ、と手のひらにさっきよりも強い抵抗を感じる。全力で水を掻く。嫌だ、と思った。

 まだ死にたくない。

 そんなはっきりとした思いがあったかは定かではないけれど。まだ死ななくたっていいんじゃないか、もう少しだけ生きてみてもいいだろうか──一瞬の思案と躊躇と逡巡が、されるがままになっていた僕を目覚めさせた。突き動かした。

 抵抗に抗って身を捩る。幼子のように手足をでたらめにばたばたと動かす。うあ、と喉の辺りから呻き声が出た。みっともないとか、ダサいとか、そんなことを気にしている余裕はなかった。飲み込まれたくない。暗い渦の中に引き摺り込まれたくない。光るあぶくができては上昇していく。真っ黒な水が渦を巻く。闇を祓え、顔を出せ、呼吸をしろ。ここから出るんだ。光のある高い高い方へ。足を強く下に引っ張られた。暗闇の塊が顔面に叩きつけてきて、僕はかぶりとそれを飲み込んだ。咽せそうになる。苦しい。痛い。駄目だ、飲まれる……。

 その時だった。無我夢中で上へと伸ばした右手が何かを掴んだ。はっとする。そっと感覚だけで手繰り寄せる。棒のようなものだった。しっかりとしているのに不思議と軽い。

 それが何であるかを考えている暇などなかった。言葉にならない叫び声を上げながら、両手で握ったそれを、ありったけの力を込めて薙ぐように振るった。凄まじい衝撃が全身を駆け抜ける。歯を食いしばって耐える。くらえ、くらえ──。

 目を開けた僕は、惰性で体が半回転する間に、ばらばらになった布切れのような闇が霧散するのを見た。視界が急激に開けて、もとのぼんやりと明るい水中に僕は浮かんでいた。

 ぼーっとなっていたが、我に返って手元を見た。しっかりと両の手のひらを使って握り締めていたもの──それは剣だった。

「どうして」

 発泡スチロールでできた、おもちゃの剣。父さんが彫って、スプレーで色をつけた。僕が小さい頃に、何度も何度も「修行だ」と高らかに叫んで、この手で振ってきた剣。

「どうしてどうしてどうして……」

 最後にはどこにやってしまったんだろうと思っていた。無くしたという記憶は無かったし、宝物のように大事にしていたものを自分で捨てるとも思えなかった。だけど、まさかこんなところにあったなんて。嘘だ。でも、嘘じゃない。

 熱いものが込み上げてきた。慟哭しそうになる。だが、まだだという声が自分の中から聞こえた。何かの気配を感じたわけでもないのに振り返る。そこに人型を取り戻した影がいた。

 驚かなかった。もう恐怖も湧き上がっては来なかった。フードが取れた影の、顔が見えたからだ。榊さんでは無かった。彼の絵を見て自殺した女性でもなかった。それは──僕の顔をしていた。

 僕は〈僕〉を見つめた。墨のような体は、少しずつ朽ちていっているらしい。ほんの僅かにではあるが煤のような黒い粉が頭や肩のあたりから立ち昇っていた。〈僕〉もまた鏡像のようにこちらを見ていた。戸惑いも旋律も無い。静かで、穏やかな空白。ねえ、この夏の間に君を何度も見たよ。見ただけじゃない、ずっと近くにいた気がする。君は一体何だったんだろう。死の具現? 絶望や恐怖? それともさびしさ? 僕の弱さ?

 闇を振り払えと願った。でも、ううん、わかったんだ。振り払わなくたっていいんだ。僕の中にずっとずっといればいい。この影の正体が、仮に何であったとしても。もう姿を見せる必要なんてない。僕は〈僕〉の存在を認め、受け入れ、もう恐れたりなどしないだろう。憎んだり悲観したりもしない。諦めとも違う。ただの願望のようだが、しかし何故だか確信に近い思いがあった。待っていて。

 ──今、とどめを。

 僕はそっと剣を持ち上げて、〈僕〉に向けた。全て粉々になって消えてしまうその前に。浅く息を吸う。その心臓の方へ、光る刃の先が吸い込まれていく。影もまた逃げなかった。僕の方を見て一つ頷くような仕草をすると、目を伏せた。最後に寂しそうだが満足気に微笑んだように見えたのは、気のせいだったのかもしれない。

 僕は〈僕〉を突き刺した。

 大丈夫だ、と思った。だって僕は知っているじゃないか。あのおもちゃの剣は、当たっても痛くないということを。


     ❇︎


 “BLACK TAO”、東京支店。

 珍しく朝からバイトに出てきた。時間を変更したいという旨の連絡を入れたのは昨日のことだ。ベランダに出て、漠然と夕方の空気に包まれながら電話をかけた。空気は優しいオレンジ色なのに、東の空はもう夜を湛えているのが不思議だった。

 ……昨日、朝起きると涙が頬の上で乾いていた。感傷的な気分に浸って──というわけでもないけれど、夜寝るまで一度もアパートを出なかった。意味のない一日では決してなかったと思う。色々なことを考えることができたから。

 「staff only」と書かれた扉を超えて奥へと進み、客用の試着室と変わらない大きさの更衣室に入った。壁に固定された姿見に、冴えない表情の青年が映り込んだ。にきび跡の目立つ、つるりとしていない頬。撫で付けても撫で付けても立ち上がりくるくると跳ねる髪。そうだよな、パッとしないこれが僕なんだよなと思う。白ワイシャツと黒いスラックスという制服とも言える格好に着替えた僕は、更衣室を出て、すぐ近くにいた常勤の店員を呼び止めた。顔を合わせたことは何度もあるが、ほとんど話したことはない。彼は面倒臭そうに「何」とだけ答えた。こんな少し高い声をしていたんだなと思った。

「すみません、今日って店長さんは来る日ですか」

 これで来ない日だけどなどと言われたら笑ってしまう。今日なんのために来たのだという話だ。いつもの時間だと閉店時間が迫っているせいか店長は忙しそうにしていて、話など出来そうにないからこの時間に出てきたというのに。

「水曜日だし、待ってれば昼までには来ると思うけど。発注票の確認があるし」

 僕の勤務もちょうど十二時ぐらいまでだから、好都合だ。

「ありがとうございます」ほとんど歳など変わらなそうな店員に、頭を下げた。顔を上げてからも彼は訝しげな表情をしていた。僕は見つめ返した。ややあって、店員は「一個だけ聞くけどさ」と声を落とした。

「はい」

「俺はここでもう三年働いてるんだけど、今までここでバイト取ってるの見たことなかったわけ。なのにあんたが入ってきたのって伝手だって聞いたんだけど、ほんと?」

 睨むような目を向ける彼の耳で、無骨な金属のイヤーカフが鈍く輝いた。僕は少し驚いていた。噂にでもなったのだろうか。何にせよ彼ら店員たちから良い評価をされていないのは確実だった。

 でも、普通に考えてみれば当然の話だ。そこそこ高級なブランド店だ。入ってくる店員たちは皆、デザインやら服飾やらについて勉強したり、専門学校に通ったり、それなりの努力を払っているだろう。そこにのこのこと何も知らない人間が入ってきて、誰でもできるような作業をして時給を貰っていたら。

 今僕に敵意を向ける彼の気持ちは、すごく良くわかる。憎しみを持たれることを、理不尽だなどとは思わない。

「本当ですよ」僕は視線を逸らした。「南青山本店に伝手のある従兄弟が、紹介してくれたんです」

 申し訳ないと思っています、とか。あなたたちが僕を嫌だと思うのも理解できます、とか。そんなことは言わなかった。必要以上の言葉など、この場においては更なる摩擦を生むだけだ。僕はこの仕事を与えてくれた聖也くんに迷いなく感謝しているし、明らかに自分を嫌っている人の機嫌を取りたいとも思わない。気持ちがわかると言っても、それは僕が退く理由にはならない。

 ただ一つ、言える事実があるとしたら。

「八月一杯で、僕はここには来なくなります。今日もその事について店長に話そうと思っていて」

「え──」

「だから、今までありがとうございました」

 僕はもう一度頭を下げた。



「榊さん」

 呼びかけると、いつものように窓際の机に向かって座っていた彼は、くるりとこちらを向いて座り直した。はっきりとしたシルエットがその背後からの光に映えていた。

「おう、来たか」僕が立っている入り口側は薄暗いばかりなのに、榊さんは少し眩しそうな顔をしてこちらを見た。ほとんど感情を表に出さない彼の、ちょっとした表情の違いに、このひと夏で随分と気づけるようになったことに気づいた。

 気づくことに気づく、おかしな表現だ。

「来ました」

「少し、楽しそうに見える」

「僕がですか?」問いかけると、榊さんはああと首肯した。僕は少し考えてから「それなら、そうなのかもしれないです」と答えた。

「色々、色んなことを感じて生きてます」

「それはそうだろうな」当たり前だというように彼は顎を引いた。ところで、と言う。「胡桃が大きくなってきているのを見たか」

「いえ、そうなんですか。見てこようかな」

「ああ」

 僕が玄関に出ようとしたところで、榊さんも立ち上がった。足音もなくこちらに歩み寄ってくるのでなんだろうと思っていると、相手もなんだろうという顔になった。「行かないのか」

「え、あ、いえ。行きます」

 ついてくるつもりらしかった。

 高さのほとんどない数段の階段をこつこつと降りて、森の中に出た。何本もの木がざわざわと蠢いた。小道や雑草の生えた地面に落ちた、丸い木漏れ日が揺れていた。今日は風がいつもより強い。榊さんの黒い上着も、長い裾が蝶のように舞っている。午後の穏やかな光の中。

「革靴だな」

 指摘されて、僕は自分の格好を見下ろした。心持ちシックな服装とはいえ、完全なる普段着だ。足だけは黒艶のある革靴を履いているので客観的に見れば違和感があるだろう。「バイト行ってたんです」「午前中から」「午前中から」「珍しいな」「僕もそう思います」短い言葉を投げ合いながら、小道をゆったりと歩く。

 やがて立ち止まって、胡桃の木の一本を見上げた。幹が細いのに、他の木よりも背が高い。高いところにある葉には、どれほどの日光が降り注いでいることだろう。かなり上の方に黄緑の葡萄のような幾つもの青胡桃がついて、枝が撓んでいた。僕ははっと短く息を吐いた。実が成っているのはずっと前から知っていたが、前に見上げた時よりもずっと大きく膨らんでいる。丸みを帯びた形は、手のひらで握るのにちょうど良さそうな大きさだ。

「成長しましたね」僕は呟いた。隣で「そうだろう」と答えた榊さんの横顔は、少しだけ嬉しそうに見えた。胡桃が落ちるまでを見るのが毎年の楽しみだったりするのだろうか。だとすると、少しだけ──もちろんいい意味で子供のようだ。そうだ。彼はいつだって純粋だった。

 胡桃の殻はどうやって割るのだろう。ハンマーを使うのだろうか。それとも胡桃割り機のようなものがあるのか。梅干しの種を昔、歯で噛み割ったことがある。力を掛ける方向と、二つの殻の合わさった面の向きが合った時、かちんと割れた。ああいう感じ?

 青胡桃にちょうど光が当たって、柔らかい若草色に染まっている。深い思考もなく、可愛いなと思った。

「あれは鬼胡桃という種類だ。九月末から十月にかけてで、殻の周りの果実が落ちて、中身が出てくる。花言葉や木言葉というものを知っているか。果実言葉というのもあるようだが」

「花言葉なら知ってます」赤い薔薇が愛だとか、白百合が純潔だとかいう類のものだろう。そもそも園芸に興味がないために知識はないが、花言葉というものの存在は知っている。

 榊さんは頷いた。「色々な植物があるが、調べれば大半のものはすぐに出てくる。胡桃の持つ言葉として有名なものは〈知性〉だな」

「あー、確かにナッツは人の脳みたいな形をしてますよね」

「他にも硬い殻を割るまでに時間を掛けるから〈あなたに夢中〉という恋愛系の言葉もあるが、〈すぐれた能力〉というものもある」

「──」僕はぱっと榊さんの方を見て、それからちょっと目で笑った。彼が胡桃の木を好いている理由がわかった。「あなたは本当に、自分の能力を愛しているんですね」

 彼は真顔だった。「色が見えないことは俺の唯一無二の才能だ。……それに言葉など後付けだ。胡桃は単純に都合がいい。実が落ちれば、食用になる」

 以前榊さんが「黒とは便利な色だ」という趣旨のことを言っていたのを思い出した。

「使い勝手のいいものが、好きなんですか?」何気なしに顔を覗き込んで訊いてみた。大した返事は求めていない。自分の才能も、使えるから好むのですか。そうじゃないくせに──そうやってからかうつもりだった。

 案の定、画家は答えなかった。そのままの表情で、くるりとこちらに顔を向ける。小型の扇風機が首を振るような動作だった。

「冗談ですよ、忘れてください」僕は笑いながらひらひらと手を振って誤魔化した。

 アトリエに再び戻ると、静寂を意識した。風の音も葉の擦れ合う音も聞こえないが、相変わらず木々は窓の外で揺れている。音を消した動画みたいだと思った。もっとも、わざわざミュートにして動画やらテレビやらを観たことはないけれど。

 愛するとか、それまでにかけた時間だとか。愛するとか、その理由だとか。全部に説明のつく因果関係があって、全部が比例や反比例の式で表せたなら。二次関数や三次関数でも、他のどんなに複雑な公式が出て来てもいい。難しい用語だらけの長い長い文章になってもいい。それでもその方が簡単だと思う。

 椅子という名の木箱に腰掛けた。いつもここで何をしていたのだったか……そうだ、意味もなくノートを広げていた。最期の詩を書こうと思って。

 机の横の巨大な僕のキャンバスは、初めてここに来た時に置かれたまま。表面を伏せて、イーゼルに寄りかかっている。まだ僕の観察は終わっていないのだ。まだ時間がある。

「あの──」

 ほとんど無意識に呼びかけてしまって、内心うろたえた。何を言おうとしていたのだったか。

 既に葉のデッサンの作業に戻っていた彼は、無言で顔を上げて僕を見上げた。後ろの机に積まれた紙の葉の山は、まるで焚き火をするために熊手でかき集めたかのようだ。今榊さんが描いている葉には虫食いがたくさんあって、ほとんど葉脈の周りの部分しか残っていなかった。なんとなく魚の骨を連想した。青と紫の奇抜な色をした、透明標本のキーホルダー。

 僕が名前を呼んだのに黙りこくっているので、画家はどうするべきか考えあぐねているような表情になっていた。すみません、と僕は微笑んだ。

「今度、僕の話を聞いてください。話したいことがあります」

「今度か」

「はい。今度でいいんです。自分なりにまとめてから、ちゃんと話したいので」

 我ながら意味不明なことを言っていると思ったが、榊さんは一度瞬きをして頷いた。「わかった。お前が話したい時に話せばいい」勝手にしろ。そのスタンスは出会ったばかりの頃と変わらない。突き放しているようだが、違う。いつでも聞いてやるという裏側にしかない意思を、今僕は受け止めている。

 まとまらない言葉でいいのなら、今だって話せるだろう。言いたいことはもやもやとした形にはなっている。でも、僕の納得のいく言葉を紡ぎたかった。理論整然を求めているわけではなくて──ああ。僕にも〈ハイリゲンシュタットの遺書〉を書くことができるだろうか。



 千葉に帰ってきた頃には、ほどほどに暗くなっていた。ホームから見える空には星がない。雲が流れている部分だけが白っぽく斑に見えていた。

 電車から降りる人も、電車に乗ろうと待つ人も、この時間には多い。それぞれがそれぞれに意思を持って歩いて行く中を僕も出口に向かって進んで行った。

 改札を出て、長いエスカレーターで地上に下っていく。わらわらと広がっていた人々は細い乗り口で自然に列を成す。法則も目配せも何も無いのにいつの間にか並んで、人二人分ほどの幅の段の左側に立っている。まるで誰かが動かして並べているようだなといつも思う。神の見えざる手がここに働いている。

 駅舎の外の小広場にはビニール屋根が立っていた。よく出店でハンドメイドのスカーフやら陶芸品やらがフリーマーケットのように並べられているところだ。今日はアクセサリー店らしい。吊り下げられたオレンジっぽい照明に照らされて、ペンダントやイヤリングが光っていた。

『ああそういえば、二十七日には──』

 榊さんが帰りがけに言ったことを思い出した。二十七日って、明明後日なんだよな。

 思いつくことが無いということも無かった。僕は、何ともなしに「ふうん」と思って通り過ぎた。


     ❇︎


 次の日、僕は十時から部屋を出て、駅のすぐそばにあるデパートに行った。徒歩十五分の距離だが、ここに来たのは随分と久しぶりだ。ウィンドウショッピングに興味はなかったし、豪華で美味しいランチやディナーをたまには食べたいというような気概も持ってはいなかった。質素というよりも簡素な生活でいいのなら、買い物も何もスーパーやコンビニで全て事足りる。……というのと、大学に行っていない身分できらきらとしたデパートなんかに行くのは怖かったのだ。そこで自分と同い年ぐらいの人間を見かけるのはもっと怖かった。今だって怖い──のだけれど。

 まあいいや、もう今更だと思う自分もいる。

 影と相対したことは僕を少し寛容にしたのかもしれなかった。

 そんなことをとうとうと考えていた僕は、エレベーターが四つ並ぶエントランスで立ち止まった。地図とフロアガイドを眺める。ここに来たは良いものの、僕はどこに行けばいいのか。婦人雑貨ではもちろん無いが、紳士用品というのも違う気がした。時計やネクタイのことを指しているのだろう。そもそも紳士……完全なる主観だがイメージが違う。だからといってブランド宝飾というのもおかしい。

 結局、一階「婦人雑貨」売り場の隅の方にある、つまり今立っているすぐそばの店から見て行くことにした。眺めている客の中に男性も一人いたのが僕を安心させた。別に時間は今日一日たくさんあるのだから、端から全て見ていけばいいのだった。

 店、というかブースのようになったそこは、僕が普段縁のないもので一杯だった。ネックレス、ペンダント、ブレスレットや指輪。どれもこれもダイヤに似せた透明な石が付いていて豪奢に光っている。何がいいという価値の判断ができないし、どれもあの人には合わないだろうな、困ったな……そう思うと、それなら自分は一体何を求めているんだ?とわからなくなる。

 店内の照明は眩しいほどに明るい。大理石調の床や壁もそれを反射させて僕に浴びせ掛ける。そもそもここに並ぶアクセサリーのデザインは何となく女性っぽい気がする。だが男性用のアクセサリー店などあるのか。そもそも僕が探しているものに女性向けも男性向けもあるのか。

 まだ数店を回っただけだというのに、時間ばかり過ぎて行く。

 完全に迷子状態で、パニックになりかけていた時、突然「空野くん?」という声がした。大きくはないのに響くソプラノ。

「え?」振り向くと、同じぐらいの歳に見える女性が微笑んでいた。見たことある気がするのに、誰なのか全くわからない。この既視感が正しいのかも不明だ。実際には見たことが無いかもしれない。というか、この人は僕に話しかけたのか。もしかしたら全然別の人に──人差し指で自分を指して首を傾けて見せると、彼女は笑いながらこくこくと頷いた。

「空野くん、ですよね? 空野真斗くんじゃないですか?」

 笑顔を作ってはいるが、声に若干不安げな色が混じっていく。僕が呆気に取られて何も言えずにいると、「えっ、うそ、違いましたか?」とにわかに不安が焦りと狼狽に変わり出すのがわかった。「どうしよう、ごめんなさい」

 その言葉と声とで、あっとひらめくものがあった。この人は。

「もしかして、前に僕がルーズリーフを貸した……?」

 彼女はぱっと笑顔を弾けさせた。その顔を見て、なるほどと思った。

 かろうじて大学に通った最初の数週間のうちに、隣の席になった女性で「ノートを忘れてしまって」と声を掛けてきた人がいた。ひどく慌てていた様子ばかり印象に残っていたが、その講義の後で適当な雑談をしてから別れたのは覚えている。

 目の前でにこにこしている女性を見た。茶色がかった髪は和やかにふわりとカールして、二重幅の大きい瞳はおっとりとした雰囲気だ。顔立ちには華やかさもあるから、アクセサリー店の煌めきにも似合って見える。こんな人だったんだなあと、少し興味深く思う。僕はあの時、「自分の方が余裕がある」という優越感に似たものに浸っていたくせに相手の顔も見ていなかったというわけだ。

「もう一回お礼言っておきたかったし、それにルーズリーフ三枚も返したかったんですけど……あれ以来全然見かけなくて」ずっと探してたんですよ、と名前も知らない彼女はやんわり微笑むが、「だから苗字しか知らなかったんですけど、名前も色んな人に聞いて調べちゃいました」と言うから結構強かだ。

「ルーズリーフ三枚って」僕は思わず声に出していた。

「えっ?」

「借りたからって返しますか、普通」

「あっ、返すっていうのはもちろん私が書いたものを返すんじゃなくて、新品の三枚をお返しするってことです!」

「いや、それはわかってますが……」僕は笑った。変わった人だと思った。でも悪い感じはしなかった。「名前、訊いてもいいですか?」前に話した時にも聞いたのかもしれないけれど、本当の意味で出会えたのは今なのだと思う。

 彼女も嫌な顔一つせず、白い歯を見せた。

「葉山佳奈っていいます。よろしくお願いします」


 数分後、僕らはエレベーターに乗って上へ上へと上がっていた。

「ところで、空野くんは今日はなんでこんなところに来たの?」と問われたのがきっかけだ。僕は「人にあげるものを探しに」と答えた。

「へえ、女の人に?」葉山さんは目を丸くした。

「いや、男だよ。結構年上の」ひらひらと手を振る。

「友達とか?」

「いや、なんて言えばいいのかな……」絵を依頼したことを言えば話が複雑化しそうだ。少し考えて、答えに辿り着く。「恩人、かな。すごくお世話になった……っていうか、八月の終わりまでお世話になる人だよ」

「なにそれ、意味深だね」

「うん。なんだけど、イメージしてるものがなかなか無くてさ」

 こういう感じのが、と僕が説明すると、葉山さんは「それなら上の方がいいかもね」と言った。

「上?」

「そう、八階。〈趣味の広場〉っていって色んな作家さんのハンドメイドの小物雑貨とかが結構あるんだよね。そっちの方が想像してるのがありそう」

「ありがとう、行ってみる」

「……ねえ、私ついて行ってもいいかな。暇なんだ」

 僕は驚いて瞬きをした。「いいの?」

 一階上ってはくるりと数歩回り歩いて、また次の階へのエスカレーターに乗る。螺旋階段を上がるような動きだ。

「葉山さんは、なんで今日ここに?」

「涼むため!」彼女は人差し指をぴんと立てて、短く答えた。「アクセサリー屋さんとか雑貨屋さんとか、百均とかでもだけど、いくらでも眺めてられるよね」

「へえ」知らない世界だと思った。

 初めて上った八階は、他の階とは少し異質な空間だった。薄暗い照明に、ダークグレーの床。作り物の瓦屋根や木製風の立看板は、江戸のイメージだろうか。入り口から入って行くと、中は「刺繍」や「木工芸」、「革細工」などカテゴリごとに小さな部屋のように分かれていることがわかった。暖簾が掛かっていたり、古い赤茶のポストの展示があったり、凝っている。

 デパートの中に、突然江戸の町が現れたみたいだ。

 呟くと、「やっぱり、詩人さんなんだね」と葉山さんが笑った。「ちょっとした言葉遣いとか表現とかが、私とかとは違う気がする」

「そんなことない、普通だよ」

「ううん、謙遜しないでいい。その能力が欲しいなあって思ったの。前にさ、私サークル活動でバンドやってるって話したでしょ? 曲書いたりもしたいわけ。なんだけど、メロディは浮かぶのにどうにも歌詞がダメなんだよね」

 初めて会った時の雑談の内容は、僕の詩と彼女のバンドの話だったのだなと思った。言われてみれば確かにそんな気がした。

 ゆっくりとした歩調で練り歩く。滑らかに話す葉山さんに対して、僕のため口はまだぎこちない。でも居心地が悪いわけではない。不思議だ。多分八階まで上がってくる人は少なくて、周りが静かだから。僕には葉山さんの声がよく聞こえて、葉山さんにも僕の声が聞こえていることがわかるから。

「今度、歌詞を書いてよ。仲間にも会ってみて欲しい。楽しいよ」

「うん、いつか」

 あ、これ綺麗だね。ガラス細工の透明なショーケースの前で、葉山さんがさっとかがみ込んだ。長いスカートを床につかないようにくるりと捌く仕草が、なんというか新鮮だった。

「葉山さんって、普段と焦ってる時で結構雰囲気変わるね」何の気なしに呟くと、彼女は弾かれたように顔を上げた。慌てたように手をひらひらさせる。「えっうそ、そうかな。リョウとかにもよく言われる。あっ、リョウっていうのはバンド仲間で……」

「ほら」僕が笑うと、彼女はごめんと俯いた。

「私の悪いところだね。困るとすぐにどうしようって言っちゃうの。人に変に見られたくないから余裕そうにしてたいのに、だからこそ少し何かが崩れたら、わああってなっちゃう。ノート忘れた時もそう」

 葉山さんはスッと立ち上がった。目が合った。「人に自分がどう見えてるかって気になる?」僕は訊ねた。「葉山さんでも」

 合っていた視線が外される。カラフルなガラス細工の群れは静かに煌めいている。液体が姿を変えた一瞬を切り取ったような、不思議な形の像は深海のような色をしている。

 私でもってなに?と彼女は苦笑した。

「気になるよ。仲間内でもだよ」

「僕もだ」

 人からどう見えているかが怖い。特に知らない人であっても、よく知っている人であればなおさら。嫌われたくないし、役立たずだと思われたくない。ひとりぼっちになりたくない。……でもそれは物理的な〈一人〉ではなくて。安易な同調はさびしい。感情のない戯れもいらない。本当に怖いのは〈一人〉でも〈独り〉でもなくて、自分自身の持つ闇に呑み込まれるような──強いて言うなら、ひとり、なのだ。

 でも。

「でも葉山さんは大丈夫だね」

「えっ? なにが?」

「どうしようって、人に助けを求めることができるなら、きっと大丈夫だ」

 きっとあなたは、暗い暗い場所に落ちて行くことはないだろう。

 僕は誰よりも不器用だった。「どうしよう」「助けて」それがどうしても言えなかった。助けを求めたって誰も助けてはくれない、何もかもどうしようもないと思い込んだ。慢性的な絶望感。そこにはどこか自己陶酔感と驕りがあったのだと思う。

 でも今は違う。

 そうやって言えるのかな。

 出会って関わりのできた人々は、別にたくさんいるわけではない。それでも本当に大事だと思う人がいる。温かさに触れている。フィリア、ストルゲー、エロス、アガペー。いや、この場合は種類なんてどうでもいいのだ。僕のことを思ってくれる人がいること、愛されているということ。それだけでいい。

「空野くん」

 葉山さんが、口元を綻ばせた。その表情は複雑で、全てを読み取ることなど到底できやしない。完全な黒も白も存在しない。人の感情などそんなものなのだと思う。ただその誠実さだけは伝わってきた。

「さっき言った仲間に会ってみてほしいっていうやつ」

「うん」

「あれ、本気だからね、社交辞令なんかじゃなくて。空野くんも本気で考えてね」

 彼女の瞳の中に、様々な色の光が映り込んで輝いていた。彼女の眼の中に、宇宙を見た気がした。美しい時間。まるで神聖な空間。

「うん。興味はあるんだ。だから……」いつか、と答えようとして、僕は一度口をつぐむ。少し考えてから言い直した。

「いつでも」














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