遺書と画家



 Xデーがひっそりと足音を忍ばせながら近づいてくる。

 僕は日にちを食べていく。

 ……ほらまた。いい感じに聞こえるだけの上手い言葉なんて、考えるだけもう無駄だというのに、頭で考えなければもう思いつけないというのに。もうやめてしまえばいいのに、惰性というものだ。またそれと意識して暗くなるだけ。

 何日か経った? それともまだ昨日の今日? もはやそれすらも曖昧で、でもだからやっぱり生産性のあることは何もなく、日数を消費していっているだけなのだという気もした。詩的とか意図的とか、もはや何でもいいとも思う。

 太陽の強い光と熱が、頭の中を白々とさせる昼過ぎ。朦朧としているような状態でいつものようにふらふらと歩くと千葉公園にたどり着いて、それ以上の行く宛てもない僕はボートの池を手すりから眺めた。Tシャツの襟口をぱたぱたさせて息をつく。湿気は肌にまとわりつき、日光は僕を突き刺した。どろどろに溶けて地面に吸い込まれていきそうだ。そうしたら僕でも何かの微生物の養分くらいにはなれるだろうか。コンクリートだから無理か。蒸発して終わりか。

 こんなにも暑いというのに、意外と公園には人がいて、炎天下の中カラフルに塗られたボートに乗る人々が多かった。ひとつ、ふたつ、と。空を映して深緑色のような、灰色のような池に浮かぶパステルカラーの数を数えた。全部で五艘だった。きゃあきゃあと叫んで笑う子供とオールを回す得意げな父親の黄色いボートが目の前を通り過ぎたのを一瞬だけ見て、僕は視線を逸らした。

 池の隅のほうで適当に集まって意思もなさそうにふらふらしているカモたちの方がまだ見がいがあると思った。

 起こされた小さな水流がカモたちを運ぶ。淀んだ水の色に、なんとなく昔国語の授業か何かで読んだ文章を思い出した。水路で溺れるネズミに小石を人々が投げつけて笑うシーンがあった。志賀直哉の小説であるあれは、生き物の寂しさについて書かれたものであったはずだ。生きていることと死んでいること、その間に大した差はないのだと。

 常に誰もがそうであるかどうかは知らない。だが、確かに僕は今日付の問題で「まだかろうじて」生きている状態であって、ほとんど生きていない状態であると思う。

 寂しい、とか、淋しくないとか、やっぱりさびしいとか。

 花占いかよと僕は笑う。魚でもいるのか、どこかで水しぶきがぴしゃりと上がった。老人が一人静かに漕ぐ水色のボートがゆっくりと横切って行った。

『お互い上手くやってるっつーわけね』

 不意に尚の言葉が頭の中に響いた。そんなわけないだろ、見ればわかるだろと僕は僕に言い返す。あいつはきっと、こんな無気力に時間を使ったりしないだろう。無意味に見えても思えても、あいつはその瞬間を楽しいと言って笑うだろう。

 ……例えばだけど。と、少し考えてみる。

 今僕が漠然と池を眺めながら思っているさびしさと、友達やら恋人やらがいないという寂しさは多分違うものだ。子供の頃初めて一人で留守番をした時のような不安感から生じる寂しさとも違うだろう。どちらが重いとか大切だとかいうわけではない。単純に分類が違うのだ。

 汚くなってマスクやらビニール袋やらのゴミが捨てられた池は寂しい。いつの間にか隅の方に追いやられているのに何も感じていなさそうに浮かんだ鳥は寂しい。虫食いだらけになって水面に落ちる名前もないような木の葉は寂しい。ノウゼンカズラのオレンジの花が落ちて伏せり、人知れず靴底で踏み付けにされているのは寂しい。種を残すために鳴きながら、うるさがられるだけの蝉の声は寂しい。

 世の中はサビシサに溢れている。

 だけどなぜだろう。言葉にすれば確実にさびしいようなイメージになるはずなのに、どこかそれとかけ離れたようなものだってある。僕は知らぬ間に遠くまで進んでいる水色のボートを眺める。老人は肩から下全体を使うようにしてオールをゆっくりと動かし、大きく池を周っている。しぶきを一切立てない滑らかな動きは、意外なほど躍動感に満ちていた。楽しんでいるとか、嬉しそうとか、そんなにわかりやすくはない。そんなに目に見えて簡単ではない。でもわかる。消去法というやり方は消極的だがわかりやすい。老人はちっともさびしがってはいないということ。

 僕は池を囲う柵に寄りかかって目を閉じた。もわっとした風が僅かな涼しさを絡めて鼻先を掠めていった。薄く目を開く。

 欲求不満、不幸、幸せ、満ち足りること。

 繋がっていることと繋がっていないこと。

 さびしさを分類してみようかと思った。色んなさびしさがあって、それを生きている間は考えてみようか。何かわかるだろうか。それとも何もわからないということを知るのか。

 さびしさを分類……。

 僕ははっとして目を見開いた。アトリエの森の木と同じだ。水とも同じだ。耳元に蘇るウミネコの声。静かに足元に寄せては返す、暗い波と、その表面を照らし染める赤い空。さびしさには。

「さびしさにも、種類がある」噛み締めるように。

 水面に一直線、白く反射しているように道が見えた気がした。自分の心臓の音が、呼吸が聞こえる。ひらける、開ける、拓ける視界。僕の世界はやっぱりそれでも色で溢れている。残酷なほどに。諦めのような思い。正体のわからない何かに駆り立てられる。

 Xデーは来て僕は消えるけれど、後悔は残したくないんだ。

 関係性に名前などつかない。〈子供〉という括りの中にはもういないのだ。高校時代に尚と何度もしたような、笑って顔を見合わせるだけのなし崩し的な仲直りなどもう通用しない。

 仲直り。そんな幼稚な言葉を使うのはいつ以来だろう。

 僕はくるりと身を翻し、走り出した。許して貰わなくたっていい、許されることだなんて思っていない。二度と会いたくないと言われるのならなんの関係もない人間になろう。元のあるべき場所に戻るだけだ。契約は取り消すしバイトだってやめる。ばったりと出くわす可能性は、僕が消えることで消す。それでもいいから──ただあの人に謝りたい。それが僕の自己満足にすぎなかったとしても。


 緩やかに速度が落ちて、外の景色の流れがだんだんと遅くなっていく。吊り革がシンクロした動きで前に引かれ、後ろに引かれて、そして止まる。

 勢いはどこへやら、各駅停車に揺られて立ち尽くしている間に、僕はすっかり意気消沈していた。

 こんな昼過ぎの中途半端な時間だし、もともとそこまで栄えてはいない駅なので、人の数は少ない。頭の中はぼんやりとしているのに、足だけは問題なく動いた。アトリエに向かって。惰性とか慣性とか、もうそんなものはどうだっていいけれど。

 現象や状態にいちいち名前をつけても、もう意味はないけれど。

 榊さんはそもそも僕に会ってくれるのだろうか。門や扉は既に閉じて鍵をかけられているんじゃないだろうか。対面したくないだけでなく近づきたくもないと思われていたら? いや、むしろもはや僕のことなど何も思っていないか。あの人にとって僕はただの依頼者だ。なんのこだわりもなく、僕が言ったことなど忘れ去られたような態度で出られたらどうしたらいい? 僕は自分のために謝りたいのだというのに。謝ることすら自分本位だというのに?

 行きたくない。

 会いたくない。……会わないことができる。

 案外僕は、榊さんよりも選択肢だけは多いんだなと思った。だが選択肢の多さは未来の長さに比例しない。反比例だってしない。そんなことは誰よりもよく知っている。将来を安定させるためだったはずの〈修行〉は、そしてその結果は、最終的に僕を迷わせたから。

 門はあっさりと開いた。体当たりするような思いで開けようとした僕はそのまま前によろめいて、数歩森の中にとんとんっと入った。アトリエまでのたった十メートルに満たない距離を途方もなく長く感じた。

 この八月に何度も来た、静かなる森。

 ……いや。僕は立ち止まった。案外静かでもない。胡桃、モミジ、ハナミズキ、沈丁花。葉が僅かな風にも揺れて、ざわざわと騒いでいる。名前も知らない雑草も歌を歌う。蝶が舞い、木漏れ日がゆっくりと動き、蝉は幹の上で明るい静寂を守り、地面の日の当たったところではトカゲが長い尻尾を伸ばして日向ぼっこをしている。

 今日が特別に賑やかなわけじゃない。きっと最初から、ずっとここはこうだった。僕には暗くて静かなだけの森に見えていただけ。他のものが見えていなかっただけ。

 目が慣れたのなら、より色々なものが見えるようになるだろう。

 でも、榊さん。僕は止まりそうなスピードで再び歩を進めながら反駁する。初めてこの小径を通ってから、今日でちょうど三週間だ。もう三週間になる。目が慣れるまで待つのでは遅すぎる。何かが見える前に、僕は飽きてしまう。遅すぎたんだ、もう。

 わざと軽く足音を立てるようにして、アトリエのいつもの部屋に入った。目を細める。暗順応するのに少し時間がかかった。机を向いた、堂々たる真っ黒な後ろ姿。声を掛けなければ。でもその勇気が。気づいてこちらを向いてくれないだろうか。駄目か。自分から行け。何のためにここに来た。

「さ、さかきさん……」

 自分でも情けないほど震えた声が出た。蚊の鳴くような、という表現がしっくりくるなと、どこか夢うつつで考えた。恐怖と緊迫で凍った僕のことを、俯瞰して見つめているもう一人の僕がいるようだった。

 榊さんは振り向かない。振り向け、振り向け、──いや振り向かないでくれ。鋭い色を宿した目に射すくめられたのなら、この場にぼろぼろに砕け散ってしまいそうだ。

 言葉を紡ごう。彼に何も言わせないため、自分勝手で臆病な僕のために。

 ──時間よ止まれ。

「ぼくは……。すみません、どうしても謝りたくて、今日は来ました」

 ひんやりと澄み切って冷え切った空気。張り詰めたような沈黙。心の中で今にも叫び出しそうな慟哭。僕の弱さとエゴイズム。

「あなたに見えている世界が、僕にはわからないです。でも、わからないと決めつけて、努力もしなかった。想像しようともしなかった、僕が全部悪いんです」

 謝るのだって自分のため。

「顔も見たくないなら、そう言って下さい。絵の依頼だって取り下げます。もちろん代金は今ここで払います。僕のことは忘れてくれて結構です。僕だってあなたのことを忘れますから……っ」

 自分のため、自分のため。それでいいから。

 永遠に感じられる短時間。窓の外を蝶が流れていく。優雅で呑気な黒い蝶々。飛び散る鱗粉が木漏れ日の中に光って見えるのではないかと思うほどゆっくりと、ゆっくりと羽を瞬かせて。蝶道。

 ……なんて、嘘だ。自分のためなんかじゃない。もちろん榊さんのためでもない。理由は誰かのためなんかではないのだ。誰かのためを理由として振りかざすほどに強くはなくて。だから嘘だ。僕は。……榊さんと過ごしたこの夏を忘れたくない。それと同じくらい、忘れてほしくもない。

 顔を上げた。真正面から彼の背を見つめた。

 バイトで先輩たちに対して適当に頭を下げて、道を歩くときには俯き、ぶつかりそうになったらまた謝って。謝って、謝って、謝って。いつの間にか頭を下げることが癖になっていた。だが一体そのうちの何回、僕は心の底から謝ったろう。慢性的に下を向いていた僕は、本当に頭を下げることをしてこなかった。

 息を吐き出さなければ吸い込むこともできないのと同じだ。

 久しぶりにぴんと伸びた背筋。僕は深く一礼する。

「ごめんなさい。……やっぱり、八月が終わるまでここにいさせて下さい」

 壁掛け時計の秒針が見えない軌跡を描く。バネのように広げたなら、何重に輪っかが重なっているだろうか。

 時間とは時に無限だ。

 不意に、声は頭上に落とされる。

「今日は」

 低くて深い声だ。でも冷たさは感じない。僕はすっと体勢を戻した。榊さんはこちらを見ていた。目と目が合う。また無意識のうちに逸らしそうになって、それじゃだめなんだと意志の力で視線を固定する。火花でもなんでも散ればいい。睨みつけているように見えたって構わない。永遠の一瞬。あくまで一切の表情が顔の上にないが、それでも榊さんが少し戸惑っているのを何故だか僕は感じた。どうして、彼が戸惑うのか。どうして、僕は彼が戸惑っているのを感じ取れたのか。それとも完全なる気のせい?

「今日は、バイトは無い日だったよな」

「はい……」

 今日は木曜日だから、確かに無いけれど。富津の漁港に行ったのを思い出した。波のさざめきも、ウミネコの啼く声も、ずっと耳の奥に残っている。あの日は榊さんのこんな振りから始まった一日だった。

「どこかに行くんですか」

 榊さんは机の方に向き直ったかと思うと黒い姿がさっと縦に伸びた。立ち上がったのだ。いつの間にか彼の手に車のキーがあった。チェーンを掴む指の影は、少しごつごつとして長い。

「連れて行きたいところがある。そう遠くはない」



 ようやく謝れた、と安堵した次の拍子には車の中で揺られている。奇妙に思えたが、しかし僕と榊さんの関係など最初から奇妙だ。これまで重ねてきた日々だって凡々としたものではなかっただろう。

 二度目の乗車になるロールスロイスは、籠もったシートの革の匂いをやけに強く感じた。むせ返るようなもわっとした空気を吸い込んで、僕は今更のように気づく。前回乗った時にはなんて涼しくて快適なんだと感嘆していたが、あれは榊さんが事前にエンジンを掛けてクーラーを利かせていたからだったのだろう。何も知らない僕は、高級車だからそれが当然なのかと思っていた。

 フロントガラス一杯に見える空は、今日も広い。水分を多く含んでいそうな雲が、日光を真っ白に反射してもくもくと立ち上っている。まだまだ夏は終わらないのか。……車は進んでいく。

 少し腕を広げたらぶつかる距離にいるのに、僕らは無言だった。車内を沈黙が支配していた。だが不思議と気詰まりではなかった。僕は横目で榊さんの横顔を盗み見る。堀の深い顔、耳たぶに並ぶ数個のピアスホール。意外と明るい茶色をした瞳が、同じ目の前の景色を見つめている。

 苦しくない静寂。

 向き合え、とか目を見て話せ、とか人は言うけれど、真向かいから見つめ合えば空気は重くなる。案外ドライブとは良いのかもしれない。お互い顔を見合うことはしないが、同じものを見ている安心感があって、物理的に向かい合っている時よりも心が通じている気がした。……というのは、少し気恥ずかしい表現だけれど。

 十分ほど走っただろうか。既に通っている道は見覚えのないものになっていた。片側二車線の大通り。知らない店、知らないアパート。千葉について僕は本当に何も知らない。今日は高速に乗るつもりはないらしく、そとの景色はゆったりと流れた。赤信号で車が止まる。後ろから来た自転車が追い抜かして行き、横断歩道を数人の歩行者が黙々と歩いた。知らない街で、当たり前だが知らない人がそれぞれに生きている。僕の知らない一生を生きていく。詩になりそうだと呟くように思った。

「どこに、行くんですか」今度は答えてくれるだろう、という確信じみたものを持って僕は訊ねた。

 榊さんは横目で一度僕を見て、つと目を逸らしてから「先生のところだ」と答えた。

「先生?」

「俺がそう呼んでいるだけだが、言わば人生の先生だな。とはいえ正体はただのBL好きの笑い声がすごい占い師兼カフェ店員だ」

「めっちゃキャラ濃いじゃないですか……」

 思わずシートの上でのけぞるように声を上げて、榊さんがそんな僕を見遣って瞬きをした、その時だった。

 ぱらぱらぱら──っと軽いが重力を感じさせるような音が車内に響いた。はっとなって目を見開く。

 雨らしかった。あまりに突然の。雫が小気味よく屋根を打ち、窓ガラスを伝って模様を作った。進んでいく車に、前から雨粒がぶつかってくるかのように見えた。雨……こんなに晴れているのに?

 明るい、燦々とした夏の光の中を、嘘のようにきらきらと輝く粒が行く筋も走る。透明の中を駆け巡るプリズム。まるで絵みたいだ。美しい詩のようだ。

「狐の嫁入り、ですか」天気雨、天泣、狐の嫁入り。この現象にはたくさんの名前がある。地上に到達する前に雲が霧散して消えてしまったから、こんなふうに明るくていい天気なのに雨が降る。そして、一瞬で止んでしまう。今だって、既に雨は止んで何もなかったかのように太陽が輝いている。証拠を残すのはまだらに色が変わった道路だけ。狐に摘まれたような気分だ。

「……美しいな」

 榊さんが外を見上げて呟いた。珍しくぼそりとした曖昧な口調だし、完全に独り言だったのだろう。聞き取ることができたのはほんの偶然だ。僕は再び目を見張っていた。

 この人も、何かを美しいと思うことがあるんだ。人として当然なのかもしれないけれど。芸術家なのだから当たり前なのかもしれないけれど、なんだか。

「榊さん」

 思わずほとんど無意識のうちに名前を呼ぶと、彼は大義そうに流し目を寄越した。「なんだ」

 いえ何でも、と言いかけてやめた。「榊さんにとって美しいものってなんですか」

 榊さんは一度前を向いて十字路を右折してから、もう一度こちらを横目で見た。僕は黙って彼を見返した。細かな水滴の残ったガラスの向こうで景色が移り変わる。車線の数が減って、民家の並ぶ通りになった。

 ややあって、黒服の男は口を開いた。

「海は美しい。穏やかに凪いでいる時も、潮が満ちて荒れている時も、その恐ろしさすら美しいと思う。あとは木漏れ日。葉の間を通って丸くなった光が、一つ一つ違う明るさを持っている。森の中に不思議と響く鳥の声も綺麗だ」

「自然が好きなんですね」

「そうなのかもしれない。だが人間が作ったものにも美しいものはある。音楽はいい。楽器の演奏も、人の歌声も好きだ。それから純粋な感情。怒り、悲しみ、喜び。欲望や願望、祈り、誰かや何かに対するひたむきな愛情。……あと、完全な黒や白は美しい。だがそんなものは存在しないとも思う」

「存在しない、ですか」

「黒に限りなく近い色、白に限りなく近い色はあるんだろうな。だが、目に見えているのはそのものではない気がする。完全にどちらかに染まることなどきっとできないし、それが正しいことなのだと」

 僕は目を伏せた。「あなたは揺るぎない完全な黒なんだと思っていました」

 榊さんはふっと吐息を漏らした。「揺るぎない完全な黒などありえない」

 曲がり角を曲がる、また真っ直ぐに進む。

 饒舌の後の突如とした静寂。その中で僕は考えていた。──考えていたというより思っていた、か。もっとずっと漠然として空想に近い、形のないような思案だった。色の見えないこの人は何を美しいと感じて生きているのかとずっと疑問だった。だが、色がなくても見えるものはきっとある。そして単純で表面的な着色に誤魔化されない榊さんの目は、きっと誰よりも明度を見ている。光というものを、見つめている。

 足元から振動を伝えて、駐車場らしき場所に乗り上げた。さっと辺りを見れば、ありふれた住宅街だった。バックしていた車がキュッと止まる。「ここだ」「はい」返事をしつつ、ここはどこだというのだろうと考える。さっき雫を垂れたことなどまるっきり忘れ去ったような空が、穴のようにぽっかりと開いて僕らを見下ろしている。眩しいなと思って下を向くと、空いた地面の上に薄茶の猫が毛繕いをしているのが目に入った。ぎらつく太陽からの熱を一杯に吸ったコンクリートの上なんて暑いだろうに。琥珀色の目を大きく開いてこちらを見ているので小さく手招きをしてみたが、すぐにそっぽを向いてしまった。まあそうだよな、と苦笑いする。

 車にロックを掛けた榊さんは、先にすたすたと歩き出していた。僕は軽く小走りになって後をついていった。少し動いただけで汗が滲む。鼻の頭を手の甲で拭うと、ぬるっとした感触があった。

「ベートーヴェンは」

 真正面を向いたまま、画家が呟く。ようやく横に並んだ僕は首を傾げた。「榊さん、ベートーヴェン好きなんですか。前も何か話をしましたよね」いつだったか……ああ、確か〈運命〉について話をしたのだ。運命は扉を叩くのかという話だ。

 榊さんはどうでも良さそうに首肯する。「それなりに好きだな。特にピアノソナタの『熱情』が」

 ネツジョウ、という言葉を一瞬漢字に変換できなかった。やっとそれが激しい感情を意味する名詞であることに思い至って、あなたの対極じゃないですかと突っ込みたくなった。

 今日も榊さんはひどく無機質に歩いて行く。足音の一切しない、ただ足を動かしているだけだというような一定な歩き方。暑さなんて一切感じていなさそうだ。黒い服に包まれた痩身が、飄々と風を切る。

「彼の書いた、ハイリゲンシュタットの遺書を知っているか」

「知らないです」僕は首を振る。「ハイリゲン……?」

「ハイリゲンシュタット。これはまあただの地名だが。……耳の聞こえなくなったベートーヴェンは、散々苦しんだ末に死のうと思い立って遺書を書く」

「遺書、ですか」僕はびくっとして榊さんのことを見た。彼の目はいつの間にか僕を見ていた。眼光に貫かれる気がして目を逸らす。

「遺書だ」榊さんは短く答えてから、一瞬の間を開けて静かに誦じた。


  まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。

  たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。──私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。


「あんまり、遺書っぽくないですね」

 小さく呟いた。榊さんも、ああと頷いた。「ベートーヴェンは結局その時死ななかった」

「変ですね」

「そうだな、変だな」

「そんなの遺書って言わないですよ。死ねてないのに」

「だが案外、ベートーヴェンはその時に一度死んでいるのかもしれない」

 どういうことですか?と訊ねる前に、彼はくるりと右に曲がった。このまま真っ直ぐ行くものだと思い込んでいた僕は慌てて体の向きを変えて──あやうく榊さんにぶつかりかけた。彼は立ち止まっていたからだ。わっと飛び退く。思わず非難するような声が出た。「なんですか、一体」

「着いた」

 えっ、と僕は一歩後退しつつ声を上げた。「先生、のところに?」

「そうだ」

 榊さんはすぐそばのドアノブをくるりと回した。よく見ればドアには「OPEN」と書かれたプレートが掛けられているし、僕らが今立っているのも屋根の軒の出の下だ。近くには木の置き看板もある。気づかなかったのがおかしいぐらいに──ここは小さなカフェの目の前である。

「こんにちは……」囁きレベルの小声で呟きつつ、榊さんに続いて店内に入った。カラフルな色と剥き出しの蛍光灯の光に軽く目が眩む。知らない洋楽が耳にすっと入ってきた。

 奥の三つ横に並んだ席の一番左に、一人の女性がいるのが目に入った。襟付きの赤いシャツ、青っぽいジーンズ、茶色く染めたショートカット。パソコンを使って何かしていたようだが、人が入ってきたことに気づいたらしく、大義そうにゆっくりと振り向いて。

「いらっしゃいま……きゃああああっ‼︎」

 突如甲高い声がキン、と店内に響き渡った。僕はびくんとなったが、榊さんは一切動かなかった。いつものことだ、というような涼しい顔をしている。やがて女性はテーブルに突っ伏して笑い出した。肩が大きく揺れている。「キャッハッハッハ……」こんな笑い方をする人を、漫画や小説以外で初めて見た。僕はええっと?と内心困りながら眺めていた。榊さんも立ちっぱなしだし。

 と、女性がようやく顔を上げる。多分榊さんよりも更にひと回りは年上だ。細められた目に端の上がった口。笑いが表情に残ったままだった。

「いらっしゃーい。だってさあ、またろっくんそんな真っ黒な服着て、とうとうお迎えが来たのかって思ってびっくりして」そう言って、自分の言葉にまた笑う。……ロックン?

 と、榊さんがようやく口を開いた。「先生にはお迎えなど、一生来そうにありませんね。殺しても死ななそうだ」

 その言葉を聞いて、僕はようやく「ろっくん」というのが音楽のロックンロールではなく榊さんを指したあだ名であることに気づいた。あまりにイメージに合っていなくて、僕は彼の黒い背中をまじまじと見つめた。

「やだあ、そんなことありませんよ。妖怪じゃないんだから。わたしは多分このまま馬鹿笑いしながら生き続けて、いつかヒイイイ息ができないっ!って言って死ぬのよ」

「どんな死に方ですか」

 榊さんがすたすたと店の中に入って行ったかと思うと、ブラインドカーテンの掛かった窓の近くのテーブル席に着いた。僕もそれに従おうとすると、女性は「あなたは初顔さんね」と身を乗り出してきた。「はい」「なになに?」「えっ?」「あなたはろっくんの何?」何って……と考える。そして考えるまでもないや、という結論に達する。「客です。絵を依頼したので」

「ふうん」女性はどこかつまらなそうに答えてから、何がおかしいのかにやにやした。その意味はよくわからないが、テンションが高いのは理解した。

 というかこの女性がお店のオーナーさんなのか。カジュアルな服装だし席の一角を占領してパソコンで別の作業をしているようだが、小さな店内に他には誰もいない。

 あれ、ということはこの人が〈先生〉?

 聞いていた「BL好きの笑い声がすごい占い師兼カフェ店員」という説明を思い出した。ああ、じゃあさっきの「あなたはろっくんの何?」っていう質問はそういうことですか……。変な答え方をしなくて良かったと胸を撫で下ろしつつ、僕はようやく榊さんの真ん前の席に着いた。先生が真横に立って、小さな卓上メニューを手渡してくれた。

「今日はどうする?」

「コーヒーで」榊さんが慣れた風に言った。お前はどうするんだというようにこちらに目を向けるので、メニュー表に視線をやりつつ「あ、僕もそれでお願いします」と続いた。

「ろっくんはホットだよね。あなたは?」

「えっ、あ、ホットで」

 咄嗟に答えてしまってから自分でも意味がわからないと思った。八月も終わりへと傾いているとはいえ、まだ気温は充分真夏に分類される。なのに何故温かいコーヒーを……。さっきから僕は榊さんにばかり付き従っているかのようだ。勝手がわからないので仕方ない。影のように、という表現が浮かんで心の中で笑った。実際には榊さんの方が真っ黒で影のように見えるのに。

 しばらく無言になる。先生はカウンターに入ってコーヒーを淹れているし、榊さんの視線は僕を通り抜けてブラインドカーテンの向こうの窓の外を眺めていた。何気なしに細められた目は、やっぱり不思議と明るい色に見える。手持ち無沙汰なので僕は店内を見回した。店に入ってすぐにぱっと視界に飛び込んできたカラフルな色は、今背後側になっている棚にずらりと並ぶカラーボトルであるらしかった。オーラソーマというのを聞いたことがあるし、占いの道具なのだろう。さっきまで先生の座っていた席の目の前の壁には、占星術か何かの巨大な丸い星座の表が貼ってある。深い紺色の紙に白字で図が描いてあるので、それっぽい術式のようにも見えた。魔法陣のような。

「よく、占ってもらうんですか」

 若干か細い声になったのは、なんだか結構な場所に連れてこられてしまったのではないかと怖くなったからだ。占いというと禍々しさとインチキのイメージしかない。いかがわしい宗教のようにすら思える。

 榊さんはすうっと僕の顔の上に目の焦点を合わせると、「いや」と首を振った。「ここにはたまに来るが、占って貰ったことは一度もない。ただ単純にカフェの客として来ている」

「カフェだけのご利用も占いだけでもオッケーなのよー」とカウンターから声が割り込んだ。「もちろん両方でもいいんだけどね」

「そうなんですか」

「ろっくんは高校生の頃からの常連さん」

 へえ、と僕は驚いて目の前の男を見つめた。高校生の頃って何年前だ。当たり前だけど、この人にも高校生時代があったのだ。想像できない。自分の一年前の事なら遠く感じてもいくらだって思い出せるのに。

 変なの、と思った。だが唐突に思い浮かぶ台詞もあった。アトリエを訪ねるたびいつも同じ体勢で同じ場所にいる榊さんに、僕が「いっつもそこでそうしてますね」と言った時のことだ。

『そこに行ったら変わらずに必ず会える人がいるというのは、なかなか安心できることではないか?』

 あまり無い語尾を持ち上げた口調だったからなんとなく印象に残っていた。冗談だとばかり思っていたが、むしろ本心──というか感情の滲んだ言葉だったのかもしれないと今更のように考える。

 僕は何からともなく視線を横に逸らして、内心で自分を嘲笑った。後から気づいた反省ばかりだ、僕は。

「はい、ホットコーヒーね」

 先生がコーヒーを僕らの前に並べた。カチャ、カチャと音が鳴ったが、それが受け皿とカップとスプーンのどれが立てたものであるのかわからなかった。ふわりと香りを感じた。コーヒーを淹れると一概に言っても、豆を挽くところからだとかスチームドリッパーを使うだとか方法はたくさんある。どうやって淹れているのかは見ていなかったが、家で飲むインスタントコーヒーとは違って、怠くなるような甘ったるい匂いは無かった。

 コーヒーカップの深淵を覗き込む。僕がコーヒーを飲むようになったのは案外最近なんだよなと思う。一人暮らしを始めてからだ。格好つけて、美味しさなんてちっとも感じないまま、苦味も酸味も黒い液体ごと何度飲み下してきたことか。悪酔いしそうなほどに甘い匂いばかりがいつだって後に引いた。

「下の名前だけ聞いてもいいですか?」

 いつの間にか先生が元のパソコンの前の位置に座って、こちらを見ていた。僕は椅子の上で身体を横に向けた。

「真斗っていいます」

「まさとくん」

「はい。空野真斗です」

「いいね。まさとくんはどんな絵描いてもらってるの?」

 はっと息を静かに吐き出した。絵を依頼した客だと言った時点で聞かれることになるだろうなとは思っていた。思ってはいたのだが、いざ聞かれると困る。「遺影だ」となんて答えたら、過度に心配されるか構って欲しいのだと思われるかだ。もはや冗談でしょ?と笑い飛ばされるかもしれない。

 別にいいけどね。そうしたら僕だって笑って、「なんてね、冗談ですよ」って言うけどさ。でもさ。

「本質、を描いて貰っています」

 そんな言葉が自然とぽろっと出た。僕自身も軽く驚いていた。先生は首を傾げた。「本質?」

「はい、僕の本質。僕のそれそのものを描いていただいているんです。そうですよね、榊さん」

 突然話を振られた榊さんはつと僕を一瞥して「そうだな」と答えた。コーヒーカップを傾ける仕草が僕よりもずっと似合う。

「なになに、二人にしかわからないことがあるわけね? まあいいや、ろっくんと仲良くしてくれてるみたいね。ほんと人間嫌い激しい人だったから」

「仲良くしてるだなんて、そんな……。というか人間嫌い、ですか?」

 なんとなく僕の解釈とは違った表現に思えた。こんな風に依頼者と一ヶ月間同じ空気を共にして、人物画を専門とする画家が人嫌いなわけはない──というのは後付けの論理で、実際のところ雰囲気から感じるだけだ。この人は誰よりも人間が好きなんじゃないかと。

 仁愛とも博愛とも違う。自分が知っている人か認識している人かに関わらず、〈人間〉というそれ自体を愛すること。

「僕には榊さんが、人間を超越した人に見えます」

「超越……?」先生は訝しげな顔をしたが、ぱっと榊さんを見遣ってひらひらと手を振った。「ろっくんが話に置いてかれてる。本人の前でする話じゃないよねえ」笑っている。本当によく笑う人だ。

 僕も「すみません、変なこと言いました」と言うと、榊さんは無表情で「別に」と答えた。こっちは本当にクールな人だ。

 コーヒーを口に含む。どこか角の取れた苦味がすうっと鼻に抜けた。もうすっかり外の茹だるような暑さは忘れていた。喉の辺りを通り過ぎる熱を心地よく感じた。カタカタという音がしたので視線を向けると、先生が何かパソコンで何やら打ち始めていた。原稿用紙設定でかなり長い文章を書いているところを見るに、物語の創作でもしているのかもしれない。時折、右手の中指がキーボードの上を跳躍して、エンターキーを強く打った。改行、改行、と僕はそれに合わせて無意識に心の中で繰り返していた。

 視線を感じて顔を上げると、榊さんがこちらを眺めていた。相変わらず温度の無い、実験の対象を見るような目だ。いや、そこまで冷たくはないか。

「なんですか?」「……いや、別に」会話の間を持たせる努力は……しないんだろうな。そうやって生きてくる必要がなかった人なんだろうな。呆れたりしない、非常識だとも思わない。純粋に羨ましいだけだ。

 僕は違うから。

「そういえば、禄ってどういう意味なんですか」場を繋ぐためのどうでもいいような質問ばかり、すらすらと出てくる。

「ろく」

「榊さんの名前の。前に自分の名前が好きだって言ってませんでしたっけ?」

 どういう会話の流れだったかはもう忘れてしまったけれど、親からの貰い物の中で一番だと。先生が作業に没頭し始めてから急に店内が静かになった気がする。どこかにあるらしいスピーカーから、もう五、六曲目になる洋楽が流れていた。男性ボーカルが甘い声で歌うが、僕には何を言っているかわからない。学生時代から英語はそうだ。努めて聞き取ろうとしない限り、耳の表面を過ぎ去っていく。英語に限らず言葉とはそういうものなのか。受け取ろうとしない限りあっという間に過ぎ去って、後には何も残らない。文脈も何も誰も覚えていない。そういうものか。

 ややあって、榊さんは「言ったな。盆帰省の話をした時だな」と頷いた。僕は少し目を見開いた。手に持ったままだったカップをできるだけ静かに受け皿に置いた。

「……よく、そんなことまで覚えてますね?」

「禄というのは、天からの贈り物、幸いという意味だ」

「贈り物?」

「英語で言うと〈gift〉だな。並外れて高い知能を持つ人間をギフテッドと呼ぶことがあるだろう。語源は同じだ。とはいえ俺はそれには該当しないが」

「はあ……」

「しかも先生に聞くまではその漢字の意味を知らなかった」

「禄介っていい名前よね」さらりと当の先生が割って入った。視線はパソコンの画面に注いだままだ。「だから榊くんって呼ぶよりろっくんなんだよねえ」

 にしては禄という響きは消えていますね、という突っ込みはさておき。僕は意味を取りきれずに一人沈んでいた。

 禄は天から贈られた幸せだというのなら、それは何を意味しているのか。榊さんの持つ才能? それなら絵を描く才能のことか。だが名付けの時から両親が画家に育てようと考えていたなどとは思えない。そういう家庭も無いわけではないのだろうが、榊さんが決められた将来に従う人間だとはあまり思えなかった。それなら贈り物とは? 彼が持つ、特別で、そして先天的なものといえば……全色盲。全ての色が見えないということ。わかる。そこまではわかるのだ。

 でもわからない。どうしてその名前が「親から貰ったものの中で一番気に入っている」とまで榊さんに言わしめるのか。圧倒的に強い芯を持った彼ならば、世界を超越し達観する彼ならば「名前に意味を押し付けようとするなど恩着せがましい」と言いそうなところなのに。

 言葉は嘘をつくのですか。

 榊さんの瞳の表面に、カラフルな光が反射していた。彼には見えていない色。やっぱり、僕は嘘つきです。本当はわかっている。信じたくないだけで。鋭敏な顔をしているけれど、この人はいつだって穏やかだ。そしていつだって気づくのが遅過ぎる僕は。

「僕は、僕が嫌いなんです」

 自分にしかわからない文脈で突然呟いた僕に、榊さんも先生も微動だにしなかった。凡人の僕の方がそれに動揺して、カップに半分残っていたコーヒーを飲み干した。ぬるくなったコーヒーはさっきよりも苦かった。「ほら、真斗の真は、真面目の真なんですよ」名前の話の続きだったという誤魔化し。

 でもあながち心にもない言葉ではなかった。真面目に生きてきたつもりの人間の末路。それを体現し、それについて考えてきた四ヶ月が僕の背後に道として残っている。道程。僕の前に道はない。

 自分が嫌いだ。

 そしてそれでも尚、自分の思考に依存する自分も嫌いだ。

「なんで?」先生が立ち上がった。「そんなこと言ったら、不真面目の真かもしれないじゃない」

「……っ」

 僕が何も言い返せずに見返すと、先生はにこっと笑顔を弾けさせた。それを見て今まで彼女が笑みを消していたことに気づく。

「ねえ、代金はいらないからもう一杯コーヒー飲んでくれない? 新しいメニューにしようかって考えてるのがあってさ、感想聞きたいの」

 急に話が変わるので戸惑った。「それは、いいですけど、代金は払いますよ?」

「そういう気遣いは大人になってからにしなさい」

 先生には、僕のことが子供に見えているらしかった。事実として子供か。この人からすれば、僕なんて小さくて幼い未熟者なのだろう。再びカウンターに入って行く先生を目で追った。

「ろっくんはもう絵、描き始めてるの?」

「いえ、まだですよ」画家は真顔のまま唇の片端を軽く持ち上げた。横で聞いていると敬語で喋っているのが新鮮だ。というか、衝撃だ。

「なんか変わったやり方してるんだったもんね。依頼者と一ヶ月過ごして、最後の三日ぐらいで絵を描くんだったか」

「そうですね」

「期限はいつ?」

「八月の三十一日」

 Xデー。僕は声を出さずに囁いた。見下ろしたコーヒーカップの白い底に、一滴にも満たないようなコーヒーが乾いて茶色い跡を残していた。

 目を背ける。嫌なものを見た気分になった。鏡にこびり付いた水垢とか、道路に落ちた不織布のマスクとか、カーテンレールの上に降り積もった埃とか、部屋の隅の小さな蜘蛛の死骸だとか。

 榊さんと先生の淡々とした会話は続いていく。細切れになった返事と、丁寧な口調。もう聞き慣れた低い声は変わらないのに、まるで榊さんでない人間が喋っているように聞こえる。

 僕はその自分の思考に首を傾げた。榊さんが傍若無人に誰に対してもあの口調と態度で接するものだと思っていたのか。思っていた気がしなくもない、何せ榊さんだから、というのが念頭にはある。

「じゃあ間に合うわね」

「何がです」

「サーカスよ」

「何ですか」

「知らないの? 今有名なサーカス団が東京公演してるのよ」

「それが」

「お客さんでさー、そこの演者さんにツテ持ってる人がいて、ペアチケット貰ったのよね。だけどわたしが息子と行ったって仕方ないじゃない? タクヤのやつ、そういうの絶対興味ないって言うし」

 ねえ空野くん観てみたいよね? 突然話が飛んできた。本の中の登場人物に呼び掛けられたような気分になって「は、はい?」と間抜けな返事をする。ぼーっとなっていたようだった。

「サーカス、行ったことある?」

「あるっていう話は聞きましたが、あまり覚えてはないです」

「じゃあろっくんに連れてってもらいな」先生はコーヒーを淹れるためにカウンターをごそごそしていたはずだったが、どこからかひょいとチケットを二枚取り出した。「やってるのが二十七日までだって。二人で仲良くデートしてらっしゃい」

 突っ込みどころの多いセリフだ。そんなことを言われても困るけど。

 榊さんが涼しい顔でカップを傾けているので、僕は立ち上がってカウンターから受け取った。「ありがとうございます」

 変なの、と今日何度目になるかわからないが思いつつ、また席に座る。チケットを意味もなく裏返したりまた表を向けたりした。黄色い背景に、象やらライオンやらブランコ乗りやらの切り抜かれた画像が載っていた。

「はい、お待ちどお様」新しいコーヒーカップが目の前に置かれた。まあ飲んでみてと言われるが、熱すぎて縁を唇に当てられもしない。「ろっくんはこっちね。いつものやつ」

 榊さんの前に置かれたのは透明なグラスだった。澄んだ氷が浮かんで水面と共に小さく揺れていた。彼は軽く会釈するように頭を下げた。

「水ですか? それ」

 榊さんはグラスを持ち上げてから、何も言わずに僕を一瞥した。それでは何もわからないのですが、と思う。もとから必要以上の言葉を使わない人間だというのはわかっていた。でもあなたが元来寡黙な人だとは知らなかった。……結局答えたのはパソコンの前に戻った先生だった。「水よ。でもレモン汁を少し入れて味つけてるの。昔っから夏には来るたびにあげてたよね」

「そうなんですか」

「だってろっくん、二時間も三時間もいてくれるから」

 榊さんもよくアトリエで作ってくれますよ、輪切りのレモンを入れた水。そう言おうとしてから、はっとした。それが偶然の一致なわけがないことに気づいたからだ。

 真正面に座る男をまじまじと見つめた。彼は軽く首を傾けて見返して来た。穏やかな表情だ。

「今日は、榊さんがいつもと違って見えます」

 僕は呟いた。コーヒーをゆっくりと口に含んだ。新しいメニュー開発とか言っていた気がするが、味も香りもさっきとまったく同じような気がした。なのに違うという気もした。

「別に何も変わらないが」と榊さんは答えた。でも違うんです、と答えそうになって首を振る。コーヒーに対する感想と榊さんについての話が混ざっている。変なのは自分だ。今日は言うつもりもなかったような思っているだけの言葉を何度もこぼしている。

「それは見方が変わったからじゃないの」と先生は何故だか笑った。

「そうでしょうか」

「空野くん、あなたにとって禄介さんはどんな人?」

 どんな人って……。画家で、雲上人の芸術家。実は僕のバイト先の服屋の得意客。いつだって飄々として、曲がらない芯がある強い人。全てを冷静な目で見下ろした上で、「この世はそういうものだ」と呟くような、人を超越した人。何物にも染まらない、純粋で完全な漆黒。

 でも。

 今日彼は、完璧な黒など存在しないと言った。禄とは神からの贈り物であり、全色盲を指しているだとしたら。どうして彼はその名を喜んだ? ……本当は、その答えにはとっくに辿り着いているのだ。名付けた親の気持ちを考えれば簡単に理解できる。生まれたばかりでは全色盲ということまではわからなくても、光に対する過敏性や、明らかに悪い視力には誰もが気づく。「ごめんなさい、こんなふうに産んでしまって。人と違う目を持つあなたはきっと苦しむことになる……だけど」「このマイナスとも言える障害は、贈り物にもなるかもしれない」「唯一無二のあなたを作る糧にして、生きて」

 人と違う、どう足掻いたって並の人間に追いつくことができない部分を持って。一生周りの人と同じ景色を見ることはできなくて。一切の障壁もなく生きてきたわけはない。

 自分の中で煮詰め発酵した〈真実〉を人に語れるようになるまでに──今の彼になるまでに、一体どれほどの時間がかかったろう。

「遠くにいる人です。すごく」

「……」

「榊さんの人生は、すごく重いです。僕なんかが考えられないぐらいに。でもそれを乗り越えて来た榊さんはやっぱり強い。凄い人です。僕なんかには、すごく遠くにいるように思えます」

「僕なんか、と二度言ったな」意外にもコメントを返したのは榊さんだった。何かを思ったわけではなく、ただ気づいたことを指摘した、というような呟き。「言いましたか?」「言った。無意識なのか」「なのかもしれないですね」「そうか」

 先生が頬杖をついた。「本当にそうなのかな」

 僕はコーヒーをゆっくりと飲みつつ、どういうことですか?と尋ねた。

「本当にろっくんはあなたにとって遠いのかしら? 遠い、という事実さえあれば、ろっくんのようになれなくてもいい、仕方ないと思えるからじゃないの?」

「…………」

「あなたたちの根本は同じだと思うけどね。ねえ空野くん、自分が〈ひとり〉だと思ってない?」

 僕は口籠る。「ひとり、ですか?」一人、独り……。その言葉は単純に人数を表したものでも、周りに誰もいないことを表したものでもない気がした。じゃあなんだと問われれば上手くは答えられないけれど、強いて言うなら僕の〈さびしい〉という感情に似ているだろうか。僕は笑った。結構卑屈な笑い声になった。「そうですね。さすが占い師さんだから、なんでもお見通しですか」

 先生は若干顔をしかめた。

「占い師は関係ないかな。強いていうなら、たくさんの人に会ってきたのと人生経験?」

 コーヒーを一口。……やっぱり思いの外苦い。

「あなたは人に助けを求めるのが下手なだけだよ」

「……でも、誰が助けてくれるって言うんですか?」

 そんな人いるわけないじゃないですか。人間は案外他の人のことなど見ていない。ばらばらに通り過ぎる群衆。人のことを気にしている暇なんて誰にもない。

「さあね」先生は外国人のようにオーバーに肩をすくめて見せた。カラフルな数珠のようなブレスレットが手首できらっと光った。

「さあねって……」

「なんでもいいから、とにかく声をあげてみなさい。……諦めるな青年、先は長いんだぞ」

 シリアスな顔をしていた先生は久しぶりにけたけたと笑った。からかわれただけなのか、なんなのか。よく榊さんがここに長く出入りしているものだ。合ってない。合ってないように思える、けど……彼には必要だったのかな。

 一時間ぐらいしか経っていないように思ったのに、外は少しずつ影が落ちて暗くなっていた。時間を見れば五時だ。前に比べればこれでも日は短くなっている。

 正体のわからない変な魔法に掛けられた気分になって、僕はコーヒーを一気に傾けて飲み込んだ。そして盛大に咽せた。……甘い。度を超えて甘かったのだ。そしてどろどろしている。

 げほげほと咳き込む僕を榊さんは不思議そうに眺めているし、先生はにやにや見ている。涙目になってカウンターの方を見れば、ハチミツのチューブが堂々と立っていた。信じられないことをする人だ。何が新メニューだ。嘘もいいところ、イタズラじゃないか。

「こんなの、最後まで飲まなきゃ、わからないじゃないですか……」

 抗議すると先生は、「そうよ、最後まで飲まなきゃわからないのよ」と嬉しそうに言った。


     ❇︎


 アトリエの前で榊さんと別れて、僕は駅に向かって歩き出した。心なしいつもよりペースがゆったりとしているのは、あまり暑くないからだ。蒸し蒸しとして、なんとなく肌が湿るのは変わりないのだが、ふとした時にTシャツの袖を揺らす風は涼しい。

 田んぼの中のどこかで、虫が鳴いている。

 僕は尻ポケットからスマホを取り出した。勝手に画面が光って現在時刻を知らせた。最近は完全に検索機能つきの時計と化したスマートフォンだ。歩きスマホだな、良くないな。だが自分が良くないことだと感じることを、これまでに何度してきただろう。何もかも今更だ。そんなことを考えながら、親指で操作して何日かぶりにSNSを開いた。

 ──あなたは人に助けを求めるのが下手なだけだよ。

 ──とにかく声を上げてみなさい。

 別に気にしたわけではないけれど。

 DMの履歴を開くと、最後の会話履歴はお盆あたりで止まっていた。したなあこんな会話、と眺めてみた。

[こっち帰ってきてるってマジ⁇][駅で見かけたって言ってるやつがいるんだけど、もしかしてドッペルゲンガーだったり(笑)]

[うん、帰って来てる]

[せっかくだし久しぶりに会わね? 熱海駅とかでどうよ][近況報告ってやつ?笑]

 なんて能天気な会話だ。単純で今しか見えてなくて、尚はそういうやつだ。前に言ってたマミちゃんとやらとはまだ続いているのだろうか。教授に面白がられながら、教員になるための勉強を頑張っているだろうか。「上手くやってるっつーわけね」という彼の言葉に対して僕が何も言わずに握手を返したのは、嘘に入るだろうか。

 ごめんという言葉もまやかし?

 違うさ。自分に対する嫌悪の形だ。

 ……どうしてだろう、気づけば僕は電話を掛けていた。もうすっかり長期記憶の中に落とし込まれた、学生時代に何度も使った番号に。

 彼はすぐに出た。

[もしもし、くうちゃん?]

 その言葉で、彼がまだ僕の名前を連絡先から消していないことを知る。

「……もしもし」

[? なんだよ、間違って掛けた?]

「いや。……」

[くうちゃん?]

 電話線上でさえ聞き慣れた尚の声。今彼はスマホを耳に当てて、頭の中をハテナマークでいっぱいにしていることだろう。僕は口をぱくぱくさせた。取り立てて言いたいこともなかった。いや、あったから電話を掛けたんだ。ごめんなさいと、一言ちゃんと謝っておきたかっただけ。散々馬鹿にしてきたこと、だけど本当に馬鹿なのは自分であるとわかっていること。何が楽しいの?と心の中で問いかけたこと。でもそれはただ、いつも楽しそうな尚が羨ましくて、自分との間に勝手に境界線をこしらえていたこと。

「あのさ」

[おう]

 ごめん、と言おうとしたのに、上手く声が出なくて駄目だった。ぱく、ぱく。夜が溶け出した宙を噛む。暗いが透明な空を見つめて呼吸をする。上を向いていた方が息を吸いやすいのだと、前に言ったのは僕じゃないか。

 ごめん。じゃなくて。

「あのさあ……詩が、書けなくなっちゃったんだ……。あはは、だからなんだってこともないんだけど……」

 どうしてこんなことを言ったのだろう。

 風がさらさらと田んぼの稲を揺らした。虫が一度鳴き止んで、少ししてからまた鳴き出した。空白の一行を、僕はここに置いただろう。

 呆気に取られたような数秒の沈黙。

[お前今どこにいる]低い声が返ってきた。[最寄り千葉だったよな、じゃあ総武線使えば一本で東京まで来られんな⁉︎]

 えっと驚く僕の息遣いはスピーカーに拾われない。怒鳴り声だけがストレートに電話線を通り抜けてくる。いつものようなふざけた軽さと笑いの無い声。

[東京駅集合な‼︎ 来なきゃ絶交だ。オレも一時間で行くから、ぜってえ待ってろよ!]



 東京駅に着いて、人混みに流されるままに足を動かしていると中央通路に出た。東京駅集合、と一口に言われても、駅自体が相当に広いということに気づく。いつもスマホで地図を見ながら乗り換えのために通り過ぎるだけで、まともに歩き回ったことはなかった。もともと僕は千葉にいたわけではなかったので、快速への乗り換えを挟んだりしていた結果、一時間はとうに過ぎていた。どこに行けばいいのだか。あれから連絡も何も来てないし。僕は隅の方に寄って辺りを見渡した。視線の焦点をどこに結んでいいかわからなくて、結局俯いて床のタイルを眺めた。

 ぶちっと電話が切られてから、僕はずっと呆気に取られたままだった。うわあんという響きにしか聞こえない人々の声、電車や新幹線の時刻を知らせるぼんやりとしたアナウンス。東京駅はまるで海のようだ。ちっぽけな一人の人間など一瞬で飲み込まんとばかりに、莫大なエネルギーを溜め込んでいる。

 顔を上げて真正面の遠くを眺めた時、鮮明な声が突然に飛び込んできた。

「そらのっ‼︎」

 目と目が合った。糸がぴんと繋がったようだった。僕が一歩前に進むのと、彼が目の前に立ち塞がるのが同時だった。息が切れているらしく一瞬苦しそうな顔をしたが、尚は勢いそのままにがしっと肩を両手で掴んできた。硬くて大きい、強い手だ。揺さぶられる。怯む僕に向かって怒鳴る。

「死なないでくれ‼︎」

 僕らの周りだけ時が止まった気がした。顔の無い通行人は皆んな遠巻きにちらちらと見ながら行き過ぎ、僕らの周りにだけ空間が空いている。

「っ……」

「何があったんだか知らねえけど、無責任だって言われるだろうけど、大丈夫だからっ! 詩が書けなくたってオレはお前のこと好きだから、そう思ってるやつが他にもぜってえいるから! だから‼︎ だから……っ、死なないで、ほしい」

 雑踏の中のエアポケット。今まで見てきたいつよりも真剣で必死な表情。僕はゆるゆると首を振る。「尚」

「絶望するにはまだ早いんだっ! 人間生きてさえいりゃ」

「尚、落ち着いて」

「はあっ⁉︎ 落ち着いてられっかよ‼︎」

「僕は大丈夫だから」尚はようやく我に返ったようにはっとして、瞬きをした。恐る恐る顔を覗き込んでくる様子に僕は思わず笑ってしまう。彼はしばらく固まっていたが、やがて糸が切れたように「なんだよおおー」と脱力した声を吐き出した。

「だって、お前から掛けてくるなんてなんかあったんだって思ったし、しかも声が暗かったし、くうちゃん、思い詰めて死のうとしてるんじゃないかって、オレ……」

 今になって屈んで膝に手を当ててぜえぜえ言っている。「まじ心配した」。荒い呼吸の中にそんな言葉を聞いた。ばか、と僕は目線よりも低い位置にある頭に呟いた。髪がぼさぼさだな、と関係ないことを思った。

「ほんとに馬鹿だよ。僕は電話で詩が書けないって言っただけなのに。たかがそれだけなのに。僕は」

 死んだりしないよ、と言いかけて口をつぐんだ。そんなことを間違ってでも言いかける自分に驚いていた。まるで八月三十一日──Xデーが来ることをすっかり忘れていたみたいだ。

 ぽかんとなっている僕に構わず、尚は顔を上げてニヤッと笑った。

「じゃあまあ一安心したところでどっか飯行こうぜ。ちょい早いけど夕飯時って言えんだろ。喋り通すから終電覚悟しろよ、くうちゃん」

「……まあいいけど」

「ただしくうちゃんの奢りまたはファミレスな? 新幹線代に有り金がほとんど持ってかれたもんで」


 結局、熱海にも千葉にもあるような、安さと速さだけが売りのファストフード店に入った。窓際のカウンター席に並んで座って、写った自分の影の向こうに夜の都会を見下ろした。宝石箱のような、というありきたりな表現が思い浮かんで、全然違う、そうじゃないと打ち消す。むしろガラクタを詰め込んだみたいだ。光はまだらに集まっていて、一色ではない。ごちゃごちゃに散らばっていて、綺麗だった。

 四種のチーズ増し増しバーガーなるものを喰みながら、僕らは適当な会話をした。というか尚がぺらぺらと話すのを、僕はいつものように突っ込んだり遮ったりはせず、静かに聞いていた。大学のサークルでなんとかだとか、中学時代のクラスメイトに偶然会ってどうだとか。あとこの前話していた女の子とはそこそこ上手くいっているんだそうだ。

 夏休みに会った時よりも、不思議と嫌な気分にはならなかった。ただ僕の人生とは別のところにある彼の人生だと受け止められたのは、どうしてだろう。

 ハンバーガーは、カウンター上のモニターに出ていたイメージ写真よりもだいぶ厚さが薄かった。期間限定品だとはいえ、これで六百円だ。ポテトと飲み物まで付けたので平気で千百円を超えている。昔は百円も払わずに食べられたと、いつかに父が言っていた。時代は確実に流れていて、僕や尚が生きているのは今の時代だということなのだろう。父さんの時代ではない、他の知らない誰かの時代でもない、僕らの時代だ。

 話がひと段落した、と思って顔を上げると、窓に映った尚と目がばちっと合った。彼はびっくりしたような表情になると、一瞬で目を背けた。今のでなんとなく悟る。尚が僕が話し出すのを待っていること。彼が彼なりに、僕が本音を話しやすいように空気を明るいままに保とうとしていたこと。……僕は手に持っていたハンバーガーをトレイの上に静かに下ろした。てらてらと油が付いて光る指を紙ナプキンに擦り付けると、白い紙にそこだけ半透明が滲んだ。

 言葉とは、今は少しだけバトンに似ている気がする。

「詩が書けないって言っただろ」

 僕は真横に座る本物の彼の目を見た。少しでもいいから誠実でありたいと思った。「お、おう。言ってたな」急にそれがどうかしたわけ?と、尚はあくまで何でもないことを聞くようなふりをしている。それが優しさであること、今の僕はわかる。

「実は、ずっと前からだった」

「……」

「千葉に来たぐらいの頃から、もうずっと書いてない。書こうと思っても言葉が出て来ないんだ。あと長いこと大学にも行けてない」

 尚は顔色を変えなかった。へらっと薄く笑ったまま。「はあん、そいつは重症だな」

「僕は真面目に話してるんだけど」

「オレだって真面目に聞いてんだけど。聞いた上で返してんだけど。だからなに?ってな」

 あまりにも軽いノリで答えられて、僕の中の何かが弾け飛んだ。何かが溢れ出した。

「この間尚に上手くやってるなんて言ったの、全部嘘だったんだ。見栄張ってた。高校生の頃と変わらない楽しそうなお前のことが羨ましかったし、自分だけが今こんな状況なのをどうしても言いたくなかった……っ。今の僕は何にも持ってないんだ」

 夢や目標がない。生きがいがない。守りたいものもなければ大切なものもない。

 尚がふりゃりと笑った。ただの力が抜けた笑みに見えたが、そうではないと漠然と気づいた。もっと柔らかくて、だけど芯がある。眉が下がって顔がくしゃくしゃになる、こんな笑い方をするところを初めて見た。

「バカ、親友がいんだろ」

 尚はもともとの六分の一ほどの残っていたチーズバーガーを一口で飲み込んだ。そして腕を組んでプラスチックのトレイの辺りに視線を落とした。上に乗せられた広告の紙一枚が場違いな明るさを持っていた。ポップなデザインの上に「スタッフ募集」の文字が踊る。別にそれを見ているわけでもないのだろうが、尚はその姿勢のまま目を閉じて口を開いた。「わからないのだ」

「……?」

「あわい桃いろの花弁が ひらひらと/ひらひらと 風に舞って/わたしはそれを眺めて自分も/木になったかのように/ただそこに」

 僕は目を見開いた。ぐっと何かが喉の辺りに詰まって、苦しいのに苦しくない。それは二年以上も前に僕が書いた詩だった。


  ただそこに。

  だがその瞬間にも わたしは

  風に飛ばされ、朽ちて、腐って、いろあせた

  花びらを汚れた靴の裏で

  踏みつけにしていたのだ。

   花びらってきれいなのは地面につくまでだけだな

  じゃあ綺麗だったものを

  そうでなくするのは、誰?

  わからないのは。

   何がわからないというのか。

  スニーカーをどかして 汚い花びらを見つけたわたしが

   ──なにを思ったのかということが。


  悲しみも、寂しさも、よくはわからない

  わからないのに 感じるから不思議だ。

  見えないけど大切にしなさいと大人は言う。

  だけれど、見えないから大切にするんじゃないのか。


  桜散って、散ればいい。もっと

  ずっとここにいて。

   春が終わるのを

    待っている。


「なんで……なんで」

 顔が妙に火照っているのを感じた。目に熱いものが滲みそうになって、やばい、やばい決壊する……慌てて顔を背けた。背もたれの無い椅子がガタンと揺れた。

 学生時代、いつでも僕は詩を書き溜める用のノートを持ち歩いていた。いつも書いていたかったからというのもそうだし、格好つけるような自慢するような意味合いもあった気がする。一つの詩を書き終わるたびに、尚は見せろと言った。「前のよりいいんじゃないスかね」「ちょっとこの一文に雑念入ってんね」尚はいつも適当なコメントを返して、僕はいつもそれを「どうも」と適当に聞き流した。お決まりのやり取り。ごっこ遊びのようなものだった。

 今更ただのごっこ遊びじゃなかったというのか。

 尚が微笑む気配があった。

「悪いけど、全部覚えてるわけじゃないぜ? 良し悪しだってオレにはわかんねえし、裏に込められたスウコウなる思いとやらだってわかんねえよ。この詩が一番印象に残ってたし、そこまで長くなかったから暗唱できただけだ。まあそれくらいにはお前の詩が好きだったし、好きなんだわ」

 だけど、と彼は言う。

「それでもやっぱり、詩はくうちゃんの附属物でしかねえよ? さっきも言ったけど、書けたって書けなくたってオレはどっちでもいい。くうちゃんはくうちゃんだもんな」

 まあお前が詩ぃ書いてなかったら、オレら出会ってないけどね? ひどい話の落ちの付け方だ。そう思うのに。

「なお……」

 ぐっと締め付けられるような、でも熱くて温かいような感情はあまりに漠然としていて、どこに向けていいかわからない。でも感情が漠然としていない明確なものだったことがあっただろうか。そんなどうでもいいことを考えて誤魔化したり。でも無駄だってわかったり。

 なんで言葉に携わってきたわけでもない、ごく普通の人間の何でもない言葉が、こんなにも胸を打つんだろう。

「なに感動して泣いてんよ」ははっという軽い笑い声が聞こえた。

「……泣いてないし」

「じゃあこっち向けっての」

「ほっといて」

「くーうーちゃんっ」

「ごめん……ほんとに今はこうしていさせて」

 尚はまあいいけどと呟いた。「ってかポテト全然食ってねえじゃん、もらっていー?」

「いいよ、もう全部どうぞ」

 本当はそれじゃあ足りないくらいだよと思う。電話の声を聞いて、大慌てで新幹線に飛び乗って熱海から東京まで。有り金ほとんど持ってかれたと笑っていたが、大学生にとっては本当は笑い事にならない額に違いなかった。一方で僕はやることがない分無駄に働いて、しかもブランド店であるためにそこそこの金額を貰って、交通費に賃金の大部分を費やしても持て余している。本当は尚のハンバーガー代ぐらい全部奢ったっていいぐらいだ。なんならこんなファストフード店ではなくいい感じのレストランに連れて行ったって良かった。でも、何となくそんな金銭的な借り返しで済ませたくない気もした。

 気づかれないぐらいの動作で軽く尚の方を見れば、彼は僕のトレイの上に散らばったポテトを、むしゃむしゃと五本ずつぐらいの勢いで食べていた。

 あっけらかんとした明朗さと、この無邪気すぎる純粋さを馬鹿にしてきた。彼の無垢を感じては羨み、自己嫌悪に陥って、尚の行動に子供のような浅い残酷さを見つけるたびに、僕は昏い喜びを覚えた。でもそれだけだっただろうか。そんなわけはない、それらはただの、後付けの言葉の綾のようなレベルの感情だ。

 何度、僕は彼の明るさに救われてきたことだろう。

 自分勝手だなんてわかっている。今更だと自分でも思う。だとしても、そうだとしても。この時代を生きて彼と親友になれたことは、僕の人生における大きな幸せだ。なんて、言いたいのはそんな堅苦しく飾った言葉じゃなくて……僕はただ。

「尚、ありがと」

 やっとのことで彼を見て、それだけを声に出した。















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