僕の盲目



 店の奥から出して来た黒い段ボール箱から、一着一着服を出してはハンガーに掛けた。しゃがみ込んだコンクリートのフロアタイルは灰色で、壁は白、売り物の服は全て黒、という店だから、慣れてきても今だにモノクロの世界に入り込んだような錯覚に襲われる。でもそんなことはないのだとすぐに気づく。薄い布に包まれた電球の放つ光は少しオレンジがかっていて、布という布の上で屈折し、あちこちに散乱する。客たちもまた色を身につけて運ぶ。世の中は案外色に溢れている。

 電車で四十五分ほど掛けて東京にまで出て来て働き、移動費を差し引けば別段高いわけでもない金を貰う。

 バカだと言って人は笑うだろうか。

 クラシック音楽が流れる店内はあまり狭くはないから、閑散としているのをより感じた。白シャツに黒いスラックス姿の数人の常勤店員がカウンターの辺りで抑えた声で談笑し、僕だけが外れたところで作業をしていた。平日だろうが休日だろうがいつもこんな感じだ。ここの服やら帽子やらは、なんとかというデザイナーの手掛けたものであるので、黒いワイシャツ一枚でもそれなりに値が張る。興味本位にかふらりと店に入って来て、値札を見てギョッとしたように出て行く客も少なくはない。店員たちは完璧で怜悧な営業スマイルを作って「何かお探しのものはありますか?」と尋ねては、尻尾を巻いて逃げるように去って行く客たちを見送って失笑していた。この店の静けさも、真っ黒に染められた衣服の並ぶ空間も心地よいけれど、ここで働く人々を僕はあまり好きではなかった。

 銀色のバーにハンガーを掛けていく度に、金属と金属が硬質な音を立てる。キン、キン、という微かな余韻は漆黒の布たちに吸い込まれていく。

 扉が開けられたらしくドアベルの音が響いた。僕はぱっと顔を上げて入り口の辺りを凝視した。見かけたことがあるが言葉を交わしたことのない客が入って来ただけだった。レジのそばに立っていた店員がすかさず笑顔を作って声をかける。

 僕ははあっと息を吐き出して、一人物陰で苦笑した。店のドアベルが鳴らされるたび、入って来た人を確認するのが最近癖になってしまっていた。榊さんなんじゃないか、と一瞬ちらりと思ってしまうのだ。僕は彼にまだ、ここで働いているバイトの一人であることを伝えていなかった。バレたら困る、なんていうことはないけれど、どうにも気まずくなりそうで嫌だった。

 会いたくない、会いたくない。

 思えばもう会いたくないと思ったなら、彼に二度と会わないことが僕には可能なのだった。バイトをやめて、アトリエに行くのをやめればいい。僕の方からいつでも止めることができる。もともと僕らの間には一枚の契約書も存在しないし、何も言わずに僕が消えたとしてもあの人が探すことはないだろう。榊さんにとっては、僕は平等に並んだ何人もいる客たちのうちの一人だからだ。

 この“BLACK TAO”という服店とはそこが違う。ここでは客は平等ではない。何度も来て、高い服を買う常連客はそれなりに扱いが違う。その反面冷やかしに来たような客は嘲笑の対象ですらある。

 話したりしたことなどなかったのに、彼が画家だと知る前から目に留まっていたのは、多分榊さんがあまりにも無機質だったからだ。店そのものの雰囲気と同じ、無機質さ。店員が常連客だけに向ける媚びるような微笑みにも何も反応せずに、こつこつと黒いブーツの音を鳴らして店の中を歩き、いかにもこだわりなど無さそうに店内を見渡してはたまに数着を買って帰って行く。何物にも染まらない黒とは彼のことだと僕は思った。

 その印象は、絵の依頼者と画家という立ち位置が出来た今も変わっていない。

 彼は人目なんて気にせずに、むしろ称賛さえ浴びながら舞台の上で踊る、選ばれた人間。何も持たずに意味のない生き方しかできない僕とは違ってもっとずっと遠くにいる人。

 時計を見ると、勤務終了時間を十分ほど過ぎていた。誰一人としてそれを僕には知らせなかった。いつものことだ。立ち上がってから、空になった段ボール箱を持ち上げた。「上がりますね、お疲れ様です」と他の店員たちに声を掛けると「ん、ああ」と面倒くさそうな返事が返って来た。「いいね、バイトは終わるの早くて」と呟く声も聞こえた。どうせ僕がいないところでは、真面目とか面白くない奴とか陰口を叩いていることだろう。

 どうでもいいし。別にいいけどねって。

 弱さと卑屈の黒と、強さと孤高の黒。一色なのに一色ではない。僕は他人に無干渉になれるほどの自己を持ってみたかった。過去形の話だ。


「榊さん、あなた一体何者なんですか」

 彼の答えは、一言一句違わずに頭の中で再生することができる。誰でもできるだろう。それくらい簡潔で何の抑揚もない返答だった。

 ──榊禄介だが。

 彼は動じず、間も空けず、そう答えたのだ。

 なんという答えを僕は期待していた? なんと言ってくれたのなら、こんなにも記憶に残ったりしなかった? 「ただの画家だ」「榊だ」「別に何者でもない」「人間だが」。何通りもの回答は無意識のうちに考えついていたはずなのだ。だけど、──「榊禄介だが」。そう言われた僕は、自然と後ずさっていた。

「そうですね。そうですよね、なに変なこと聞いてるんだろ、僕は」

 そんなことをごにょごにょと呟いてから、「ごめんなさい、なんとなく来ただけなんで今日は帰ります」と逃げた。

 熱海の実家に愛用の黒いキャップを置いてきたことに気づいたのは、そんな時だ。参ったな、さすがに取りに行くのは現実的でないから、こっちに送ってもらおうか。新しいのを買うのでも別にいいけれど。そんなことを半ば意識的に考えている間にも、榊さんの低い声ばかり頭の中で回っていた。

 僕は何にショックを受けたと言うんだよ。


     ❇︎


 真っ暗な眠りを経て目が覚めた。一生目が覚めなくても良かったのに、といつも思うことをまた思った。

 うう……と微かに呻きながら起き上がって、僕は枕元にあったスマホを充電器に刺す。一瞬だけ画面が明るくなって、すぐに消える。テーブルにそのままになっていた昨日の夕飯のインスタントラーメンのカップを、適当に流しのゴミ袋に押し込んだ。トーストを焼かなきゃ、と思いつつローテーブルの前に座り込んだ。立ち上がる気力もなく、すぐそばの棚に膝立ちになって腕を伸ばして、どうにかこうにか物を取り出した。

 一冊のリングノート。

 この朽ちたような部屋の感じを、暗い暗い眠りを書こうと思った。……書きたいと願った。言葉は僕の味方だっただろ。暗くて寒くて冷たい、そのイメージを。


  極夜


 ペンで走り書きをした。丁寧に書こうとすればするほど変な形に見えてきて、あまり自分で気に入っていない僕の字。


  極夜 あぁ構わないさ。

  今日もそんな感じで

  さまよって見せたっていいんだけど、でも

     何が楽しいと言うんだい?

  笑って見せろよ、俺のこと

     何が面白いと言うのかい?

  明けない夜があることを 本当に知っているのは何人だ。

  俺は


 そこまで書いて、僕はペンから手を離した。無造作に放られたボールペンは倒れて静止した。それをぼうっと眺めてからテーブルに突っ伏す。……こんなのは何も面白くも、本当に書きたいことでもないような気がした。それっぽい格好つけた言葉を並べ立てて、詩のような形を作り出しているだけだ。こんなのは僕の言葉じゃない。

 僕が書きたいのは、もっと、こう────ああ駄目だ。言葉が出てこない。イメージは掴んで言語に落とし込もうとするたびに、雲のように解けてばらばらになって、霧散していく。僕の周りに散った粉々のイメージはやがて自然消滅するか、灰になって床の埃と共に積もる。イメージは大切だ。そう言ったのは誰だったか。それは本質と似ている。本質ってなんだよ。

 午前六時過ぎ。まだ早朝と言ってもいい時間帯だと言うのに、外のどこかでは蝉が鳴き始めていた。別段うるさいとも思わなかった。呑気に子孫を残すことだけ考えて、本能的に鳴いて、楽でいいよなと考えただけだ。

 僕は詩を、書けなくなった。

 ブランクなどという言葉では誤魔化すことは不可能だ。もはや認めざるを得なかった。

 神は降りてこないし、僕自身にいつかには存在していたはずの神聖さは消え失せた。何かに取り憑かれたように、脳で考えることなく感じたままに、ペン先で言葉を紡いだ感覚を思い出すことができない。誰かが書いたような作られたような文言ばかりが頭の中を過ぎって消える。中学校、高校時代の僕に言ってやりたい。

 お前はじきに詩を書けなくなる。

 ──ねえ、何が楽しくて生きていたんだっけ?

 それがつい先日、尚に向かって心の中で投げた問いかけと同じであることに気づいて、戦慄する。

 誰に対してだかもよくわからないのに、僕は仮面を被っている。

 テーブルに頭を乗せたまま、横を向いた顔のすぐ前にある紙に文字を書き殴った。


  夏が早く終わればいいのに。


 ろくに力の入らない状態で書いているので字がのたくった。泥酔して踊り狂うように大きさも濃さもばらばらな記号たち。みっともない僕にぴったりな様子じゃないかと思った。かき集めたって詩などという崇高なものにはなりそうもない、これはただの本心だ。抜け出せない泥沼の中で息もできずに喚いている本心。

 遺書一文すら残せずに世界から立ち去ること。

 それもまた「あり」なのか。


     ❇︎


 目の前にこん、とグラスを置かれて僕は目を丸くした。不規則な形のロックアイスが入った透明な水の上に、レモンの輪切りが浮かんでいた。

「このところ、沈んでいるな」

 顔を上げた時には榊さんは既に定位置の小机の前に腰掛けて、こちらを観察するような目で見ていた。机の上に積まれた葉っぱのデッサンは随分と増えた。それ集めてどうするんですか?と前に尋ねたことがあったが、「今月が終わったら捨てる。そしてまた新しいものを描く」とのことだった。今描き溜めているのは八月分ということか。

 今、榊さんは一部が破れて欠けた葉を描いていた。描いている、というよりは新たに同じ葉を作り出していたと言った方がいいかもしれない。それそのものなのに、完全な複写じゃない。彼のすることはいつも不思議だ。

「沈んでるように見えるんですか?」僕が敢えて尋ねると、彼は「そうだな」と首肯する。

「盆帰省の後で戻ってきてから、そう見える」

「……そうですか」

 どうかしたのか、とは訊かないんですね。僕は微妙に笑った。榊さんは他者にも何にも介入というものをしない。そんなことはとうに知っていたけれど。

 レモン水のグラスの表面に、小さな水の粒が付いていた。そっと指で淵の辺りを撫でると、繋がって水滴になり、木のテーブルに伝って落ちた。

 互いに黙りこくる。榊さんは相変わらず紙の小切れに絵を描いて、なんとなく手持ち無沙汰になった僕は正面の窓の外を眺めた。黒のような黄色のような蝶が、木漏れ日を一身に受けて低木の上を舞っていた。不安定に、あても無さそうにひらひら飛んで見えなくなったと思ったら、また引き返して来て。

「この森には蝶がよく飛んでますね」

 返事なんて求めていなかったが声に出した。榊さんは音もなく顔を上げると背後の窓の外を一瞥して、「蝶道になっているからだ」と言った。

「チョウドウ?」

「蝶の通る道。アゲハチョウに多く見られる習性だが、彼らには決まった順路があるんだな」

「へえ」僕は頷いた。「アサギマダラでしたっけ、渡りをする蝶がいましたよね。その航路みたいなものですか?」

「いや、蝶道というのはそれよりもずっと小さな範囲の中での通り道のことだ。一つの庭、だとか一定の木と木の間だとか」

「どうやって道がわかるんでしょうね。人間には見えない印でもあるんですかね」

「あるのかもしれないし、ないのかもしれない」榊さんは手元に再び視線を落としてデッサンを再開していた。「どうして人は、理由をわかりやすい一つに決めたがるんだ」

「それ、前も言ってましたね」

 黄色い筋の入ったアゲハが飛んでいく。しばらく眺めていると、やがて窓からは見えなくなって消えた。いなくなっちゃった、と肩をすくめて僕も俯いた。義務感でテーブルに開いた詩のノートは、蝶のように見えなくもなかった。なんて。……見えないか、単なるこじつけだ。

 蝶々というと春のイメージが強い。カラフルな花畑はもちろん、タンポポの顔を出す素朴な草原には蝶がよく似合う。だが、アゲハチョウは夏の蝶だ。歳時記にも夏の季語として載っている。そんなことを頭で思い出して、頭で何かを考えたわけでもないけれど、僕はほとんど無心のうちに呟いていた。

「夏蝶や──」

 ちょうちょだ、ちょうちょだ。太陽から振りそそぐ強い光にも屈せずに優雅に飛んでいくシルエット。父に肩車してもらいながら手を伸ばしたことがあったこと。真斗、昔は蝶々のことをてふてふと書いたらしいぞ。えーっ全然ちがうじゃん、なんで? いやあそれは知らないな、がははっ。鱗粉の微かな煌めき、そばを歩く母の笑い声、もくもくとした入道雲はあまりに大きくて。そして、そして──。

 榊さんが目だけをつと上げた気配があった。

 僕は口を閉ざして固まっていた。駄目だ、何が言いたかったのかわからなくなる。駄目だ駄目だ駄目だ。……詠嘆の切れ字の後に続く言葉が出てこない。掴めると思ったはずの言葉は、砂のように崩れて指の間からこぼれていった。

「僕以外に、遺影を描いて欲しいなんて言ってきた人っているんですか」

 不自然なほど空いた沈黙の後、僕が取り繕うように、しかし取り繕い切れずに絞り出した声は、そんなものだった。榊さんは真意を探ろうとするかのように僕の顔を眺めていたが、やがて「いない」と答えた。

「まあそうですよね」

 誤魔化すための笑みは、自分でもそれとわかるほどに自嘲っぽかった。遺影を頼んでくるなんて相当レアでしょ、と冗談めかそうとしたところで、画家が「五月に依頼された絵を見てここに来たと言ったな」と言った。確認とも問いかけともつかない話し方に、黙って首を傾げる。千葉駅の近くに飾ってあった絵のことか。

「あの依頼人、つまり描写対象だが」

「女性でしたね」細部までありありと思い出すことができる。僕に衝撃を与えた絵だったからだ。色という色の洪水の中で、片目をこちらに向けた女性。不思議な表情と、一滴だけの色のない涙。

「そうだ。彼女はもともと『結婚が決まったから記念に描いて欲しい』という依頼だった。二人でいる姿ではなく、花嫁衣装をまとう前の今の姿を、とのことだった」

 ええ、と僕は頷く。それが何か?と訊きたいところだった。おかしいところは無いような気がする。喜びや幸せを描いて欲しかったのかもしれない。それとも自分も家庭を持つのだという決意や、独り身の自由を捨てることに対する微妙な切なさか。それらの感慨が全てごちゃ混ぜに、濁流のようになった思いか。

 何にせよ、きっと明るさを持ち合わせた美しい感情を……。

 榊さんは一切感情のこもっていない声で言った。

「彼女は死んだ」

「し、──え」

 ひゅうっと息を吸い込んでいた。飲食店で気づかないうちに流れているBGMのように、いつの間にかどっどっどっという心臓の音が聞こえていた。逆光を背負って影が落ちた彼の顔を凝視する。闇を見定めようとするように。

「自殺だ」彼の話す声の一定さは変わらない。「描き上がったあの絵を見て彼女は規定の代金を払い、数日後に遠く離れた地で死んだ。ほぼ同日に遺書と絵と五十万円の札束がこのアトリエに送られてきた。人がいて光の当たる場所に絵を置いて欲しいと書いてあったから、俺は駅の近くで東を向いたあの場所に、絵を飾った」

 金は使わずにここにある、と言って榊さんは引き出しのついた机をぽんと叩いた。束のままになっている、仮に遺族が訪ねてくるようなことがあれば渡すつもりだ、と。

「どうして」僕は掠れた声を絞り出した。「どうしてその女性は、絵を見て死ぬことに……?」

「──さあな」

 一定のままの口調が気持ち悪い。

「あなたはっ……、絵で、人を殺したんですか」

「詩的に言うのならば」

 そんなの、と僕は内心で叫ぶ。ぜんぜん詩的じゃない。猟奇だ。幸せに満ち足りていたはずの人間が、自分を描いた絵を見てあっさりと死ぬことを決めた。そんなことがあるものか。だけど、あったのだ。あなたはどんな絵を描いたんですか──あの絵には何がこもっていたんですか。どうしてそんなに飄々としていられるんですか。何人もいる客のうちの一人なんて別にどうでもいいわけですか。

 あなたは自分が赦せますか?

 榊さんはいつだって表情を変えないし、感情を見せない。だが、この瞬間が今までで一番何を考えているかわからなかった。夜の道路の側溝だとか、ブラックホールだとか、開いたままの死体の瞳だとか。そういうものを覗いている気分になって、胸の辺りが冷たくなった。

「すみません、気分が悪いので帰ります」

 僕は俯いて立ち上がった。当てつけのような言い方になってしまったし、半分は意図的だとも思った。だが榊さんは「そうか」と変わらぬ口調で答えただけだった。

 森を抜けた。いつの間にか小走りになるほどに、前につんのめるようにして歩いていた。

 わかった気がする。榊さんは人に干渉しない。しかし、それは影響しないわけではない。無垢で無自覚のままに絵を描くことで、彼は人を殺すことが──人に対して裁きを下すことができる。それでいて、榊さんは他人から干渉もされなければ影響もされない。

 選ばれた才能を持つ芸術家の彼と、どこにでもいるありふれた凡人の僕。向かい合っているようで、同じ地平線の上には立っていない。視線も、言葉だって、真の意味で噛み合うはずもなく。

 ああ、なんていう人だろう。



 千葉駅まで戻ってきてから、思い立って僕はアパートとは反対の方向の出口へと降りた。夕方の五時ぐらいだ。そこそこ都会であるこの場所で、しかも八月という季節の中でそれを「まだ五時」と捉えるべきか「もう五時」と捉えるべきか僕はわからない。会社帰りのくたびれたサラリーマン、じゃれて絡み合う女子高生たち、手を繋いだ若いカップル、一歩一歩踏みしめるように歩く老人。どこかで祭りでもやっているのか、浴衣を着た集団や安っぽくピカピカとカラフルに発光するステッキを持った子供たちもいた。親子連れも目に留まった。

 人が多い。多すぎる。

 前方から来る人を避けて蛇行し、後方から早足で横を通り抜ける人のためにはじに寄り、ふらふらしながら僕は歩いて行く。多分こっちだった。確かこっち。ビルが何もかもを跳ね返す壁のように立ち並ぶ場所。街路樹のどれも同じような形をした木が、生い茂った葉の裏に少しだけ闇を宿して明るい空に映えている。コンクリートの丸いポールと、灰色のタイルの歩道。

 やっぱりだ、あった。

 ……あの絵が。

 何度でも見入るし、圧倒される。打ちのめされる。僕を飲み込もうとする色という色の海。うねり。渦。衝撃的で暴力的なほどのカラフル。抽象的に色付けされた女性。真っ白な涙の雫と、笑うような悲しむような何も無いかのような不思議な表情。こちらを見つめて無限を覗かせる瞳。何度だっていくらだって、打ちのめされる。僕はこの絵を見るたびにショックを受けて立ち尽くす。

 ビルに付属した、ガラス張りの展示スペース。決して狭くはなくて、並の大きさのポスターなら並べれば八枚は貼れそうな緑の壁を占拠する絵の大きさは、百号。僕が描いてもらう絵と同じ大きさ。そしてここは朝日の当たる東向き。絵に描かれている彼女が榊さんに頼んだ。そして彼女は命を絶った。僕は知っている。榊さんがさっき、話していたから。

 考えるな、もう今日は帰ろう。そう思うのに、地面に張り付いたように足が動かない。膨大な種類の人間を揃えて個性を失った「人々」という名の群れが蠢く中、僕だけが悄然として立ち止まっている。

 死んだ女性の家族は、この絵を見つけるだろうか。見つけて誰であるのかに気づき、憤慨し、または深く傷ついて、榊さんのところへ行く? そもそもこの女性はどこから来た人だったのだろう。どんな性格で、何を見て何を思ってこれまでを生きてきたのだろう。婚約していた男性は今どうしているのか。

 ぎゅっと知らないうちに拳を握りしめていた。

 なんでこの絵を見て死んじゃったんだろう。彼女が持っていて榊さんが見た〈本質〉とはなんだったんだろう。

 手を合わせたりはしない。いくつもの人目の前でそんなことできない。中途半端な黙祷。ただ僕は首を落として絵の前にうなだれていた。──この人の献花になりたい。だけど僕が死んだ時に献花になってくれる人はいないだろう。そういう詩が書ける気がした。嘘だ。今の僕にはどんな詩も書けるわけがないじゃないか。

 僕のXデーは、あと二週間ほどでやってくる。

 憂鬱を振り払おうとする気力もなく、僕は足元を見つめたままで歩き出した。駅の方へ、アパートの方へ。タイルの地面に黒っぽいガムの汚れが点々とついていた。汚らしいと思ってわざわざ避けることもない、散々たくさんの足に踏みつけられて張り付いた染みなど、ただの風景だ。

 人波に流されながら、とぼとぼと行く。時間が経つにつれてより一層人の数が増えてきていた。下を向いて歩いて、誰かにぶつかりそうになるたびに「すみません」と小声で謝った。相手は誰も、何も答えなかった。関係もない関心もない一人の人間のことなど見えていないに違いなかった。会釈を返してくれないか、いっそのこと舌打ちでもいいから反応を示してくれないか……なんて。それもまた嘘だ。

 ぱっと目の前で笑い声が弾けた。

 僕は思わず顔を上げてから、ひどく後悔した。目の前を数人の大学生ぐらいの男女が談笑しながら横切って行った。一瞬のことだったのに、僕の中にそのイメージが長く尾を引いて残った。

 たくさんいる人々もまた、風景だ。そう思うのになんでだろう。同い年ぐらいの人間は目につく。笑い声が耳につく。まるで彼らにだけスポットライトが当たっているみたいに。

 嫌だ、嫌だ嫌だいやだ。

 心の中では逃げるように駆け出して、だけど実際には体が動かずにほんの僅かに早足になっただけだった。──どうして。

 彼らと僕の間に、どんな違いがあったと言うのだろう。どうして彼らは状況と時代と環境を、そんなにも容易く受け入れて笑うことができるのだろう。十八歳。大学生。成人。十七歳との違い。明確な差は無いのに、厳格な線引きだけ押し付けられて「はいもうあなたたちは大人です」などと言われたってわけがわからない。わけがわからないのは僕だけ?

 わからないのに、僕はもう成人して一人の大人扱いされるようになってしまって、戻ることはできない。──前のめりに倒れ込もうとするように歩く、歩いて行く。

 別に大人になりたくないとか子供のままでいたいとかそういうことじゃないのだ。ピーターパン症候群? そんなの全然違う。そうじゃなくて、なんだろう。青年期は短い枠の中に押し込められて、モラトリアムの時間も長くは許されなくなって。支払が猶予される期間、とか優しいことを謳っておきながら、今では結局モラトリアムなど悪口だ。全力で逃れようとしない限り、やがてはモラトリアム人間へと育って行く。

 全力でその道を避ける意味はどこにある。

 取っ掛かりは「修行」の一言であった勉強を努力で極めた。ちゃんと高校に行って、ちゃんと成績をキープし、ちゃんとそれなりの偏差値を誇る大学に受かった。ちゃんと就職して、ちゃんとした人生を進んでいくために。

 そのザマがこれだ。何もかも嫌になって、生活も何もかも自分でめちゃくちゃにして、人についた嘘が重なって、どうしようもなく息ができなくて苦しくて。

 真面目に生きようとした、これが結果だ。

 すみません、すみませんと呟きながら歩いていた言葉が、頭の中では勝手に「どうして」に変換されていた。どうして、どうして、僕は。なんで僕が。

 すれ違ったOL風の女が、僕のことを何気なしに見てぎょっとしたように目を見開いた。なんだろう、とぼんやりとした頭で思っていたら白い色がぱっと視界で弾けて下に落ちた。風を切るたび頬がすうすうとして冷たかった。空気はじんわりと汗をかくほど生ぬるいのに。いつの間にか、泣いていた、らしい。

 どうして。

 僕は顔を拭くこともしないまま笑って、泣いた。


     ❇︎


 スマホを開けばたくさんのニュースが目に飛び込んでくる。政治家の汚職が発覚したとか、物価高であらゆるものの値上げが続いているとか。地方のどこどこで誰かが誰かに刺し殺されたとか、同日に東京では世界的に有名なサーカスの公演が大盛り上がりだとか。

 馬鹿じゃないの。

 声を出さずに呟いて、僕は立ち上がる。カーテンを開けると朝日がぱっと差し込んだ。今日も暑くなりそうだった。まだ八月は終わらない。まだ中旬と下旬の間あたり。まだ。

 こうやって朝すぐに太陽の光を浴びるようになったのは、確か中学の公民で幸福追求権について習ったのがきっかけだ。太陽の当たる家に住む権利である日照権がそれに含まれていると聞いて、日光を浴びれば幸福になれると短絡的に考えたのだ。それ以来「幸福だ幸福だ」と、多分「修行だ修行だ」と同じようなノリで。いつの間にか癖と化して。

 今日は例の服屋でのバイトがあるが、それまではまた榊さんのところへ行く。一人でいるよりかはマシな気がするから。

 手に持ったスマホのホームボタンを無意味に押すと、指紋認証で勝手にロックが解除されて、さっきまで開いていた検索アプリのニュース画面が開いた。数秒間眺めてから、検索バーに「榊禄介」という言葉を打ち込んだのはほんの気まぐれだ。

 「榊」や「榊 画家」と検索ワードを変えながら、適当にスクロールして文字列を目で追いかける。最初に調べた時とどうせ同じような情報しか出てこないに違いない。本名かどうかもわからない名前と、何枚かの絵の画像、簡単なプロフィール。それだけだろう、と思っていた。

 しかし違った。下へ下へと見ていって出てきた、「あおり運転による二人の犠牲者」という見出しに手を止める。書かれた日付は割と最近のようだ。ドライブレコーダーの普及前から、あおり運転は確かに存在していた、ということを暗に仄めかす目的らしい記事だった。だがそんなことは今はどうでもいい。

 事故が起こったのは今から二十五年前。死亡者は二人。「榊義則さんと玲子さん夫妻」。更には「尚、二人には現在画家としてデビューしている成人の息子がいて、遺産は二人の身に何かあれば全て彼に行くようにと既に弁護士を通しての取り決めがあったらしい」と補足が入っていた。

 僕は歯を食いしばった。

 その息子とやらがあの人であることは明白だ。遺産。そういえば彼の自動車は高級外車のロールスロイスであるし、アトリエも彼が建てたわけではなく譲り受けたようなことを言っていた。それに、駅前のあの掲示板を長く押さえている金は一体どこから出ている? 本人は絵に対して大きくても五万円の支払いしか求めないというのに。

 不運で死んだ両親には、それほどの遺産を丸々全て彼に遺す理由があったのだ。

 知らぬ間に「全色盲」という文字を表示させていた。

 真っ先に色覚異常や先天性という言葉が出てきた。どのように見えているんですか? 全てのものが白、黒、灰色のグラデーションで見えています。また視力は通常0・1以下ととても低く、手術を受けずに生活していくことは難しいでしょう。モノクロ写真の中の風景のように見えると言うのは本当ですか? 実際にはそんな簡単な見え方ではないと考えられます。全色盲の原因としては、二種類の錐体視物質が失われるか全ての錐体機能が失われるかで……。

 僕は視線を逸らして手の中でスマホの画面を切ると、一度強く瞬きをした。

 色を飛ばす。視界から。

 床のちゃちなフローリングは薄い色。窓の外の空はさらに淡く。扇風機も照明に付いた傘もスマホを握る自分の手も、全部灰色。ローテーブルの下の影は明確に黒く。明度だけで区別される世界。赤も青も黄色も緑もない。見えない、見えなかったなら、僕に見えている景色もこうだったなら。色が…………っ駄目だ、見える。キッチンに置いた鍋の赤い色、干したタオルの青。差し込む自然光だってモノトーンの白じゃない。もっと色んなものが溶け込んで温かいような色味の白。

 これが見えないとはどういう気分なのだろう。色盲とは障害に入るのか。

 そこまで思考を巡らしてから、はっとした。我に帰ればすぐさま、ひどく嫌な気分になった。仮にその考え方でいくなら僕は健常者だっていうわけか。その仮定をすることすら軽蔑的で陳腐なことなのに。



 アトリエの中は、いつも通りに薄暗くて、絵の具やら何やらの匂いに満ちている。画家はいつもの通りに真っ黒な服に身を包み、意味のない小さなデッサンを繰り返している。

「榊さん」僕だっていつも通りに話すはずだった。いつも通りに当たり障りのない話題を出して、当たり障りのない会話をするはずだった。なのに。

 イーゼルを二つ並べた上に伏せて置かれたキャンバスの裏側を見つめる。影の落ちてもやもやした灰色。……僕の口からこぼれ出たのは、こんな台詞だった。

「榊さん、僕が病気でもなんでもないのに遺影を依頼する理由。話したくなったら勝手に話せばいいって言いましたよね。──聞いてくれますか?」

 榊さんの握っていた鉛筆が無造作に机の上に放られて、カラララ……と音を立てて転がった。逆光になっているから、彼は普段と変わらないから、そういう人だから、僕が無知だから? 榊さんの表情はまるでわからない。無表情の裏側の感情は一切見えない。

「ああ。話したいなら」画家はゆっくりと首肯した。

「じゃあ」と僕は話し出した。

「僕が遺影を頼んだのは、遺書を書いているのは、つまり死ぬのは、僕が生きていることには何も意味がないからです。生きているだけの理由がないからです」

 思ったよりも自分の声ははっきりとしていて、ああ今日自分はこれを言うためにここに来たのだという気がした。風が木々の枝を揺らし葉をこすり合わせる音が聞こえた。大きな蝶が相も変わらずひらひらと同じ場所を飛んで行っては戻って行った。

「何かを成し遂げる人間なんてほんの一握りです。何をも成し遂げない人生なんてありふれています。誰も注目しないし、評価もしません。そんなありふれた人間の一人でいる意味ってどうしてもわからなくて……、やっぱり、僕には理由が無いんです」

 一分ほどの時間が流れただろうか。そんなのは体感であって本当は数秒に満たないほどの間であったのか。わからないが、榊さんはしばらく無言で僕を見つめてから、ようやく口を開いた。

「理由。俺が考えるに、お前は本当にそれを知らないのだろうか」

「……どういうことですか?」

「いや、いい。……ところで、ヴィクトール・フランクルという人間が」引用だ、と僕は軽く落胆する。どこかの偉い人の偉い言葉など、特別なものを持たない人間にとっては所詮弱い鎮痛剤にしかならないというのに。「著書の『夜と霧』にて、何故生きていくのかという問いに対して人生をかけて答え続けることこそが生きることだと記した」

 僕は眉と眉をぐっと寄せた。「そういう綺麗事が聞きたいわけじゃないんです」

 榊さんは表情を動かさずに低い声で諭す。

「綺麗事だと言うか。だが、フランクルはユダヤ人で、その主著が書かれたのは第一次世界大戦の極限下だ。彼の横で何人もの同じユダヤ人が、草をたやすく薙ぎ倒すように迫害されて死んでいった。幾発もの乾いた銃声を聞き、死体を燃やした場所から煙が流れていくのを見た。どうして自分はそんな中で生き残ったのか。それを考え続けた人間の叫びだ」

 僕は半分「それでも今それは関係ないじゃないか」と抗議し、半分は本気で戸惑っていた。言葉は嘘をつくというのが自論の榊さんの話すことは、全て彼が考えに考え抜いて、彼の中で〈真実〉化したものだ。それらを語る時、榊さんは気兼ねなく声を出すために普段より饒舌になる。しかし、今の饒舌さはそれとは別の種類のものである気がしたのだ。違和感が僕の恐怖を煽った。

 だけれど、ほぼ無意識のうちにそれに気づかないふりをしていた。

「さびしいんです。今、さびしくてどうしようもないんです。僕は僕なりに考えて感じて、わかったんです」

 さびしさとは、死因になりうるのだということを──。

 榊さんは首を傾げた。

「どうして生きる意味というものにこだわるんだ。人に認められないことがそんなにも寂しいか」

 僕は睨み返すように榊さんの鋭い瞳を見据えた。「人に認められないことだけじゃないです。自分でも自分が認められないんだ」

「自分で認められない人生は、確かに寂しいかもしれない。虚しさを感じるかもしれない。だからと言ってそれが意味がないということに直結するだろうか」

「──そんなのっ」気づけば怒鳴っていた。今までの鬱屈。榊さんの理屈を捏ね回すような回答と、それから。

「榊さんには、わからないです」

「…………」

「負け組の僕の思いなんて、成功者の榊さんにわかるわけがないじゃないですか!」

「俺は成功者だろうか」

 また涙が勝手に瞳の表面に滲んでいた。ごしごしと腕で強引に拭う。情けない、というよりも今は「どうしてわからないんだ」という怒りの方が強かった。何故気づかない。自分が恵まれた人間であることに。それとも気づいているのか。気づいた上で無感情に全てを見下しているのか。そうなのだとしたら、それは傲慢だ。なんて傲慢なんだろう。

「……成功者でしょうよ」と、僕は低く唸った。「画家、つまりは自分の世界だけで他者に莫大な影響を与えることのできる芸術家になって、不幸なことだったには違いなくても親から全遺産を受け継いで、好きなことをして生きて、仮に働かなくても住む場所にも生活費にも困らないほどで。何にも心配なんていらない。誰が困ろうと、自分は高いところにいる。下で悶えている人間たちが泥のしぶきを飛ばそうと、それが掛かる恐れすら無いぐらいに。成功者に決まってるじゃないですか。他に何だと言うんですか? こんなんなら」

 こんなんなら?

 僕は床の一点を見つめて、震える声で吐き出した。「こんなんなら……、僕だって全色盲としてこの世に生まれてきたかった」そうしたのならこんなに苦しむことなんてきっとなかった。

 風の音も遠くの蝉の声も消えた。電球のフィラメントがちりちりと立てる音だけが耳の表面に届く。しんと静まり返ったアトリエの空気が冷たい。もとから──ではない。たった今、パキパキと音がするほどに凍った。凍りついた。

 あまりにも長い沈黙に、僕は恐る恐る顔を上げた。榊さんの目は逸らされることなく突き刺すように僕に向けられていた。薄く開いた唇がほとんど動かされないまま、静かに言葉を紡ぎ出す。

「……本当にそう思うか?」

 ただそれだけ。たったそれだけだったのに、榊さんの激情が一直線に僕を貫いた。

 怒ったのではない、傷ついたのだ。

 彼はすっと立ち上がり、向こうを向いて座り直した。淡々とデッサンが開始されたのが、広い背と腕の動きでわかった。彼が鉛筆を紙に乗せるたび、やたらとカツカツという音が響いた。

 怒らせたのではない、傷つけたのだ。

 僕は真冬に全身ずぶ濡れになったかのように震えていた。体の芯までがたがた震える、という感覚を多分人生で初めて覚えた。重心が定まらなくて、止まったまま立っていられない。輪郭線がぶれて消えて行ってしまいそうで。

「すみませ……」

 掠れた声を絞るようにしてやっとのことでそれだけ言い、僕は逃げるようにアトリエを飛び出した。日光を遮り暗くざわめく森を走って抜け、門を出たところで立ち止まる。顔を覆った。

 なんだよ、昨日よりさらにみっともないじゃないか、と笑った。自分に対してあくまで都合の良い涙を全て拭い払ってしまいたくて、腕で目元を必死に擦った。



 適当な喫茶店で店の人に申し訳なくなるほどの時間を潰して、それでも随分と早くバイト先に着いてしまった。服の出し入れ、軽い接客。与えられた仕事は普段と変わらないものだというのにつまらないミスを連発して、常勤の男性店員に舌打ちをされた。

 すみません、と何度呟いたかわからない。

 すみませんすみません、邪魔だろうし目障りだろうにまだ生きていてごめんなさい。

 店のドアが開かれるたびに、ハンガーラックに隙間なく掛けられた服たちの影に隠れた。黒いカーテンのように裾や装飾布がひらひらと揺れる中で僕はうずくまっていた。彼が来るんじゃないかと──いや、来るわけなんてないのに。鉢合わせする確率なんてそんなにないのに。──誰にも会いたくない。

 誰かがいたからって何かが満たされるわけじゃない。

 普段は何とも思わずに過ぎ去る三時間が長かった。帰り際に店員たちに何かしら文句を言われるかと思ったが、そんなことは別になかった。自分が自覚しているほどに他人は自分を見ていないし、気にしていない。それは安心材料であるには違いないけれど。

 ……冷やかしの客を高飛車に扱って常連客は迎合する、そんな彼らのことを「苦手だ」と言ってきた。だけどそれは間違いで、ただ僕は彼らを恐れていたのだという気がした。「苦手」や「嫌い」とは相手と自分が同じ土俵で戦っていないか、または対等であるからこそ下せる評価だ。

 僕は店の奥のスタッフルームで私服に着替えて、荷物だけ掴んで店を出た。最近は色んなものから逃げてばかりだ。

 暗くなった街を歩いて行く。夏至はもうとっくに過ぎたのだから、少しはこれでも昼が短くなっただろうか。よくわからない。人々にも建物にも興味がないのなら、どこだって全部同じ街だ。僕を僕たらしめる線が解けるように消えていく。

 ──飛行機雲が青空に散っていくのと似ている。

 この蒸し暑さからして今夜も熱帯夜になるか。温暖化やらラニーニャ現象やらで、都市での熱帯夜など常識だしクーラーをつけて寝るので関係はないが。終わりのなさそうな夏だが、確実に日は短くなっていって、確実にいつか冬が来る。冷たい風が吹き身を縮こまらせる灰色の季節を迎える前に、僕は舞台を下りる。人知れない場所でタランチュラの毒に倒れよう。

 とさ、と小さな音を立てて、手に持ったままになっていたリュックサックがコンクリートの上に落ちた。僕はぴたりと立ち止まった。

 気がつけば周り中の景色や音が──世界が消えていた。薄暗くて何も無い空間。ぬるっとした空気が、塊になって大きな舌のように僕を舐めた。熱気と暗さに圧迫される。息をゆっくりと止めていく。

 上から何かに押さえつけられているような、思考の中まで暗くなるような感覚。

 耳鳴り。

 ただ突っ立っていると闇が静かに渦巻いて形を成した。それをただ眺めていた。影は今度はすごく近くに立って、僕を真っ直ぐに見上げている。誰なのか、はっきりとは見えなくても感じることができる。今はもうこの世にいない人。遠くにいる人。あの絵の中でも美しい表情で僕を見つめていた……、

 ……あなたなんだろ?

「僕を」知らぬ間に声を出して、一歩彼女に近づいていた。「同じ場所へ連れて行ってはくれないか」

 そっと広げた手のひらを伸ばす。向かい合った影もまた手を伸ばしてきた。鏡合わせの像のように、時が止まるように。触れ合おうとした時、影の指先がしゅっと解けるように消えた。彼女は首を振った。僕もゆるゆると首を振った。

「……そうか、だめか」

 取り込まれて、煙のように消えてしまいたかったけれど。

 ──こんなんなら、僕だって全色盲としてこの世に生まれてきたかった。

 ──本当にそう思うか?

 どうして僕は最後に、最期に新たな人と出会うことを考えたのだろう。出会わなければ。出会ったのが、あんな人でなければ。僕はあんなことを言いもしなかったし、誰にも迷惑をかけなかった。誰も傷つけたりしなかったのに。

 自分が最低で最悪のことを言ったとわかっている。……でも、だって、僕の些細な声一つで傷つくとなんて思ってなかった。飄々として強さの黒を持つあの人が、僕なんかの言葉に動じるとは考えもしなかった。

「でも、言い訳なんて自分のための気休めだよね。あのね、僕は、あの人にひどい言葉をぶつけたんだ。心ないことを言ったんだ。やっぱり言葉は嘘をつくのかもしれない」

 闇が夜風の中に溶けていく。僕は僅かに微笑むような気持ちでそれを見送った。黒はやはり目に優しい。僕の黒は弱さの黒。

 感情の機微が、人の心というものが目に見えたのなら、迷いなんてしないのだ。

「色が見えるくせに、僕は盲目なんです」

 呟くと、やがて世界が意識の中に戻ってきた。












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