盆帰り



 午後三時。

 新幹線から降りて駅を出ると、地元に帰ってきたのだなというのを急に感じた。熱海駅自体は青系の色の格子パネルを使って近未来風にデザインされている。ここだけならば栄えた新しい街だ。とはいえ、少し遠くに目をやれば民家や生い茂る緑が見える。大勢で意思を持った昆虫のように、何本もの木々が全て同じように揺れざわめいていた。

 駅舎のガラスに、マスクをつけてキャップを深く被った猫背な青年が映っていた。情けなくなってすぐに視線を逸らす。自分の容姿は、あんまり好きじゃない。天然パーマのかかった前髪が、心なしかいつもよりもうねって、額に垂れ下がっていた。湿気を感じた。

 なんとなく房総の景色を連想した。榊さんとあの漁村に行ったのももう五日も前だっけ……と続けて画家のことを思い出した。

「盆には実家に帰るのか」

 彼にそう尋ねられた時、僕は少し驚いた。何故驚いたのかは自分でもよくわからなかったが。

「帰っても……もちろんいいんですけど、別に帰る必要もないのかな、とも思います」

 母さんからは七月中に電話で「お盆に帰省はできそうなの?」と訊かれていた。母さんも父さんも僕が大学に行っていないのを知らない。「ちょっと今忙しいっていうか……。だからわからないなあ」と返すと、母さんは笑った。「大学一年生に忙しいも何もないでしょ。でもそっちに優先したいことがあるなら別にいいよ。お盆だからって全員集合しなきゃいけないわけじゃないし、別の時にでも」うちには先祖を迎えようという気概がなければ、お墓参りに行く習慣もない。送り火も、キュウリの馬とナスの牛も、漫画や小説、テレビの中でしか見たことがない。生きてる人も先祖も帰って来たい時に勝手に来ればいいでしょ、とそういう家庭だ。

 だが、榊さんは「嫌でないなら帰った方がいいな」と言った。

「はあ。それはどうしてです?」

「盆の風習だのはどうでもいいと思うが、親に会うことはなかなかいいことだ。……何か変なことを言ったか」

 僕はますます驚いて彼のことを凝視していたのだった。さっきから感じていた実体のない違和感の原因がわかった気がした。俺は常に一人で生きている、というような顔をした榊さんが、親孝行のようなものを語るのが、あまりに意外だったのだ。

「いや……当然ですけど榊さんにも親がいるんだなって」

「俺が両親から貰った物で一番気に入っているのは名前だ」彼はまた微妙にずれた返答をした。名前……榊禄介さんか。禄という字の意味をよく知らないので、僕は曖昧に首を傾げた。

 ……と、そういう会話があって。

 結果として静岡に戻ってきた僕は、のこのこと駅から家まで歩いて帰った。母さんには既に今日帰ると連絡を入れてある。風景は畑、民家、畑、民家、民家。千葉に住み着いてから五ヶ月も経ってはいないというのに、妙にわくわくするような、こそばゆいような変な感じがした。ゴールデンウィークは帰省をしなかった。自己嫌悪で潰れていたからそれどころではなかったのだ。今は──もう大学に行かないことにすらそれなりに慣れてしまったわけだから、もっと酷いのだけれど。

 家の前まで来るとピアノの音が聞こえた。

 まだ弾いてるんだ、それから今日家にいるんだ、と思ってから、まあそれもそうかと納得する。

「ただいまー」玄関を開けると、母さんがすぐに奥から顔を出した。一瞬だけ真顔で見つめ合ってから、ほぼ同時ににやけた顔になる。互いになに笑ってるのさと言い合う。

「元気にしてた? 大学楽しい?」

「うん」僕は一瞬の間も開けずに頷いた。「そこそこ、僕なりに頑張ってるとこ」

「そう。まああんたのことだし器用にやってるだろうから、あんまり心配はしてないけど」

「うん」

「変なとこで立ち止まってないで早く上がんなよ。あんたの家でしょ」

 ほとんど、というか貴重品を入れた小さなリュックサック以外は完全に何も持っていない状態で来たので、部屋に置くものも何もなかった。そのままリビングに直行する。自分の部屋に久しぶりに入っての「そのままにしておいてくれたんだね」「なに、いつでもあんたが帰ってきていいようにだよ」などという、小説なんかでありがちな会話はない。

 母の大雑把な性格上、「ま、片付けなくていっか。面倒だし」という理由で、僕の机やクローゼットなんかの家具は全てそのままになっているに違いなかった。本来一般的な家庭において幅を取るから一番に撤去したいのはベッドなのだろうが、僕の部屋にはそんな洒落たものは無い。襖にしまわれた敷布団なのだった。

「父さん、まだピアノやってるんだ?」

 ソファに腰掛けて尋ねた。二階から聞こえるピアノの音は続いていた。何の曲なのかはわからないが。台所で夕飯の具材を切りながら、母さんは「聴いてりゃわかるでしょ」と笑った。

「夏休みになって学校行かなくなってから、毎日この時間はこの調子だよ」父さんはすぐ近くにある小学校の先生だ。もちろん子供たちが来ない休みの間は、滅多に仕事に行くことはない。そんなことはわかっているのだが、「学校行かなくなってから」という言葉に僕はびくんと反応した。誤魔化すために座り直した。ソファの上に体育座りのような格好になる。

「それにしてもあんたが帰ってきた音にも気づかないで弾いてるなんて。あ、それとも気づいててそっち優先なのかね?」

 母は何も気づかずに、大らかにけたけたと笑った。ようやく硬直が解けてきた僕も、少し笑みを浮かべた。「父さんのことだからどっちだかわかんないなぁ……。まだあれ弾いてるの?」

「あれ?」

「タランテラ」

 ブルグミュラー二十五の練習曲の二十番、タランテラ。八分の六拍子の舞曲だ。僕まで曲名を覚えてしまったのは、父さんが色んな曲を弾きながらも、その曲だけは変わらず毎日弾いていたからだ。指鳴らしにいいとか、曲調が好きなんだ、とか言いながら、意地になっているようにいつも弾く。

 母は「もちろん」と当たり前のことのように答えた。

「父さんが気に入ってタランテラ弾いてるの、子供の頃あんたがあの曲に合わせて楽しそうに踊ってたからだよ」

 僕は頷いた。「知ってるよ」

 あれはタランチュラに刺された人間が毒を出そうと踊り回る曲。知識人ぶった父にそれを聞いてから、僕は「こんな感じ?」と幼少期よく暴れるように滅茶苦茶な踊りを披露したものだった。

 と、ようやく階段を降りてくるどすどすという足音がした。

「真斗元気にしてたかー?」リビングに入ってきて、僕の前の椅子にどかっと座る。声の調子からするに、本当に僕が帰って来たのに気づいていながらピアノを弾き続けていたらしかった。別に文句はないし、むしろ父さんらしくていいと思う。

「元気元気」

「おれピアノ上手くなったろ?」父さんは一人称に「父さん」を使わない。「おれ」と言う。母さんは自分のことを「お母さん」と言うのに。

「上手くなったと思うよ。でも聴いてる感じ、もっと難しい曲もいけそうだと思ったけど」

 父さんはにやにやした。頬をつねったらモッツァレラチーズのように伸びそうな感じの笑い顔だった。「真斗はまだわかんないかー。こんなもうすぐ五十のオヤジが、少し簡単な曲を完璧に極めて弾く姿は」

「姿は?」

「聴く者に感動と勇気を与える!」

 へえ、と僕が適当に頷くと、「信じてないな?」と父さんは指差してきた。ご機嫌のようだ。「熱海駅に先月限定でストリートピアノが置かれてたんだが、タランテラ弾いたら大盛り上がりだったんだぞ。なっ?」

「本当だよ」台所から母が口を挟んだ。仲の良い夫婦だ。

 陽気な父と、大らかな母。僕がいなくなってからもこの家には変わらない明るさと温かさがあるのだな、と思ったらなんとなく少し安心した。


 夕飯は、鶏の照り焼きとアジの南蛮漬けだった。

「妙に豪勢なの作るより、こっちの方があんたもいいでしょ」と言うところあたり、さすがに僕の好みをよくわかっている。日頃は手抜きを極めて、レタスサラダを添えたカップラーメンか、良くてもコンビニ弁当だ。家庭で作られた味、というのが懐かしかった。思えば昔から、僕は買った食品やレストランの食事よりも家で母さんの作る料理の方が好きだった。「お前はいい息子だなあ、母さんも嬉しいだろ」と父さんに言われるぐらいに。もっとも、一人暮らしを始めた今は、好みも何も貫けないほどに乱れてしまったが。

「アジの南蛮漬け好きになったのって、中学生になったぐらいだったな。それまで実は何となく苦手だった」

 一口食べながら僕は呟いた。へえ、そうだったんだ、と母さんが目を丸くした。

「あんたって好き嫌いとかあったんだ」

「そりゃああるよ」

「だっていっつもなんにもも言わずに食べてたから。美味しいっていうのはよく言ってくれたけど」

 あ、でも確かに鷹の爪は残してたよねと言う。僕は笑いながら頷いた。アジ南蛮に混ざっている鷹の爪の細い輪切りを、いつも箸の先で一本一本摘んでは皿の端に小さな赤い山を作っていた。

 いつの間にか弱くはない雨音が聞こえていた。どうりで今日、湿気で髪がボサボサに跳ねていたわけだ。

「雨の予定だったっけ?」何の気なしに呟いたら、母さんに呆れられた。

「天気予報も見てないの? 台風来てんじゃん。確か明日の朝がピーク。昼ぐらいにはもうどっか行っちゃう」

「へえ、そうなんだ」テレビ、あんまりつけないんだよね。それを呟くのはやめておいた。

「お墓参りする人は大変だよなー」父さんが他人事っぽく言いながら、缶ビールを二本冷蔵庫から取り出して、自分と母さんのグラスに注いだ。雑にやり過ぎたのか、泡まみれになったビールが父さんのグラスから溢れてテーブルに水溜りを作った。「ちょっと、何やってるの」「真斗、ティッシュ!」そんなやり取りが安っぽいホームドラマのようで少し笑えた。誰が見ても「素敵な家族」と評しそうな、完璧に明るい食卓だ。

 アルコールの匂いがつんとした。

 十九歳にすらなっていない僕はまだ未成年であり、当たり前のようにビールが飲めない。舐めさせてもらったことぐらいならあるが、美味しいとも感じなかった。どうして大人たちはこんなに苦いものを気持ち良さそうに飲むのだろう。僕が未成年だからわからないのか。だけど、そっか。十八歳にはとっくになっているのだから、成人はしているんだよな。スマホの契約だって、高校を卒業した後で自分名義に変えた。

 成人だけど、成年ではない。

 なんて中途半端なのだろう。定義の意味は曖昧なのに、線だけは明確に引かれた中間に今僕はいる。そこはもう温室ではない。青年期とはモラトリアムの時期であると、とある心理学者が言った。モラトリアム──支払い猶予期間だ。自分の進む道を見つけるまで、僕らは停滞を許されるのだと。だから青年期は、中にいる人間からすれば温室のようなものだ。……そのはずだった。

 だが、線と線の間にいる僕らは? 時に〈大人〉として扱われる身分では、その期間は保証されるのか? いつまでもその温室にいられるなら、きっと僕でも生きていけるのに。

「おい、覚えてるか?」

「え?」

 ぼんやりとしているうちに食卓の上では僕に関する思い出話が次々に飛び交っているようだ。

 既に夕飯の前に現在の僕の大学サイドの話については話してあった。結構な量の嘘を混ぜて、とりあえず大学生活を楽しむ僕の話だ。榊さんのことも──少しだけ話した。年齢や依頼した件については隠して、ただ面白い絵描きと知り合ったと。ものの見方が何から何まで違って興味深いと。多分父さんも母さんも、美術サークルに所属している友達でもできたのかと思っているだろう。

「何だっけ?」僕は首を傾げつつ麦茶のコップを煽った。「がはは」と父さんは笑った。

「聞いてろよ。真斗の話だろ? おれが作ってやった剣のことだよ」

「剣……あ、ああ」僕は答えた。「覚えてる」

「おおっ」父さんは椅子の上でジャンプする勢いだ。「すごいな、お前が小学校入ったばっかりぐらいのことなのによく覚えてるもんだ。すごいよな!?」父さんはよく母さんにこうやって確認する。母さんが「そうだね」と頷くと、すごく嬉しそうな顔をする。子供みたいだ。酒のせいか微かに顔が上気しているのも。

 父さんは多趣味だ。釣りにボクシング、山歩き、カーディストリー、粘土細工。大抵の場合は長続きしない。一年も経たずに次へと移っていく。ピアノだけが例外だ。多分母さんに内緒でアップライトピアノを買って家に運び入れ、それを母さんが怒ることなく許してくれたことに申し訳なさを感じているからだ。

 ハマってはすぐにやめていった趣味の中に、発泡スチロール彫刻というのがあった。それなりに器用な父さんは、鮭を咥えた熊の像やら石膏像風の人の胸像やらを作った後で、余った発泡スチロールで小さい僕のために剣を作った。柄の装飾なんかの細部まで凝って掘った後、スプレーを使って見事にカラーリングした。

「父さんってこだわる人だよね。今考えてもあれはかなりイケてる剣だった」

「どんどん趣味変えてくくせに、抜け出すまではのめり込むからね。今だってパッチワークにハマってるんだよ」母さんが南蛮漬けの皿に残った線切りニンジンの一本を箸で摘む。困ったというように、でもそれ以上に楽しそうに笑っていた。

「へえ、パッチワーク。あの布のやつ」

 父さんは得意げな顔になった。「ペンケースぐらいなら作れるさ」

「器用さは変わりないんだね」

「裁縫男子は今時モテるんだぞぉ」

「もう男子って言うのは無理あるでしょ」僕が突っ込むと、「それはそうね」と母さんが口を挟んだ。

「女は何歳になっても女子だけど、男には無理があるよ。真斗、あんたも男子のうちに頑張りなさいね」

 結構な男女差別の混ざった意見である。なのに「そうだそうだ」と父も乗る。

「僕の正義の剣は無敵なんだ!ってガキのころ言ってただろ。若いうちにいっぱい戦っとけよ」多分しこたま酔った声で言った。

 何を、と訊くのはやめた。何と、とも尋ねはしなかった。面倒くさそうな顔を作って「はいはい」と、それこそホームドラマの息子のように答えながら、僕は少し沈んでいた。

 陽気な父と、大らかな母。僕は父さんと母さんが好きだ。愛されて育ったという自覚はあるし、素敵な家族だと自分でも思う。なのに僕はどうしてこんなふうに歪んでしまったのだろう。都会のせい? 一人のせい? きっと違う。この黒い霧のような、もやもやしたものは、僕の胸の中にずっとあったという気がする。少なくとも中学の頃にはそれが充満して、誰かのことも自分のこともめちゃくちゃに傷つけたい気分になって、両親にぶち当たったこともあった。父さんも母さんも「今はそういう気分なんでしょ」と笑って、僕はまたイライラして。

 黒い霧は、まだ消えていない。

 まだここにあって、蓋をして押さえつけておく方法を知ったというだけで、少しでも力を緩めれば、きっといつでも僕を飲み込まんと口を開けるのだろう。その時を今か今かと待ち続けているのだと思う。

 いつか僕は取り返しのつかないことをするような気がする。でも、それが起きる頃には僕はもう生きていないのだとも思っている。Xデーは八月三十一日だ。

 僕は「ごちそうさま」と立ち上がって、重ねた食器をシンクの中に置いた。声に出して言ったのはいつ以来だろうか。

「真斗」父さんが僕の名前を呼んだ。少し驚いた。その声はさっきと違って、ちっとも呂律が怪しくなかった。

「なに?」

「あのオモチャの剣の良いところはなんだかわかるか?」

 二階の部屋にそろそろ引っ込もうかと考えていた僕は、虚を突かれてその場に立ち止まった。「えっ、うーん……本物っぽいところ?」咄嗟に出した答えに、残念でしたーと父さんは腕を交差させてバツ印を作った。

「正解は、当たっても痛くないことでしたー」

 そう言って、また「がはは」と笑う。やっぱり酔っているんだなと思った。



 八月十四日。盆帰りして二日目を、僕はほとんど何もせずに過ごした。

 びゅうびゅうと唸る風の音で目を覚ますと、既に七時半だった。罪悪感と多少の恥ずかしさに似たものを感じつつ、敷布団の上に起き上がる。いつもは六時前には勝手に目が覚めてしまうので珍しい。外が暗いせいだろうか。すっかり眠気は覚めていた。

 スマホを開くと、珍しく高校時代の友達からDMが来ていた。

[こっち帰ってきてるってマジ⁇]

[駅で見かけたって言ってるやつがいるんだけど、もしかしてドッペルゲンガーだったり(笑)]

 見かけたって言ってるやつって誰だろ、と思いつつ、[うん、帰ってきてる]とだけ短く返信した。布団を三つ折りに畳んでその上に枕を放り投げ、一階に降りる。

「おはよー」母は僕の起き上がる音を聞いていたらしく、トーストを既に焼いて待っていた。テレビでNHKのニュースがついている。画面分割の青いテロップは台風情報だ。父さんは一応小学校の様子を見に駆り出されたそうだ。

 窓ガラスに水のつぶてが叩きつけられている。窓も雨粒も痛いだろうにと思った。外を見れば、近所の家の木々が折れんばかりに強風を受けていた。

「すごい嵐だね」

「ほんと、それなのによく眠れたね。お母さんなんて何度も起きちゃった。こんなだけど、今日のお昼ぐらいには新幹線で聖也くんが帰ってくるってよ。新幹線、動いてるんだって」

 聖也くん、というのは僕の従兄弟だ。隣の家に住む、母さんの妹夫婦の息子だ。二つ上の兄貴分で、昔はよく一緒に遊んでいた。今はファッションデザイナーに弟子入りをして東京にいて、僕に“BLACK TAO”のバイトを紹介してくれたのが聖也くんだ。南青山の本店に伝手があるとかなんとか言っていた。

「そうなんだ。会えるかな」

「まあ今日じゃなくていいと思うけど。明日の夕方には帰っちゃうってさ。忙しないねえ」

 ふうん、と僕はとろけたチーズの乗ったトーストを食んだ。

 予報通り、二時くらいには雨が完全に止んでしまった。東へと動いていた台風はちょうど静岡辺りでぐいっと方向を変え、北へと進んで行ったそうだ。進路だ進路だと受験生のように騒がれていながら、動きに一切の迷いがなくて羨ましい……などと、学校から帰ってきた父さんのピアノを聴き流しながら考えた。ほとんど脳死状態である。もちろんスラング的な意味でだ。

 隣の家も今は一家水入らずなはずだ。聖也くんに会うのは明日に回すことにしたので、本当に何もない一日だった。強いて騒動があったとするならば、キッチンにアシダカグモが現れたことぐらいか。

 わあああっと母さんが悲鳴を上げたのを聞いて、見ると食器棚のすぐ横の壁に、足の長さまで含めれば全長七センチほどある蜘蛛がへばりついていた。

「あ、くーちゃん」幼い頃からの癖で僕はそう呼んだ。自然がそれなりにあるこの辺では、このくらいの大きさのアシダカグモが現れるのは珍しくない。家のダニやゴキブリを食べてくれるいいやつだから、殺したり怖がったりしないようにしましょうというわけで、「くーちゃん」と呼ぶように子供の頃教育された。もっとも、そう呼び始めた母が一番虫が嫌いで、蜘蛛のことも怖がっていたのだが。

「じゃあうちに今、食料がいるってことだね」

「やだあ」

 気持ち悪いとも、もちろん可愛いとも思うことなくしばらく眺めていると、アシダカグモはやがてゆっくりと移動して冷蔵庫の裏に消えていった。「えー? 勘弁してよ、どこにいるかわかんなくなるじゃん」と母が不満を呟いた。確かに茶色っぽくてふにゃふにゃではないくせに柔らかそうな体と、八本の長い足を器用に順番に動かして歩く姿は奇っ怪かもしれない。

 でも彼らは人間が住み始める前からずっとここにいて、のんびりと壁を這い、子孫を残し、そして些細な禍いが来れば姿を現して僕らに知らせる。八つも目玉があったなら何が見えるだろうか。僕はアシダカグモはこんなに小さいけれど神様なんだ、と言われても決して驚かないだろう。

 父のピアノが今日もブルグミュラーを奏でていた。



 次の日、六時の少し前。今度は風ではなく障子戸を貫通して差し込む日で起きた僕は、自分で焼いたトーストを食べて、適当に身支度をして家を出た。

 晴れていた。

 見慣れた公園に向かう道を歩いた。昨日飛ばされたらしい木の葉が、茶色くなって道路に張り付いていた。むっとする重たいような空気に上を向けば、青いとしか言いようのない空が僕を見下ろしていた。

 台風一過だ、と僕は無意識に呟いて、それが子供の頃好きだった言葉の一つであることに気づいた。もともと「台風一家、だなんてとんでもない家族なんだろうな」と間違えて覚えていたことがきっかけで記憶に残ったの言葉なのだが、暴風と暴雨の後にはいつも晴れが来る、それも清々しいほどの青空が──という運命のような必然性をなんだかいいなと感じたのだ。

 〈運命〉というものを僕は信じない。「私があなたと出逢うのは運命だったのだ」とか、「この不幸は運命の悪戯だ」とか。それは理由のわからない何かあった時にそれに対して自分を納得させるための言い訳でしかない。命は運ぶものでも運ばれるものでもない。でも、そうだな。偶然や必然という言葉でなら、運命に近いニュアンスであろうが受け入れられる気がする。

 サンダルで歩いているので、一歩踏み出すたびぺたぺたという音がついてくる。

 考えろ。偶然と必然は、運命と何が違う?

 ──多分何も違わない。多分僕は、自分に対する言い訳じゃない運命ならば、許すことができるんだ。

 ならばそれはどんな運命だと言うのか。

 さあね、と僕は自分に答えて、足を止めた。いつの間にかタコ公園に着いていた。コンクリートでできた赤いタコのオブジェがあるからタコ公園。本当の名前はなんだったか。忘れてしまった。わざわざ反対側の入口まで回って、名前の刻まれた看板を見るほどのこともない。僕はくるりと踵を返してもと来た道を引き返した。


 昼前に従兄弟と会った。

 部屋に招き入れてくれた聖也くんは「昼食は食べないで東京に帰るんだ」と言った。彼の部屋、とは言っても、僕の部屋とほぼ同じ構造だ。違いは既に片付けがされているかされていないか、というだけ。聖也くんもほぼ身一つで帰ってきたらしく、鞄一つにまとめられた荷物は、所在無さげにぽつんと襖にもたれている。

 畳の六畳間のど真ん中に二人で座布団も何も無しで座った。少し伸びた髪を自然だがお洒落な感じで後ろに束ねて、カーキの半袖ジャケットを着こなした聖也くんが僕と同じようにそうしていると変な気分になる。世界線間違えてない?というような。記憶も無いぐらい小さい頃からよく遊んでいた従兄弟のはずなのに。

 そうなんだ、と頷いた僕に彼は「そういえば」と言う。

「真斗。バイトは続けてるかい?」

「あ、うん。続けてるよ。週二ぐらいでずっと」

「そっか。ほら、ちょっと変わった店だろ? でも嫌じゃないなら良かったよ」聖也くんが目を細めて微笑んだ。最近流行っている韓国風というわけではないけれど、彼は線が細い。柔らかそうな白い耳で、銀色の輪っかのピアスがきらりと光った。なんとなくそれを見ていたら、色も形も全然違う榊さんの耳を思い出した。ピアスは付いていないけれど穴がいくつか空いた耳。

 千葉に帰りたいな、と思った。どうせ明日帰るけど。森に囲われたアトリエが懐かしかった。

「仕事は結構気に入ってるよ」

「でもほとんど雑用しかやらせてもらえないんじゃない?」

「んー、むしろ接客とかのほうが得意じゃないから。それに僕はファッションについて何も知らないし」

「それもそうか。ところで……」

 適当な近況やら思い出話を喋った後、やがて聖也くんが「そろそろ行くことにする」と立ち上がった。さっさっとジャケットの裾を伸ばす。

「真斗はこれからどうするの?」

 これから、の意味がよくわからなかった。今から、なのか。この先、なのか。とりあえず前者の意味で取ることにして、「僕もあと一日で自分の家に戻るよ。今からは友達に会ってくる」と答えた。昨日連絡を寄越してきた友達に会わないかと誘われていた。

「いいね、友達とも近況報告か」

「聖也くんは仕事忙しいの? 一泊しかできないなんて」

 大変なんだね、デザイナー見習いは充実してるんだね、と羨望を込めて彼を見上げた。聖也くんは「んん」と照れくさそうな顔になった。鞄を手に取る動作にかこつけて視線を逸らした横顔が、微かに紅潮していた。

「それなりにね、今は楽しいよ。目標があるっていうのは幸せなことだ。今の居場所は東京だから、こんなところにはいられない」

 いいなぁ、と僕は呟いて頷いた。

 聖也くんと一緒に下まで降りた。「もう行くの」とおじさんとおばさんが顔を出して彼を見た。親戚であるとはいえ、親子の別れのシーンに居合わせるのも変な話だと思って、僕は先にじゃあまたと家を出た。

 同じような形をした、すぐ隣の僕の実家へ。

 先に熱海に住み始めたのは、おじさんとおばさん──聖也くんの両親だ。彼らに会うという名目のもと旅行の一環で訪れた母さんと父さんは、この土地をすっかり気に入ってしまった。先に住みたいと言い出したのは母さんで、「いいじゃないか!」とすぐに賛同したのが父さん。細かいことは気にしない体質の二人は、昔に人が住んでいたという土地と家を安く手に入れた。僕の生まれる数年前の話だ。リビングや水回りにはリフォームを軽く入れたが、二階や外観はほぼそのままであるらしい。

 母さんが「おしゃれだから」とそのままにしている、塀に伸びた蔦の葉が風に揺れた。冬になれば葉なんて全部落ちて、汚らしいツタの部分だけが残るのに。

『こんなところにはいられない』

 そう言った聖也くんの声が、さっきから耳にこびり付いて離れない。こんなところ。確かに「こんなところ」だよな。大きな駅と地元民には縁のないリゾート施設の他には何もなくて、大してきらきらしていない、刺激など皆無なふるさとの街。どこと比べるわけじゃなくても、「ふるさと」というだけでどこか寂れたようなイメージがつく。僕だって千葉に帰りたいと思ったのは嘘じゃない。家に帰ると言って想起するのも、今はもうここじゃない。ここを表す場合は「実家に帰省する」という、何となく改まったような言い方になる。

 だけれど、何故だかさびしかった。

 今日の昼ご飯はなんだろう、とどうでもいいことを敢えて考えてみた。焼きそばか、うどんか、蕎麦か。きっと麺類だろうな。夏休みや冬休みはほぼ毎日麺類で、たまにチャーハンやらサンドイッチを食べていたという印象がある。ゆっくりと食べ終わった頃には、友達に会いに行くぐらいの時間になっていることだろう。


 三島尚は、待ち合わせの時間に十五分遅れて来た。

 逆に僕が来たのは十五分前だからちょうど三十分待ったことになる。熱海駅と繋がったショッピングモールの中のカフェは、ランチ帯とおやつ時の間という中途半端な時間なこともあってか、それなりに空いていた。窓に面した席に着いて、コーヒーだけ注文した。「アイスでよろしいでしょうか?」「えっ、あっ、はい」店員は僕が答えを言い終わるか終わらないかのうちにくるりと踵を返して去って行った。こんな夏だから、当たり前のようにアイスに違いないとでも思ったのだろう。混雑しているわけではないのだから、もう少し落ち着いて応対してくれてもいいとは思うけれど。

「わりいわりい、遅れた」

 友人が慌ただしくやって来たのは、コーヒーのグラスの表面が汗をかき始めた頃だった。ばたばたとやって来て、がたがたと椅子を引いて、ぼすんと座った。薄いぺらぺらのパーカーに、てろてろした生地のチノパン。デザイナー見習いの聖也くんと会った後なので、落差がすごい。近寄って来た店員に「チーズケーキとジンジャーエール! アイスで!」と威勢よく言う。ジンジャーエールにアイスもホットもないだろ、と内心で突っ込みを入れつつ、「久しぶり」と僕は挨拶した。

 尚がテーブルにかこんと置いたスマートフォンから、ストラップがぶら下がって揺れている。きついピンク色の液体に青い魚の透明標本が入った小さいカプセルのストラップ。趣味がよくわからない。尚はこちらを向いてだらしなく頬杖を突き、ニヤッと笑った。

「おうよ。くうちゃんは全然変わってないなあ」

 久しぶりの呼ばれ方に僅かに戸惑った僕は瞬きをして、自然と微笑んだ。空野、という苗字を中三で初めて同じクラスになった時に「くうの」と読み違えられたのだ。その結果、奴からはずっと「くうちゃん」と呼ばれていた。クウノなんていう苗字聞いたことないよ、と僕が後にからかうと、彼は空惚けた顔をして「いや、そんならソラノだって聞いたことなかったし」と答えた。

 尚のことを指して言い表すとき、なんて言えばいいのかよくわからない。結局「高校時代の友達」と言い表すことが多いが、本当に喋り始めたのは中三だ。だけど中学からの友達、と言うのでは語弊がある。同じクラスになるまでの間は、僕は尚の存在を知っていたという程度で、奴に至っては僕の存在を認識していたかどうかも確かではない。

 典型的な陽キャで、男子も女子も関係なく話せて、明るい。空気を読まずに授業中でもギャグを言うし、たまに下ネタを発して女子に「嫌だあ」と言われる。でも本当に嫌われることはない。そういうキャラとして認められているからだ。そんなのは表だけで、尚には裏があるのではないかと勘繰る人間もいるが、話せば結局そんなことは全然ないとすぐにわかる。ただひたすらにバカで浅いだけなのだ。

 一方で陰キャとどちらでもないの中間あたりに位置していた、彼と接点など何一つなかった僕と彼の線が、明確に交わった瞬間がある。例の詩事件だ。クラスメイトたちが口々に「すごい」と褒めた僕の詩を書くという趣味を、こいつだけは「そんなのオレにだってできる」と言った。聞いていて恥ずかしくなってくるようなデタラメな詩をその場で口にして、笑った。人生何が転換点になるかなんてわからない。それがきっかけで僕らはつるむようになった。僕は尚を面白いやつ、と思い、多分尚にもそう思われているのだろう。

「尚も変わってなさそうだね」

「そう簡単に変わってたまるかっつーの。でも大学生活はまじで毎日ジュージツなんだぜ? 教授のおじいちゃんに『君おもしろい人ですね』なんて言われてんの」

「へえ」尚は私立大の教育学部に所属している。彼が「将来教師になりたい」と言って周りを驚かせたのは、高三の夏前だった。補習の常連である彼の面倒をよく見ていた担任が、それを聞いて泣いていたのを覚えている。漫画かよと思った。

「尚って先生と仲良くなりがちだね」

「よく喋ってちょっと出来が悪くて、でもよく頑張る奴はかわいがられんだよ」

「自分で言うなよ」

 尚がぐいっと身を乗り出してきた。「なあ、なんで今日オレが遅れて来たと思う」

「理由がなくても遅れてくるからわからないなあ?」

 僕が笑顔で返すと、尚も笑顔になった。「そういじめてくれるなって」心から楽しそうに言う。結構こういうところはマゾだ。そうだったよな、こいつが天然ボケ役で、僕はツッコミ役だった。

「理由はぁ」と尚が言いかけたところで店員がジンジャーエールとチーズケーキを運んできた。「あっ、はい、あざす」と彼は姿勢をぴんと伸ばしている。タイミングがいいのか悪いのか。それにしても変な組み合わせだと思う。夕飯にはカップラーメンにサラダにコーヒー、という僕が言えることでもないとは思うけれど。

 尚はストローに口をつけて一口飲み込んでから、目を上げた。再びはっちゃけた表情にぱっと切り替わった。「遅れて来た理由はー、なななんと!」と大仰に驚いたようなジェスチャーまで付ける。僕は「溜めなくていいって」とそれに乗らずに呟く。

「女の子に会ってたからでしたーっ!」

 どうでもいいな、と僕は丁寧に言ってやって、尚と同じように頬杖を突いた。壁の一面が全てガラスになった、明るい広間のような店内で、僕らの間にだけ影が落ちる。男二人で顔を寄せ合うような格好なので、周りから見れば奇妙な光景だったかもしれない。奇妙というか、珍妙か。それとも滑稽?

「今日はすごかったんだぜ? ただの女友達だったんだけど、別れ際に好きだから付き合ってくれない?って言って来たんだ。もちろんオーケーして、その瞬間から恋人。わああロマンチック。ツーショット見せてやろっか?」

「何人目?」

「んなさめた顔してるなって。まだ大学入ってから三人目」

「……。その子も可哀想に」

「なんでだよ。向こうから言ってきたんだぞ。それに」

 わあわあと喋りたてる尚のことは無視して、僕は冷たさに尖りのなくなってきたコーヒーを口に含んだ。苦味と酸味が心地よかった。

 高校生の頃から、尚はこうだ。それなりに場を盛り上げる才能はあって、誰と話す時も物怖じしないのだから、自然と女子も寄ってくる。尚もまた無害な笑顔でそれに応じる。来るもの拒まずだ。だけど高校生の男女関係だなんて、言ってしまえば刺激を求めたお遊びだ。僕は尚が告白したり、告白されたり、振ったり、振られたりするところを一傍観者として幾度も見てきた。

 振った後も振られた後も、尚の表情はあまり変わらない。

『まあそういうもん。オレはわかってるし、向こうだってそう思ってるって』

 僕が気まずく感じるとでも考えたのか、彼は割とよくそう言ってきた。尚は去るものも追わないのだ。それを聞いて、こいつは単純だからこそ意外と残酷だと思ったのを覚えている。それは相手に対しても、尚自身に対してもだ。子供みたいなやつ。

 彼はきっと、人に本気で執着することができない。……ねえ、どうせ今回もすぐにまた別れるんだろ? そしてあっさりとどこまでも続く次へと進むのだ。

「それでその子、マミちゃんってゆーんだけどさ、それまで全然普通にいい友達だったわけだよ。だけどさ、恋人になった瞬間、あれこの子こんなに可愛かったっけって……」

 まだまだ尚は夢中で話し続ける。視界に何も入ってはいなさそうな様子の顔を真正面から見つめて、僕は声に出さずに問いかけた。

 ──いつまで同じことを繰り返すの?

 ──何が楽しくて生きているの。

 無意識のうちに僕は薄く笑っていた。誤魔化すために、微妙にぬるいコーヒーをストローで啜った。ほら、尚は高校時代からちっとも変わっていない。

 白々とした自然光が僕らの横顔だけを照らす。

 三島尚は僕の友人。なんなら親友。中三からの。そんなことは重々承知なのだ。だけど、彼といて安堵に似た気持ちを覚えるのは、きっと僕が彼を見下ろしているからだ。頭が悪い、今が良ければそれでいいと考え、先のことを見通せない、目先の快楽ばかり求める彼。短絡的で刹那的な彼のことを。

「ってか、オレばっか話してんな。わりいわりい」

 僕が完全に無言になったことに気づいたらしい。尚はようやく話すのをやめた。視線の焦点が僕に向く。

「ん、ああ、いや。別に」大丈夫だよ、と言い終わる前に「くうちゃんの方は?」と尚は尋ねて来た。すっかり忘れ去られていたチーズケーキの皿を持ち上げて、大口を開けて食べた。そんなに無造作に口に運ばれては、細いフォークが身をよじって逃げ出すのではないかと思った。

「何が僕の方は?」

「いや、なんか面白えことねえのかって。……あ、そうだ。お前まだ詩ぃ書いてる?」

 僕は浮かべていた笑みを止めて、一瞬だけ息を詰めた。それから、頬杖をやめて背もたれにもたれかかる。不自然さなんてかけらもない。単細胞の彼が、この空いた一拍に気づくわけはなかった。

「もちろん」と、僕は笑った。「もちろん詩は書き続けてる。ノートは千葉に置いて来ちゃったんだけどね」

「へえ珍しい。高校の時は修学旅行にすら持って来たくせにぃ」

 尚は、僕がノートに書く詩を意味もなく毎回読んでいた。読んでは「また小難しいこと言ってら」とか「これはなかなかな作品ですな」とか、適当なコメントを寄越していたのだ。おそらくろくに読んではいない。冷やかしだったのだろう。

 顔が歪むのを、無理やり笑みの形に捻じ曲げた。「ほんとに持ってくればよかった、今も書きたい題材で頭が一杯だ。あ、もちろん大学生活もいい感じだよ。日本や世界の詩人についてゼミで調べているところなんだ。親しくしてるやつも何人かいるし。一人暮らしも楽しいよ。自由最高!って感じ」

 急に饒舌になった僕を、尚は呆気にとられたように眺めていたが、やがておもむろに持ち上げたままになっていたケーキの皿をテーブルに下ろした。「まあいいや。お互い上手くやってるっつーわけね」

 芝居のように格好つけて口の片端を上げて、尚は片手を僕の方に差し出してきた。握手だとすぐにわかった。彼は前から、事あるごとに握手を求めた。何かで偶然同じ班になった時、体育のバスケでパスが見事に繋がった時、軽い口喧嘩をした後、──初めてまともに喋ったあの時も、ひとしきり笑ってから彼は片手を差し伸べた。

 僕は口元にぐっと力を入れた。彼の、ごつごつした手を握る。あっつい手だなあ、なんか懐かしいなあと思った。そうしたら何故だか急に泣きたくなった。

 ごめん。

 微笑むふりをして口元に全力で力を込めた。そうでもしなければ嗚咽ともうめき声ともつかないものが漏れてしまいそうだった。

 ごめんなさい。詩を書いてません。大学も行ってません。上手くなんて本当はちっともやっていない、君のことを馬鹿にしながら、僕は誰よりも不器用にここにいる。ねえ、僕は変わったよ。高校生の時から尚とは違って変わっちゃったよ。前であっけらかんと笑っている尚は、大学に毎日通って、今夢があって、きっと自分の未来が見えている。勝ち負けで全てを測れるだなんて思ってない、だけど僕は確実に彼に負けている。僕は尚に敵わない。

 ……勝ち組と負け組。そう分けるのだとしたら、別に今に限った話ではないのだ。尚は明るくて面白いやつで、僕とつるまなくたって何人も友達がいただろう。だが僕は違う。暗くて卑屈で、なのに人のことを生意気に見下すし、面白い話もできない。暇な時は読書するか詩を書くしかないような人間。誰よりも知っているのだ。多分僕が雑多な公立高校でいじめを受けることもなく生きて来られたのは、尚がいたからというのと、単純に勉強が人よりもできたからだ。ずっと守られていた。

 ゆっくりと僕らは手を離した。熱が指先から離れていった。声を立てて笑った。「何照れてるんだよ」「お前もな」「照れてないよ」「オレだって」

 笑いながら、僕は乾いた目尻をすっと撫でた。やっぱり、会わなければ良かった。会いたくなかった。……誰かに向かって願う。

 どうか僕を許さないでくれ、と。


 その夜、僕はまた影を見た。

 熱海での最後の夕飯を食べ、本日二杯目となるコーヒーを母さんと飲んで、自分の部屋に戻ってきた。照明の紐をカチカチと引っ張って明かりを消し、いつの間にか敷かれている敷布団の上に寝転がると、色んなものが頭の中を、胸の上を駆け巡った。走馬灯みたいにぐるぐる回る。カフェインのせいだ、絶対に。

 窓を全開にしているのに空気がどろどろとぬめっている。肌という肌にまとわりついて、何か昏いものが毛穴から染み込んでくるようで気持ち悪い。

 何色もの油絵の具を溶かして──その末に真っ黒に染まったような闇の中で、目を閉じては開け、顔を顰め、また意識して目を閉じた。何度か繰り返してから、そんな自分が自分でも鬱陶しくなってカッと目を見開いた時、僕は自分を見下ろすようにして何者かが立っていることに気づいた。

 長い影。夜闇の中に輪郭が溶けてぼんやりとしたシルエット。すっぽりとローブを被っているかのように顔は見えない、ただ黒い。

 暑い。

 僕は小さく喘ぎながら、仰向けのまま動けずに影を見上げていた。自分の非力と無力を感じた。瞬きをしても頭を揺らしても、それはそこにいた。なのにちっとも恐怖していない自分に、むしろ恐怖する。どうしてだか、その立ちはだかる影が何故だか知っている人に見えて、口をぱくぱくさせる。……そんなわけないのに。

「さかき、さん……?」

 その名前を呼ぶのと、影がどさっと覆い被さるようにのしかかってくるのがほぼ同時だった。はっとなった瞬間に、がぶ、と闇の塊を思い切り飲み込んで僕はむせた。暗い、苦しい、暑い、息、息が。

 このまま止まって──止まったら。

 ────。

 ────。

 気がつけば、僕は敷布団の上にただ天井を向いて転がっていた。じっとりと全身に汗をかいていた。ぱっぱっと手探りで体がちゃんとあることを確認してから、「変な夢」と声に出して呟く。

 そうだ。夢じゃないか。

 長い時間が経ったような気がするのに、障子の外も部屋の中も暗い。枕元に置いたスマホをつけると、まだ十時半を過ぎたところだった。僕は腹に手を当ててゆっくりと一度息を吐き出してから、起き上がって部屋を出た。水が飲みたかった。

 リビングでは、普段は点けないはずの常夜灯が、オレンジの光を灯していた。小さくて強くはない光なのに、光源があるのとないのとでは大きく違う。間違って誰かがスイッチを押したのだろうかと、僕は首を傾げつつ部屋の中に入って行った。大きな南向きの窓のそばに人がいるのを見てぎょっとする。だが僕は体の強張りをすぐに解いた。なんだ、父さんか。

 何か鼻につく臭いを感じた気がした。

 父は網戸の枠のあたりに横向きにもたれ掛かるように立っていたが、僕がリビングに入って来たのを見ると、「真斗」と名前を呼んだ。僕は首を振って見せた。

「水、飲みにきただけ」

「水じゃなくても、冷たい麦茶が冷蔵庫にあるはずだぞ」

「んー、別にいいかな」

 そうか、と父さんは頷いた。僕は流しの横に伏せてあったコップを手に取って、水を細く流して中に注ぎながら、視線だけで父さんのことを見つめた。暗赤色の明かりを受けて、滑らかではない頬や額の辺りが脂のように鈍く光っていた。何をしてるのと訊くことができなかった。簡単に言うと雰囲気に飲まれていたのだ。

 水を流すのを止める。一口。ふと僕は光源が常夜灯だけではないことに気づいた。豆電球の灯す光よりも、さらに小さくて赤い。

 父さんが煙草を吸うところを、初めて見た。

 母さんは父さんの喫煙に気づいているだろうか。大らかだが目ざとい母さんのことだ。気づいていないわけはない。それでも許しているのか。僕は黙って、台所の流しの前に立ったままさらに一口コップから水を飲んだ。喉の音を押し殺しながら。何が見えるわけでもない網戸の先の虚空を眺めて、父さんは黄昏れていた。煙草の臭い。外へと流れる煙。僕が「体に悪いからやめてよ」と言えば「おう」と返事をして今だけは火を消すし、「僕にも一本分けてよ」と言えば「おう」と答えて、年齢など気にせずに煙草の箱を手渡してくれるような気がした。そんな雰囲気があった。だから。

 だから僕は何も言わずに、目の前にいる一人の男を見つめていた。

 立ち尽くしていることしかできなかったのだ。何かが僕の口を塞ぎ、僕の体を縛っているようだった。

 やがて父さんは「真斗」と再び僕のことを呼んだ。さっきよりも改まったような響き……いや、気のせいかもしれない。さっきと何も変わらない声だったかもしれないけれど、僕は少し緊張して「なに」と聞いた。

「明日、帰るんだよな」

「うん」

「時間は」

「朝ごはん食べたら、割とすぐになるのかな」母さんにはもう言ってあった。昼から大学の友達と遊びに行く約束をしちゃったんだよね、とも。

「そうか」父さんは頷いて、それから何気なさそうに言った。「お前も大きくなったよなあ。風に吹き飛ばされそうなぐらい小さかったのにな」

 僕は目を伏せた。「今だって男の中だと小柄なほうだよ」そういうことではないとわかっているけれど。

 この盆帰省の間に、何度「昔は」という言葉を聞き、そして使っただろう。今の話はあまりに空虚で、過去の方が鮮やかなのだ。僕にとっては。そして父さんも母さんも、本当は僕の今についての話の浅さに薄々勘付いているのではないか。そんな恐れ。嘘は上手くついたはずだし話の辻褄は絶対に合わせたはずだから、あり得ない、そんなわけはないのだけれど。

 覗き込んだコップの中の液体には色がなかった。夜をごくごくと飲んでいる、という表現が浮かんだ。

「お前、扇崎で溺れたの覚えてるか?」

「覚えてる」僕は歯を見せるようにして笑った。最近回想したばかりだ。「父さんが煽ったせいだ」

「そうだそうだ。おれが煽ったせいだ」

「……それが?」

「いや、別に大したことを言いたいわけじゃなくて、ただ思い出して感傷に浸りたいだけなんだが……」父さんはらしくもなく歯切れの悪い言い方をした。幻だ。全部、この熱帯夜の。「おれがあの発泡スチロールの剣あげたのもそんくらいだったよなぁ。真斗さあ、あの後いっつも修行だ修行だってうるさかったんだぞ」

「修行?」

「修行。もうあんな風に海になんて負けたりしない自分になるぞ、もっと強くなるぞって言ってさ、修行ごっこしただろ。木に登ってみたり、剣の素振りしてみたり。おれは同期に入隊した仲間役でさ」

 ぼんやりとだが思い出せる気がした。子供の遊びだ。当時は至って本気でやっていたわけだが。「ああ、やってたね。原っぱ駆け回ったりね。今思えば、全然泳げるようになるのと関係ないよね。体力作りにはなったかもしれないけど。何してたんだろ」

「お前さあ、昔っから自分に負けるのが嫌いだったんだよな」

 僕は静かにコップをもとあった場所に伏せ置いてから、父を見上げた。いつの間にか父さんは煙草の火を指で揉み消していた。無造作に羽虫でも捕まえて潰し殺すみたいだ。焦げてしまわなかっただろうか、指は。黒い毛が生えごつごつと節くれ立って男っぽいくせに、実は誰よりも器用な手に、傷はできなかったろうか。

「…………」

「人よりも劣る部分があるのは仕方ないって言いながら、自分でできるだけのことをしないと気が済まないってのはその頃からだったんだな。だから小学生の頃から、修行だ修行だって言って勉強だって頑張ってたんだ」

 父さんの目がキッチンに立ち尽くす僕を見つめた。真っ直ぐに射すくめるように。口が薄く開く。

 そんなお前のことを、親ながら、凄いやつだってずっと思ってるんだよなあ。

 誰だろう、と思った。すぐそこに立っているこの人は誰だろう。見慣れた木目調のフローリングの上に立っているというのに、空中散歩をしているしているかのように足元がおぼつかない。

 父さんも尚も同じだ。今の僕のことを何にも知らない。同じ場所にはもう立っていないし、これからもっと離れていく。僕はこれからとても遠いどこかに行くのだから。

 沈黙すると、窓の外で鳴く何かの虫の声ばかりが耳についた。ちっともまだ秋になんてなっていないのに。秋の象徴と言われながら、秋までには寿命を迎えることの決まっている虫たちが懸命に声を上げる。……さびしい。

 修行だ修行だと一生懸命に原っぱを駆け回っていた少年は、修行だ修行だと一生懸命に机に向かい、自分には負けまいという真面目な一生懸命さを持って、知らぬ間に歪んでいった。善い人間であろうと正しさばかり求めて、虚しさを知った。

 今僕は、僕になど勝てない。

 ただ最後にそんな僕のことをあざむこうとしている。

 醜いか? そうか。別にいい。僕はその醜さを掻き消してしまうために、対岸にある美しい死を見つめている。醜いな、そうだな。でもこうなるしか僕にはなかったんだ。──ゆるしてくれよ。やっぱり、ゆるさないでよ。

 対岸は静かに凪いで。

「もう、寝るね」僕は言った。

「ああ、おやすみ」父さんは言った。

 常夜灯の光の下で順応した目を、リビングの外の暗さが覆った。感覚と身体の記憶だけを頼りに階段を登る。湿気を多く含んだ空気がうなじにまとわり付いた。早く寝よう。寝てしまえば、とりあえず今日は終わる。

 ……そういえばあの剣。父さんが作り、僕が散々素振りをして遊んだという発泡スチロールの剣は最終的にどうしたのだったか。捨てたような気もするがどこか曖昧だ。なくしたのだったか。どちらにせよどうでもいい話だった。



 最終日は曇りだった。

 今にも雨を降らしそうな黒い雲というわけではないが、分厚そうな雲が空を覆い、その隙間に時折り青がのぞいた。

「じゃあ、次帰ってくるのはお正月? もちろん秋とかに来てもいいんだよ」朝食の皿を洗い終わって拭いていたところだった母さんは、白いふきんを手に持ったまま玄関先に出てきた。

 父さんは今日は朝から学校に行っている。昨日の夜のことは全て夢だったかのような調子で「がはは」と笑いながら、やる事があるとかなんとか言っていた。今日までお盆なのだからわざわざ出ていく必要はないだろうに、それに息子のことを見送らずにさっさと出ていくだなんて、やっぱり父さんは自由人だ。……なんて。本当はちょっとはわかる。きっと僕が出て行くところに立ち会いたくなかったんだろうな、ということ。少し改まったような場面が父さんは苦手だ。照れ臭いと言う。「じゃあ真斗、またな」と素っ気ないような感じで言って、僕の頭に分厚い手のひらをぽんと一度乗せてから出て行った。

 僕は頷くとも首を傾げるともつかないようなポーズを作って、ひらひらと手を振った。

「そうだね。暇ならまたこっち来るかも。まあとりあえずお正月は絶対来るから」来るとか。行くとか。帰る、とか。使い方がよくわからなくなってきた。

「じゃあ楽しみにしてる。ちゃんと自分でご飯作れる日は作るんだよ。栄養が偏らないようにすること」

「はいはい」

「洗濯物も片付けるところまでやるんだよ。部屋の掃除とかもしてね、ごみ屋敷にならないようにね」

「わかってるよ」

「まあ、あんたのことだから大丈夫だって思ってるけどさ」

「うん」

「元気でね」

「……うん」

 じゃあ、と僕は歩き出す。手に下げた紙袋には、母さんが今日分の夜ご飯にと持たせてくれたコロッケが入っている。他にはコールスローのサラダも。タッパーは次に来た時に返してくれればいいからと言っていた。

 どんどん歩いて行く。熱海駅の方へ。家が見えなくなる直前で僕は振り向いた。もう誰もいないだろうな、と漠然と思っていたのに、母さんが道路にまで出てまだこちらを見ていた。通行人がいるのも気にせず大きく手を振る。ふきんの明るい白がちらちらと揺れる。それに小さく応えて、僕は完全に背を向ける。

 いい感じの雰囲気の町なんてたくさんあるし、町なんて田舎か都会かの程度さえ揃っていればどこも同じに思える。故郷も何もない。遠く離れた地も「どこか知らない所」もない。昔の中国の詩人たちは故郷に対する思いだとか帰れない悲しみだとかばかりを書き残し、現代にいる僕はそれらを読んでは辟易していた。何が頭を低れて故郷を思ふ、だ。……ずっとそう思っていたの、だけれど。

 さよなら、熱海。

 きっとここが僕の一番に愛した土地だ。


     ❇︎


 千葉まで帰ってきてから、わざわざ鈍行に乗ったのはほとんど無意識だった。三駅行って、徒歩二十分弱。門の中の小さな森を通り抜ける。平屋の中へ。道をいく過程が、まるでテレビの早送りのように感じられた。雑音が無くなり、ただ景色だけが進んでいく。

「榊さん」

 ひんやりとした空気に触れて声に出したら、夕べ僕に被さった闇のことを思い出した。どろどろとして息を止めるような、暑いのに無性に鳥肌が立つような、なのに怖いとは感じない、あの影。それが今目の前にいるこの男に見えたこと。

「ほう、帰って来たのか」

 今まで一日の例外もない。机から振り返り、窓からの光を背負って影になった彼の姿を見て、僕はそんなつもりはなかったのに叫ぶような気持ちで問いかけた。


 榊さん、あなた一体何者なんですか。












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