その絵描きは




「僕の遺影を描いてください」

 意を決して放ったその言葉に、風変わりな画家は「わかった」としか言わなかった。


     ❇︎


 マスクを外して息を吸い込んだ。

 住んでいるアパートの最寄駅から、鈍行で三駅。こんなに近いし、電車で通り過ぎたことはもちろんあるのだが、実際に降りるのは初めてだ。

 こんなだったんだなと小さいロータリーを見渡した。八月一日。燃え盛る太陽はアスファルトを照らし、僕を靴の裏から焦がす。それでも住んでいる場所よりも少し暑さがマシな気がするのは、きっと人が少ないからだ。それから知っている人に出くわす率が低いと思っている分、マスクを外せているからだ。

 大学の同級生たちに会うのなら、とてもじゃないが素顔は晒せない。誰も気にはしないとわかってはいても、抵抗感は消せない。ニキビの痕だって気になる。

 メールで送られてきた地図を見ながら歩いた。駅から離れて少し大通りを逸れてしまえば、驚くほど田舎の景色が広がった。畑がぽつりぽつりと見えたかと思うと、十分ほどで開けた田んぼが出てくる。まばらに歩く、日傘を差した人々や、夏休み真っ只中の虫取り網を持って走っていく子供達とすれ違う。他の人のことには無関心そうに、ただ過ぎていく。

 なんとなく、いい町だなと思った。

 県庁があってそこそこ栄えている千葉市内にも、こんなところがあったなんて知らなかった。今更のように、ああ大学進学でこっちに来てからまだ四ヶ月なのかと思った。

 やがて僕は一軒の家の前で立ち止まった。家、と言っても、高い木製のフェンスで覆われていて、建物自体は見えない。ただ狭くはないらしい庭に木々が生い茂っているのがわかった。まるで小さな森を囲っているかのようだ。

 ここ、なのか?

 本当に?

 和やかな田舎風景に現れた場違いな雰囲気に、スマホに表示させた地図をもう一度眺めてもひっくり返しても、確かに赤いピンが示しているのはここである。呆けたように立ち尽くしていたら、フェンスと同じデザインでありながら蝶番で開く仕掛けになっている門の上に、よく見かけるインターホンを見つけて驚いた。恐ろしく似合っていない。とはいえ他に手段もないので思い切ってぽちっと押した。

 間の抜けたチャイムの音のあとの、

[……誰だ]

 重低音にのけ反る。尋ねて来た相手が誰であれ、随分と高圧的な応対ではないか。ニキビ痕に加えてもう一つのコンプレックスである、天然パーマのかかった髪を無意識にいじりつつ、恐る恐る僕はマイクに向かって声を絞り出す。

「……今回、絵を依頼しようと思ってメールをした、空野真斗ですが……」ここで合ってますか、と思わず付け加えようとした時、「ああ、来たか」と再びインターホンから声がした。

[とりあえず中まで入ってこい]

 はい、と返事をして、僕は門扉のハンドルノブに手を掛けた。


 ぼんやりと千葉駅を歩いていたのが二週間前。大学に行かなくなった、そして次いで行けなくなったことに対する絶望感は、既に麻痺していた。大学生になっても、大学に行かなくなった場合は「不登校」という言い方になるのだろうか。それとも単なるニートか。誤魔化さずに言うなら、社会不適合者か。ただ一人部屋にいても苦しくてさびしくて、だからといってやることもないから、四月から惰性で続けているバイトのない時には、外を出て歩いた。キャップを目深に被って、マスクで顔を隠して、息を詰めて。誰にも会いませんように、誰にも会いませんように。

 そんな時、その絵を突然に目の前にした驚きは言い表しようがない。

 灰色のビルがすぐ真横に立ち並ぶ灰色の歩道をただ歩いていて、ふとした拍子に軽く顔を上げた。僕の視界に、その絵は殴り込むような衝撃を与えた。催し物のポスターなんかを掲示するためのスペース。そこを丸々貸し切りにした巨大な絵が、ガラス越しに僕を呑み込んだ。

 色の洪水。

 赤や黄色、黄緑、水色、オレンジ、そして名前も付いていないような無限の色たち。それらが怒涛のうねる波のように混ざり合い、溶け合い、弾かれ合い、ただ一枚のキャンバスを豪快に染める。スパッタリング法、ドローイング法、ドロッピング法……駄目だ、過去に中学の美術で習いかじっただけの、僕の浅い描法の知識なんかじゃ到底言い表し切れない。時に水が流れるように浅く、薄く。そして時に絵の具をそのまま叩きつけたように強く、厚く。花畑のように、大海原のように、踊って、躍って。

 目が慣れてくるとその絵の中心に、一人の女性の姿があることに気づいた。肌の色や髪の色、その全てが普通は人を描くのに使われないカラフルで斬新な色彩で描かれた彼女は、唇を薄く開いてこちらを見ていた。

 ……泣いていた。唯一の、ただ一点の白。純白の涙をつうっと片目から流して、不思議な表情を向けていた。

 通行人たちは絵にちらりと目をやって、別段何の反応も示さずに通り過ぎていく。僅かに速さを緩めることもない足音の群れ。その中で、僕だけは圧倒されて呆然とそこに立っていた。

 明るい、眩しい、痛い、滲みる、安心する、安堵する、締め付けられる。そんなわけのわからない感情の中に、ふいに落ちて来た一つの思いがあった。

 ああ、これだ。

 僕はこれを描いた画家に、自分を描いてもらおう。描いてもらったら、そうしたら、僕は。


 小さな森に入ると、それまで大人しくしていた蝉たちが一斉にジジジッと鳴き声をあげて飛び立った。昆虫にとっては、こんな僕でさえ身の危険を感じる脅威だ。木に止まって休んでいたのだろうにごめん、ごめんと心の中で呟きながら、身を屈めて早足で抜ける。躊躇しつつも扉を細く開けて、家の中に滑り込んだ。

 ほの暗い闇の中で、紙と木と、どこかツーンと鼻につく油のような匂いがした。刺激臭というほどではないが、自然の中に明らかな人口の匂いが混ざって違和感がある。クーラーを付けている様子もないのに空気はひんやりとしていて、頬をふわりと撫でた。

「こんにちは……」

 虚空に放り投げた挨拶に返事はない。

 仕方なしにとりあえず靴を脱いで揃え、中に上がると、すぐ右に部屋があった。デザインガラスの張られたスライド式ドアは開け放たれている。普通の家のリビングと言うには広すぎるような空間の向こうの方に人がいた。奥の窓の前に置かれた木の小机に向かって、何やら書いて──描いて?──いるらしい。僕からはその背しか見えない。

「あの、こんにちは」入り口に突っ立ったまま言うと、スッと音もなく立ち上がる。光を背にこちらを向いたのは、まるで海賊のような雰囲気をまとった壮年の男だった。無精髭、無造作にあしらわれた髪、彫りの深い顔立ち、鋭利な眼光。服は黒シャツに黒のスラックスと黒ずくめで、カフスボタンを開け放った手首は細かった。全体のシルエットからも、やや痩身であることがわかる。

 どうしてか巨大な獣を前にしたような気分になる。別に彼の体躯がそこまで大きいわけではないのに、雰囲気に飲まれそうになる。唖然としていた。そうか、この人が。

 僕が彼を観察するように、彼もまた僕を観察していた。科学者のような冷静で冷徹とも言える目で全身をスキャンするように眺める。僕は生唾を飲み込んだ。まるで生きた心地がしない一瞬の間が空いた後で、「おう。よく来た」と彼は言う。インターホン越しよりも尚、低くて深い声。俗に言うイケボというやつだな、とどうでもいいことをちらりと思った。

「あなたが、榊禄介さんですか」

 僕がやっとのことで訊ねると、「そうだ」と彼は首肯した。

 駅近くで展示されていたあの絵の下の銀のプレートに、小さくではあるが作者名だけは書かれていた。「榊 禄介」と。他には説明も絵の題も何もなし。

 名前を検索に掛けると、少しだけ情報が出て来た。千葉県内に住むアーティストであること、奇抜な色遣いが特徴であること、主に人物画を手掛けていること、数枚の作品の画像。絵の依頼フォームのリンクが貼ってあったのでクリックすると、名前とメールアドレスだけを書くようにと指示された。それ以降、暇さえあればメールボックスを確認したりして返事を待っていた。

 「都合のいい日にお越し下さい」とのメッセージとこのアトリエの周辺地図がメールで送られてきたのが、その二週間後であり、昨日。大学生でありながら大学に行っていない身である僕は、「どうせやることなんてないし」と文字通り昨日の今日でここにやって来たというわけだ。

 それにしても、漆黒で身を固めたこの人が、あんな無限の色彩のような絵を描くなんて信じられなかった。それは驚きや、意外だなどというのとは少し別の感情だ。現実世界に実在するはずのないものを見たような感覚。

「座らないのか」

 彼が軽く首を傾けた。気づけば立ち上がっていたはずの彼は、さっきと同じ椅子に、今度はこちらを向いて座り直していた。僕は軽く慌てて「座ります」とかなんとか宣言して、近くの椅子に腰を下ろした。

 とは言っても椅子と呼ぶような代物ではなく、ただの木箱のような簡素なものだ。彼の座っているのもそうであるし、よく見ればテーブルや小机もごくシンプルなものだった。手作りだろうか。木材やらネジやらの素材さえあればできそうな気がする。僕にはできないだろうが、目の前にいるこの男なら日曜大工ぐらい簡単にやってのけそうな雰囲気だ。

 見渡せば意外と広い部屋だった。キッチンもあるし、この部屋だけで僕のマンションの一部屋よりも確実に大きい。もとはダイニングとリビングのつもりで設計されたのだろうか。もっとも、今はもう完全にそんな団欒の広間という感じではない。畳まれたイーゼルやら使いかけの絵の具のチューブやら、その他何に使うのかわからない物たちが散らかって、無秩序が妙な秩序を生み出している。この綺麗ではないのにどこか美しい空間は、いかにも芸術家然としている、と半ば偏見的に思った。

 当の芸術家は岩のように黙ってこちらの様子を眺めていた。こちらが何も言わなければ何時間でもそうしていそうな雰囲気だったので、僕から口を開くことにした。「絵を描いていただきたくて、ここに来ました」

「お前の」

「はい。僕の」

「俺に」

「はい。榊、さんに」他に誰がいるというのだ。

 画家は、榊さんは壁のカレンダーを見遣って、「となると絵の引き渡しは八月末日だな」と言った。

 少し驚いた。二、三日──長くとも一週間ほどの間に描き上がるものだと思っていたからだ。「たくさんの人が依頼してるんですね」だから順番に描き上がっていくのを待つということか。僕が感心して呟くと、彼は「よくある勘違いだ」と真顔で言った。

「俺のことを調べて、コンタクトを取って、わざわざここまでやって来るようなもの好きはそういない。前回依頼が入ったのは五月だ」

「え?」

「一ヶ月丸々かけて描いた。とは言っても、実際に絵を描いているのは三日ほどだが」

 一ヶ月丸々かけて絵を描いたけど、実際に絵を描いたのは三日? ますますよくわからない。「どういうことです?」

 椅子にでも座らせられるか適当なポーズを取らされて、それを見ながら榊さんが絵を描く、という構図を勝手に想像していたけれど。

 榊さんは「それでは描かれるのは外見だけではないか」と言う。

「俺が描くのは、その人それそのもの、つまりその人間の本質だ。一ヶ月で全てを理解できるとなんて思ってはいないが、時間を掛けて出来うる限り依頼者のこと把握して、そして俺に見えたその本質を描く」

「本質、ですか」

「そうだ。というわけだから」彼はこの部屋全体を示すように右腕を軽く開いて持ち上げた。カラスが片羽を広げたように見えた。「お前は来られる限りこれから毎日ここに来い」

「……来て何をすればいいんですか?」

「それはお前と、それから俺の気分によりけりだ」

「はあ」

「多くの場合は何もしない。時々会話をして時間を潰すだけだから気負う必要はない」

 はあ、と僕はまたふわふわした声を出した。結局どうすればいいのか何もわからないし、人間の本質、とか、描く、とかいう言葉の意味もわからなくなってきた。

 榊さんはそんな僕の様子を気にすることもなく「それで」とこちらを見据えた。

「今回は何のための絵を描けばいい。とはいえそれによって描くものが変わることはないが」

 彼は何気なく発したであろうその問いに、自然と背筋が伸びた気がした。はい、と返事をした声が、思っていた以上に硬く響いた。

 僕の目的。大学に行かなくなったこと。負け組。周囲の人の声が、まるで僕を笑っているように聞こえること。周囲の人の視線が、まるで僕を嘲っているように見えること。慢性的な絶望感、劣等感、自己嫌悪。──僕は。

「僕の遺影を描いてください」

 どういうことか、どうしてか、と問われることを予感して目を瞑った。彼の冷たく落ち着いて低い、人間味のない声で「何を考えているのか」と尋ねられたなら、何を話せばいい。

 だが、榊さんは一切表情を変えずに「なるほど」とだけ言った。

「わかった。それなら大きさは……」

「ちょっと待ってください、驚かないんですか」思わず声を出すと、彼は片眉を上げた。

「どうして驚くんだ」

「だって……」僕はまた唾を飲み込んで、上目遣いに彼を見上げた。「理由を訊いたりしないんですか」

 そんなに落ち着いていられる意味がわからない。もちろん騒いで欲しいわけでもないけれど、普通に考えて簡単に流されるようなことでもないと思う。だが、榊さんも僕の言う意味がわからないらしい。

「理由は話したくなったら勝手に話せばいい。わざわざ尋ねることはない。それとも何か、死期が定められた病気なのか。あまり出歩けないと言うなら、やり方も配慮する。俺がお前の場所を訪ねて行くのでも」

「いえ、病気じゃないです」僕は慌てて首を振った。そうだ、これは病気なんかじゃない。「なのに遺影だなんて、まるで、冗談みたいじゃないですか?」

「お前は冗談のつもりで言ったのか」

「僕は本気です」

「それなら」榊さんはゆっくりと頷いて目を細めた。「何も問題はないだろう」

 僕は瞬きをして、そうですかね、とだけ答えた。不自然な間が空くのを恐れて、慌てて付け加えた。「だから僕は、絵を描いていただいている間に、遺書──というか詩を書くことにします」

 中学時代から、詩を書くことが趣味だった。友達連中に読ませつつ、純文学系やら曲の歌詞のようなものやら何作も書いてきた。ここ数ヶ月は何も書かなかったが、きっと死ぬ前に詩を遺すことは、……僕の最期の僕らしさなのだと思う。

「ほう。詩人なのか」

「目指した時期も、ありましたけど」

 でもあっという間に、現実はそう甘くないことに気づいた。というか、もともと知っていたことを思い出したのだ。詩人なんて僕の触れられる世界にはいない。小説家も、画家も、音楽家も、〈特別〉を生み出す人間は皆んな全然別の場所にいる。それは遠い、遠い、千里の先のどこかだ。どこか別の場所ではない、「ここ」にしか存在のできない僕にできるのは、どこかで作られた特別なものを享受することだけだ。

 そういう意味で、榊さんという画家に──あの絵に出会うことができたのは、僕の人生における最初で最後の奇跡だ。いるのだとしたら、神様の悪戯であり出来心だ。

 それとも、最期ぐらいは、という情けか。

「絵を描いていただく、となると、料金はどれくらいになりますか?」

 訊ねると、榊さんは「絵の大きさによるが」と言った。

「遺影ならゼロ号か一号が一般的ではあるが、どんな感じを想像している」さっきから聞いていて感じたことだが、彼は問いかける時にも語尾をほとんど上げない喋り方をする。それが人間離れした無機質な感じがして、なんというか、心地良かった。

「号っていうのは……」

「ああ。ゼロ号は葉書ほどの大きさ。一号はそれより一回り大きいと思えばいい」

 そのくらい調べてくるべきだったよな、と反省する。とはいえ榊さんに無知を馬鹿にする様子は全く無いので、申し訳なく思いつつも安堵する気持ちがあった。話せる気がした。

「千葉駅の辺りに飾ってあった絵って言うとわかりますか。あの女性の」

「前回依頼されて描いた絵だ」

「あのくらいの大きさのを部屋に飾っておいて、僕がその……いなくなった後で、僕の部屋に入った家族とか他の僕を知っている人の目に、それが自然に入ってくるような感じにしたいんです。勝手なイメージですが」

 静岡にいる家族は、僕が高校までと同様に、器用に卒なく、上手く、楽しく、元気に大学に通っていると思い込んでいる。その家族に、本当はこんなだったと伝えてやりたい。だから、榊さんが僕そのものを描くというのなら、この苦しみを描いて欲しい。絵にして欲しい。僕の本質をと言うのなら、それらが絵の中に含まれないわけはない。……なんて。これではまるで家族への当てつけのようだが、それは違うのだ。僕は母のことも父のことも好きだ。だけど、それでもわかってほしい。知ってほしい。充実した生活など虚像であったこと。

 僕が考えていることなどわかるわけもないが、榊さんは「ほう」と頷いた。「イメージは大切だ。それは本質と似ている」

「…………」

「そうなると百号ぐらいだな」

「……はい、お願いします。いくらになりますか? 予算より高ければ、大きさを変えますが」

 相当に大きいから、それなりに値段も張るだろう。とはいえ五、六十万円ぐらいならぽんと出すことができる。一人暮らしを始めた時に親に「何かあった時のために置いておきなさい」と仕送りとは別に手渡された二十万円には全く手を付けていない。それから、子供の頃から貰ってきたお年玉を一度も使うことなく貯めた通帳も、渡されていた。どうせもう、使う予定のないお金だ。

 ところが、榊さんの提示した値段は予想を大きく外れたものだった。

「五万だな」

 えっ?と僕は思わず彼を凝視した。

「桁間違ってませんか?」普通は何十万も、なんなら百万ぐらいと言われてもおかしくないのではないか。ところが榊さんは首を振る。

「いや、間違えていない。もともと絵を描くなんて好きなことをして食べているんだ。むしろ独自の芸術がなんとかと言って何十万も取るのはおこがましいだろう」

「そういうものですか……」

「ああ。画材さえ買えればそれでいい。後払い、現金のみの受け付けだ」

 これも彼の持つ美学とかそういうものなのか。一体この人はどうやって生きているのだろう、と思いつつ、わかりましたと返事をした。語尾に「……?」を付けたいような感じだった。

 と、榊さんが無言で立ち上がった。彼はまるで音を立てない。長身でまとっている服が黒いものだから、急に長い影が伸びたかのように見えた。

 榊さんは、部屋の隅に立てかけられた長短さまざまな木製の棒の中から、何本か長いものを取ってくると、手際良くはめ合わせて巨大な漢字の「日」のような形を作った。その様子を眺めつつ、本当にこのテーブルや椅子を作ったのはこの人なのかもしれないと思った。

「百号は、このくらいだ」

 そう言われて、ああこれはキャンバスの枠木なのかと気づく。「はい。そのくらいがいいです」長いほうの辺は僕の身長近くあった。

「縦向きか横向きかの希望はあるか」と、榊さんは問いかけながら今度は筒状に巻かれた布を持ってきて、机の中から取り出した鋏でジョキジョキと切った。

「いえ。それは特に……」

「そうか」

 大きな銀の刃がきらきらと輝く。小指掛けまで付いた立派な鋏だった。「切れ味良さそうですね」僕が呟くと、彼は目だけをちらっと上げた。

「お前の指ぐらいは切れるだろうな」

「怖いですね」

「怖くはない。忘れがちだが鋏もまた凶器だというだけだ」

 僕は曖昧に頷く。そんな話をしている間にも、榊さんは切り終わった布を枠木に当てて、先の広がったペンチと、変わった形のホチキスのようなごつい道具を使ってあれこれ手を動かしていた。五分も経たずに、画材売り場で売られているようなキャンバスが出来上がった。

「引き渡しは、このままの状態になる」

「このままの状態」

「額に入れたければ、それは自力で調達しろということだ」

 そういうことか。僕は「わかりました」と頷いた。もとより額に入れる気なんて無かった。駅前の女性の絵も、キャンバスのままで飾られていた気がする。枠がないからこその飛び出してくるような迫力が、あの絵にはあった。

 榊さんは床に転がった畳まれたイーゼルを二つ広げて、その上にキャンバスを横向きに伏せて立てかけた。窓からの光を背に浴びて、帆布の裏面はぼんやりとした灰色をしていた。

 これで話は終わりだ、とばかりに榊さんがまた黙りこくって、何やら描くのを始めてしまうので少し困る。さっきのように完全に背を向けて小机に向かうのではなく、テーブルを挟んで僕と向かい合うように座っているので、気にかけてくれていないわけでもないのだな、とは思うが、少し話した感じにしても彼にはあまりにも得体の知れないところが多い。

 間接照明の灯った部屋は、木々の間から漏れて差し込む外の光の方が強く思えるくらいには、薄暗い。

「何描いてるんですか?」

 問いかけると、榊さんは「なんだまだいたのか」というように億劫そうに顔を上げた。これから毎日ここに来るようにと言った以上、本当に面倒に思っているわけではないのだろうが。

「ただのデッサンだ」よく見ると彼の手元に、小さな葉があった。

「庭、のですか?」

「ああ。森のだ」彼は自分の家の敷地内で、建物の外の部分を森と呼んだ。僕の抱いた印象に合っていたので納得する。

 画用紙の端切れのようなものに描かれた、精密ではない鉛筆画。影のつき方も葉脈の流れも、一般的なデッサンの写実的な描写ではなかった。ちっとも写真らしくない。リアルとも言いがたい。なのにその金属光沢を湛えたような独特な鉛筆の黒色で塗られた葉には、静けさと落ち着きと何かを覆い隠した微かなざわめきがあった。あの森だ、と僕は思った。今僕らを、このアトリエを囲む森を切り取った、一枚だ。

 僕は自然と立ち上がって、窓の外に視線を飛ばしていた。「綺麗ですよね」

 榊さんは葉の絵に目を落としたまま首を傾げた。「何が綺麗だ。綺麗と美しいは同義か」

 笑ってしまう。「榊さん、詩人みたいだ」

「詩人ではなくて画家だ」

「それはそうでしょうけど」

「────言葉はいつも嘘をつく」

 突然空間に落とされたその声に、僕は声を呑んで、ストンと木箱に腰を下ろした。彼の言葉の意味を測りかねて、何も言えなくなる。榊さんは特に気にする様子もなく、あくまで淡々と作業を続けながら「言葉も色と同じで、本質ではない」と言った。……色。

「それは……?」

 静まり返ったアトリエは、まるで眠っているかのようだ。

「森は、木々は美しいか」問われて、僕は頷く。

「夏の葉は、美しい緑をしているか」僕は頷く。

「緑という色は美しいか」僕は頷く。「緑という色は、美しいと思います」

「では、緑が無かったなら、この森は美しいだろうか」

「……」

 僕は少し考えてから「わかりません」と答えた。少なくともモノクロ写真に映り込んだ緑を、木々を綺麗だと思ったことは、無いような気がした。

 榊さんはすうっと息を吐き出した。黒っぽく光る目で僕を真っ直ぐに見てきた。「俺には緑という色が見えない」

 今度は何の暗喩だろうか、と僕は軽く呆れるような思いで黙って彼を見つめた。彼は圧倒的に言葉が足りていないような気がした。言っていることが毎回よくわからなくて、軽く苛立ってきたのだ。

 だが、榊さんの今度の言葉は、何の暗喩でもなかった。

「緑だけじゃない、赤も青も黄色も見えていない。見えるのはお前たちの言う黒と灰色と白だけだ。別に隠すようなことでもない──全色盲、と言えばわかるか」

「えっ?」

「一色覚、全色覚異常ともいう」何度も人に説明したことがあるのか、話す彼の声は機械のように一定で淀みがない。「多くの場合は先天的。俺の場合も生まれつきだ。遺伝の要素もなくはないと聞くが、父親は赤と緑だけがたまに区別できない、という程度の軽い色弱だ。全色盲は数十万人に一人いるかいないかと言われているから、そういるものでもない」

 カンッと撃たれたような衝撃に、僕は目を見開いた。はあそうですか、などと軽々しく相槌は打てそうにもない。どんな反応をすれば失礼に当たらないかなどと考えているわけでもなく……ただ、単純に驚いていた。

「灰色の世界で生きている……ってことですか」

「詩的に言えば、そうだな」

 にわかには信じがたい。灰色しか見えていないのにあんな絵が描けるものか。嘘だ。そんなことあるわけがないじゃないか。でも、そういえばあの絵の女性の肌は、本来はありえない菫の花のような薄紫色をしていた。それは、そういうこと、なのか。

 描く対象の色も、パレットに出した絵の具の色も、筆で混ぜて変化した色も、キャンバスに塗られた色も、彼には見えない。なのに絵は出来上がって、〈その人それそのもの〉──本質が残る。彼は描きたいように描くだけで、描くことができる……のか。

「あなたは、天才なんですか」普通なら皮肉か馬鹿にする意図を持って放つそんな問いを、初めて本気で発した。だが榊さんは首を振る。

「いいや、俺はただの画家だ」

「……理解できません」

「それでいい。俺を狂気と呼ぶ人間は少なくない。人には理解されがたい。だが、それが俺の誇りだ」

 白々とした鋏の刃の鋭い光が、まだ脳内に散らついていた。「凶器は人を解す。狂気は人に解されない」僕はどこか夢の中にいるような気分で呟いた。その夢は、悪夢なのか白昼夢なのかわからなかった。

 わからないことだらけだ、僕は。



 マンションの1DKのドアを開けると、もわっとした籠って蒸し暑い空気が、溢れ出すように僕を出迎えた。二階の、一番東の部屋。西日が差し込むわけではないけれど、夏の日は締め切った空気を茹でるのに十分だ。帰ってきてまた実感する。都会って暑い。千葉なんて、いうほどの都会でもないのだろうけれど。

 知らず知らずのうちに息を止めながら、潜るような気分で暗い部屋に飛び込み、エアコンをつけた。リモコンだと上手くセンサーが効かないことがあってイライラするので、エアコン本体のスイッチを直接押すのが癖になっていた。

 生暖かい風が吐き出された後、ようやく冷たい空気が細く出始める。

 僕ははあっと息をついて、開いていたカーテンを閉め、つけ忘れていた電気をつけた。いつもならこの後でベッドの上に倒れ込むところだが、今日は別にそういう気分でもなく、やかんに水を入れてコンロに焚べた。──小皿にレタスの葉をちぎりながら、今日会ったあの男のことを考えた。

 真っ黒い服、細身の長身、海賊のような雰囲気。

 まさか、画家が彼であるとは、そして彼が画家であったとは思わなかった。

 榊禄介。名前は知らなかったが、僕のバイト先の服屋の常連客だ。服屋──“BLACK TAO”はどこぞのデザイナーの立ち上げた黒い服だけを売るブティックだ。本店は南青山で、僕が週に二回から三回のペースで働いているのは東京支店。そこに、四月からバイトを始めた僕が顔を覚えるくらい、つまり月二回以上の頻度で榊さんは来ているのだった。

 買っていく客たちはいつこんなもの着るのだ、と例外なく黒で形の一風変わった服を見ていつも思っていたが、榊さんを見て納得した。彼なら似合っていたし。

 彼は──僕があの店の隅で品出しなんかしていたことに、気づいていないだろう。働き手側からすれば少ない常連客のうちの一人でも、向こうからすれば数人の店員など風景だ。それもいつも同じ人なわけでもないし、僕など正規雇用の店員ではなくただのバイトだ。わざわざ言って気まずくなるのはごめんだから黙っておこうと思った。

 お湯が沸く。僕は棚から買い溜めのカップラーメンとインスタントコーヒーを取り出した。むしり終わったレタスの細い芯は三角コーナーに放り入れた。昔、相当に幼かった頃に母に「真斗の好きな料理はなに?」と聞かれて、何も考えずに「レタスのサラダ」と答えたのを思い出した。子供のくせに肉類があまり好きではなかったから順当な答えではあるのだが、今思えばもう少し作っている母に対して気を使っても良かったと思う。母が僕の答えを聞いて嫌な顔をしたのも当然だ。こんなのちぎって皿に盛っただけなのだから、料理でもなんでもない。

 いただきます。一人で呟いて手を合わせるのはさびしい気がして、いつも心の中でだけ。

 実家ではカップラーメンを食べたことがなかったから、一人暮らしを始めて最初の頃は、こんなに美味しいものだったのかと驚きながら食べたものだ。悪いことをしているような若干の興奮も、きっと混ざっていた。だけど、今は味も感じずに口に運ぶ。蛍光灯の下で、味覚ももう麻痺しているのかもしれない。身体に悪いとわかっているものを、淡々と食す。

 僕は一体、何をしている。

 千葉で済ませればいいバイトを、わざわざ東京まで出て行く。その日稼いだ金の二割近くは交通費に吸われていく。キラキラした他の店員たちと面と向かって話すことなどできずに、隅の方で服の出し入れと整理をする。ブティック店員などという、人が聞いたら羨みそうなバイトも、自分の力で手に入れたわけではない。伝手を持った年上の従兄弟が紹介してくれた結果だ。意味もないことを、やめるだけの決心もつかないから続ける。

 ──違う。続けない。

 僕は、だからやめようと決心したのだ。舞台に背を向けることにしたのだ。

 学校の先生に「この子は問題ない」と思われて気にも止められないような、親も「まあ大丈夫だろう」ととりたててなんの心配もしないような、真面目な子供だった。成績はいつも良かった。人と揉めることはなかった。誰にでも笑顔で接した。聞き役に徹した。人を立てた。たまには道化を演じて、周りに娯楽を提供した。

 大学に入ってから数週間も、それは変わらなかった。出会う人皆んなに「こんにちは」と微笑んだ。背筋を伸ばし、教授の話をよく聞いた。話しかけられれば会話を上手く繋いで続けた。

 一度など「すみません、ノート忘れちゃって」と言う女性に、ルーズリーフを何枚か渡したこともあったよなと思う。『どうしよう、ごめんなさい』。ひどく慌てた様子で話しかけてきた彼女を見て、僕は自分の方が落ち着きがあるという謎の優越感に浸ったりもしたのだ。その後僕らは当たり障りのない言葉を交わし、談笑した。

 ……内容なんて全く覚えていないけれど。

 一見上手く行っている人生。誰をも大して嫌わず、誰からも大して嫌われず、僕は生きていた。一生懸命だった。全力で真面目に生きていた。だが。

 ある時ふと思ったのだ。あれ、僕は何のために生きているんだろう。「真面目な僕」を成していた、ゲシュタルトに似たものが崩壊した瞬間だった。難しい数学の問題もよく考えれば解ける。難解な論文も、何度も読み込めばそれなりに意味が見えてくる。なのに、考えても考えてもその問いへの答えは出なかった。僕なんて存在、いらないじゃないか。誰もとりたてて必要に思わないだろう。代わりになる人はたくさんいる。眠りに吸い込まれていくように、僕は一つの結論へと落ちた。──もう、いいかな。

 一生懸命に生きていた僕の自我は、酷であるほどに冷静で、ちっとも狂っていなかった。

 こういう話を知っている。中世ヨーロッパ、毒蜘蛛タランチュラに刺された人々は、毒の回りを妨げるために、毒を体外に出すために踊ったという。テンポが早くて目の回りそうな曲を、まるで狂ったように。周りの人々に奇異の視線で見られ、嘲笑され、決して誰からも理解されない。……だが、狂っている本人は決してさびしくないのかもしれない。踊りばかりに夢中になって、自分が何のために踊っているのかもわかっているなら、本当の意味で怖いものなんて何もないのかもしれない。いつか必ず毒が体から消え失せることを信じられるのかもしれない。

 決して踊ることに心酔などできない僕には、ふとさびしさに気づく瞬間がある。

 疲れて、辛いのに、こんなに寂しいのに踊る意味なんてどこにある。足を止めればいい。毒が体中に回って、僕は倒れて、それで何もかも終わりにすればいい。別に「もう踊りたくない」という強い願いがあるわけではない。ただやめちゃってもいいよな、問題ないよな、とひたすら消極的に感じているだけだ。今していることをやめてしまうだけで。

 それだけで安らかな眠りはやってくるから。

 カップラーメンの汁を飲もうとして、やめた。体に悪いなどというのはとっくに考えなくなっていたが、水面に浮かんだ油が作る円の一つ一つに蛍光灯の光が輪っかのように映っているのを見たら、どうにも飲む気がしなかった。元から食欲があったわけでもない。ごちそうさまでした、とまた心の中で呟いて、僕は立ち上がった。食器やらカップやらはそのままだ。片付けは……明日でいいか。今日やらなかったとして、明日やるのもどうせ自分だ。部屋に籠もった匂いの中にコーヒーの匂いが混ざっていた。どうしてインスタントコーヒーは、こんなにもけばけばしいほどに甘い香りがするのだろう。生クリームを大量に食べた後のように酔って気持ち悪くなるほどの甘さの後、飲み込めば尖った苦みがくる。こんなもののどこが美味しいのだろう。

 夜。都会。一人。狭いが僕だけの部屋。一人暮らしは第一志望にしていた国公立大に受かることが条件だった。それを難なくクリアして、高校時代に憧れていた、欲しかったものは手に入れたはずなのに。

 今はなんだか消えてしまいそうな気がしている。消えてしまったって、きっと人々も世界も何事もなかったかのように回る。

 午後九時だ。まだ九時。だけど起きている理由もないから寝ようか。やめる理由が無いから、続ける理由が無いから。理由が無いことが最近の僕の行動原理だ。いつからこうなってしまったんだろう。どこで間違えたんだろう。そういうことを考える度、また思考が暗闇へと落ちていく。

 スマホを充電器から引っこ抜く。残量八十七パーセント。ちょうどいいくらいだ。バッテリーが悪くなるのを気にして、僕は夜中スマホを充電しないようにしている。

 照明のスイッチを押すと、パチンとシャボン玉が割れるように光は消えて、闇が部屋の中を満たす。外がカーテン越しにもビルや街灯の光で明るい分、ベッドに寝転がった自分の周りの暗さをより鮮明に感じる。黒は目に優しい。闇もまた、そう。遠くに電車の音を聞いた気がした。エアコンの音にほとんど掻き消されていたから聞き違いかもしれない。

 明日は夕方からバイトだから、それまで榊さんのところに行こうか。今日のように彼と適当な話をして、沈黙を共有して、それから遺書を書こう。詩人にはならなかった僕の最後の作品を、せめてものなけなしの存在意義として残すのだ。あの静かな絵の具の匂いのする空間でなら、書ける気がした。

 目を閉じる。真っ暗闇の中で、やがて意識がふっと溶けて消えていった。


     ❇︎


 二度目に榊さんの家に来た僕は、今度はチャイムを鳴らさずに門を開けて森の中に入った。榊さんには「うるさいからあれは鳴らすな」と言われていたのだ。相変わらず歩いていくと蝉たちがジジッと騒ぎながら飛び立った。何故だか近づくまでは全く鳴いていないのに。

「こんにちはー」

 家──アトリエに入る。榊さんは、例の窓際の小机に昨日と全く同じ様子で向かっていた。相変わらずの黒い服。多分僕がバイトをしている店の、だ。

「どうして、ここの森の蝉は鳴かないんですか?」開口一番に気になったことを尋ねると、彼はくるりと体を回転させて、テーブルの方に向いた。「どうしてだと思う」

 僕はわからないから訊いてるんだけどな、と思いつつ、何か言わなければいけない気がして「気温とかですか? 暑すぎて鳴かないとか」と言ってみた。だが、ここに来るまでに通り過ぎた家々では普通に蝉の大合唱を聞いた気がした。案の定、榊さんも首を振った。

「そういう年もあるだろうが、今年は別に蝉が鳴かなくなるほど暑くはないな」

「じゃあ──」僕は首を傾げる。榊さんが肩をすくめて、指を一本立てた。

「森、と言ったが、一本一本の木には種類がある」

「雑草という名前の雑草はない、みたいに」

「そうだ。うちの森の三分の一くらいを占めるのがハナミズキ、背の高いのが胡桃、低木が沈丁花。あとイロハモミジは、わかるな」

 僕は頷いたが、実のところモミジがあることには気づいていなかった。もちろんあの手のような形は知っているから見つければわかるはずなのだが、どこかモミジといえば赤いものと相場が決まっている気がしていたのだ。ああ、でも、目の前にいる彼にあの色は見えていない。

 モミジは赤いもの。

 昨日の話で言うと、それは本質を捉えた説明ではない、ということか。

「目が慣れたのなら、より色々なものが見えるようになるだろう。ハナミズキには蝉が止まる。だが、胡桃と沈丁花、イロハモミジにはあまり止まらない。蝉が鳴くのは雌を呼ぶため」

「だから、雌も雄も集まりづらいこの森で、蝉は別に鳴かない?」

 榊さんは頷いた。「うちの森の木にいる奴らは、ただ単に羽休めをしているのかもしれないし」

「し」

「わからない。今言った木の種類なんていうのはただ一つの側面に過ぎない。他にも人間にはわからないような理由があるのかもしれない」

 どうして人間は理由や原因を一つに決めたがる。そう彼は言った。

「榊さんだって人間じゃないですか」僕が指摘すると、榊さんはあっさりと頷いた。「それもまたその通りだ」

 はあ、と僕は相槌を打った。多くの場合、僕も含めてだが、誰かに指摘されれば反発したくなるものだ。特に歳下の人間にものを言われた場合には。だが榊さんは受け入れただけだった。偉いとも、脆弱だ、とも思わなかった。聞き流されたわけではないことぐらいわかる。変な人だ、と思った。

 それは本来見えるはずのないものが見えていないから? 本来見落としてしまうはずのものが見えているから? 目の前にいる男がまるで仙人のような気がしてきた。

「座らないのか」気がつくと、榊さんは軽く呆れたようにこちらを見ていた。昨日と同じ完全な無表情だから、多分僕がそう感じただけだ。「あ、座ります」昨日もこんなことがあったから。

 背負ってきた小さいリュックサックから、詩を集めている年季の入ったノートと万年筆を取り出してテーブルに置いておいた。

「外は暑かったか」この人でも世話ばなしでお決まりの天気の話はするらしい。

「暑かったですよ。でもこのアトリエは木に囲まれているからか涼しいですね。あ、そういえば木を植えたのは榊さんなんですか?」

 だとしたら、さっきの話の蝉が来るとか来ないとかを考えて植えたのか。しかし榊さんは、俺ではないと首を振った。

「俺がここをアトリエにした時には、既に森ができていた」

 じゃあ誰が、と訊こうとしたがやめた。ただの一度きりの客が、そんなことを訊くのは出しゃばり過ぎだと思ったのだ。代わりに「アトリエって呼んでますけど、ここで生活もしてるんですよね?」と当たり障りのないようなことを訊いた。この家に二階がないことは、外観からわかっていた。平屋だ。木の外から建物が見えないのは至極当然だったのだ。

「そうだな。とはいえ、この部屋の他には洗面所だの風呂だのと物置しかないが」

「ん? 寝室は?」

「そんなものはないから、冬場はこの辺りの床に布団を敷く」冬場は、と言うからには、どうやら夏場は布団も無しで雑魚寝らしかった。思わず笑ってしまった。「なんだか、芸術家っぽいですね」

 榊さんは片眉を上げて首を傾げた。

「芸術家っぽい。では芸術家らしいとはなんだ」

「ええ? えっと……絵とか、自分にとっての美だとか、そういったものには凄くこだわるのに、他の生活面だとか人付き合いに関しては放漫、とか。普通の人にとっては理解できないような感じがします」

「では普通の人とはなんだ」

「僕みたいな、何も特別ではない人です」

「特別とはなんだ」

「ええと……」言葉が足りなくなって、僕は言い淀んだ。問い続ける榊さんには「困らせてやろう」とか「知らないようだから教えてやろう」とかそのような意図は全くもって無さそうだった。僕は負け惜しみのつもりで笑った。

「やっぱりわかりません。榊さん、ソクラテスみたいだ」

 高校の哲学史か何かの授業で習った気がする。ソクラテスは勇者ラケスに勇気とは何かを訊きに行くのだが、問いを重ねるうちにラケスに、自分は勇気について本当にはわかってはいなかった、ということを思い知らせるのだ。

「無知の知、です。自分は自分が知らない、ということを知っている分、人よりも知恵がある」

 言ってしまってから、自分より遥かに物を知っていそうな人間に何を講義しているのだ、と思ったが、榊さんさんは感心したように「ほう」と呟いた。「だがしかし」とも言う。

「現代はその逆も多いような気がするな」

「逆?」

「知の無知、だ。自分が知っているはずのことを、知らないと思い込んでいる場合も多い気がする」

 窓の外の森を、蝶がひらひらと通り過ぎた。綺麗な青が入った蝶だった。

「なるほど。自分が知っていることも、ちゃんとわかっておかないといけないということですね」

「別にそうでないといけない、と断定する気はないが」

 あくまであやふやな正しさを押し付けることはしないようだ。『言葉はいつも嘘をつく』。彼から出る断定の言葉は、彼が吟味して正しいと判定した、彼の中での真の〈真実〉だけなのかもしれない。

 でも、と思う。詩を書く人間としては、そんなことを言われては手も足も出ない。真実かなど確かめはしない、名前もつかないあやふやな一瞬の思いを書くのが詩ではないのか。ただ……ただ僕は、彼ほどに言葉というものを考えて吟味して使ったことがあっただろうか。ただ格好つけた文章ばかり頭の中で思い付いてはペンを走らせていなかったか。


 昼になると、榊さんはグラスに入れた水を出してくれた。「昼食はどうする」と尋ねられたが、「いや、いいです」と僕は断ったのだ。普段から昼食は食べたり食べなかったりだ。あまり良くないことは明白だが、エネルギーをそこまで使う生活をしていないために必要性も感じず、抜きがちなのだ。

「そうか」とだけ言って、榊さんが持ってきてくれたグラスの水面には輪切りのレモンが浮かんでいた。彼も他には何も食べることなく同じものを飲んでいるのを見て、その気遣いに居た堪れなくなった。だからと言って「いただきます」以上のお礼も謝罪もできずに、結局「冷たくて美味しいです」とだけ言った。榊さんは淡い黄色のレモンに視線を落とした。顎の辺りに手をやる。

「なるほど、冷たい、か」

「え? はい。……あ、でも氷を入れているわけでもないのに」

 榊さんは納得したように一人頷いた。「水にも種類がある」

 水の種類? 少し考えて、あっと思った。森の木の話と同じだ。「これは井戸水なんですね」

 地中深くから来たものだから、夏でもこんな風に冷たく感じるのだ。僕の部屋の水はもちろん、水道水だ。管を通るうちに生温くなって、生臭さすら混ざっているようで、とてもではないがそのままで飲もうと思うような代物ではない。

 榊さんは無表情だがどこか満足気に「そうだ」と言った。そのまま目を伏せて、さっきまでもやっていたデッサンを再び開始する。彼はずっと葉のデッサンをしている。もちろん昨日とは違う葉だ。何枚かテーブルの上に並べたのを、一枚ずつ画用紙の端切れに描いていく。窓際の小机の上には、完成した数枚の白黒の葉が無造作に置かれていた。木の枝から摘まれてから時間の経った葉は少しずつ萎びていく。その様子まで、見事に表現していた。

 鉛筆の先を見下ろす榊さんの目は、思っていたよりも優しい。元来のものらしい鋭さが消えているわけではないのだが、それに加えて小鳥の声に耳を傾けるような静けさに似たものがある気がした。

 それを見てたら、自然と僕は声を出していた。

「色が見えないって、どんな感じなんでしょうか」

 突然の言葉にも、彼は一切驚かなかった。ただ、一瞬手を止めただけだった。

「どんな感じ、というのは」

「どうして見えないのに、色を描くことができるんでしょう」

 だって彼には周りの風景が、モノクロ写真のように見えているのだ。なのにどうして絵が描けるのか。今やっているような鉛筆のデッサンならわかるが、依頼されて描くのはあんなに色に満ち溢れた絵だ。全色盲なんて実は嘘だった、と言われても僕はきっと驚かない。それくらい彼の存在は違和感なのだ。

 もちろん、榊さんが嘘なんてつかないことは、二日にして既にわかっているが。

 榊さんは「不思議なことは何もない」と言った。

「音が聞こえなくともピアノを弾き、作曲することはできる。同じだ。色が見えなくたって、色を使って絵を描くことがどうしてできないと考える」

「……ベートーヴェンですか」

 どうしてできないと考えるのか、と逆に彼は訊いてきた。でもその答えはわかり切っている。僕にはきっとできないと思うからだ。色が見えないのなら。音が聞こえないのなら。一体何ができる? 自分からはきっと何もできない。境遇を、周りの幸せな人々を恨むだろう。そして誰かが何かを与えてくれるのを待つだろう。

 ──榊さんは再び口を開いた。「運命は」

 此の如く扉を叩く。反射的に頭の中で続きを呟く。有名な言葉だ。でも確かベートーヴェンがそれを言ったというのは作り話だったと聞いたことがある気がする。そんなことを思っていたら、榊さんが言ったのは全く別のことだった。

「運命は、扉を叩かない」

「……?」

「勿論、運命が扉を叩くだなんてベートーヴェンが言っていないことはわかっている。あの曲は鳥の鳴き声のリズムに音をつけたものだと彼の弟子が言っている。ベートーヴェンは自然散策を好んでいたらしいな」

「はい……」僕より知識が上だった。榊さん、クラシックをよく聴くのだろうか。

「それを踏まえた上で、運命などというものが存在すると仮定する。それはどのようにも扉を叩かない。扉を開けるかなどという逡巡をさせる暇など与えてはくれない。むしろ、本人に直接殴り込んでくる」

「突発的で暴力的なんですね」

「そういうものではないか。それに対して、泣いて抗議するのも、諦めて立ち止まるのも自由だ。数ある選択の中で、俺は絵筆を手に取ったというだけの話だ」

 ぐっと言葉に詰まって黙った僕に、しばらくすると榊さんはまた鉛筆を走らせ始めた。

 今の会話でわかった。狂えるほどの強さも自己も持っていない僕とは違う。──彼は、タランチュラに刺されたら、人目も疲れも何も気にせずに踊り続けられる人だ。

 レモン水の微弱な酸味が、どうにも喉の辺りをぴりぴりと痺れさせていた。

 彼はそういう、曲がらない何かを持った人だ。



 バイトに行くから、と言ってアトリエを後にした。榊さんは「バイトか」と少し感心したように呟いた。やっぱり、僕のバイト先があの黒い服の店であることに気づいてはいないようだったので安心する。知っている人がいる、となると行きたくもなくなるだろうから。僕の方もどんな顔を繕っていいものかわからないし。

 東京まで総武線に乗って行って、いつものように人とは最低限の会話しかしないで、黒い服たちばかりを相手にした。ひたすらに漆黒の布に覆われた三時間の後、再び快速で千葉まで帰ってきた。

 夜の道を行く。

 夕方五時からの勤務で、もう九時だ。昨日はもう布団に入った時間、というわけだが、別段眠くもなかった。当たり前だ。十二時ぐらいまでなら楽々起きていられる。その必要性がないというだけで。

 結局、今日は遺書を一切進めることができなかった。デッサンをする榊さんの横でノートを開くことはしたのだ。だが、どうにも上手く言葉を書くことが出来なかったのと、他のことを色々と考えてしまって駄目だったのだ。詩も書けなくなったのかよ、と心の中で苦笑いした。

 勉強することとか、友達と仲良くすることとか、親に対していい子であることとか。子供の頃から固定概念的に「そうしなきゃ」と思って、どこか義務的に生きていた中で、詩だけは唯一好きで書いていた気がする。

 取り憑かれたように夢中で書いた。時にシャープペンの先でノートを優しく撫でるように、時に文字という文字を紙面に叩きつけるように。何かが僕に降りてきて、僕は言葉を落としていった。どんな風景も感情も、言葉にすればより美しくなる気がした。

 きっかけは小説だ。主人公が「自分は詩を書いて生きていきたい」と言っていたのを読んで、そういうのもありなのかと思ったのだ。口で言うほどに簡単じゃない、というのはその時からわかっていたことではあったけれど。

 一人でノートに書き溜めて、満足していた。家の本棚の、小説やら辞書やらの隣に、どんどん同じ紺色の背表紙のノートが増えていった。だが、中三の初めの方の国語の授業で「詩を自由に作ってみましょう」という時間に、そのノート群の中から一冊を提出したのをきっかけに、僕の趣味はクラスに知れ渡った。

 空野真斗のアイデンティティは詩を書くこと。

 クラス中の皆が「詩が書けるなんてすごいね」「今度読ませてよ」「三年一組の詩人だ」などと言って僕を持ち上げた。お世辞だとは重々わかっていた。それでも少しだけ自分が他の人の持っていないものを得たような気がして嬉しかったし、だからこそ暇さえあれば風景を見ては言葉を組み立てるようにもなった。

 ああ、でも、そういえばクラスメイトの中には「別に詩なんてすごくねえよ」と言ってきたやつが一人だけいたっけ。「俺にだってそんくらいできるわ。青い空、白い雲、アナタの綺麗な髪ぃって、ほら簡単じゃん」。そんなことを言ってきたやつが。

 別に怒るでもなく呆れるでもなく、ある意味すごいやつだなぁとなんて思って、それをきっかけに言葉を交わすようになって、つるむようにもなったのだ。我ながらわけわからない──いや、わかるか。多分、自分よりも単細胞で、低レベルで、頭が良くなくて、ノリの軽い人間と一緒にいるのがすごく楽だったのだ。人を貶していた方が息がしやすかったのだ。

 大通りを外れると、一気に人の数や明かりの数が減る。マンションは駅から約徒歩八分だ。わざわざはずすのも面倒で、僕は暗い中だがキャップを被ったまま歩く。こつ、こつという自分の靴の音ばかりが暗いアスファルトに吸い込まれていく。一応はブティックであるバイト先には、いつも黒の革靴を履いて行くようにしていた。

 塊となって押し寄せる、夏の空気が、重い。

 ふと背後に気配というか──それにも満たないような些細な何かを感じて、歩みを止めないまま僕は振り向いた。すぐ近くに人がいるようなことはなかった。首を捻りながら目を凝らすと、居酒屋の前にいくつか吊り下げられた、点いていたりいなかったりの電球の近くに、誰かが立っていた。

 こちらを向いているようだが、顔も服もシルエットすらもよくわからない影。なんとなく不気味に思って、僕は再び前を向いた。歩調が少し速くなったのが自分でもわかった。何を怖がってるんだか、とまた僕は僕を笑う。

 何メートルか歩いて、再び振り返った時には、もうその影はいなくなっていた。最初から本当に存在していたのかもよくわからない。夏の夜が見せた幻だったのかもしれない。


     ❇︎


 何日かがゆるゆると過ぎていった。

 寝て、起きて、大学には行かなくて、榊さんのアトリエに行って、大切なようなどうでもいいような話を彼として、バイトに行って、帰って寝て。頭の中だけで詩を作るような気分で、また色々なことを考えた。

 僕が他者や社会に対して影響できることなんて、そう多くはない。

 自惚れてはいけない。僕が勝手に「今ここにいる」と思い込んでいるだけなのだ。生きていることと死んでいることの間には、案外大した違いなんてないのかもしれない。……などと。

 例の調子で昼食は抜きがちだし、朝食も夕食もしっかりしたものを作っているわけではないが、ただ無気力に日々というものを食べながら生きているという意識があった。別に普通のことだとも思った。


 アトリエに入ると、榊さんは小机の方を向いていた。また何やら描いているのは多分葉っぱのデッサンだ。作業している横に積まれた紙切れの数は、そういえば随分と増えた。

 というか彼は出会ってから一週間、ずっと僕がアトリエに来たタイミングはこの体勢だ。黒い背ばかりが逆光に映えている。なんというか、他の位置にいるとか違う方向を向いているとかバリエーションはないのか。

「こんにちは。榊さん、いっつもそこでそうしてますね」

 軽く笑い声の滲んだ声と共に近づいたら、彼は音のしない動作でこちらを向いた。静かに凪いだ瞳で僕のことをひたと見据えてから「そこに行ったら変わらずに必ず会える人がいるというのは、なかなか安心できることではないか?」と言う。珍しく語尾を持ち上げるような口調だったから、冗談のつもりだったのかもしれない。どちらにせよ珍しいことだ。

「お前は、今日はバイトの無い日だったな」

「ん、ああ、そうです」バイトは水曜日と土曜日とたまに月曜日だ、というような話を数日前にしたことがあったから、それを覚えていたのだろう。それでなんですか、と尋ねつつ、「座らないのか」と言われる前に座ろうとしたら、重低音で「ではドライブにでも行こうか」と聞こえた。

「ドラ……え?」中腰のような中途半端な状態で止まった僕は、間抜けな声を上げた。それに対して榊さんは余裕の無表情だ。

「ここにいてばかり見られる顔が、まさかお前の全てだと思ってはいない」

「いや、え、僕免許持ってませんよ?」

「誰もお前に運転しろとは言っていないが」

「榊さん免許持ってるんですか!?」

「何かおかしいだろうか」


 おかしかった。

 行ったことのなかったアトリエの裏側に、きっちりとシャッターの閉まった車庫があって、そこから出てきたのは水垢一つ無い黒のロールスロイスだったのだ。初めて生で見た。BMWならたまに街中でも見かけるが、こちらは滅多にいない。

 榊さん運転できるんですね。あ、車持ってたんですか。ロールスロイスだなんて、高級外車じゃないですか。言いたいことは色々あったが、それらは全て言ってもどうしようもないことでもあったため、結局のところ僕は黙って助手席に座って笑っていた。

 景色がビュンビュンと移り変わった。助手席と言いながら、左ハンドルの車で僕は右側に座っているから、なんとなく変な感じだ。色が見えていないはずだが、彼の運転に危険なところは何もなかった。信号機やウインカーの光を発しているのが右か左か、歩行者の様子、周りの車の様子、彼には色以外の全てが見えているに違いなかった。やっぱり僕らは同じ車に乗っていながら、別の世界にいる。

 やがて高速道路に乗った。結構遠出なのかもしれない。「どこに行くんですか?」と問うと、榊さんは「さあな」と答えた。車内は涼しいが、外はぎらぎらと太陽が照っている。青い空に浮かんだ雲がゆっくりと右から左へと流れていた。遠くには入道雲が聳え立っていた。昔、「ソフトクリームみたいだ!」と漫画に出てくる善良な少年のように叫んで、父に笑われたことがあったのを思い出した。ほんとに夏なんだな、と今更に感じた。

 榊さんの横顔を盗み見る。初めて光の中で見る彼の瞳は、思っていたよりも色素の薄い茶色をしていた。右耳に二つピアスの穴が空いているのを見つけて、目を瞠った。別に何もついてはいないし、大して大きな穴でもないのだが、一度気づくと目立って見えた。

「なんだ」

 横目でこちらを見て、榊さんが訝しげな顔をする。僕は悪戯を見つかった子供のような気分で首を縮めた。「いえ、なんでも」

 久しぶりに車に乗って、しかも運転しているのは言葉を交わすようになって一週間の得体の知れない男で、なんだか気分が上がって僕は鼻歌を歌った。車のCM映像になりそうなドライブシーンだな、と思った。

「なんの歌だ」

「わかりません。どっかで聴いた気がするんですけど……半分くらいでたらめかも。歌詞もわかりませんし」

「……どうして」

「えっ?」

「どうして歌を歌う時、人は顔を上げるのだろうな。俯いて歌うことはあまり無いだろう」

 僕は道の先の方を向く彼をしげしげと見つめた。この人はたまに、すごく詩的に思われることを言う。きっとこの画家は、言葉は嘘をつくと言いながら、たくさんの言葉を持っている。もしかしたら愛している、とも言えるのかもしれない。それはきっと、詩を書く僕よりもずっと。

 書き始めようとノートを開いてから何日も経っていながら、未だに僕は一行も遺書を書けていなかった。いい言葉が思いつかなくて、書いては消す。白いページを眺めて悶々と頭を抱える。数ヶ月間詩を書かなかったブランク? きっと違う。きっと今日がまだ八月八日だからだ。決めているXデーは、描いてもらった遺影を受け取る当日である、八月三十一日。僕の全てを書くのに、そんな簡単にいくわけはないし、いっては困るのだ。だからまだ書けなくて、それが当たり前。

「多分それは、下を向いているよりも前方とか少し上を見たほうが、歌いやすいからですよ。気管の構造的に」

「ほう」

「なんだか、その方が息が吸いやすい気がしません?」

 画家は目を伏せて「なるほどな」と頷いた。

 僕は鼻歌を再開した。音感があるわけでもなんでもないので調子外れではあったが、榊さんにうるさがる様子は無かった。思えば、目に見えないし言葉にもならないのに人を楽しませる音楽というものは、彼の掲げる本質の美学に合っているのかもしれない。話の中でベートーヴェンの例を挙げたことも、そういえばあった。


 どこに行くのかわからないようなことを言っていたくせに、榊さんは迷うことなく富津金谷のインターチェンジで高速道路を降りた。初めからきちんと目的地は定まっていたようだ。

 トンネルを抜けて、橋のように持ち上がって弧を描く道路をぐるんと回る。窓の外を眺めていた僕ははっとした。眼下に海が広がっていた。砂浜が続くビーチ、というような感じではなく、ごつごつした岩場に大小さまざまな波がぶつかって白い飛沫を上げる、荒々しくて野生的な海だった。僕は顔を顰めた。

「荒れているな」左の榊さんは、何も感情の見えない声で呟いた。「満月が近いからか」

「満月だと、海が荒れるんですか?」

「満潮と満月は重なるからな。……今頃あの人がざわざわするとかなんとか騒いでるだろうな」

 あの人って誰ですか?と僕が訊く前に、「到着だ」と彼は静かに言って車を止めた。すぐそこのフェリー乗り場のものなのか大きな土産物屋のものなのかよくわからないが、広い駐車場だった。

 車から降りて、並んで立った。磯の匂いが鼻を突いた。

「何しにここに?」

「別に取り立てて用はない。まあ町歩きだな」

「……」

「ここはいい町だ。毎年来る」

 榊さんが「〇〇はいい」などと何かに対して評価を下すのを聞いたのは初めてのことであったため、僕は少し首を傾げた。意外な気がしたが、彼が良いと言うものは問答無用で良いものなのだろう、という気もした。

「では、行こうか」

「はい」

 今度こそほんとうに行く当てもない様子で、ふらふらと歩いた。暑かったが、頭の中を白く飛ばしてしまうほどの太陽の光というものは、案外心地の良いものだった。熱中症予備軍と呼ばれても仕方ないが。

 数羽のとんびがピヨロロロ……と歌うような鳴き声を上げながら頭上すぐ近くを滑空した。僕が驚かないのを見て、「出身はどこだったか」と榊さんが呟くように尋ねた。

「熱海です。静岡の」

 熱海と言えば温泉や人工砂浜からリゾート地として有名だが、僕ら地元の人間から見ればそんなふうに開発が進んでいるのはごく一部だ。少し裏の方に入っていけば急に田舎のような場所に出たりもする。隣り合った人工と自然。僕の実家はその中間あたりに位置していた。子供の頃学校が終わった後や休日に遊びに行っていたのは、もっぱら田舎の側だった。そっちに出るととんびがよく飛んでいたものだ。

「熱海か」榊さんは腕を組んだ。「というと、あれが通っているな」

「あれって?」

 首を傾げると、彼は名前が出てこないんだと言うように、少し目線を上の方に逸らした。「電車に似ているがもっと速い」

「新幹線ですか」確かに電車に似ていて速度もずっと速いけれど。見当違いなコメントに僕はまた笑った。今日はよく笑う日だと自分で思った。「そうですね。通ってますね」

 ロールスロイスを乗り慣れた様子で運転していたのに、新幹線には乗ったことがないようだった。やっぱり変な人だ。

「っていうか、暑くはないんですか?」僕は自分のラフな半袖半ズボン姿と彼を見比べた。

 今日の榊さんもいつものように全身黒ずくめなのだが、黒シャツに裾がマントのように長い上着、長ズボンに黒いブーツという出で立ちなので、より一層海賊感が増していた。彫りの深い顔と相まって、頭に布でも巻けば漆黒版ジャック・スパロウが出来上がる気がする。一体彼だけでどれだけの量の降り注ぐ光と熱を吸収しているのか。

 道ゆく人が特異なものを見るように榊さんに視線をやるので、僕は珍しい爬虫類でも連れて歩いているような気分で愉快だった。実際に連れられているのは僕であるとはいえ。

「暑くはある。が、別に大したことはない。今年の夏は割と涼しい」

「なんで黒い服ばかり着るんですか? 店員さんに教えて貰ったりすれば、別に違う色の服も買えるはずなのに」ちょっと失礼な訊き方かな、とも思ったが、榊さんなら気にしないだろうという予測もあった。案の定榊さんは「それは」と普通に答えた。

「例えば俺は、海が青いことを知っている。青が冷静や落ち着き、未熟さ、悲しみを表す色であることも知っているし、空も青ければカワセミが青いこともわかっている」

「……ええ」

「だがしかし、それは後付けの知識だ。俺は結局のところ青がどのような色をしているかを知らない。色とはどのようなものかを知らない。よって知らない色など身に付けられない」

 そういうことか、と僕は自分の体を見下ろした。確かに何色だかわからないような色を着る気にはなれないかも知れない。色を言葉や知識としてだけ知っているというのは、どういうことなのだろう。「青」という言葉を知りながら、その色を知らないというのは。……なんて考えてから、僕は少し俯いた。色が見える僕が何を言ったって、それは傲慢というものだ。あの山の緑も、空と海の青も、並ぶ家の屋根の赤茶っぽい色も、全部が全部陰影だけついた灰色に見えるなんて、僕には壮絶過ぎてイメージすらできない。

 一体、何色も認識することができないあなたは、何を美しいと思って生きているのですか。

「とはいえだな」僕の中で渦巻いている思いなど知るわけもなく、榊さんは続けた。「そうではなくても、例えば店員に聞いて上下違う色の服を買ったとして、俺は家に帰るとその組み合わせを考えることができないわけだ。だから、こだわり以前に利便性という問題がある。黒というのは便利な色だ」

 それで黒服しか売っていないブティックで服を買うというわけか。黒は便利な色、という解釈は、斬新で興味深かった。あまりにも自分の考えと違ったからかもしれない。

 表情が変わらないから本当のことはなんとも言えないけれど、今日の榊さんは少しだけ楽しそうに思えた。僕が自分の楽しいという感情を彼に投影しているだけかもしれない。わからないけれど、黒の裾をなびかせて歩く様は颯爽としていた。

 淡い茶色をした猫が道を横切った。こうして歩いていてもう五匹目ぐらいだ。猫の多い町なのだろうか。結構色んな家に置いてある、あの細い竹を井の字型に組み合わせたような置き物はなんだろう。お盆飾りだろうか。

 いい町、というのがわかる気がした。のどかで、初めてきた場所だというのに僕の知っている町に似ている。無花果の植わった横を通り過ぎると、ふわりと独特の甘い香りがした。それまでもが、なぜだかすごく懐かしかった。


 鋸山の麓のあたりまで大きく回ってから、またのんびりと引き返した。山は高いのか低いのかよくわからなかった。ただ変な形だなあとは思った。小川にうごめく蟹や小魚を眺めたり、細い道の奥にある目立たない神社に足を踏み入れたりして道草を食った結果、再びフェリー乗り場まで帰ってきたのは四時過ぎだった。

 昼でも夜でもないよくわからない時間に、適当なすぐそこにある小さい店でラーメンを食べた。家で使う袋麺では作れないが、ラーメン屋ならどこでも作れるような個性のない味だと思った。榊さんも、美味いとも不味いとも言わずに黙々と器を空にした。食べ物を食べている、というより養分を摂取している、という表現がしっくりくるような食べ方だった。

 夕方の空が、広がる。

 小さな漁船が船台に乗せられ並べられた場所に、僕らはいた。ここから船が漁に出ていくのだろう。ゴムの滑り止めが点々とついた地面は僅かに下り坂になって、先の方は海に浸かっていた。錆びた太い釣り針や、もとは青かったらしいが変色して茶色い網なんかが、船の下に無造作にまとめて置いてあった。ウミネコの鳴き声が聞こえる。

 榊さんがゆっくりと傾斜の下へと歩んで、立ち止まった。黒い靴の厚い底の部分を潮が濡らした。船乗り場のコンクリートの坂に、弱く寄せては返す。向こうに広がる大海原に繋がった海だ。

「気を付けてくださいね」船と船の間にしゃがみ込んだ僕は榊さんに呼びかけた。なんとなくこのまま榊さんがざぶざぶと海に入って行って消えてしまうような気がした。榊さんが振り返る。背後の夕焼けになる前の空が眩しい。

「海は嫌いか」

 僕は苦笑した。

「嫌いかって言われると、そこまでかはわからないんですけど……でも少し苦手っていうか。溺れたことがあるので」

 景色として眺める分には全然平気だが、入るのには抵抗がある。恐怖……とは少し違う気がするのだけれど。

「錦ヶ浦ってわかりますか? 静岡の」

「ああ」榊さんは何ということも無さそうに、水平線に視線を飛ばして頷いた。「飛び降り自殺の名所だ」

 僕は一瞬どきっとして彼の顔を見上げた。それから目を逸らす。「そう。そうです……実家から割と近いんです。それで子供の頃、父親に連れられて遊びに行って」

「溺れかけたわけか」

「あそこって結構岩場があって、浅いところも深いところもあるような感じなんですけど。それで、岩の一つから父親が海に入ったんです」

 海に胸の辺りまで浸かった父は「真斗、気持ちいいからお前も来いよ」と言った。「え? 危ないよ」「へーきだって。受け止めてやるから」「でも……」「お、怖いのか? 男のくせに?」小学校低学年の子供に男も何もあったものではない。だが煽り立てられた僕は「怖くないし!」とかなんとか叫んで海に飛び込んだ。それが不運にも父親から少し離れた深い場所で、しかも意外と波が高かったものだからあっという間に溺れた。慌てた父親に引き上げられて無事だったとはいえ、少し間違えば命はなかった。少なくともそのくらいの身の危険は味わった。

 海とは、人の手に負える大きさではない。ちっぽけな僕などひとたまりもなく飲み込まれてしまう。

 ボオオオオ……と巨大な汽笛の音が辺りに鳴り響いた。これまで二時熟語としてしか知らなかった「汽笛」というものが、こんなに響くものだとは思わなかった。すぐそこに見える乗り場から、東京湾を横断するフェリーが発航したらしい。真横に置かれた漁船が視界を阻んでいたが、まもなくフェリーの赤と白の船体が見え出す。船ってなんで外から見るとこんなに小さく見えるんだろうと思った。

 すぐにまた静かになって、僕は目の前の海を見つめた。

「ここはどのくらい深いんでしょうね」

 榊さんが質問の意味を測ろうとするように、微かに首を傾けた。僕はゆるゆると打ち寄せる波から目を離さないまま、「でも別に何メートルでも同じですね」と呟いた。

「同じだろうか」

「はい。足がつかないなら全部同じです。何も見えなくなって、沈んでいく」

 オレンジ色に染まり出した空はまだ明るい。でもその光はきっと海底までは一切届かない。闇の揺れ蠢く海底はきっと──深い深い藍色。暗い、冷たい、寒い、怖い、寂しい、淋しい、さびしい。

 潮の遠鳴り。

 ただそこに広がる海。

「榊さん」

 僕は俯いたまま彼の名前を呼んだ。──教えてください。

「さびしくてさびしくてどうしようもない時、僕はどうしたらいいんでしょうか」

 存在価値など初めから求めてはいない。ただ、何のためになら生きていくことができるというのか。

 太陽が眩しいほどに赤く燃えていた。遥か遠くを行くタンカーも、もう豆粒ほどになってしまったフェリーも、空を舞う鳥たちも、こちらを向いた榊さんも。僕から見える全てが逆光で影になっていた。榊さんのブーツを、波が静かに舐めている。

 表情の見えない彼は、ゆっくりとした口調で言った。

「さびしさにもきっと、種類がある」

 僕は首を振って嗤った。「答えになってないです」

「……そうか」榊さんもそれ以上のことは何も言わなかった。

 そろそろ帰りましょうか、と僕は言って、緩やかなスロープを登った。榊さんもついてくる気配があった。電線に一羽、とんびが止まっている。大きな羽は雑然と畳まれて、シルエットはばさばさとしていた。飛んでいるとんびは優雅で孤高でちっともさびしそうではないのに、ああやって一羽で止まった姿は妙に悲しかった。どうしてだろう。西の空はまだ明るさを残し、月は出ていなかった。

 満月か。

 僕は手の甲を額に当てて何も浮かんではいない空を見上げた。田舎の夜空は都会よりも闇の色が淡いのを思い出した。

















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