群衆と、タランチュラ

蘇芳ぽかり

プロローグ




 この店のドアは開閉のたびに結構な音を立てる。

 重いわけではないから、立て付けの問題だろうか。まあそのおかげで、作業に没頭している時にもお客さんが来れば気付けるから、実のところ助かってるんだけどねという感じだ。

 今もこうやってガタンと開かれた音に反射的に「いらっしゃいませー」と声を出す。カフェと占いのどちらの客だろうか。ノートパソコンでカタカタと書いている文章が句点までたどり着いてから、振り向いた。……そして、あっと思った。

 黒い学ランを身につけた、青年にぎりぎり満たないような年格好の少年が入ってきたところだった。彼は半ば後ろにもたれ掛かるようにしてドアをバタンと閉めた。その華奢な姿には見覚えがあった。

「あらあら」

 私は立ち上がってカウンターの向こうの小さなキッチンスペースに移動しながら、そっと棚の上のスピーカーに触れて、流していた音楽のボリュームを下げた。「好きな席に座ってね」と声を掛けると、少年はこくりと俯いたまま頷いた。少し顔を顰めて目を細めるようにしているところを見ると、眩しいのだろう。わたしは天井の蛍光灯を見上げる。別に普通の明るさのように思えた。変なの、と思う。カフェオーナー兼占い師などというものをやっているわたしが言うのもどうかと思うが、うちに来るのは変わった客が多い。特に占いの方の客!

 もっとも、今入ってきた彼は占いではなくてカフェの方の客だ。というか前回はそうだった。本日で二度目の来店である。

 名前も知らない少年はようやく目が慣れたのか、前に座ったのと同じキッチンに接したカウンター席の一つに座った。もう眩しそうにはしていないが、目つきにはどこか影が差したままだ。

「今日はどうするー?」

「……ホットコーヒーで」

「はあい」

 わたしはコーヒーミルで豆を挽いた。こりこりという小気味よい音が、流れている洋楽のリズムに重なって、狭い店の中に響いた。常連客や友達に普段「うるさい人だねえ」と言われるわたしが珍しく黙っていたのは、少年が黙り込んでいたからではない。別に静かにしている客にもテンション高めで話しかけるのが常だ。お喋り目当ての人も中にはいるくらいだし。

 ただ単純に、少年の持つ異様とも形容できるような不思議な雰囲気を壊してはいけないと感じたのだ。

 テーブルの一点を見つめるようにしているので、前髪に隠れて顔はよく見えない。変わった子だ。確か高校生になったばかりだと言っていた。わたしはそのくらいの年の頃、どんなだっただろうか。授業をサボることや学校から抜け出すことばかり考えていた気がする。それはつまり、大事で重い何かについては何も考えていなかったということに他ならない。少なくとも、目の前にいるこの子のように静かに黙って何かを考えたり思案を巡らしたりするようなことはなかった。

 淹れたコーヒーをそっと前に置いてあげると、彼は一瞬びくんと身じろぎしてから小さく頭を下げた。会釈をするみたいだった。わたしは自分の席として使っている壁側のカウンター席の一番端に腰掛けて、また創作文を始めた。ユウが友達にレイトについて話しているのを、レイトがたまたま聞いてしまう。そんなに面白くもないシーンだが、ここを書かなければ最後の結末に繋がらない。今月末には適当な賞に応募しようと思っているのに、終わるのだろうか。まあBLの公募は需要があるせいか色んなところでやっているので、別に逃したとしてもそこまで痛くはない。

 右手をさっと動かして、中指でエンターキーを叩いた。

 カチャ、という軽いのに響く音が結構好きだ。

 声変わりを終えたばかりのような、ざらざらした出しにくそうな声が耳に飛び込んできたのはそんな時だ。

「……あの」

 わたしは手を止める。なあに?と尋ねた。まだ背を向けたまま。わたしたちは真反対の方向を向きながら、話をする。前回も、そうだった。

「やっぱり、僕は人が嫌いです」

 うん。そんな話をしたよね。彼からは見えていないだろうが、私はゆっくりと頷く。

「たくさん考えました。周りの人もそうだし、自分のことも嫌いです。誰とも話したくない。誰の声も聞きたくない。学校が嫌いだ。クラスメイトも、先生も嫌だ。全部無くなればいいのに。……やっぱり、そうとしか、思えないです」

 少年の声が揺れていた。見なくても、彼の薄くて小さな背中が寒くもないのに震えているのを感じた。まるでぶれて輪郭が透けるかのように。少し意識を離したうちに掻き消えてしまいそうに。

 洋楽が変わらずに、空気の中で薄く繋がる。曲が切り替わって、ジャスティン・ビーバーの『Ghost』になった。もし私があなたのそばにいられなくても、あなたの面影にだって思いを馳せるよ、とボーカルが切なく甘く歌う。

 十分に間を開けて、わたしは「それなら」と言った。友達同士で軽いノリで喋るときのような声。重々しい声は気負いとともにしか受け止められない。伝える時に大事なのは軽く響くことだ、とそう思っている。

 エンターキーに指を乗せる。

「黙ってればいいじゃない」

「……っ」

「話したくないんなら黙ってればいい。誰の言うことも聞かないで、一人でいればいい。その間に、あなたはもっと色々なことを考えなさい。もっともっと曲がらない、誰の声にも負けない自分を作ってみなさい」

 一度孤独になりなさい。

 なんとなくそれがあなたを助けるんだという気がする。占いの結果でも何でもない、さりとて人生経験もまだまだ積み重なっていないわたしの、これは単なる主観だけれど。

 この子がこうなってしまったのはこの子のせいではないし、周りのせいとも言い切れない。誰のせいでもない。ただ、この子は歪んでしまったわけでも歪められてしまったわけでもないことは、わかっている。まだ言葉を交わすのは二回目だけれど、どうしてか「どうにかして変わってほしい」「助けたい、助かってほしい」と願う思いがある。

 すごく不思議だ。

 少年が戸惑ったように振り向くのが気配でわかった。わたしはまだまだ前を向いたまま。「そうやっていつかちょっと話してもいいかなって思うようになったら、声に出して聞かせてね」

「……いつか……?」

「そう。いつかやって来る〈いつか〉、よ」

「…………」

 そんなの来ないです。少年が聞こえないほどの声で呟いた。来ないです。僕には無理だ。話したい言葉なんて無い。どうせ誰もわかってはくれない。どうして僕はまだここにいるんだろう。どうして。僕なんて、僕なんて……。

 甘いメロディを小さくハミングでなぞった。それなら、とわたしは心の中で問いかけた。どうしてあなたは今日、わざわざここに来たの? それはあなたの中にも誰かに手を取って欲しいという思いがあるからじゃないの。

 たった四十年あまりの人生の中で、それでも色々な人に会ってきた。その中で思ったのは、結局ひとりで生きていける人などいないということと、皆んな自分がひとりだと思い込んでいるということだ。

 ひとりを考え、知ったなら、ひとりじゃないこともわかる。きっと。

 わたしはにやっと笑って後ろを振り返った。目が合う。ばちんと見えない電流が走ったような感触。捕まえた──捕まえる。彼は驚いたように瞬きをした。

 棚の方に手を伸ばし、スピーカーの音量を上げる。

 何が壊してはいけない雰囲気だ。何が異様なまでの黙考だ。ここからはわたしのペースで馬鹿笑いしてやる。

「ねえ、名前教えてよ」











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