11

 計画は順調すぎるほど順調だったと言わざるを得ない。寝ずにパソコンの前に座り続けた新井は、いよいよであることを床で倒れ伏せていた二人に告げた。

「月に向かった小型船から『バンクシー1号』が離され、着陸する」

 何万回と聞かされた説明を新井は繰り返した。半田はその度にもう聞いたよと、答えていたが、この時ばかりは何も言わなかった。

 モニターに映っている数値だけでは半田には何のことか分からなかったが、新井が微かに興奮しているのを見れば、緊張の瞬間が近いことが明らかだった。

「いよいよだな」月村は言った。

 その時だった。モニターに小さく警告のポップアップが出てきて、問題があることを告げた。新井は身を乗り出し、その問題が本当の問題なのか、あるいは解決可能な問題なのか、もしくは無視していい問題なのかを瞬時に割り出し始めた。

 結果は。

「姿勢制御に問題がある。このままじゃ着陸できない」

「何とかしろ」月村はモニターを睨みつけた。

「無理だ。もう切り離しを終えて、月の重力に捕まってる。一応狙った場所に落ちそうだが、さかさまに落ちればそれまでだ」

「ここまで来てコイントスかよ」聞こえるか聞こえないかの小声で月村は言った。「分かった。表で落ちれば問題ないんだな」

「足が持てばいいけど、たぶんは」

「なら、表にオールインだ」

 半田には月村の声が祈りのように聞こえた。


 NASAのアルテミス計画は思わぬ大成功をおさめ、続く月への植民計画は各国で盛んに行われるようになっていた。その結果、月面を走るローバーも見慣れた光景として人々の記憶に刻まれるようになっていた。

 月面で特に人気なのが、このローバーに乗っての観光ツアーであった。今、粉塵を巻き上げながら走るローバーも一人のガイド兼ドライバーと、一人の観光客を乗せて、月で一番の観光スポットへ向けて走行していた。

 目的地が近づき、ローバーは速度を緩める。

「もしよければ、最後はご自分の足で向かわれるのはいかがでしょう。アームストロング船長がそうしたように」ガイドの男は言った。

 これは別に親切からの提案ではなく、ガイドの決まり文句だった。こういうと観光客は喜び、チップを弾んでくれる傾向にあるのだ。しかし、今回の客。アジア系の老人はさほど感心した様子もなく、首を縦に振るだけだった。

 エアロックが開かれ、機外活動服を着た二人がローバーから出てくる。

「私から離れないようにお願いします。それから、アポロ11号の着陸地点は半径100メートルは立ち入り禁止となっていますのでお気を付けください」

 老人は頷き、軽くジャンプしながら歩き始めた。月の重力は老人に優しい。地球で贅沢をし尽くした大富豪などは、老後を月で過ごすことを最後の楽しみにしているほどだ。

「あれが着陸地点です」ガイドの男は無線で老人に呼び掛けたが、老人はチラとそちらを見ただけでぐるぐる辺りを見渡し始めた。

 ガイドの男が変な客だと訝しんでいると、老人はアポロ11号とは逆の方向を指さした。

「あちらの方に行ってみたいのだが」

 ガイドの男は老人が指さした方向を見たが、何もない海が広がっているだけだ。しかし、客の要望にはできる限り答えるのが彼の仕事だった。

「構いませんよ。まだエアには余裕があります。ただ、少々危険なので、私が先導いたします」

 思わぬ危険を避けるため、具体的にはクレーターや、竪穴、それらに落っこちないように、沖へ出る時は注意が必要だ。だが、ガイドの男が最初に見つけたのはクレーターでも、竪穴でもなく砂の被った機械だった。そいつは半壊していて、元がなんであったかは分からないほどだった。

 老人はその機械に歩み寄ると、そっと手を触れた。

「こいつは多分、月の衛星の一つでしょうね。役目を終えて、月面に落下したんです」ガイド男は言った。

「そうか」と老人。「こんなところに捨てるなんて罰当たりだな」

「ええ、全くです」

 ひっくり返った亀のようなその機械を前に老人はしばらく立ち尽くしていた。時折なにもない暗闇を見上げたりしていたが、やがて振り返り、歩み去った。

「もう十分だ。帰ろう」老人は言った。

「はぁ。そうですか」ガイドの男は拍子が抜けたような声を出した。

 帰りのローバーで、ガイドの男は無言だった。普段なら月のうんちくをペラペラとまくし立てて、帰るのに必要な30分から40分ほどを客に退屈させないようにするのだが、老人は明らかに物思いにふけっており、黙っているのが賢明だと判断したのだ。

「人間は」突然老人が言った。「人間はかくも愚かだが、諦めの悪さだけは認めてやらねばな」

 ガイドの男は答えに迷ったが、とりあえず調子を合わせることにした。

「ええ、すくなくともあんなものを作るくらいですからね」

 ガイドの男が顎でしゃくった先には、半球型の居住施設がのっぺりと月面に鎮座していた。白い幾何学模様がその壁全体を覆っている。

「あれをキャンパスにする奴がいそうなもんだが」老人が言った。

「内側ではそうなってます。観光にきた人たちが記念に残していくんです」

 それを聞いて老人は歯を見せて笑った。

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ラクガキの月 Φland @4th_wiz_u

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