さよならの速さを教えて下さい
千桐加蓮
さよならの速さを教えて下さい
拝啓、先生はいかがお過ごしでしょうか。
今日は、さよならの速さを教えて下さい。
人の脳は一度勉強したことを一時間後には五十六%忘れ、一日後には七十四%忘れるとされているそうです。
雨は、落ちはじめてから地面にたどりつくまでに、およそ十分から十五分ほどかかるそうです。
さよなら、はどれくらいの速さなのでしょうか。
時間だけが過ぎていって、さよならの相手の顔の作りや仕草、癖を忘れていってしまうのに、私はいつも通りの生活しています。
忘れてしまうことに寂しさも怖さも感じません。
ただ、どれくらいのスピードで追いかければ、さよならの相手に辿り着くのでしょうか。
ちなみに、先生の脳が「もう、サヨナラの時間ですね」と言ったのは、いつですか。
私はまだ、先生とサヨナラをしたくはありません。
だけど先生は、そうではないですよね。
気づいていますか? 先生からのメールに絵文字がつかなくなって、今日で三日目です。
もしかして私がなにか粗相をしてしまったのでしょうか。
それとも、ただ飽きてしまっただけでしょうか。
それとも……元々私に飽きていたから絵文字を使うのもめんどくさくなったのでしょうか。
僕のことを、先生と言って慕うとは。馬鹿げた女子高校生だ。
スマホの画面をメールアプリからホーム画面に戻し、小さくため息を吐く。
僕は毎日、朝から晩まで浴びるように酒を飲んで寝、自堕落な生活を送っている。
朝に一度起きて、二度寝することもセットである。
変わらない風景を眺めて、変わらない散らかった部屋に囲まれている僕を、先生と呼ぶなんて、変わった子だ。
僕の住んでいるアパートの小さな窓から見えるのは、住宅街の景色だけ。
毎日、昼過ぎに起き出して、スーパーで買った惣菜を温めて食べる。
ひとりでテレビを見てゲラゲラ笑っていると、あっという間に夕方だ。
自堕落な生活を送っている僕にも、時々「やらなくては」と思うことがある。
それが、あの小さな窓から見える風景をカメラで撮影することだ。
今住んでいるこの古いアパートにはベランダがないから、そこに出られる三畳ほどの小窓があるだけだ。
だから僕はいつもカメラを持って、その窓から外を眺めている。
そこにはいつも、変わらない住宅街の風景が見えている。
特に変わったことはない。つまらない景色だ。
だけど、たまにこうしてカメラに収めることで、何か変わるかもしれないと期待している自分がいる。
そんな期待に何の意味があるのかと思いながらも、僕は今日も小窓にカメラを向けてシャッターを切るのだ。
「あなたはどうして生きているのですか?」
そう聞かれると、僕は答えられなくなる。
いや、おそらく死ぬことが怖いから、生きているのだろうと思うだろう。だけどそれは、ちゃんとした理由になっているのか。
僕が、高校生だった時。生きることに理由なんていらない。生きてさえいればいいことがあるに違いない。
そう笑って答えていたのかもしれない。聞いたところ、性格上そんな人だったらしい。
さよならの速さを教えてほしいのは、僕も同じだ。
今日は、珍しく六時前に目を覚ました。冬の朝は、毎日サンタクロースが記憶をプレゼントしてくれる。
眠い目を擦りながらカーテンを開けると、太陽はまだ雲の中に隠れていた。今日の天気は曇りらしい。
朝陽を浴びるために、洗面台で顔を洗った。鏡に映っている顔は、あまり見ていて気分のいいものではないが仕方ないだろう。
歯を磨きながらテレビをつけて、朝食の準備を始めた。今日は少し豪華だ。と言ってもパンをトースターに放り込むだけだが。
そしてそれを済ませてテレビを見ながらパンを齧ったあたりで、ようやく太陽が顔を出した。
いつも通り、缶ビールを小さな冷蔵庫から取り出し、開けずに飲み口に唇を当てた。ひんやりとしている。そんなことをぼんやりと思う。
母の冷たくなっていく身体も、ひんやりしていたような気がする。
冷凍保存されて売り出されるみたいな、そんな冷たさだった。
テレビの向こうは、もうすぐクリスマスだなんだと浮かれている。僕は去年もその前もひとりだった。それがなんだというのだろう。
パンを齧るのと飲むのを同時に終え、顔を洗い歯を磨くことにした。今日は何かがおかしい。そう考えながら歯ブラシを口に突っ込んだ時、玄関をドンドン叩く音が聞こえた。同時に、ミント味の歯磨き粉が、いつもより苦くない気がした。
「はい」
「先生! おはようございます!」
ああ、そうか。忘れていたが今日はあの子が来る日か。
僕は玄関の扉を開けた。
「
有希は、少しオーバーサイズの黒いダウンを羽織り、白いマフラーで口元を覆っていた。
「今日はいい天気だね」
「おはよう有希。そうだな」
曇り空なのに。ミディアムの髪は冷たそうに風に靡いて、さらさらと揺れた。
「お兄ちゃん。マフラー、貸してあげる」
有希は、僕の背に回り込んで首にマフラーを巻いてくれた。ふわりと香る洗剤の匂いに混じって、有希自身の甘い匂いがしたような気がした。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
にこっと笑う顔は本当に無邪気で、子どもの笑顔だと思った。
「有希、部屋に入って」
散らかった部屋には慣れっこのようで、表情を変えることなく、アパートの中に入る。
「先生、は、もういいの?」
有希は、一枚の写真を手渡ししてきた。思わず手を伸ばして受け取る。
「事故で、記憶がなくなって、先生になれなくなって。望んでもいない仕事でお金を稼いで」
教育学部に所属していた大学生の僕は、スーツ姿で子どもに囲まれている。幸せ、という言葉がピッタリだ。
「お母さんのストーカーを恨んだ? それとも、カリスマ性に富みすぎていた歌手が母親だったことを今でも辛く思ってる?」
母と僕と妹の有希が乗っていた車に故意的にぶつかってきた大型トラックを運転していたのは、歌手のようでアイドルに近い存在だった母親の大ファンだった男。今の僕と同い年だったはずだ。
当時、二十過ぎだった僕は、そろそろ三十歳になる。
当時、中学生になるからと、学校指定のセーラー服に裾を通すことに嬉しそうだったらしい妹とはいうと、来年高校を卒業する年齢になってしまった。
「有希。どうして、泣いているんだ?」
「泣いてなんかないもん」
妹は、泣いていた。
僕は、呆然としているだけだった。
僕は、悲しかったのか。辛かったのか。寂しかったのか。
「お兄ちゃんはね、もう十分すぎるくらい頑張っていたのになって」
事故より前の記憶がないから、悔し涙をこぼせない。
いつか思い出す。そう思って生活していたが、とっくに数年が経過していた。この世に生を受けた赤ちゃんが、小学校に入学するくらいの年が経ってしまっている。
もし、さよならの速さがわかる教師になっていたら。
きっと僕は、大声で泣いていたんだろう。
「有希」
「なに?」
「ありがとう。あの雨の日に起きた事故で、色んな速さがわかった」
幸せが壊されていく速さ。
夢が遠ざかっていく速さ。
さよならの速さ。
「犯人も即死だったらしいしな」
あの雨の日。母が即死して、僕が意識不明の重体で、妹も血だらけで病院に運ばれたらしい。
犯人は運転席で息を引き取っていたという。
妹の涙はきっと、寂しかったり悲しかったりする時の涙を流しているのではないのだろう。 そう思いながらも、涙が渇れるまで泣いていてほしい。
有希の質問に答えようと、昨日か一昨日に焼き増ししていた写真が置いてあるミニテーブルの方まで向かって歩いた。
途中で、極細のサインペンを手に持つ。
さよならの速さで、スピード違反になる人なんていないだろう。
さよならの速さは、多分。このスピードで一生を終えるんだと思うと悔しくて堪らないけど。
これ以上スピードを出して走れる気がしない。
『もう、僕は先生を辞めさせていただきます』
変わらない風景の写真の裏に、それだけを書いた。
母の声も記憶から消えてしまいました。
ちゃんとお別れを出てていません。
中途半端だったと思います。
僕らが、今を生きる世界には、未来がなく過去にも戻れず、どんな基準で物事を考えても今の全てでしかなく、自惚れて自滅する人なんて存在しないのではないかと思ってしまいます。
そんな世界で、僕らは今日も生きています。
僕は、そんな世界で生きていることを誇りに思います。
そしてまた、こんな僕でも誰かを救えると信じて生きていきたいです。
お母さん、さよならの速さを教えて下さい。
「有希、先生って呼んでくれてありがとう。もう、学校の寮に戻っていいよ。来てくれてありがとう」
さよならの速さは、このくらいなのでしょうか。
案外、ゆっくりにできたのかもしれません。
「お母さんが、さよならの速さを教えたんだって思うしかないよね。ファンだった人も、勝手にハマって冷めていって。時間が経過していくにつれて、私は悲しみがわからなくなって、受け止めている自分がいる」
「……うん」
さようならを言うために必要な物なんて、もうないと思っていたけれど。
どうやら僕は、自分が思っているよりもずっと子どもだったようだ。
あの窓から見える景色の中で唯一変わらないこの部屋で、小さな窓を見上げながら今日も小窓にカメラを向けてシャッターを切る。
今日は、有希とのツーショットもカメラに収めた。
さよならできる速さの解がわかるのは、もう少し先の話になるだろう。
さよならの速さを教えて下さい 千桐加蓮 @karan21040829
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます