最終話 爪を塗る


 瞼に力が入らない。目が開かないし、声も出ない。音もぼんやりとしか聞こえなくて、怖くなった。その時、誰かに手を握られた。両手で体温を確認するように握られていた。ごつごつとしていて、時折指先が傷痕に当たっているのがわかった。ティバルラ様の手だった。


 貴方の期待に応えようとしていた従者の手を、貴方は握ってくださった。


 ならばこの手で握り返したい。握り返して、あなたに触れたい。こればかりは俺が叶えるしかあるまい。


 そう思うと、重たい身体でも動かすことができた。瞼に余計な力を入れずにゆっくり、ゆっくりと恐れながら開ける。すると視界は開けて、世界を再び発見できる。


「ティバルラ、様」

「……ススラハ」


 ティバルラ様の御顔がよく見える。今まで見たことのない、やわらかい表情だ。抱きしめるように手に少し力を入れる。


「ありがとう」


 俺はティバルラ様の言葉の意味がわからないまま、微笑むように目元を細めた。いつのまにか涙が目を覆っていて、頬を伝って耳を濡らしていく。


「ちょっと! 目覚ましてるじゃないですか!」


 驚いたホルーリアの声が聞こえる。しばらくして俺の顔を覗くホルーリアらしき姿が見えた。涙のせいかホルーリアの輪郭がぼんやりとしか見えくて、その後ろにはアリシャラ公の奥方であるアシュリタ様らしき輪郭が見えた。


「ホルーリア。手当てを」

「はいっ! 再開しますっ」


 そう返事したホルーリアは俺の額に手を当てた。すると、身体の中がぐわぐわと動いていくのがわかった。勝手に動く気持ち悪さはあったけれど、その気持ち悪さが鼓動に響いて生きている心地がした。


「何笑ってんのよ」


 ホルーリアが汗を垂らしながら、ムッとする。


「なにこれ。ホルーリア、すごいじゃん……」

「しゃべんないで。余計に体力使うから」


 なんだ。やっぱりホルーリアだって、無茶するんじゃん。


 塗爪師としての誇りはないかなって、そういう意味だったんだ。俺は質問を間違えたことにようやく気づく。


「言ったでしょ。私だってあんたに負けたくないの」


 そう言って笑うホルーリアが、とてもかっこよかった。だから安心して眠れた。


 くいっと手を引かれたような気がして次に起きた時、ホルーリアはいなくなってて代わりにアシュリタ様が俺の顔を覗いていた。


「あら。ごきげんよう」


 そう言いながらアシュリタ様は俺の目元に冷たい布をかけた。


「ホルーリアは……」

「別室で眠っています」


 ぐっとからだを動かそうとした時、眠っているティバルラ様の手がわずかに力が入っているのに気づいて、身体を動かすのを止めた。


「ホルーリアは、戻師もどしなのですか」


 アシュリタ様が靴を鳴らして離れていく。


「ホルーリアは塗爪師であることを捨てて、わたくしの元に来ましたの」


 戻師。学舎で一度だけ聞いたことのある職だ。塗爪師よりはるかに繊細に能力を駆使して、負傷者の傷を直すのではなく戻す能力を持つ者。幻のような能力だし、そんな人見たこともないから噂に過ぎないといつの間にか忘れていた話題でもあった。俺がティバルラ様にやろうとしていたのは、それのまねごとだったことにようやく気づいた。


「でしたらそれ以上の存在にするのが、わたくしの役目でしてよ」





 ホルーリアのおかげで、二日後には身体を起こせるようになった。それに俺よりも重傷だったはずのティバルラ様は毎日顔を見に来て下さる。


「あんたの無意識能力のおかげかもね」


 からだを冷やしに来てくれるホルーリアは嫌みを言いながらそう考察した。


「冗談抜きで、ススラハにも戻師の才能あるんじゃない?」


 塗爪師と戻師、どちらの方がティバルラ様に貢献できるかと言われれば有無を言わさず戻師だろう。ここまで生きてこられたのも、全部ティバルラ様がいたからだ。これ以上貢献ができるのなら、そちらを選びたい。


 それでも俺は「うーん」と歯切れを悪く唸る。


「なによ。腹立つ返事ね」


 ホルーリアが余計に顔をしかめて「何。はっきり言いなさいよ」と回答を急かしてくる。


「俺は戻師にはなれない気がする」


 ホルーリアの目をしっかりと見つめる。はっきり言えの顔。


「だって俺はティバルラ様の塗爪師だから」


 あ、これじゃあホルーリアに伝わらないか。


「――ティバルラ様に、出会ったから」


 ティバルラ様に言われた言葉が口から飛び出して、嬉しくなって、笑みがこぼれていく。視線を上げるとぱちっとホルーリアがまばたきをする。それから彼女の顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。それにつられて俺も頬が火照るのがわかる。


 ホルーリアはうつむいて、長いため息をついた。それからすぐに濡れたタオルで頬を冷やした。ホルーリアが口を開けた時、部屋の扉を叩く音がして、ホルーリアは口を一度閉じて、扉を開けに向かった。


「ティバルラ様……!」

「ホルーリア」


 やって来たのはティバルラ様で、また顔を真っ赤にしたホルーリアは「水を替えてきます!」と言って出ていった。ティバルラ様はなにも気にしておられないようで、ベッドの近くの椅子に座った。


 先程ホルーリアに言ったことを思い出して、再び顔に熱がこもっていくのがわかった。ティバルラ様は気にしていないのか俺の右手を取ってじっと見つめた。それから手をひっくり返して、手のひらを揉むように触られる。まるで、俺がティバルラ様の手の緊張をほぐすのと同じように、やわやわと触る。


「ススラハ」


 俺の名前を呼んで、視線だけでなく顔を上げる。いつもみたいに真剣な表情だ。対して俺は情けない顔をしていないだろうか。そう思いながら鼓動が速まっていくのがわかる。


 ホルーリアと再会した時に真っ先に訊かれた言葉を今思い出す。ティバルラ様に想い人がいらっしゃるかどうか。


 まっすぐな表情から、弱々しくも凛々しくあろうとする御顔に変わっていく。


 ああ、はじめて見る御顔だ。


 ティバルラ様は俺に視線を向けたまま、俺の手を動かして、頬に擦り寄せた。


「お前の爪を塗らせてくれないか」


 身体は思っているよりも重かった。それでも今動かないと後悔することはわかっていた。返事をするより先に、ティバルラ様の手を握って引き寄せようとした。しかし、それよりも先にティバルラ様に引き寄せられて、その胸に飛び込んだ。


「ススラハ」


 俺の名を呼ぶティバルラ様を見ると、身体が自然と動いた。


「ティバルラ様」


 少しだけ触れたティバルラ様の唇は、とてもやわらかかった。

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爪無し団長の爪塗り係 庭守透子 @qolop

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