第6話

 秘密警察の手によってとある施設に収容された私は、これから筆舌に尽くしがたい拷問にかけられる日々が待っているのかとばかり思っていたが、来る日も来る日も緩慢なペースで続く尋問は簡単な質問に終始するばかりだった。

 どこであの劇場の存在を知ったのか。

 いつ頃からあの劇場に通い始めたのか。

 あの劇場で何か見聞きした情報はあるか。

 などなど。その合間には他愛もない世間話を交わすことすらあった。無論、私の前に座って、真っ黒な制服を寸分の狂いもなく着こなす男の顔には、今まで外の世界で私が目にしてきたどんな人間にも似ない抜け目のなさがあった。彼は時折微笑みさえ浮かべていたが、目の奥は少しも笑っていなかったし、却ってこちらを憐れむような色さえそこに浮かんでいた。


 質問と質問の合間を見計らって、私は思い切って自分から尋ねてみた。

「あのフィルムはどうなりましたか」

 制服の男はなんでもないことのように答えた。

「焼却されたよ。あの映画を記録したフィルムはちょうど最後の一本だったらしい」

「そうですか……」

「君はよほどあのフィルムに入れ込んでいたようだねぇ」

「えぇ、それはまぁ」

「ひとつ聞かせてくれないか。これは純粋な好奇心からの質問なのだが、君はあれほどあの劇場に通い詰めていたというのに、なぜ自らの手で通報しようなんて思ったんだね?」

 仮に相手がどれだけ優秀な役人だったとしても、私の本当の気持ちなんてものは一ミリも理解できないだろうし、ましてや共感なんてあり得ないだろう。いや、優秀だからこそ伝わらないのか。この際どうでもよい。私は投げやりな口調で答えた。

「永遠に空を飛び続ける戦闘機なんて欺瞞だと思ったんです」

「戦闘機?」

 男は微かに眉をひそめたが、すぐに元の柔らかそうな表情に戻った。大方、戦闘機と言う単語が具体的な兵器のことではなく単なるメタファーであることにすぐに察しが付いたのだろう。

「ならきみは、いつか終わりが来ると分かっていて、あの映画に夢中になっていたのかね?」

 いいや、違う。

 あの時は確かに永遠を感じたのだ。

 そして、それは決して私一人だけの永遠ではなかったのだ。

 きっと私だけの彼女がいるように、あの男にはあの男だけの彼女がいて、もしかしたら秘密警察の男には真っ黒な制服のよく似合う彼女がいるのだ。

 それでよかったのに。

 私は自由であろうとし、そしてそれ故に自由だった彼女を愛したはずなのに、

 その自由を奪おうとしていたのは、他ならぬ私だったのだ。

「後悔しています」

「国家に対する忠誠を見誤りながら、それを隠し通す生活をまだ続けたかった、と言う意味かね?」

 ふと顔を上げると、男の眼差しに好奇心以上の光が宿っていた。私は自分の失言に気が付いたが、それを敢えて訂正しようと言う気も起こらなかった。


 代わり映えしない尋問の日々が続いた。

 痺れを切らした私は制服の男に尋ねた。

「それで、処刑はいつになるんですか?」

「処刑だって?」

 男は優しく諭すように言った。

「いかに君が国家の秩序に反したとはいえ、人民は国家にとって常に貴重な資源なのだ、そんなもったいない真似できる訳がないだろう。君みたいな人間にも価値を諦めない量子コンピューターに感謝するんだ」

 私が何かを言う間もなく、男は続ける。

「ただ、ここで君を即座に放免して再び秩序を乱されては構わないから、君は教育が完了するまでここから出られない」

「教育?」

「近日中に投薬を伴う特別プログラムが始まる予定だ」

 男の眼差しに含まれている憐れみの色に、いくらか嗜虐的なニュアンスが加わった。それを見るまでもなく私は察した。

 何が教育だ。

 洗脳の間違いじゃないのか。

「我々の望む模範的な市民ってやつに君がなれるまでは我慢してもらうよ。もっとも、君はなかなか頑固そうだから、手間がかかるかもしれないけどね」

 男は手元のファイルをぱたんと閉じてから、最後に付け足した。

「君が本格的に狂ってしまうか、さもなくばくたばってしまう前に、今とは違う形で再会できることを我々としても祈っているよ」

 男は初めて裏表のない楽しそうな表情を浮かべた。


 私は来る日も来る日も薬を飲み続けながら、彼等の言う特別プログラムを受け続けていた。その目的とは恐らく徹底的な人格の改造によって従順な人間を作ること。いずれ私は私でなくなる。それが肉体の死よりも悲劇的に思えるのは独房の天井からぶら下がる裸電球の痩せた光を見るより明らかだったが、そう思えるのは何も私が現実に背を向けた夢見るロマンチストであるためだけではない。肉体よりも先に魂が死ぬことは自明の不幸であり、同時に極め付けの不誠実だからだ。無論、その悲劇も不幸も不誠実も新しく生まれ変わった私は認識すらできないだろうが、その事実にかこつけて何もしないのは、それこそ唾棄すべき欺瞞のように思われた。

 奴らに思い知らせてやる。

 頭の中で呼吸をする心までは、誰にも支配できないことを。

 自由であるかどうかは関係ない。

 自由であろうとしているかどうかの方が、遥かに大事だってことを。

 だから私は、もう一度だけ夢を希った。

 そのために必要なものはそう多くはなかった。

 戦闘機が永遠に飛び続けられないのだとしても、

 ページを捲り続ければどれだけ分厚い本もいずれ終わってしまうのだとしても、

 それでも人が夢を欲するその気持ちだけは真実なのだ。

 現実か虚構かは関係ない。

 もしかしたら、生き死にだって関係ないのかもしれない。


 願わくばその夢が、煌びやかに過ぎていったあの夏の色をしていますように。

 そうして私は最後の、世界が滅ぶ妄想を始めた。


 茹だるような夏の青空は気が遠くなるほどに遠く、目映いくらいに光り輝く白い雲と噎せ返るほど鮮やかな植物の緑、それから無数に連なる向日葵の黄色が作り出すコントラストは、何もかもが色褪せた故郷から遠く離れたことを否応なく連想させた——。


 どこか遠くで輪唱のようなセミの鳴き声が聞こえた。彼女が煙を吐き出す静かな音が妙に近くで聞こえた。それから彼女は煙草を手に持ったまま、どこか遠い眼差しで宙の曖昧な一点を見詰め始める。物思いに耽っているのかもしれないし、案外ただぼんやりしているだけなのかもしれない。

 どうして何も言ってくれないんだい?

 僕の内心は言葉通りの意味でここにあるっていうのに。

 彼女の煙草の先端から揺らぎもせず立ち上る一筋の白い煙が、まるで私の墓に供えられた線香のように見えなくもなかった。


 夏が只、光り輝いていた。


 喫茶店はいかにも清潔な感じのする冷気で空調されていた。天井に等間隔で並ぶ暖色の照明、よく磨き抜かれたテーブルの木目、落ち着き払ったワインレッドのソファ——そして一段高くなった床の上に設置されたグランドピアノと世界の縁からひたひたと滴るように聞こえる幻想ポロネーズ。ピアノの表面はよく手入れがされていて、凪いだ湖面に映る月を思わせる光沢がそこらじゅうに浮かんでいる。


 私は狂っているのだろうか。

 しかし、狂っていると自覚できる狂気がどこの世界にあると言うのだろう。

 ならば、好きにいかせてもらうだけだ。


 私は店員が注文をとりにくるのも待たずにテーブルから立ち上がり、ピアノへと近付く。幻想ポロネーズはひとりでに鳴りやみ、代わりに私に席を譲った。こほん、と咳払いをひとつ。

 ショパンなんて弾けるの?

 なんてことを言われそうだった。それに、私の世界ではレコードを持つ自由だって許されなかった。しかし幸い私には10本の指と、愛すべき記憶があった。君の望むショパンには到底及ばないだろうが、生憎僕は生粋のピアノ男なのさ。西の向こうからあの世界の終わりみたいな夕焼けを連れて始まる夏の夜の足音を微かに匂わせたメロウなメロディが、ばたばたとぎこちなく歩き始める。その顔にまるで夏の花が咲いたみたいに、彼女は言う。

「あなた、ピアノが弾けたのね」

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夏の花は二度咲く 下村ケイ @shitamura_kei

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